アビドス高等学校の銀狼 作:リハビリ作者
翌朝。アビドス自治区の商店街には、朝から人の声が響いていた。とはいえ、かつての活気を知る者からすれば、その光景はどこか寂しく、ほとんどの店にシャッターがかけられ、砂に埋もれてるところもいくつかある。そんな商店街の一角で
「だからですねぇ、お嬢さん。今ここで少額の投資をしていただければ、毎月これだけの利益が出るんですよ。しかも、友達とかに紹介して新しく会員を増やせば更に利益が増える!」
「凄いじゃないそれ!」
黒髪のツインテールを揺らしながら、黒見セリカが目を輝かせていた。目の前にいるのは、いかにも胡散臭そうな男。派手な服装に、妙に愛想のいい笑顔。そして何より、説明している『儲け話』の内容が怪しすぎる。
「つまり、最初にちょっとだけお金を払えば、あとは何もしなくてもお金が増えていくってこと?」
「そういうことです! さらに、我が社の必ず儲かる本を買えば、利益は更に10倍以上になりますよ! しかもしかも、今なら元金保証のスペシャルサービス! 万が一、いや億が一に失敗しても投資した資金は減らず、満額キャッシュバックです! さらにその場合は、もっと確実に稼げるプランに投資する事も出来ます」
「す、すごいじゃない! これならアビドスの借金返済も」
「セリカ」
「え?」
聞き覚えのある声にセリカが振り返ると、そこには、制服姿の藤堂ユキヤが立っていた。
「ユキヤ先輩!?」
「何してるんだ、お前」
「な、何って! この人がね、すっごく画期的な儲け話を」
「詐欺だぞ」
「……え?」
「詐欺だ」
「な、なんでそんな事分かるのよ!」
「典型的なねずみ講のやり方だからな。こんなのに金を払っても何の意味もないぞ。ほら、サインするのやめろ。サインされたら止めるのがめんどくさくなるからな」
そう言って、ユキヤは契約書にサインしようとするセリカを止め、書類を奪った。男はそれを見て、露骨に苛立った表情を浮かべる。
「おい、兄ちゃん。邪魔しないでもらえるか?」
「悪いな。そういうわけにはいかないんだ」
彼はセリカを自分の後ろに下がらせ、男の前へ歩み出る。
「セリカ、この話は忘れろ」
「でも」
「元金保証だったか?」
「そうよ!」
「具体的な事業内容は?」
「……え?」
「利益の出所は? ここはどうやって稼いでるんだ」
「……えっと。その」
「会社の登記情報は? 連絡先は?」
セリカの顔が徐々に青ざめていく。
「……わ、分からない」
「だろうな」
「で、でも! この人、すごく丁寧に説明してくれたもん!」
「詐欺師は丁寧だよ」
「うぅ……」
セリカがしょんぼりする。しかし、せっかくの獲物を奪われた男はただ黙っている訳がなかった。
「兄ちゃん。随分と余計なことしてくれるな。その子がどうなろうが、お前には関係ないだろ」
「ある。こいつはアビドスの生徒だ。それだけで十分だ」
「……ユキヤ先輩」
セリカの赤い瞳が僅かに見開かれ、男は鬱陶しそうに舌打ちした。
「ちっ。調子に乗るなよ」
懐へ手を伸ばす。その瞬間。
「それ以上動くな」
ユキヤの声が低くなり、その瞳は鋭くなり、強い殺気が放たれる。
「痛い目を見たくなければな」
「あ? 何を勘違いしてんだ馬鹿が。脅してるのはこっちだ!」
男が懐から武器を取り出そうとしたが、ジャラッと乾いた金属音が響く。
そして次の瞬間、ユキヤの両方の袖から4本ずつ飛び出した鎖が、まるで意思を持っているかのように宙を走り、瞬く間に武器を弾き落とし、男の腕と胴体へ絡みつく。
「はっ──!?」
男が抵抗しようとするも鎖はさらに締まり、男の動きを完全に封じ込め、いつの間にか雁字搦めに縛られて身動き1つ取れなかった。
「な、なんだこの鎖!?」
「忠告しただろ。それ以上動くなって」
「この!」
「これ以上、セリカに近づくな」
ユキヤが鎖を引っ張ると、男はその場に転倒した。
「ぐぼっ!? こ、この野郎」
「次にアビドスの生徒へ同じことをしたら、今度はこの程度じゃ済まさない」
鎖がさらに伸びていき、男の首にかかっていく。その鎖がどう動くのかは容易に想像出来て、男はだんだんと顔を引きつらせていった。
