カスどもの救世 作:もりもりら
翌日。
城塞都市ラウルグは、朝から昨日以上の騒がしさに包まれていた。
大通りを行き交う人々の流れは、ほとんどが同じ方向へ向かっている。その先にそびえるのは、都市の中心部に建てられた巨大な闘技場だった。
石造りの外壁は周囲の建物を遥かに上回る高さがあり、正面には勇者杯の開催を告げる巨大な垂れ幕が下がっている。入口へ続く道には露店が隙間なく並び、串焼きや酒を売る声に混じって、どの参加者が勝つかを賭ける胴元まで堂々と客を呼び込んでいた。
昨日まででも十分に祭りのようだったが、いざ大会当日となれば比較にならない。
「多いな」
人波に押されながら、キスケはうんざりしたように呟いた。
「そりゃあ勇者の遺物が懸かってる大会だからね。見る側だって、未来の勇者が誕生する瞬間を見られるかもしれないんだよ?」
隣を歩くナルニーナは、むしろこの喧騒を楽しんでいるようだった。
「指輪取るだけだろ。大袈裟なんだよ」
「その指輪を集めてる人が言う?」
「俺は金が欲しいだけだ」
「ああもちろん知ってるさ。嫌というほどね。キミが金のためにあの不死身と真剣勝負をやってるって聞いてボクは本当に驚いたんだからさ。キミ、身体は大事にした方がいいよ」
「余計なお世話だ」
そんな話をしながら参加者用の入口へ向かい、受付で名前を告げる。そこでキスケとナルニーナは別れることになった。
ナルニーナも勇者杯への参加資格は持っているが、本人に出場する気はなかった。戦うより観客席から眺めているほうが面白い、というのがその理由らしい。
キスケとしても好きにすればいい。問題はもう一人のほうだったが、そちらは現在、闘技場の地下にある頑丈な牢屋の中である。
昨日、広場で参加者へ片っ端から喧嘩を売った挙げ句、領主であるザハルにまで斬りかかったのだから当然だった。勇者杯に出られなくなったロドが騒ぎ出す可能性はあったが、それもキスケの知ったことではない。少なくとも大会の最中に乱入してくる心配がなくなっただけでありがたかった。
「じゃあ頑張ってね。もちろんボクとしては番狂わせが是非とも起きて欲しいところだけど、今のところ勝負は決まっちゃってるようなもんだよね」
「まだ分かんねェだろ」
「キミ、意外と勝負事には謙虚なんだねえ」
「意外ってなんだ」
「まぁボクはそういうキミの機微が案外好きだったりするけど。じゃあね、ご自愛するといいよ」
あっさり言い残し、ナルニーナは観客用の通路へ消えていった。
キスケも係員に案内され、参加者の控室へ向かう。
中にはすでに大勢の参加者が集まっていた。
鎧に身を包んだ騎士、傷だらけの冒険者、巨大な斧を背負った大男。見たこともない武器を携えた者までいる。身分も出身も問わないという触れ込み通り、統一感など欠片もない。
ただ、一つだけ共通しているものがある。
誰も彼も、自分の腕に相当な自信を持っている。そうでなければ、勇者の遺物を懸けた大会になど出場しないだろう。
キスケは空いている壁際を見つけると、そこへ背を預けた。
特に緊張はない。
周囲を見渡して品定めすることもなかった。どんな敵も、相対すれば分かるからだ。負けると感じれば死に物狂いで勝ちを掴み取る方法を模索するし、勝てると分かれば決して油断はしない。手札は見せすぎず、しかし万全の状態で構える。ナルニーナの言う通り、確かにキスケはこと勝負事に対してはかなり真面目な部類だった。
しばらく精神を落ち着かせていると、控室の奥から闘技場へ続く通路。その先から、地鳴りのような歓声が聞こえていた。参加者たちが呼び出され、全員で闘技場へ出ることになった。
薄暗い通路を抜けた瞬間、耳を叩く音が一気に膨れ上がる。
「うるせェ……」
思わずキスケが漏らした声さえ、歓声に掻き消された。
巨大な楕円形の闘技場を、何段にも積み重なった観客席が取り囲んでいる。そのほとんどが人で埋まり、立ち上がって手を振る者や、早くも酒を片手に騒いでいる者までいた。
参加者たちが姿を現すたびに、あちこちから名前が飛ぶ。どうやら有名な冒険者や騎士も少なくないらしい。
