アビドス高等学校の真のファウスト 作:リハビリ作者
傷ついたイロハの意識が戻り、苦しそうに開いたその目に映ったのは、何度か見かけた事のある救急医学部の部室の天井。消毒液の匂いが鼻をくすぐり、快適な空調が傷ついた体を僅かに癒してくれる。
「ここは」
「イロハ、気がついたか!」
聞き慣れた声が、イロハの意識を一気に現実へと引き戻した。顔を向ければ、ベッドのすぐ脇にゲヘナ学園万魔殿議長『羽沼マコト』が立っていた。
普段ならば自信満々な笑みを浮かべ、何かしらの大言壮語を口にして高笑いしてそうな彼女が、今は隠しきれない心配をその顔に滲ませ、不安そうに見つめていた。
「マコト先輩?」
「そうだ! この万魔殿の偉大なる議長、羽沼マコトだ。身体はどうだ? どこか痛むところはないか? 気分は悪くないか? 私の髪の色は何色に見える? 頭はちゃんと回っているか?」
「質問が多すぎます。あと、最後のは余計です」
「な、何ィ!? 心配してやっているというのに、その態度は何だ!」
いつもの調子で噛みついてくるマコトに、イロハはほんの少しだけ安堵した。もっとも、声がわずかに上ずっていることも、体に不調が無いかじっと見つめていることも、彼女は見逃していない。窓の方をみると、窓から差し込む朝の光が、部屋を照らしているのに気づいた。
「……ずいぶんと、寝てたみたいですね」
「ああ。およそ半日程度と言ったところか。いまはもう昼前だ」
「昼前ですか。そんなに」
ふとベッドの近くにある机を見ると、彼女の好物のお菓子が大量に積まれていた。さらには、近くにはミレニアムの校章が彩られたアロマディフューザーもある
「マコト先輩。これは」
「見舞いの品だ。とりあえず、お前の好きなものでも食べてもらって元気を出して貰おうと思ってな。部下たちに買わせてきた。イブキやお前に渡す用のプリンも大量に購入して、今は冷蔵庫に入れてある。食べれる時になったら好きに食べると良い」
「そのアロマディフューザーは?」
「ああ。これはミレニアムが最新鋭の技術を投入して作ったアロマディフューザーでな。患者をリラックスさせる香りでつつみ込み、傷を治す効果を促進させるんだ。少しでも楽になってほしいからな」
イロハは机の上に積まれた菓子の山やアロマディフューザーと、マコトの顔を交互に見つめる。その目は大きく見開いており、絶句している。
普段の彼女なら、こんな大量のお菓子を買い込んで部下を気遣うなど考えられない。むしろ滅茶苦茶な命令で振り回すのが当たり前のようにある。そんな彼女が今は、自分たちの為に色々購入したり世話をしてくれている。
「……珍しいですね。先輩が他人の心配をするところ、初めて見たかもしれません。これは良いものを見れましたね」
「なんだその言い草は! 私がどれだけお前たちを心配したと思って。急に連絡がつかなくなるし、何時間も探してようやく見つけたと思ったら血だらけだったし、あのときは本当に肝を冷やしたのだぞ! このアロマディフューザーやお菓子とかだって、私がどれだけの資金をつぎ込んだと思っている!」
「分かってますよ。ありがとうございます、マコト先輩。私、先輩の元で働けて良かったです」
マコトの肩がびくりと跳ねた。まさか素直に礼を言われるとは思っていなかったらしい。彼女は一瞬だけ目を丸くすると、すぐに咳払いをして胸を張った。
「ふ、ふん。この程度はやって当たり前のことだ。偉大なる万魔殿議長様が、配下の体調管理すらできない無能だと思われては困るからな! いずれキヴォトスを支配する者として、配下の働きに報い、必要な時には惜しみなく支援するのは当然の事。私はやるべきことをやっただけだ」
「はいはい。そういうことにしておきますよ。それより、イブキはどうしてますか?」
「適当に流すなと言いたいが……まあ良い。イブキはそこだ。お前と同じように処置を受けて、今は眠っている。セナの話だと、命に別状はないそうだが、しばらくは安静にすべきとのことだ」