「わ、分かった! 分かったから離してくれ!」
「二度とここに近づかないと約束しろ」
「約束する! 分かったから!」
「なら帰れ」
鎖が緩んで動けるようになると、男は慌てて立ち上がり、何度もユキヤを振り返りながら逃げていき、その姿が見えなくり、商店街に静寂が戻る。そんな中、セリカが気まずそうに話しかけた。
「その。ユキヤ先輩。助けてくれたのはありがたいけど、どうしてここに?」
「お前が1人で商店街に行くと聞いたからな。誰かに騙されないか心配で追ってきたんだよ」
「……私、そんなに騙されやすそうに見える?」
「見える」
「即答!?」
「そりゃあ、あんなのに騙されてるくらいだからな」
「で、でも! あの人、ちゃんと説明してたじゃない! 説明も丁寧だったから信用出来るかなーと思って」
「そんなんだから騙されるんだよ」
「うぅ……アビドスのために、少しでもお金を増やしたかったのよ」
「分かってる」
「みんな頑張ってるし……私だって、バイト以外に何かしなきゃって思って」
「分かってるよ」
ユキヤはセリカの頭へ手を置き、優しく頭を撫でる。
「アビドスのために頑張ってくれて、ありがとう」
撫でられていくうちに、セリカの顔がみるみる赤くなる。
「なによ急に」
「本当に感謝してる」
「そ、そう」
「お前が頑張ってるのは知ってる。だから、無理して怪しい儲け話に手を出すな。そんな物に手を出しても碌なことにならんぞ」
「……そんなの、先輩に言われなくても分かってるわよ。いちいち撫でて褒めることでもないでしょ」
そう言いながらも、セリカはユキヤの手を振り払わない。むしろほんの少しだけ、頭を撫でやすいように首を傾けた。
「……もうちょっと」
「ん?」
「撫でるなら、ちゃんと撫でなさいよ」
「いいのか?」
「い、今だけだから!」
「ハハハ。そうか。よく頑張ったな、セリカ」
ユキヤは小さく笑い、もう一度セリカの頭を撫でる。彼女は俯いており、耳まで真っ赤になっていた。
「……ありがと」
そしてその光景を、少し離れた場所から、じーっと見つめている人物がいた。
ベージュのロングヘアに穏やかな黄緑の瞳。ゆるふわな見た目の優しそうな笑顔の少女。アビドス高等学校の2年生『十六夜ノノミ』である。
「あらあら~?」
彼女は口元に手を当てながら、楽しそうに二人を眺めていた。
「ユキヤさん?」
「ん? ……ノノミか。おはよう」
「はい。おはようございます~。セリカちゃんとユキヤ先輩、朝から仲良しさんですねぇ」
その言葉と生暖かそうな視線に、思わずセリカが反論する。
「ち、違うわよ。これはその……! ユキヤ先輩が私を慰めて、色々褒めてくれてただけで!」
「あらあら~。そうなんですか?」
「そうよ!」
「それなら」
ノノミはユキヤの前まで来ると、少しだけ身体を屈めて。
「私も褒めてもらいたいですね~。私、今朝からとっても頑張ってきたんですよ。お掃除をして、朝ご飯を作って、ホシノちゃんを起こして、シロコちゃんを探して、それからアヤネちゃんのお手伝いもしてきました~」
「それは、確かに頑張ってるな」
「でしょう? なので、私も撫でてほしいです~♪」
ユキヤが無言になり、セリカも思わず固まってしまった。そして少しした後、復活した彼女が大声を上げる。
「ノノミまで何言ってんのよ!?」
「だってセリカちゃんだけ撫でてもらってるじゃないですか~」
「そ、それは!」
「私もユキヤさんに撫でてもらいたいなぁ~って」
ノノミは期待するような目でユキヤを見上げる。その笑顔は一見すると、いつも通り柔らかいように見える。
しかし、その瞳には期待や撫でてほしいという願望がこれでもかというほど籠もってキラキラ光っているようにも見えた。流石にそんな視線を向けられては、ユキヤも断ることが出来ない。
「……分かったよ」
「本当ですか~?」
「ああ」
ユキヤが手を伸ばし、ノノミの頭を、ゆっくりと撫で始めた。
「よく頑張ったな、ノノミ」
「……えへへ~」
ノノミは顔が緩みまくって笑顔になっており、少しばかり顔を赤くしていた。
