アビドス高等学校の真のファウスト 作:リハビリ作者
夜中。アビドス自治区は静寂に包まれ、寒くなり始めていた。藤堂ユキヤは人目につかない場所で黒い外套を脱ぎ、白銀の仮面とともに秘密の部屋へ隠した後、アビドス高校へと向かっていた。
目を閉じると、夕方の路地裏で見た光景が脳裏に蘇った。
血に染まった棗イロハと丹花イブキ。自分を睨みつけるイロハの瞳。そして、涙を浮かべながら必死に抵抗したイブキの姿。
「……くそっ」
ユキヤは小さく吐き捨て、内心に伝えるように、ギュッと服の胸あたりを握りしめる。今は考えるな、いつもどおりに振る舞え、アビドスの仲間を守るためなら、悪魔になることも受け入れたのは自分ではないか、今更罪悪感を抱くことこそ罪だ。悔いたところで引き返せないんだと。そう自分に言い聞かせながら、対策委員会の部屋へ向かうと、部屋の明かりは付いていた。
「明かりがついてる。またホシノかシロコが夜更かしでもしてんのか? たく」
そう呟きながら扉を開けると、部屋の中にいたのは意外な人物であった。
「おかえりなさい、ユキヤ先輩」
「……は?」
中にいたのは奥空アヤネ。彼女はパソコンで何かを打ち込んでいた。そして画面を閉じると、ユキヤの方へゆっくりと顔を向けた。普段なら、彼女がこんな時間まで残っていることはないため、彼は思わず眉をひそめる。
「アヤネ? なんでこんな夜遅くにここにいる」
「ユキヤ先輩を待っていたんです」
「……俺を?」
「はい」
彼女はいつものように答えてるように見えたが、彼はなんとなく理解した。彼女はなにかを問い詰めようとしていると。普段の穏やかな雰囲気が鳴りを潜めており、どこか緊張感を与えられる雰囲気が出てるのがその証拠だった。
机の上にはノートパソコンと数枚の資料。それから、銀行口座の入出金記録を印刷した紙が並べられている。
「……何かあったのか?」
「ええ。少し、お話ししたいことがあります。どうぞ、そにらに座ってください」
「なんか怖いんだが」
「怖がるようなことではありませんよ。ただ、普通にお話しするだけですから。そう、普通のお話しです」
「その言い方が怖いんだよ。尋問や拷問でもする気か?」
冗談めかして返してみたが、彼女は笑わない。
(この状態のアヤネだと、何を言っても笑わないし誤魔化すのも大変だな。さてどうするか)
彼は、どうこの局面を切り抜けようと考えながら、椅子へ腰を下ろして彼女と向き合う。
「それで、話って何だ?」
「アビドスの返済用口座についてです」
その話が出ることは、彼はなんとなく理解出来ていた。銀行口座の入出金記録についての紙には、ちょうどニヤニヤ教授からの依頼を終えた直後くらいの時間に、二億円が振り込まれてる記録があるのを見つけたからだ。
以前も、アヤネは匿名の送金について調査していた。送金元が毎回異なる名義になっていること、二か月前から一定の間隔で大金が振り込まれていること、そして、ユキヤが帰ってくる直前に一億円が入金されたこと。
そして今夜。さらに大きな問題が起きていた。
「今日の夜、返済用口座に二億円が振り込まれました。以前の一億円もそうですが、これまでの匿名送金とは比較にならない額で、明らかに異常です」
「……景気のいい支援者なんじゃないか?」
「ユキヤ先輩」
「はい」
「真面目に聞いてください」
「……はい」
アヤネの一見静かな物言い。だが、その言葉の中には逆らっては駄目だと本能的に感じてしまうような圧があり、かれは思わず背筋を伸ばしてしまう。彼女はは小さく息を吐き、資料へ視線を落として話を続ける。
「私は、誰かがアビドスを支援してくれている可能性を否定していません。実際、私たちはお金に困っています。借金の返済も、学校の維持も、砂漠化への対策も、資金がなければ進められませんから。出来ることなら、このお金を無責任に疑ったりはしたくありません。善意で送ってくださった方がいるのなら、感謝するべきだと思います。ですが、善意だと決めつけてしまうのも危険です。二か月前から続く匿名の送金。毎回違う名義。そして、以前の一億円と今回の二億円。これだけの金額が動いているのに、未だに送金者の正体も目的も分からないんです。これ、かなり怖いことだと思いませんか?」