当然、キスケの名前を呼ぶ者はいなかった。
辺境の村で竜を殺して暮らしていた男など、誰も知るはずがない。
参加者が闘技場の中央へ並ぶと、正面の貴賓席付近に設けられた壇上へ男が上がった。
昨日ロドに襲われた領主、ザハルだった。
今日はさすがに昨日のような醜態を晒すこともなく、上等な衣服に身を包み、領主らしく胸を張っている。その周囲には昨日より多くの護衛が控えていた。
ザハルが大仰に両手を広げる。
「よくぞ集まった、腕に覚えのある者たちよ!」
拡声の魔法でも使われているのか、その声は広大な闘技場の隅々まで響き渡った。
「すでに知っている者も多いだろう! 此度の勇者杯は、ただの武を競う大会ではない! 国王陛下より発せられた勇者選定の布告を受け、このラウルグに受け継がれてきた勇者の遺物を、最も優れた戦士へ託すための戦いである!」
そこでザハルが片手を上げると、控えていた従者が布を掛けられた小さな台を運んできた。
観客席のざわめきが大きくなる。
ザハルが布を取り払い、その下に置かれていた小箱の蓋を開く。
中には、一つの指輪が収められていた。
派手な宝石が嵌め込まれているわけでもなく、見た目だけなら古びた装飾品にしか見えない。それでも勇者の遺物を実際に見た観客たちは一斉に身を乗り出し、参加者たちの間にも張り詰めた空気が走った。
「これこそが、かつて勇者が遺した六つの遺物、その一つ──《久遠の指輪》である!」
歓声が爆発した。
観客たちが立ち上がり、参加者たちの視線が壇上の指輪へ集中する。武器の柄を握り締める者もいれば、あからさまに闘志を漲らせる者もいる。そのあまりの迫力に、思わずキスケはネックレスを隠すように着物の前をかき合わせた。
ネックレスに指輪。
このまま体良く優勝できれば勇者の遺物は二つ集まったことになる。
「……へっ、ぜってェ取ってやるさ」
勇者になりたい者たちとはまるで別の意味で、キスケの意欲は十分だった。
開会の宣言が終わると、参加者たちは再び控室へ戻された。
そこから試合は順番に進んでいった。
一対一。
武器の使用は自由。ただし相手が戦闘不能になるか、降参した時点で決着となる。場外による敗北はなく、命の保証もされない。
単純なルールだった。
何試合かが終わり、やがてキスケの名が呼ばれる。
「フタガミ・キスケ! 入場してください!」
壁際で座っていたキスケは立ち上がり、刀を腰へ差し直した。
通路を抜けて闘技場へ出る。
先ほどとは違い、今度は広い舞台に立っているのは二人だけだった。向かい側から対戦相手が現れると、観客席の一角から大きな歓声が上がった。
「おおっ!」
「ガルドだ!」
「初戦からガルドか!」
どうやら有名人らしい。
現れたのは三十代ほどの大柄な男だった。使い込まれた革鎧の上から部分的に金属板を取りつけ、右手には幅広の長剣を握っている。顔や腕には古い傷がいくつも残っており、少なくとも見せかけだけの戦士ではない。
ガルドと呼ばれた男は、向かいに立ったキスケを上から下まで眺めた。
「お前がフタガミ・キスケか」
「あ?」
「聞いたことのない名だな」
「俺もてめェ知らねェよ」
その返答に、ガルドが僅かに眉を動かす。
観客席から笑い声が上がった。
どうやらキスケが無名であることも含め、最初から勝敗は決まったものとして見られているらしい。
別に構わない。名前を売りに来たわけではないのだから。
審判役の男が二人の間へ進み出る。
ガルドが剣を構えると、それまでの気安い空気が消えた。剣先を僅かに下げ、重心を落とした構えには隙が少ない。数多くの実戦を潜り抜けてきた人間だということくらいは、キスケにも分かった。
『あるじ、首がいいと思う!』
無銘だけは相変わらずだった。
『あたしなら一回でいけるよ! すぱーんって!』
キスケはまだ刀を抜いていなかった。右手を柄へ添えただけで、気の抜けたように立っている。
「両者、準備はいいな!」
観客席から歓声が飛ぶ。
ガルドを応援する声のほうが圧倒的に多い。
キスケは面倒そうに耳を掻き、正面を見る。