「ありがとうございます。ユキヤ先輩」
「どういたしまして」
「できれば、もう少しだけお願いします~」
「はいはい」
ユキヤが優しく頭を撫で続ける。その様子を見ていたセリカは、ぷくーっと頬を膨らませていた。
「……ずるい」
「セリカ? 何かあったのか」
「なんでもない!」
ぷいっと顔を逸らす。しかし、セリカを気にしたユキヤの手がノノミの頭から離れると。
「……」
セリカがちらりとユキヤを見る。その目は何かを訴えてるように見えて、彼は気になってしまった。
「……何だ?」
「別に」
「そうか」
それから暫しの沈黙が流れる。彼自身もどうすれば良いのか分からずセリカを見ていると。
「……もう撫でないの?」
「え?」
セリカの顔が一気に赤くなる。
「ち、違っ! そういう意味じゃなくて!」
「どういう意味だ?」
「だからっ……えっと、あの」
ノノミが慌てふためくセリカの様子を見て、くすくすと笑う。
「あらあら~。セリカちゃん、まだ撫でてほしいんですね~?」
「ノノミ先輩、余計なこと言わなくて良い!」
「ふふっ♪」
セリカはしばらくノノミ睨むように見つめた後、観念したように、小さく呟いた。
「ユキヤ先輩。さっきの、もう一回」
「さっきのって頭を撫でるやつか?」
「……そうよ」
「了解」
ユキヤが再びセリカの頭へ手を置き、優しく、ゆっくりと撫でる。
「」
「わかってる」
セリカは俯いたまま、小さく頷いた。そして、空いてるユキヤの手をギュッと握りしめた。そんな二人を見ながら、ノノミは楽しそうに微笑む。
「あらあら~。これは妬けちゃいますね〜」
そう言って、ノノミはユキヤの背中に抱きついた。
「ちょっ! ノノミ先輩何してるのよ!」
「え~? 頭撫でてくれて嬉しかったので、お返ししようと思いまして」
「そんなお返しいらないわよ!」
「そうですか~?」
ノノミはユキヤの背中に頬を寄せたまま、楽しそうに笑っている。一方、彼の方は、完全に困惑していた。
「……ノノミ」
「はい~?」
「離れてくれ」
「嫌です~」
「即答かよ」
「だって、ユキヤさん暖かいんですもん」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題ですよ。それに、私だって、ユキヤ先輩に甘えたい時くらいありますよ~」
いつもの穏やかな笑顔。だが、その言葉には珍しく強い意志が込められていた。セリカはしばらくノノミを見つめる。そして、握っていた彼の手を少し強く握り直した。
「……私だって」
「セリカ?」
「私だって、ユキヤ先輩に甘えたい時くらいあるわよ!」
セリカの顔が真っ赤になるが、手は離さない。むしろ、より強く抱きしめる。
「今日は離さないから。先輩、ここ最近どっか行ってばかりで全然触れられないし」
「……そうか」
ユキヤは困ったように笑うと、ノノミが背中から顔を覗かせる。
「じゃあ、私も離しません~」
「ノノミまで」
「ふふっ。こうしてユキヤ先輩に抱きつくのも久しぶりですからね〜。今日は目一杯堪能しますよ〜。あ、そうだユキヤ先輩。せっかくですし、もっともーっと私のこと褒めてください。ユキヤさんの褒めパワーが少ないからこれ以上動けないんです〜」
「お前の体は、いつからそんなよくわからんパワーで動くようになったんだ」
「ユキヤ先輩と過ごしてからずっとですよ〜。ほら早く早く〜」
「急かすな……たく、いつもありがとうな。ノノミ」
「……!」
彼の褒め言葉に、ノノミの心が高鳴り、心臓がうるさく鳴り始める。
「アビドスの皆の面倒を見てくれて助かってる。お前がいてくれるから、俺たちは随分楽になってるよ」
「……ユキヤさん」
「それに、何かあった時は頼りになるからな。だから、これからもよろしく頼む」
「はい~。こちらこそ、よろしくお願いしますね。ユキヤさん」
そして、場所を変えてユキヤの腕に自分の腕を絡めた。それを見たセリカの頬が引きつる。
「……ノノミ先輩?」
「はい?」
「それ、必要?」
「必要ですよ~」
「……そう」
