D組の泰士からすると、成績の良い生徒が集まるA組に在籍している広枝が勉強でつまずいていたなんて、嘘だろと思ってしまう。
「A組のお前でも、わかんなかった時があったのかよ」
「うん、たくさんあったよ。少ない勉強時間でトップの成績をとる人もいるけど、私はそういうタイプじゃないんだ。私も今の金成くんみたいに、何度も基礎を確認して、公式を暗記して、必死に練習して、それでやっと、少しできるようになったの。えっと……金成くんはダンス部だよね? 私はダンスのことはわからないけど、ダンスもそうじゃない? 不得意だった頃があったでしょ? でも練習を頑張ったから、今はできるでしょ? ね、それと同じ」
同じかねぇ、と泰士は思いつつも、広枝は天才型なわけではなく、地道な努力を重ねたからこそ勉強ができるのだ、という当たり前のことが理解できた。
その次の土曜日も、二人は地区図書館にこもった。初対面の時はびくびくしていた広枝だったが、おやつ休憩の会話では、すっかりリラックスして話してくれるようになっていた。
「えっ、金成くんって、お兄さんがいるの?」
「ああ、いま大学生だ」
「ちょっと意外……弟か妹がいて、お兄ちゃんって呼ばれていそうなのに」
「むしろ、俺が弟なんだよ。そういうお前こそ、弟がいるんじゃねぇの」
「よくわかるね! そうなの、弟がいるよ。いま、小学校四年生」
「結構年が離れてんな」
「うん、最近生意気になってきたけど、それでもかわいいよ」
弟の話をする広枝は「お姉ちゃん」の顔をしていた。なるほど、この面倒見の良さは長女ゆえに培われたものなのだろう。
その後、過去単元の復習と基礎固めが終わったので、いよいよ再テスト範囲の勉強に入った。
再テストは、前回のテストとまったく同じ問題も出されるが、異なる数字の問題も出されると聞いている。最も重要な公式の暗記と、少しばかりの応用テクニックをおさえておけば、確実に七十点はとれるはずだ。
「大問が全部で五つあるけど、大問四は後回しで、最悪、諦めたほうがいいと思うの」
「は? なんで?」
「とても難しいから……そこの配点は捨てて、ほかのところで満点をとれるようにしたほうがいいと思うんだ」
「それって、逆にハードル高くね?」
「大丈夫。基礎はしっかりと確認したし、ほかの問題は、基本の応用だけだから。大問四は、これ、先生が意地悪で作った問題だと思う。解けなくもないけど、時間内に解き終わるには、まだ授業でやっていない解き方を使わなきゃいけないから」
「え、そうなん? つーか、なんで藤島がンなことを知ってんだ?」
「私、ここがわからなくて……でも山崎先生に訊くのが悔しくて、休み時間中もずっと考えていたら、クラスの時田くんが教えてくれたの。時田くんね、すごいんだよ。この問題も、さらっと解いちゃったんだって」
「ふーん……」
その時泰士は、胸の中にざわりとした風が渦巻いたのを感じた。自慢げに――いや、尊敬して憧れているかのようにクラスの男子の名前を出す広枝が、なぜだかやけにムカついた。自分は勉強ができないから、勉強のできるA組の時田に嫉妬しているのかとも思ったが、そうではない。広枝が、自分の知らない男の名前を口にしていることが、なんだかもやもやとしたのだ。
「大問四を全部捨てても、ほかのところを満点にすれば七十点は超えるから、きっと大丈夫。再テスト、頑張ろうね、金成くん」
「ああ……」
胸中の苛立ちもほどほどに、泰士は数式とにらめっこを始める。
考え込んで思わず眉間に皺を寄せた泰士を見て、広枝は小さく笑った。
◆◇◆◇◆
「金成~、あんた、土曜日にあのダサ子と一緒にいたんだって?」
「なに、付き合ってんの?」
「誰だよ、ダサ子って」
昼ご飯を胃袋に収め、紙パックのジュースを飲みながら教室の窓の外をぼんやりと見ていた泰士に、ダンス部の女子生徒が二人、声をかけてきた。学年で一、二を争う短さのスカートがふと目に入り、「藤島と同じスカートとは思えねぇな」と、泰士は言葉にすることなく考える。
「ほら、眼鏡でおさげの」
「ああ、藤島か。俺、数学のテストがやばくてさ。数学の山崎が、藤島に教えてもらえっつーから、勉強を見てもらってんだよ」
付き合ってるわけじゃねーよ、と泰士は無感情に付け加える。
