――フランス・パリ市街地
穏やかな春の日差しが、パリの街並みを優しく照らしていた。石畳の歩道には柔らかな木漏れ日が降り注ぎ、通りに並ぶカフェからは焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂っている。遠くには、青空にそびえ立つエッフェル塔。道行く人々の笑い声。街角で演奏されるアコーディオンの音色。いつもと変わらない、平和なパリの午後だった。そんな街を、仲睦まじい三人の家族が歩いていた。優しい両親に手を引かれながら元気いっぱいに歩いているのが、まだ二歳になったばかりの銀髪の少年が歩いていた。
「ねぇ、ママ!」
「なぁに、××?」
「きょうのごはん、なぁに?」
小さな息子の質問に、母は思わず微笑んだ。
「ふふっ。そうねぇ……今日は何にしようかしら。××は何が食べたい?」
少年は少しだけ考えるように首を傾げる。だが、答えはすぐに決まった。
「ぼく、ハンバーグ!!」
両手をつないだままぴょんと小さく跳ねる。
「はははっ!××は本当にハンバーグが好きだなぁ!」
「うんっ! だいすき!」
「あらあら。じゃあ今夜は、××の大好きなハンバーグにしましょうか」
「やったぁ!!」
「よーし! それじゃあパパも手伝うぞ!」
「あなた、前みたいにキッチンを散らかさないでね?」
「うっ……あ、あれはちょっとした失敗だよ」
「ちょっとした、ねぇ?」
夫婦は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。少年もつられるように笑う。
「あはははっ!」
小さな三人の家族。彼らにとって、それは何よりも大切な日常だった。特別な出来事など何もない。ただ家族で街を歩き、夕食の献立を決める。そんな当たり前の幸せ。
――だが。
この時の少年は、まだ知らなかった。自分の手を握ってくれている父と母。その温もりが、もう二度と戻らなくなることを。
そして――
この日を境に、自分の人生が永遠に変わってしまうことを。
――数分後
銃声が響いた。乾いた破裂音が、平和だったパリの街に突如として鳴り渡った。一発。そして、もう一発。通行人たちの悲鳴が上がる。逃げ惑う人々。倒れるテーブル。地面に砕け散るカップ。先ほどまで穏やかな時間が流れていた通りは、一瞬にして恐怖と混乱に包まれた。
そして――
少年の目の前には、信じられない光景が広がっていた。父と母が、石畳の上に倒れていた。
「…………」
「…………」
二人とも動かない。その身体の下から、赤い血がゆっくりと石畳へ広がっていく。
「……?」
まだ二歳の少年には、何が起きたのか理解できなかった。つい先ほどまで笑っていた父。優しく手を握ってくれていた母。どうして二人とも、地面に寝ているのだろう。どうして、起きてくれないのだろう。
「……パパ?」
返事はない。
「……ママ?」
やはり、返事はなかった。少年は小さな手を伸ばした。
「……ねぇ……おきて?」
母の肩に触れる。
「……ママ……?」
揺すってみる。しかし、母は目を開けない。
「……ハンバーグ……」
先ほど約束したばかりだった。今日の夕食は、大好きなハンバーグ。三人で一緒に食べるはずだった。
「……ママ……?」
その時だった。
カチャリ。
冷たい金属音が、少年の頭上から聞こえた。顔を上げる。そこには、一人の男が立っていた。黒いロングコートを羽織り、無精髭を生やした中年の男。手には拳銃が握られている。その銃口は――小さなレンの額に向けられていた。後に国際犯罪組織バイオネットの幹部へと成り上がる男。企業の裏工作や暗殺を平然と請け負う、冷酷な犯罪者だった。そして、今まさに少年の両親を殺害した張本人でもある。
「…………」
男は無表情のまま少年を見下ろしていた。そこに罪悪感はなかった。後悔も、憐れみも。ただ仕事を終えた者の、冷たい眼差しだけがあった。
「……まったく。面倒な仕事を押し付けやがって。ま、俺も楽しんでるから文句も無いがな。」
「…………」
少年は男を見上げる。
「……おじさん……?」
「あ?」
「……パパと……ママ……どうしたの……?……ねぇ……おきないの……」
レンの青い瞳に、涙が浮かび始めた。
「……パパ……ママ……」
「……可哀そうになぁ……だが悲しまなくて良いぜ?……すぐに送ってやるよ……お坊ちゃん。」