セリカはじっと二人を見る。すると今度は、セリカがユキヤの反対側の腕を抱き込んだ。左右から挟まれたユキヤは、完全に身動きが取れなくなっていた。
「セリカ?」
「何よ」
「いや……朝から両手に花って言えばいいのかね」
二人とも、その言葉に一瞬固まる。そして、顔を真っ赤にしたセリカのツッコミが入る。
「もう少し言い方考えなさいよ!」
「ふふっ。ユキヤさんったら~」
ノノミは楽しそうに笑い、セリカがツッコミを入れる中、そんな三人の後ろに。
「……何してるの?」
静かな声が響き、3人が同時に振り向く。そこには、セミロングの銀髪に獣耳、水色の瞳だが瞳孔の色が白と黒のオッドアイとなってる少女、アビドス高等学校2年生『砂狼シロコ』がじーっとこちらを見ていた。彼女の手には、買い物袋が握られており、買い出しをしていた事が分かる。
「ん。朝から、随分楽しそう」
「シロコちゃん、おはようございます~」
「おはよう、シロコ」
「お、おはよう。シロコ先輩」
三者三様の挨拶。シロコはノノミ、ユキヤ、セリカを順番に見て。
「私も混ざっていい?」
「「はい?」」
セリカとノノミの声が重なった。ユキヤだけが頭を抱えたくなったが、両腕が塞がれてるので出来ない。
「頼むから、朝から変な騒ぎを増やさないでくれ」
「でも、ユキヤ先輩も嬉しそう」
「そう見えるか? だとしたらお前の目は重傷だな。眼科行ってこい」
「大丈夫。ユキヤのことに関してなら何でも見える。見えない物は何もない」
「いや、意味が分からないんだが」
「ん、要するにユキヤのことなら、どんな小さな変化も見逃さないってこと」
「それは色々と怖いな」
「大丈夫。何も怖くない」
シロコは淡々と答えながら、ユキヤの腕に視線を落とす片方の腕にはセリカが、もう片方にはノノミが抱きついており、まるで彼を両側から確保してるかのような状態だ。
「ずるい」
「シロコ?」
「私もユキヤに甘えたい」
そう言って、シロコはぎゅっとユキヤの背中に抱きついた。
「シロコ。離れてくれ」
「やだ。私も甘えたいから」
「あらあら。シロコちゃん積極的ですね」
「シロコ先輩、結構大胆な事するのね」
「セリカちゃんも、ユキヤさんの体にぎゅーっと胸を押しつけて抱きついてみますか〜?」
「わ、私はそんな事しなくていいわよ! それより、いつまでもここにいるわけにもいかないし、アビドスに戻りましょう」
「待てセリカ。まさかとは思うが、この状態で出発する気か?」
セリカはその質問に答えない。右腕にはセリカ、左腕にはノノミ、そして背中にはシロコ。まるで三方向から拘束されているような状態だった。しかも、3人とも離れる気配がない。
「歩きにくいんだが」
「歩けない、じゃないなら問題ない。ほら、時間は有限。キビキビ歩こう」
「おい押すなシロコ。分かった。分かったから」
「ふふふ〜。朝からユキヤ先輩と一緒に歩けるなんて、幸せですね〜。ね、セリカちゃん」
「別に。私はどうでもいいけど……まあ、こんな時間もたまには良いかな〜なんて」
「ん。セリカは相変わらず素直じゃない」
「シロコ先輩は黙ってて!」
4人でわちゃわちゃしながらも商店街を抜け、砂の積もった道路を歩く。それは、騒がしくも楽しい彼らの日常の1つだった。
そして、アビドス高等学校へ戻った4人が対策委員会の部屋へ入ると。
「おかえりなさい……って」
作業していた奥空アヤネが顔を上げ、目の前の光景に固まった。ユキヤの右腕にはセリカ、左腕にはノノミ、背中にはシロコ。
アヤネは目の前の事が信じられないのか、一度取り出し、無いはずの汚れや曇りを拭き取ってかけ直した。
「……ユキヤさん?」
「なんだ」
「その……どうしてそうなってるんですか」
「俺にも分からん」
「分からないんですか!?」
「朝からずっとこの調子だ」
「なるほど……では、皆さん。離れてください」
「嫌」
「私はもう少しこのままで~」
「わ、私は……その……離したらユキヤ先輩がどこに行くか不安だし」
アヤネが離れるよう言っても、シロコ、ノノミ、セリカは離れようとせず、むしろもっと強くくっつく。
「離れてください!」
