なんのメリットもないのに、わざわざ自分の時間を使ってまで、丁寧に数学を教えてくれた広枝。弟がかわいいと言って、にっこり笑った広枝。「私もそこでつまずいたの」と、気恥ずかしそうに告げた広枝。それなのに、なぜかいま、ほかの女子たちに詰められている彼女。
(ちくしょう……今の俺にできることってこれしかねぇよ!)
彼女のことが気になるのに、テスト時間に縛られた自分はあと数分、ここに座っていなければならない。そして、ここに座ってできることは、これまでの広枝との頑張りを少しでも発揮することだけだ。
残り時間、泰士は無我夢中で数式を書きまくった。
「ん……ああ、時間だな。ここですぐ採点すっから、全員このまま待機な」
そして、再テストは終了となった。山崎はのんびりと声をかけて、四名の机上から解答用紙を回収する。しかし、待機と言われた直後に泰士は立ち上がった。
「おい、金成! 待ってろって」
「便所だよ!」
泰士は雑な言い訳を放ち、男子トイレに向かうことなく階段を駆け下りて、廊下を突っ切っていく。ダッシュで目指す場所は、広枝が女子に囲まれていた場所だ。
(まったく、なんで女子ってのは集団になってああいうことをするんだ!)
あれは十中八九、典型的ないびり、いじめの現場だろう。
「藤島!」
「えっ……か、なり……くん?」
一心不乱に走って目的の位置に向かうと、しゃがみこんで俯いていた広枝が一人、今にも消えそうな儚さでそこにいた。いつもおさげにしている髪は不自然に乱れていて、眼鏡はかけていない。彼女の足元には、レンズにひびの入った黒縁の眼鏡が、まるでゴミのように落ちていた。
「あれ……あの、再テストは……」
「終わった。いま山崎が採点してる」
「そっか……」
広枝はくしゅくしゅのほほ笑みを浮かべたが、その目元は赤くなっており、泣いていたことが一目瞭然だった。悔しいが、彼女を取り囲んでいた女子たちは明らかに手を出したようだ。
「で、できた……? 私の教え方……駄目だったかな」
「そんなことねぇ!」
「っ……」
泰士の大声に、広枝はビクッと肩を震わせて驚いた。
泰士は大声を上げてしまったことを気まずく思いながらも、なぜ女子たちに囲まれていたのか、その眼鏡はどうしたのか、泣くほど何を言われたのか、とにかく広枝に訊きたいことが山ほどあった。
「ご、合格点……とれてるといいね」
広枝は涙の跡をごまかすように、努めて明るく振る舞う。けれども、その声は震えているように聞こえた。
(何が……何がこいつに、こんな痩せ我慢をさせるんだ?)
女子同士のいざこざを男子に知られたくない、という彼女なりの矜持だろうか。
(ダンス部の奴がいた……)
彼女を取り囲んでいた集団の中にいた、ダンス部員と思われる女子生徒。
すると、泰士の脳裏に、何気ない昼休みの会話がよみがえる。
広枝のことを、彼女たちは「ダサ子」と呼んで馬鹿にしていた。そして、なぜか不満そうに、「付き合ってんの?」と泰士に訊いてきた。
(俺……俺のせいか?)