マコトが見た方向と同じ方に視線を向けると、隣のベットでイブキが眠っていた。小さな身体は白いシーツに包まれ、お腹と足に包帯が巻かれている。普段ならば万魔殿の部室を元気いっぱいに走り回り、マコトを見つければ満面の笑顔で駆け寄ってくる少女が、今は静かに眠っている。その光景を見つめるマコトの手は、知らず知らずのうちに強く握り締められていた。
「そうですか。イブキも無事なら、ひとまず安心ですね」
イロハは安堵の息を吐いた。しかし、身体を動かそうとした途端、肩と腹部に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。まだ傷が塞がったわけではないのだ。無理をすれば、せっかくの治療が台無しになってしまう。
「おい、何を動こうとしている! まだ寝ていろ!」
「いえ、ちょっと姿勢を変えようとしただけですよ。そんなに大騒ぎしなくても」
「大騒ぎではない! 当然の反応だ! お前は自分がどれほどの怪我を負っていたのか、分かっているのか!?」
マコトが声を張り上げる。イロハは面倒くさそうに目を細めたものの、反論する気力までは残っていなかった。実際、意識を失う直前のことを思い出すだけで、身体の奥に冷たいものが広がっていく。意識が消えそうになったときは、本当に死んだかと思ってしまった。それほどの恐ろしさが、あの襲撃にはあった。
「……ところで、マコト先輩。私たちを見つけたとき、ほかに誰かいましたか?」
「いや、他には誰もいなかったな。すぐに万魔殿や情報部を動かして調査させたが、お前たちを襲った奴の姿は髪の毛一本も見つからなかった。まるで、どこかに消えてしまったかのようにな」
マコトの表情が険しくなる。
イロハたちを発見したとき、彼女は一瞬、自分の目を疑った。
路地に散らばった弾痕、大量の血を流し、地面に倒れたまま動かない2人。彼女でさえ、あの光景を見た瞬間だけは頭の中が真っ白になってしまったのだ。それでも即座に救急医学部を派遣し、同時並行で事件の調査を部下にさせるという凄まじさを発揮していたが。
「イロハ。言い辛いなら無理に答えなくても良いが、お前たちを襲った奴のことを教えてくれないか?」
「……白銀色の仮面をつけた人間です。声からして男だと思いますが、ボイスチェンジャーとかで誤魔化してる可能性もありますね。黒い外套に身を包んでるせいで、どんな体か分かりませんでしたし。銃剣付きのハンドガンを持っていて、袖から鎖を出して攻撃したりしてましたね」
「鎖か。やはり、お前たちを襲ったのは、温泉開発部を襲ったという奴か?」
「おそらく。メグ先輩の証言とも一致しますからね」
イロハの言葉に、マコトは眉間に深い皺を刻んだ。温泉開発部を襲撃し、カスミたちを壊滅寸前まで追い込んだ正体不明の人物。その事件はすでにゲヘナ内部でも問題になっていたが、まさか自分の身近な人間が標的になるとは思っていなかった。
「何故だ。何故そいつがお前たちを狙った? 温泉開発部ならともかく、お前たちに何の恨みがあるというのだ!」
マコトの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。欲しいものを手に入れるためなら大胆な策を講じ、時には強引な手段さえ選ぶ彼女だが、万魔殿の仲間を傷つけられることだけは許せない。
イブキやイロハが血を流して倒れていた光景は、何度思い返しても胸の奥を焼くように苦しめ、なぜ自分はその場にいなかったのかと何度も後悔した。
「私にも分かりません。ただ、あの男は最初から私たちを狙っていたようです。偶然出くわした、という雰囲気ではありませんでしたね」
「待ち伏せされていたということか?」
「ええ。イブキが見つけた店の情報を利用して、私たちを人気のない路地へ誘い込んだようです。何者かは知りませんが、システムとかインターネットに相当詳しい人間なのでしょう」