今度は委員会の書記としてではなく、完全に保護者のような勢いで叫び、アヤネが一人ずつ引き剥がしていく。
「シロコさん、背中から離れてください!」
「ん……もっとくっつきたかった」
「ノノミさんも腕を離してください!」
「……はーい。これは仕方ないですね」
「セリカちゃんもです!」
「わ、分かってるわよ!」
そして、ようやくユキヤが解放された。
「助かった」
「まったくもう。ユキヤさんもユキヤさんです。どうして抵抗しないんですか?」
「抵抗しても無駄だった」
「それは……そうかもしれませんけど。皆さんも、朝から何をしてるんですか」
「ユキヤさんに甘えてました~」
「ん。私も甘えてた。久しぶりにくっつけるチャンスだったから」
「わ、私は別に甘えてなんか……ちょっとくっついてただけよ」
「ちょっとだけ、ですか」
アヤネは呆れたように息を吐く。それから、机の上に置かれていた資料を手に取った。
「まあ、それは後にしましょう。それよりユキヤさん」
「ん?」
「昨日お願いしていた事務作業、覚えていますか? まだなら一緒に」
「ああ。それならもう終わってるぞ」
「え?」
「今朝、商店街に行く前にやっておいた」
アヤネは資料を確認する。確かに、必要な箇所にはすべて記入されていた。
「……本当に仕事が早いですね」
「何度もやってる仕事だからな」
「それでも確認は大切ですよ」
「分かってる」
「では、ちょうどいいです」
アヤネが別の資料を取り出す。
「その確認ついでに、今日はもう一度、事務処理の基本を確認しましょう」
「……いや、これ知ってるんだが」
「知っていることでも、繰り返し学ぶことが大切なんです」
「いや、本当に全部知ってる。お前たちが入学する前の事務作業してたの俺だぞ」
「それでもです。後輩から学ぶということも数多くあります。もしかしたら自分が忘れてることもあるかもしれませんからね。さあ、事務処理の基本について確認しましょう。私と一緒に!」
アヤネが真顔で言い切った。ユキヤは沈黙する。彼女の目を見ると、こちらが何を言っても譲らない事は明白だった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
ユキヤが椅子に座り、アヤネは満足そうに頷いた。
「では、ここからです。まず、この書類の数字を確認してください」
「はいはい」
「適当に返事しないでください」
「してない」
「では、ここは?」
「支出予定額と実際の支出額の差額を確認する」
「正解です」
「だから知ってるって言っただろ」
「知っていても、口に出して確認することが大切なんです」
「……なるほどな。なんかイマイチ納得行かないが」
ユキヤが書類を眺めてると、その隣にアヤネが腰掛ける。そして彼女は、彼の手元へ身を寄せる。
「では、こちらを。ここに記入してください」
「分かった」
彼がペンを持つと、アヤネがその手に自分の手を重ねた。
「……アヤネ?」
「こう持った方が書きやすいですよ」
「いや、普通に持てる」
「復習ですから」
「それ、復習と関係あるか?」
「あります」
即答だった。アヤネはそのままユキヤの手を支えながら、書類の記入方法を説明していく。
「まず、ここに日付を──」
「次に金額を──」
「そして確認者の欄に。この際気をつけないといけないところがありますけど──」
彼女は何か説明することがあるたびに、ユキヤの手に自分の手を重ね、肩同士がくっつくほど近づいて教える。
「……アヤネ」
「はい?」
「近い」
「……そうですね」
アヤネの顔が少し赤くなるが、手は離さない。むしろより接近してくっついていく。
「ですが、教えるためにはこのくらい近い方が」
「絶対必要ないだろ」
「……必要です」
「どう考えても必要ないだろ」
「どう考えても必要ですから」
「……頑固だな」
その光景を見ていたセリカの眉がピクッと動いた。ノノミはその様子を見て、楽しそうに笑う。
「セリカちゃん?」
「……何よ」
「お顔が怖いですよ~」
「怖くないわよ」
「そうですか~?」
「そうよ」