生徒の指導を同じ生徒に押し付ける山崎のやり方はどうかと思うが、山崎ではなく広枝が教えてくれてとても助かっているので、泰士は素直にそのありがたみを語った。
「あいつ、すげぇよ。山崎なんかよりわかりやすい説明をしてくれるし、俺がどこでつまずいてんのか、すぐ見抜くんだ。自分もそうだったからわかるんだ、って。あいつ自身、すんげー努力してんだわ」
「ふーん」
「つまり、キショいガリ勉じゃん? やっぱりダサ子だね」
自分から話題を振ってきたくせに、女子生徒二人はつまらなそうな、そして広枝を馬鹿にするような反応だった。
高校生が勉強を頑張ることの、どこが気色悪いのだろう。できない自分をなんとかしたくて一生懸命努力してきた広枝の、どこがダサいのだろう。
泰士はそう思ったが、目の前にいる彼女らにそれを問うことは愚問だ。うまく言葉にはできなかったが、なぜかそう確信した。
「それよりお前らさ、次の部活で何やるか聞いた?」
そのため、泰士はそれ以上広枝の話はせずに、さらりと話題を変えた。女子生徒二人は「知らない」と言いつつも、基礎練習を減らして大技をやりたいと、いつものダンスの話題へシフトしてハイテンションに語った。
◆◇◆◇◆
そうして、数学の中間試験再テストの日がやって来た。
再テストを受ける生徒は泰士のほかに三名おり、放課後の教室の中には数学教師の山崎と、泰士たち四名の生徒が集まった。
テストの制限時間は最初と同じ、四十分間だ。やる気のなさそうな山崎が試験監督をする中、泰士は広枝に教えられたとおりにテストに臨んだ。
最初に、今回使うべき公式を問題用紙の隅に書き出しておく。途中で焦って公式を忘れても大丈夫なようにと、広枝が教えてくれたコツだ。
それから、問題は簡単なものから解いていく。今回のテストの場合だと、大問一、二、五、三の順だ。
初見の時にも感じたが、意地悪な構成だと思う。大問一から真面目に解こうとすると、大問三、そしてその次の大問四で時間を食って、最後の大問五の問題に目を通せなくなる。
初見の泰士は簡単な大問一、二の正答率も低かったが、この大問三、四を解くのに全部の時間を使ってしまい、大問五は問題文すら読めず、六点に終わったのだ。
(クソ山崎……見てろよ!)
負けず嫌いの泰士は、数学教師の山崎に負けたくない思いでとにかくシャーペンを動かした。
最初に書き出しておいた公式を途中に何度か確認しながら、途中式も答えも、間違いのないものを書いていく。時間がかかるが、途中の計算式をへたに端折らないことが、正答率を確実に高めてくれる。これもまた、広枝からのアドバイスだった。
残り時間が十分を切った頃に、泰士は大問四以外の問題すべてを解き終わった。広枝に言われたとおり、大問四には目を通さず、残り時間を見直しに充てる。
「……んじゃ……よ!」
その時、教室の外から甲高い声が聞こえた。女子の声で、ふざけんじゃないわよ、と言っていたように聞こえる。
(なんだ?)
ぼうっと俯いている山崎が生徒たちを見ていないのを確認してから、泰士は開いている窓の外にそっと視線を向ける。すると、校舎を背にした一人の女子生徒に、数人の女子生徒がプレッシャーをかけるように対峙しているのが見えた。校舎を背にしているおさげで眼鏡のその女子生徒は――。
(藤島っ!?)
驚いて椅子から立ち上がりそうになるのを、泰士はすんでのところで抑えた。
なぜ広枝が、女子に囲まれているのだろう。しかも、聞こえた声からすると、良い雰囲気の集まりではない。おまけに、遠目で確証はないが、広枝を取り囲んでいる女子たちのうち二人は、ダンス部の部員ではないだろうか。どうしたというのだろう。
(なんだ? わけがわからねぇ)
広枝側の事情はまったくわからないが、泰士は今すぐにでも広枝のところに駆けつけたいと思った。しかし、机の上にある数学の問題用紙が、「敵前逃亡ですか?」と挑発的に語りかけてきている気がする。いまここでテストを放り出したら、広枝が今までしてくれた指導が全部台無しになってしまう。
(あーっ! くそっ!)
泰士は広枝が気になって、すっかり冷静さを失った。こんな状態で見直しをしても、正しく導けたはずの答えを誤ったものに書き換えてしまうかもしれない。
(時間……)
左手首の腕時計を見る。
テスト終了まで、残り六分。白紙のままの、大問四。
広枝と一緒に過ごしてきた時間が、次々と思い起こされる。