「そうだな。確かにそれは怖いことではあるが、なぜその話を俺に? 俺から何を聞きたいんだ?」
「簡単です。ユキヤ先輩なら、なにか知ってるかと思ったからです。ユキヤ先輩、この送金について何か知りませんか?」
「……いや。俺は何も知らない。送金してくる奴の目的も正体も分からん。てか、なんで俺がそんなの知ってると思ったんだ。当てずっぽうだとしたら呆れるぞ」
「当てずっぽうではありませんよ。根拠はあります」
彼女は机の上から別の資料を取り上げ、印刷された入出金記録をユキヤの前へ滑らせる。
そこには過去2か月分の入金日時と金額が、日付順に整理されていた。金額にばらつきがあるものの、送金の間隔には一定の傾向が見られる。そして、もう一枚別の資料を取り出す。そこには、ユキヤが夜遅くまで帰ってこなくなる日について日付順に整理されていた。
「2か月前から続く匿名送金。毎回違う名義なのに、最終的には必ずアビドスの返済用口座へ入金されること。そして、この送金の一番最初の始まりは、先輩が夜遅くまで出歩き始めた時期とかなり近いです。もちろん、それだけでは根拠になりません。ただの偶然という可能性もありますから。しかし、送金された日全てが、先輩が夜遅くに帰ってくる日と重なるとなると、これを偶然だと考えるのは無理があります」
「……よく調べたな」
ユキヤは内心で舌打ちしながらそう言った。彼女の調査能力には素直に感心してしまう。限られた情報からこれほど早く関連性を見つけ出すとは、さすがアビドスの書記といったところか。もっとも、今はその優秀さがひどく厄介だったが。
「ありがとうございます。でも、今は褒められても嬉しくありませんね」
アヤネは顔を上げた。その声は落ち着いていたが、指先が資料の端をぎゅっと押さえている。
「私は、アビドスを守るために調べているんです。もし、このお金が本当に善意によるものなら、それでいいんです。私たちはずっとお金に困っていますし、借金を返せるなら、それに越したことはありません。でも、もし誰かが私たちを利用しようとしているのなら……私は、見過ごすわけにはいきません」
「……分かってるよ」
「本当に分かっていますか?」
アヤネは椅子から立ち上がると、窓の方へ視線を向けた。夜の砂漠は暗く、遠くに見える街灯の明かりも頼りない。かつて大勢の生徒で賑わっていたはずの自治区は、今では静寂と砂に覆われている。
あの場所をもう一度取り戻すために、彼女たちは何度も話し合い、働き、時には無茶な作戦にまで手を伸ばしてきた。だからこそ、突然現れた大金を疑わずに受け取ることなどできなかった。
「ユキヤ先輩。私は、先輩に感謝しています。先輩はいつも、私たちが困っていると助けてくれます。事務作業だって、施設の修理だって、私たちが気づかないうちに終わらせてくれることがありますし、セリカちゃんが危ない目に遭いそうになった時も、すぐに駆けつけてくれました。私たちのことを大切に思ってくれているのは、分かっていますし、信頼してます」
「……だったら、俺を疑う必要はないだろ」
「違います。大切に思っているからこそ、信頼してるからこそ心配なんです。先輩は、いつも自分のことを後回しにするじゃないですか。何か問題が起きれば、自分1人で解決しようとする。どれだけ忙しくても、疲れていても、何でもないような顔をして……私たちには何も言ってくれません」
彼女はそこで言葉を切る。ユキヤは何も答えらず、視線をそらす事しか出来なかった。
「今回の送金についても、もし先輩が何か知っているのなら、話してほしいんです。私たちは、ただお金が欲しいわけじゃありません。アビドスを守りたいんです。みんなで、この学校でこれからも暮らしていきたいんです。だから、そのために危険なことをしている人がいるなら、私たちも一緒に考えたいんです」
「……危険なこと、ね」