しかし、セリカの瞳は明らかに睨むかのように細くなっており、その視線はユキヤとアヤネの重なった手から離れない。そしてついに。
「ユキヤ先輩。ちょっといい?」
「どうした?」
セリカはユキヤの前まで来ると、アヤネの手をじっと見る。
「……アヤネ」
「はい?」
「それ、仕事を教えるのに必要?」
「必要です」
「絶対?」
「……絶対、です」
セリカの頬がぷくっと膨らみ、彼女は尚も詰め寄る
「絶対必要?」
「……絶対、です」
アヤネは真剣な顔で答えたが、その手はユキヤの手に重なったまま。肩同士が触れている程の距離感も変わってない。どう見ても「事務作業の復習」に必要な距離ではないが、アヤネは距離を改めずそのままとなってる。そんな中、アヤネの顔色が気になったユキヤが質問する。
「……アヤネ」
「はい」
「顔、赤くないか?」
「赤くありません」
「赤いぞ」
「気のせいです」
アヤネは言葉だけでは平静を装っている。しかし、耳までほんのり赤くなっているのは皆にバレバレだった。その様子を見ていたセリカの顔がムスッとしたものになり、ジト目で睨みつけている。
「……ずるい」
「セリカ?」
「なんでもない!」
ぷいっとセリカは顔を逸らす。ノノミはそんなセリカを見ながら、口元を押さえてくすくす笑った。
「あらあら~。セリカちゃん、また嫉妬してますね~」
「してない!」
「でも、さっきからアヤネちゃんの手ばかり見ていますよ~?」
「見てない!」
「では、私が代わりに見ましょうか~?」
「ノノミ先輩は黙ってて!」
そんな騒ぎをしていると、対策委員会の部屋の扉が開いた。
「おはよう~。いやー。昨日の夜更かしはおじさんには辛かったね。おかげでこんなに遅く……って」
小鳥遊ホシノが入ってきて、部屋の中をゆっくり見回した瞬間。ユキヤとアヤネの重なった2人の手。異様に近い距離。頬を膨らませているセリカ。パッと見普通そうに見えてアヤネとユキヤに突撃しようとする姿勢が見え隠れするシロコ、楽しそうなノノミを確認した。
誰も言葉を発することがなく、ホシノが止まった。ユキヤも止まった。アヤネも止まった。セリカとノノミだけは、なんとなく察したような顔をする。
「……おじさん、ちょっと眠気が吹き飛んだかもしれない」
ホシノはいつものように笑っている。笑っているのだが、その瞳は全く笑っていなかった。
数秒の沈黙を経て、ホシノがゆっくりと2人へ近づいてくる。
「アヤネちゃん」
「は、はい」
「それ、何してるのかなぁ?」
「……事務作業の指導です」
「へぇ~。事務作業の指導で、そんなにユキヤくんとぴったりくっつく必要があるんだ?」
「……必要です」
「なるほどね〜。そっかあ」
ホシノはそう言って頷きながら、ユキヤの隣まで来て座った。
「ホシノ? お前も事務作業手伝いに来たのか?」
「違うよ〜。ユキヤくんの隣に座りに来た」
「仕事じゃないなら離れてくれ」
「そんな事言わずにさー。おじさんを甘やかしてよ〜」
そう言って、ホシノはユキヤの肩にもたれかかる。その様子にユキヤが呆れているが、ホシノは満足そうに目を閉じていた。
「うんうん。やっぱりここが一番落ち着くねぇ」
「お前な……」
そんな二人を見たアヤネの頬が、ほんのり赤くなる。
「あの……ユキヤ先輩。私も」
彼女の漏らした小さなさな声に、全員が視線を向ける。
「……アヤネ?」
「いえ、何でもありません」
アヤネはごまかすように眼鏡を押し上げ、新たな書類を用意した。
「では、事務作業を続けましょう」
「切り替えが早いな」
「仕事ですから」
しかし、アヤネはユキヤの手から離れていた自分の手を、机の下でそっと握りしめていた。そんな彼女を、セリカがじーっと見る。
「……アヤネちゃん」
「はい?」
「さっき、何か言いかけなかった?」
「何も言ってません」
「絶対言ったでしょ」
「絶対言ってません」
「……怪しい」
「怪しくありません」
セリカとアヤネが睨み合い、その横でノノミは楽しそうに笑っていた。
「あらあら~」
「ノノミ、何笑ってるんだ」
「いえ~。朝から皆さん元気だなぁと思いまして」
「元気すぎるだろ。どいつもこいつも何やってんだか」