イロハは疲れたように目を閉じた。インターネットに掲載された情報を信じたイブキを責めるつもりはない。むしろ、騙された自分を責めていた。本来なら先輩である自分がインターネットの悪意などから守らなければいけないとういうのに、守るどころか傷つけてしまったのだから。
「……私が、もっとちゃんと確認していればよかったんですけどね。情けない話ですよ」
「イロハ、お前だけの責任ではない。これはイブキを除いた、万魔殿全員の責任だ。皆、イブキが騙されてることにも気づかずに馬鹿をやっていた。そのせいで、お前やイブキを辛い目に合わせてしまった。悔やんでも悔やみきれん」
マコトは悔しそうに拳を握りしめる。普段の彼女なら、失敗を認めることも、自分の非を口にすることも、ましてや部下の前で後悔を露わにすることも滅多にない。
それでも今は、万魔殿の議長としての誇りよりも、傷ついた仲間たちへの申し訳なさが勝っていた。
「私がもっと早く気づいていれば……お前たちが危険な目に遭う前に、何か手を打てていたかもしれん」
声の最後がわずかに震え、辛そうにしていた。イロハにとって、マコトは手のかかる上司だ。普段は壮大な野望を掲げ、無茶な命令を出しては好き勝手暴れまくる。責任とは対極の位置にいるような人間だと思っていた。しかし、そんな彼女は今、自分たちの傷を自分の責任として受け止めている。その姿は、今までの仕事をしてる姿より、ずっと真剣なものに見えた。
「……マコト先輩。そんな顔をしないでください。先輩らしくありませんよ」
「なっ! 別に、どんな顔をしようと私の自由だろうが! ふん。少し元気になったと思ったら調子に乗りおって。完治したら、もっともっとこき使ってやるからな。だから、今はゆっくりと体を治せ!」
マコトは慌てて顔を背けた。帽子のつばを指先で押し上げ、いつもの不敵な表情を取り戻そうとするものの、目元に残った不安までは隠しきれていない。イロハは小さく息を吐き、枕へ頭を預け直した。
「了解です。では、お言葉に甘えてさぼらせてもらうとしますかね」
「全く。少しはしおらしくなったと思ったら、結局はいつも通りだな……だが、その方が良いな。そっちの方が好きだ」
マコトは、最後の言葉を聞こえないように小声で呟いたが、イロハはバッチリと聞こえており、どう答えようか迷った末、気恥ずかしくなって視線を反らした。
「……マコト先輩。今、何か言いましたか?」
「な、何も言っていない! 私はただ、負傷した部下の回復を願っていただけだ!」
「そうですか。なら、いいんですけど」
イロハは視線を反らしたまま、聞こえなかったふりをするのが、今の自分にできる最善の選択だったと思った。これ以上追及すれば、普段から騒がしい議長がどんな反応をするか、想像するだけで面倒くさい。
「……何だ、その妙な間は。まさか私を疑っているのか?」
「いえいえ。そんなことはありませんよ。マコト先輩は偉大なる万魔殿の議長ですからね。部下思いで、素晴らしいお方です」
「ふ、ふん! 分かっているではないか!」
胸を張るマコトだったが、イロハは決して彼女の顔を見ようとせず、携帯のSNSを見るふりをしていた。マコトも先ほどの発言を掘り返されるのが怖いのか、妙に落ち着かない様子でソワソワしており、胸の前で手をこすり合わせたり指を絡めたり、しまいには靴底を地面に擦ったりと明らかに挙動不審だ。
2人ら妙に居心地が悪い時間を過ごしていた。隣のベッドではイブキが穏やかな寝息を立てているというのに、この部屋だけは妙な緊張感に包まれている。
「とりあえず、私はもう少し寝ます。何かあったら呼びますので」
「う、うむ。ゆっくり休むがいい! 私も少し、仕事を片付けてくるとしよう!」
「ありがとうございます、マコト先輩」
「っ……お、おう!」
イロハはめんどくさそうに小さく息を吐いた後、頭を抱えた。聞かなかったことにした言葉は、どうやら思った以上に厄介なものだったらしい。しばらくは、マコトの顔をまともに見られそうになかった。