夕方の路地裏が、また脳裏をよぎる。血に染まったイロハとイブキ、自分を睨みつけたイロハの瞳、涙を浮かべながら抵抗したイブキの姿。あの場面を思い出すだけで、胸の奥がひどく重くなって苦しくなる。
もし、アヤネが真実を知ったらどうなるだろうか。自分が誰の依頼を受け、どんな仕事をして、どれほど取り返しのつかないことをしてきたのかを知ったら。彼女はきっと、自分を止めようとするだろう。ホシノも、シロコも、セリカも、ノノミも、皆が自分の前に立ちはだかるに違いない。
それだけは駄目だった。彼女たちを巻き込むわけにはいかない。自分がどれほど汚れようと、あの場所だけは守ると決めたのだから。
「……悪いが、本当に何も知らないんだ。金の出所についても、俺には分からない。お前が心配しているような危険なことも、俺はしていない」
アヤネは、しばらく彼を見つめていた。見つめる瞳を見返せば、彼女が納得していないことが容易に理解出来た。それでも、今日の彼女はそれ以上追及しなかった。
「……分かりました」
「信じてくれるのか?」
「いいえ。まだ信じたわけではありません。私は、ユキヤ先輩を信頼しています。でも、信頼していることと、何も疑わずに受け入れることは違います。おかしいと思ったことを、そのままにするわけにはいきませんから」
アヤネは資料をまとめ、ノートパソコンの横へ置いた。それから、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「ただ、今夜はこれ以上聞きません。先輩も疲れているでしょうし、こんな時間まで引き止めてしまってすみませんでした」
「……いや。別に構わない」
「でも、1つだけ約束してください。もし、本当に困っていることがあるのなら、私たちに相談してください。先輩が何でも1人で背負う必要はありません。私たちは、先輩に助けてもらうばかりじゃなくて、先輩を助けたいとも思っているんです」
ユキヤは返事が出来ず、黙ったままだった。彼女の言葉は優しい。優しいからこそ胸に刺さる。自分がどれほど遠い場所まで来てしまったのか、今日の自分がどれだけ非道な事をしたのかを、改めて思い知らされるようで体が重くなって苦しくなる。
「……考えておく」
結局、彼が口にできたのはそれだけだったが、アヤネは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「はい。それで十分です」
彼女が資料を片づけ始める。ユキヤも立ち上がり、帰り支度をする彼女を手伝おうとしたが、アヤネは首を横に振った。
「大丈夫です。これは私の仕事ですから」
「……そうか」
「それと、ユキヤ先輩。今日、帰ってきた時……随分と顔色が悪かったですよ。ちゃんと休んでくださいね」
ユキヤの足が止まる。ほんの一瞬、アヤネの瞳が夕方の出来事を見透かしているように思えた。しかし、彼女はそれ以上何も言わず、いつもの真面目な表情に戻っていた。
「おやすみなさい、ユキヤ先輩」
「……ああ。お前も、あまり夜更かしするなよ」
扉を閉める直前、ユキヤは一度だけ振り返った。机の上には、きれいに整理された送金記録が残されている。彼女はきっと、明日も調査を続けるだろう。名義を調べ、入金の経路を探り、少しずつ真実へ近づいていく。
「……さて。これからどうするべきかね」
誰にも聞こえない声で呟き、ユキヤは廊下を歩き始めた。歩いていると、ユキヤの端末にニヤニヤ教授から新たなメッセージが届いて通知音が鳴る。画面に表示された短い文章を見て、苛立たしげに壁を殴る。
──次のお仕事について、近いうちにお話ししましょう。ほむほむ。今後ともよろしくお願いしますね、ユキヤさん──
「……本当に鬱陶しいな。ゴミ教授」
端末を握る手に力がこもる。二億円を手に入れても、終わりではない。むしろ、これから先も同じことを繰り返さなければならないのかもしれない。それでも、彼は誰かに助けを求める気はない。
アビドスの未来を守るために、大切な仲間たちを巻き込まないために、彼は今夜も一人で秘密を抱え、戦い続けると決意するのだった