下卑た笑みを浮かべた男は銃の引き金に触れる。その時、男の懐から携帯電話の着信音が鳴った。
「……チッ……んだよお楽しみの最中に……」
拳銃を片手に持ったまま、男は電話に出る。
「ああ、俺だ。……ああ、終わったぜ。二人とも確実にな」
電話の向こうから、何者かの声が聞こえてくる。
「……ガキは?」
男はちらりとレンを見る。
「……ああ。まだ生きてるぜ。だがすぐに……」
再び沈黙。
「……ちっ、分かったよ」
通話が切れた。男は携帯電話をしまうと、銃口を下ろした。
「……お坊ちゃん……運が良かったな。ほっといて良いってよ。派手に暴れて足付かれるのがやばいらしい。」
少年はその言葉の意味すら理解できなかった。
「……ま、せいぜい長生きしな」
男は背を向けた。そして、何事もなかったかのように歩き去っていく。
「…………」
その小さな瞳が、男の背中を追った。やがて、男の姿は通りの向こうへと消えていった。残されたのは、動かなくなった両親。そして――たった一人の少年。
「……ママ……?」
少年は再び母親の方を向いた。
「……おきて……」
小さな手で母の服を引っ張る。
「……ねぇ……おきてよ……」
その声は、次第に震え始める。
「……パパぁ……」
返事はない。
「……ママぁ……」
誰も答えてくれない。
「……やだ……」
少年の目から、涙が零れ落ちた。
「……やだよぉ……!」
そして――
「パパぁぁぁ!! ママぁぁぁぁ!!」
悲痛な泣き声が、夕暮れのパリに響き渡った。しかし。その声に応えてくれる者は、もういなかった。
どれほど時間が経ったのだろう。夕陽が街並みを赤く染め始めていた。レンは両親の間に座り込んだまま、動かなかった。泣き疲れたのか。それとも、心が壊れてしまったのか。青い瞳は虚ろになり、ただぼんやりと目の前を見つめていた。
その時。
コツ……コツ……。
革靴の足音が近づいてきた。
「…………」
少年の前で、その足音が止まる。一人の男が、ゆっくりと膝をついた。黒いスーツを身にまとった、威厳のある中年男性。その表情からは、感情を読み取ることができない。男は倒れた両親を一瞥した後、少年へ視線を戻した。そして静かに口を開いた。
「……Boy」
「…………」
「……この世界は、理不尽で成り立っている」
男は淡々と語り始める。
「正しい人間が報われるとは限らない。善良な者が生き残るとも限らない」
「君のご両親も、そうだ」
「…………」
「何の罪もない人間が、他人の身勝手な都合で命を奪われる」
「そして、それを引き起こした者が何食わぬ顔で生き続ける」
男の眼差しが、わずかに鋭くなる。
「……私は、そんな世界を変えたいと思っている」
レンはゆっくりと男を見上げた。涙に濡れた青い瞳。その奥には、まだ言葉にできない悲しみがあった。
「……君のその悲しみと怒りを、我々CODEの世界平和の為に使ってみないか?」
「……こーど……?」
「ああ」
男は少年に向かって片手を差し出した。
「そのための力を……君に与えよう」
「君のご両親の仇も討てる」
「…………」
仇。
その言葉の意味を、幼いレンはまだ正確には理解できなかった。しかし。男が何を言おうとしているのか。その一部だけは、理解できた。
「……パパと……ママ……」
「…………」
「……もう……あえないの……?」
男は一瞬、沈黙した。そして、静かに答えた。
「……そうだ」
「…………」
「死んだ人間は、二度と戻らない」
それは、あまりにも残酷な現実だった。
「だが、君のような子供をこれ以上生み出さないことはできる」
「…………」
「世界から、理不尽な悪を排除するのだ」
レンは再び両親を見た。もう動かない父。もう笑ってくれない母。あれほど温かかった二人の手。その温もりを、もう一度感じたい。
「……パパ……」
小さな手を握り締める。
「……ママ……」
そして。レンは、目の前の男が差し出した手に――そっと、自分の手を重ねた。
「…………」
男はゆっくりと立ち上がった。
「……よろしい……Boy……名前は」
「ぼく……ふどうれん……」
この日。たった二歳の少年は、彼に拾われた。そして、その運命は大きく変わり始めた。人を救うために、人を殺す。平和を守るために、血に染まる。そんな矛盾に満ちた世界へと――。
――それから五年後
欧州某国。バイオネット傘下の武装テロ組織が占拠した、廃工場地帯。銃声が響いていた。
ダダダダダダッ!!