ユキヤが額を押さえる。そんな中、こっそり忍び寄ってきたシロコが背中から抱きつく。
「ぬべっ!?」
「ん。やっぱりユキヤ先輩の背中落ち着く。こうしてると心地良い」
「シロコ先輩! 何ユキヤ先輩に抱きついてるのよ!」
セリカが引き剥がそうとするが、シロコはピクリとも動かない。
ユキヤの背中にぴったりとくっついたままで、そこが自分の定位置であるかのように動こうとしない。ユキヤはそんな姿を見て、困ったように天井を見上げた。
「……朝から何なんだ、この状況は」
「私にも分かりません。全く。皆さん揃いも揃って何をやってるんですか」
真面目ぶろうとし、眼鏡の位置を直すアヤネにホシノが突っ込む。
「アヤネちゃんも人のこと言えないからね〜。仕事にかこつけていちゃついてさー」
「わ、私はあくまで仕事のために近づいてただけです! 邪な気持ちなんてありません!」
「あらあらそうなんですか〜? じゃあ、私が仕事のために近づいても文句はありませんよね〜」
そう言って、ノノミがアヤネとユキヤの間に割って入る。
「ユキヤ先輩。実はこの辺の物資のリストについて色々書きたいことがありまして。ユキヤ先輩と一緒に確認したいんです」
「分かった。どれだ?」
「こちらです~」
そう言って胸を押し付け、肩を寄せて距離を近づけ、にこにこと書類を差し出す。
その距離はどう考えても「書類を確認するため」に必要なものではなく、アヤネが眼鏡の奥から二人を見つめる。
「……ノノミ先輩」
「はい~?」
「物資リストの確認なら、そんなに密着する必要はありませんよね?」
「でも、ユキヤ先輩の隣の方が確認しやすいですよ~」
「書類は目の前にありますから、距離はあまり関係ありません」
「なるほど〜。では、もっと近くても問題ありませんね~」
そう言って、彼女はもはや半分ほどユキヤの膝の上に乗るくらい、近寄った。
その行動に、アヤネは驚き、セリカも黙っていない。
「ノノミ先輩!?」
「ちょっとノノミ先輩!」
「はい?」
「さっきからユキヤ先輩にくっつきすぎ!」
「そういうセリカちゃんも、さっきまでずっとユキヤさんの腕を抱いてましたよね~?」
「そ、それは!」
「シロコちゃんも背中から離れませんし~」
「ん。私はまだまだ離れるつもりない」
「ほら〜。なら私がこんなに近づいても良いですよね」
「良い訳ないでしょ!」
セリカがシロコの肩を掴んで引き剥がそうとするが、微動だにしない。まるで
「ん。ユキヤ先輩の背中は私の場所」
「誰が決めたのよ!」
「私」
「勝手に決めるな!」
「2人とも落ち着いてください」
アヤネが割って入るが、そのアヤネもユキヤの隣から離れようとはしない。それに気付いたセリカがじっとアヤネを見る。
「……アヤネちゃん」
「はい?」
「アヤネちゃんも離れてないじゃない」
「わ、私は仕事中です!」
「いつまでもその言い訳通用しないからね! 仕事だって、手を重ねる必要もなかったでしょ」
「そ、それは……ユキヤさんがちゃんと書けているか確認する必要があったんです」
「もう書けてたじゃない」
「……それでも、確認は大切です。手を重ねる必要もあると判断しました」
「まだ言うか!」
セリカとアヤネが争い、シロコが尚もユキヤの背中にくっつき、ノノミは尚もユキヤの隣に居座る中、ホシノは楽しそうに笑い、ユキヤは呆れたようにため息を吐く。
「いやぁ~。朝から賑やかだねぇ」
「……たくもう。なんで朝からこうなってんだか。どいつもこいつも、少しは落ち着きを覚えろっての」
彼は呆れたように額を押さえる。しかし、そう言ってる彼の顔は、どこか楽しそうに笑っていた。
奥空アヤネ、黒見セリカ、砂狼シロコ、十六夜ノノミ。そして小鳥遊ホシノ。個性も性格もバラバラで、騒がしくて、自由奔放で。それでも、みんな自分にとって大切な仲間であり、こうした騒がしい日常こそが、彼が望んでいるものだ。
ここには大切な仲間がいる。大切な日常がある。それ守るためなら、どれだけ汚れた道でも歩くことを、悪魔に魂を売ったとしても守り抜くと、彼は改めて心に決めていた。