それは、自惚れではないだろうか。しかし、そう考えると辻褄が合う気がする。
A組で帰宅部の広枝とダンス部の女子生徒たちの間に、友好的な接点はないだろう。だが、ここ最近泰士と一緒にいたことで、広枝が無用の嫉妬を買ってしまった可能性はある。広枝はそのことを気付かせまいとして、何も言わないでいるのだ。
「金成くん、あの……山崎先生のところに戻らなくていいの?」
足元の眼鏡を拾い上げて、広枝は泰士に問いかけた。
眼鏡をかけていない広枝は、なんだか大人びて見える――なんて、泰士は思わず考えてしまう。
「ダンス部の奴がいただろ……俺のせいか」
しかし泰士の口は、そんな思考を置き去りにして、核心を突いた質問をするりと投げかけていた。広枝は瞬きを繰り返して、それから気まずそうに首を横に振る。
「ち、違うよっ……大丈夫、金成くんは関係ないから」
関係ない――広枝は気を遣ってそう言ってくれたのだろうが、その言い方に泰士は、ひどく突き放された気がした。そして同時に自覚した。そんなふうに蚊帳の外に置かれたら寂しいと感じるほど、自分は彼女との距離を近くに感じていたのだ、と。
「でもお前、泣いてたじゃねぇか。女子に囲まれて、なんかされたんだろ!?」
中間テストが終わってから今日の再テストの日まで、毎週水曜日と土日は、時間が合う限り広枝から数学を教わっていた。二人で図書館やファストフード店にいたところや、放課後の学校の図書館で一緒にいたところなどを見かけた誰かに、「付き合っている」と思われても不思議ではない。
直接尋ねてきたダンス部の女子生徒たちにはきちんと否定したが、おそらくそれは、信じてもらえなかった。そして、自分に気がある誰かが、本人主導か友人主導かはわからないが、とにかく広枝に嫉妬して、意地悪をしたのだろう。それのどこが、関係ないのだろうか。
「俺……無関係じゃねぇよ!」
泰士に心配をかけまい、迷惑をかけまいとして言葉を濁す広枝のいじらしさに、泰士はカッとなった。責めるべきは彼女ではないだろうに、そんな気遣いをする広枝に怒鳴りたい気持ちが抑えられなかった。
「大丈夫……なんでもないから」
広枝は自分を勇気づけるように――まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
それから、くしゃくしゃに乱れてしまっているおさげを一度すべてほどき、手櫛で髪の毛を整えてから、再び三つ編みを結う。その広枝の手元に視線を吸い寄せられた泰士は、自分の拳を強く握った。
起きてしまったことは、もうどうしようもない。広枝にも自分にも、過去は変えられない。それに、強がって踏ん張ろうとする広枝のプライドも、無下にはしたくない。だからきっと、これ以上この件について何かを言うべきではないのだろう。
「藤島、まだ帰らないで待っててくれねぇ? 今日は再テストがあるから、ってことで、部活は最初から休んでるんだ。結果が……その、もし悪かったら、まだ教えてほしいんだ」
「う、うん……いいよ。じゃあ、下駄箱で待ってるね」
「よし!」
藤島がまだぎこちなくも笑みを浮かべて頷いたので、泰士は気を取り直した。そして急いで再テストを行っていた教室に戻ると、待たされて不機嫌な山崎が「金成!」と開口一番に大声を出した。
「長いクソだったな。ほれ、結果はそれだ。藤島によーく礼を言っておけよ」
泰士は自分が座っていた机に近寄り、その上に置かれた解答用紙に視線を落とす。そして右上の点数欄を確認すると、泰士は山崎に挨拶もせずに解答用紙とスクールバッグを雑に掴み、下駄箱へと階段を駆け下りた。
「藤島!」
泰士が声をかけると、広枝はびくりと小さく跳び上がった。体躯の小さな彼女にとって、泰士の大声はやたらと驚かされるものなのだろう。
「これ!」
泰士はくしゃくしゃになった解答用紙を、広枝の目の前に差し出す。広枝は恐る恐るそれを受け取って、ほっ、と一息ついた。
「八十七点……合格……よかったあ。あれ、え、でも、大問四も解いたの?」
合格点に設定されていた七十点のラインを見事クリアしていたことに安堵しつつも、解答用紙に空白がないことに気付き、広枝は頭の上に疑問符を浮かべながら泰士を見上げた。
「テスト中にお前が女子に囲まれてんのが見えて、なんか頭に血が上っちまって……でも、俺にできることは問題を解くことしかねぇ! って思って」
「ふふっ……何それ」
広枝はへにゃんとした力のない顔で笑う。ああ、よかった。強がりでもなんでもない、いつもの広枝だ。
「全部解けたわけじゃねぇけど、部分点はもらえたみたいだ」
「うん。ほかの大問が満点だから、それで八十七点なんだね。よかった」
「藤島のおかげだ。マジでありがとな」
「いえいえ、どういたしまして。これで私はお役御免だね」
「それでさ、俺、藤島にお願いがあるんだけど」
「お願い? なあに?」
解答用紙を泰士に返しつつ、広枝はきょとんとした表情で尋ねる。
「俺と付き合ってくれねぇ?」
泰士がそう言うと、広枝は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
数学の再テストで無事に合格点をとれた泰士が、恋の試験の合格点をとれたかどうか――それはまた、別のお話ということで。