武装した男たちが、必死に銃を乱射している。
テロリストA「クソッ! 何なんだ、あいつは!?」
テロリストB「知らねぇよ! 何でたった一人を相手に、ここまでやられてるんだ!?」
床には武器を手放した構成員たちが倒れていた。周囲には薬莢が散乱し、壁には無数の弾痕が刻まれている。しかし。銃弾が飛び交うその戦場を、一つの小さな影が静かに進んでいた。銀色の髪。冷たく澄んだ青い瞳。白いインナーの上に羽織った濃紺のミリタリージャケット。ブルーのカーゴパンツに、特注のタクティカルブーツ。その手には、小柄な身体に合わせて調整された銃火器が握られていた。
まだ七歳の少年。
――不動レン。
だが。その顔に、かつての無邪気な笑顔はなかった。
レン「……敵性戦闘員、残り三名」
淡々とした声。その声色に、恐怖も興奮も感じられない。まるで機械のように冷静だった。
テロリストA「こ、子供……!?」
テロリストB「ま、待て……銀髪のガキ……!?」
男の顔が青ざめる。
テロリストB「まさか……お前……!」
レン「…………」
テロリストB「『銀の闇』……!?」
その名前を聞いた瞬間、他の男たちにも動揺が走った。
テロリストA「なっ……!? フランスの連中が噂してた……あの!?」
『銀の闇』。
それは、フランス政府の一部関係者やバイオネット内部で囁かれる、恐るべき名だった。わずか五歳にしてエージェントに正式就任され、バイオネット傘下のテロ事件を百件以上鎮圧。その過程で数百人もの武装犯罪者を葬り去った、正体不明のエージェント。極めて高度な戦闘技術と冷酷な任務遂行能力を持ち、敵対した者には容赦しない。その異名だけが独り歩きし、裏社会では半ば都市伝説として扱われていた。
しかし。
実際の『銀の闇』を知る者は、ほとんどいない。
何故なら――
その正体を知った敵の大半は、生きて帰ることができなかったからだ。
テロリストA「ふ、ふざけるな……!」
男は震える手で銃を構えた。
テロリストA「こんなガキが……! 俺たちの仲間を……!!」
レン「……警告します」
少年は静かに言った。
レン「武器を放棄し、直ちに投降してください」
テロリストA「黙れぇぇぇ!!」
男が引き金を引く。しかし、その瞬間には既にレンの姿は射線上から消えていた。
テロリストA「なっ!?」
乾いた銃声。男の銃が弾き飛ばされる。続いて、もう一人の男が倒れた。あまりにも速い。七歳の少年とは思えない戦況判断と、正確無比な射撃。
レン「……投降勧告を拒否」
少年は銃口を向けたまま、静かに告げた。
レン「敵対行動の継続を確認。制圧行動に移行します」
テロリストB「ひっ……!?」
男は恐怖に駆られ、武器を投げ捨てた。
テロリストB「ま、待て! 降参だ! 俺はもう戦わねぇ!!」
レン「…………」
少年の指が止まる。
レン「……了解しました。両手を頭の後ろに回し、その場に伏せてください」
テロリストB「わ、分かった! 分かったから撃つな!!」
男は慌てて床に伏せた。数十秒後。工場内の銃声は完全に止まった。武装テロ組織の戦闘能力は失われ、施設は制圧された。レンは周囲を確認し、銃を下ろした。
レン「……戦闘終了」
その青い瞳に、勝利の喜びはなかった。誰かを倒した達成感もない。ただ、任務が終わった。それだけだった。少年は耳元の通信機に手を添えた。
レン「……こちらCODE-No.4。対象施設の制圧を完了しました」
通信機から、機械的な応答音が返ってくる。
レン「残存する敵性戦闘員の拘束を確認。作戦行動を終了します」
通信を終え、レンは歩き出した。その時だった。
レン「…………」
物陰から、小さな声が聞こえた。
少女「……あ……」
レンは足を止めた。壁際の陰に、一人の幼い少女が隠れていた。テロリストたちに囚われていた民間人の一人だった。少女「……おにいちゃん……?」
レン「…………」
少女は怯えながらも、少年を見上げた。
少女「……たすけて……くれたの……?」
レン「……うん」
レンは静かに答えた。
レン「君を怖がらせる悪い大人はもういないよ。もう大丈夫。」
少女「…………」
少女の目から涙が零れた。
少女「……ありがとう……」
レン「…………」
少女「……ありがとう……おにいちゃん……」
その言葉を聞いた瞬間。レンの胸の奥で、何かが微かに揺れた。
――ありがとう。
かつて、母が自分に何度も言ってくれた言葉だった。
遠い記憶。温かな日差し。石畳の道。
そして――
『ぼく、ハンバーグ!!』
…………。
レン「…………」
少年は一瞬だけ瞳を伏せた。だが、次の瞬間には元の無表情へと戻っていた。
レン「……もうすぐ救助部隊が来るから。安全な場所で待ってて。」
それだけ告げると、少女に背を向ける。
少女「……おにいちゃん!」
レン「…………?」
少女「……また……あえる……?」
レンは答えなかった。
ただ一度だけ振り返り――
レン「……元気でね」
静かに、その場を後にした。その背中は、あまりにも小さかった。テロリストたちが恐れる怪物。CODEが誇る精鋭エージェント。だが、その実態は――まだ七歳の、ひとりの少年でしかなかった。作戦地域から離脱したレンは、人目のない場所で通信端末を起動した。画面にはCODEの紋章が表示される。続いて、一人の男の姿が映し出された。黒いスーツを着込んだ、細身の男性。目元には深い隈があり、顔色はどこか不健康だった。その指には、「3」の刻印が施された指輪が光っている。CODEに所属する上級エージェントであり、レンの指導教官でもある男。冷徹な判断力と圧倒的な戦闘能力を持ち、組織の理念である世界平和のためならば、あらゆる手段を肯定するマキャベリスト。
そして――
五年前、CODEに迎え入れられたレンを、徹底した戦闘訓練によって育て上げた張本人でもあった。
No.3「……CODE-No.4」
レン「はい。CODE-No.3」
No.3「任務報告は確認した。今回も問題なく制圧したようだな」
レン「はい。作戦目標は達成しました。施設内の武装戦力は無力化し、残存する構成員については拘束を完了しています」
No.3「……そうか」
男は淡々と答えた。
No.3「十分だ。追加の報告は必要ない」
レン「了解しました」
No.3「……CODE-No.4」
レン「はい」
No.3「お前には、次の任務がある」
レン「……次の任務、ですか?」
No.3「ああ」
男は手元の端末を操作した。通信画面に、新たな資料が表示される。そこには、フランスのある秘密組織に関する情報が記されていた。対特殊犯罪組織シャッセール。フランスを拠点とし、バイオネットをはじめとする特殊犯罪に対処する秘密組織。その活動内容は、CODEと共通する部分も多い。しかし、テロ組織を積極的に殲滅することすら辞さないCODEとは、思想や任務遂行の手法に少なからず違いがあった。
No.3「……フランスの対特殊犯罪組織シャッセール。存在は知っているな?」
レン「はい。特殊犯罪およびバイオネット関連事件の対処を主な任務とする組織と認識しています」
No.3「その通りだ」
No.3は腕を組んだ。
No.3「シャッセールと我々CODEは、以前から便宜上の協力関係にある」
レン「はい」
No.3「だが、先方では先日、主力エージェントの一人が殉職した」
レン「…………」
No.3「エリック・フォーラー。コードネームは『英国紳士』」
画面に、一人の捜査官の資料が表示される。
No.3「バイオネット関連事件の捜査中、仲間を庇って死亡したそうだ」
レン「……そうですか」
No.3「その結果、シャッセールの現場戦力に欠員が生じている」
レン「…………」
No.3「我々は先方との協力関係を維持する必要がある。そこで、お前を派遣することが決定した」
レンは静かに画面を見つめた。
No.3「任務内容はシャッセールの後方支援、および必要に応じた戦闘行動だ」
レン「……承知しました」
No.3「なお、今回の派遣は通常のテロ組織殲滅任務とは異なる。現地組織との連携が前提となる」
レン「はい」
No.3「単独行動を基本とする我々にとっては、多少勝手が違うだろう。だが、お前なら対応できるはずだ」
レン「……ご期待に沿えるよう、最善を尽くします」
No.3「結構」
男の冷たい視線が、通信画面越しに少年を捉える。
No.3「……それでは、正式に通達する」
レンは背筋を伸ばした。小さな右手を胸元に添える。その指には、CODEエージェントであることを証明する「4」の刻印が施された指輪。
五年前。
パリの街で両親を失った、泣き虫の少年。その面影は、今やどこにもなかった。そこにいるのは――極秘防衛機関CODEに所属する、七歳の戦闘エージェント。数多のテロリストから恐れられる『銀の闇』。
CODE-No.4――不動レン。
No.3「CODE-No.4。対特殊犯罪組織シャッセールへの派遣を命じる」
レン「……了解しました。CODE-No.3」