審判が腕を振り下ろした。
「始め!」
直後、ガルドが地面を蹴った。
大柄な体格からは想像しにくい速度で間合いを詰め、踏み込みの勢いをそのまま乗せた長剣を振り下ろす。
キスケは半歩だけ横へずれた。
剣が鼻先を掠め、石床を叩く。
ガルドは止まらず、弾かれた剣をそのまま返し、今度は胴を狙って横薙ぎに振るう。
そこでようやくキスケが刀を抜いた。
『わーい! そとだー!』
甲高い金属音が響く。
刀と長剣がぶつかり合った。
次の瞬間、ガルドの身体が大きく揺らいだ。
「な──」
受け止めたキスケは、片手だった。
ガルドが目を見開く。
キスケは相手の剣を押し返すでもなく、その場で止めている。力を込めても動かない。それどころか、押し込んでいるはずのガルドの腕が震え始める。
「この程度じゃねェだろう?」
キスケが気安げに尋ねると、ガルドは咄嗟に剣を引いき、距離を取ろうと後方へ跳ぶ。
だが、そのときにはキスケが懐へ入っていた。
「っ!」
ガルドが反射的に長剣を振るう。
キスケは刀で受け流し、そのまま一歩踏み込んだ。そして刀ではなく、空いている左手でガルドの胸倉を掴んだ。
「おらよ」
軽く投げる。ただそれだけで、大柄な男の身体が地面から浮き上がった。
「は?」
誰かが間の抜けた声を漏らした。
ガルドは数歩どころではない距離を宙へ飛び、石床へ背中から叩きつけられた。
鈍い衝撃音が闘技場へ響く。
歓声が一瞬にして止まった。
「ぐっ……!」
それでもガルドは起き上がろうとした。
さすがに名を知られているだけはある。あれだけ派手に叩きつけられても剣を手放していない。
片膝をつき、顔を上げる。
そこに刀の切っ先があった。
「なァ、まだやるよな?」
いつの間に距離を詰めたのか、キスケが目の前に立っていた。
『そうそうやろうよー! まだまだ勝負は始まったばっかだよ!』
そう無銘が場違いにはしゃぐ一方で、ガルドは動きを止めた。
切っ先は喉元の寸前。
ここから剣を振るうより、キスケが刀を突き出すほうが遥かに早い。
しばらく睨み合った末、ガルドの手から長剣が落ちた。
「……降参だ」
審判が一瞬遅れて我に返る。
「しょ、勝者──フタガミ・キスケ!」
静まり返っていた観客席から、遅れてざわめきが広がっていった。
圧倒的にガルドが勝つと思われていたのだろう。歓声というより、何が起きたのか理解できずに騒いでいる者のほうが多い。キスケはそんな反応に興味を示さず、刀を鞘へ戻した。『えー?』と不満気な無銘の声がやけにキスケの耳にこびりついた。
勝った。
それだけである。
倒れたガルドにも、騒いでいる観客にももう用はなかった。
キスケが気にしているのは、壇上の箱に収められた指輪だけだった。あと何人倒せば、あれが手に入るのか。そんなことを考えながら、キスケはさっさと控室へ戻っていった。
初戦を終えたキスケは、控室へ戻るなり係員に次の試合まで出番がないことを確認し、その足で観客席へ向かった。
他人の試合にさほど興味があるわけではない。強敵の戦い方を観察しておこうなどという殊勝な考えもなかった。
目的は金だった。
「次の試合! 倍率出たぞ! アルバートが1.4倍、エリシア・ベルナードが2.8倍だ!」
観客席へ続く通路の脇で、胴元が声を張り上げている。
勇者杯ともなれば賭けの規模も大きいらしく、簡素な受付には人だかりができていた。参加者が賭けてはいけないという決まりもないらしい。
キスケは足を止めた。
「2.8倍……」
悪くない。
先ほど勝ったばかりなので気も大きくなっていた。
『あるじ、またお金なくなるよ?』
「うるせェ」
『この前もいっぱい使ってなくなったじゃん』
「増やしゃいいんだよ、増やしゃ」
『なくなる人が言うやつだ!』
「へっへっへ。むめいー、今日何食べたい?この俺がご馳走してやるよォ」
「ぜったいに素寒貧になるやつだ……」
無銘の忠告を無視して、キスケは先程買ったばかりの一升瓶の酒をあおり、対戦表を見る。
「……よォーしこっちだ」
キスケは迷うことなくエリシアへ金を賭けた。
『適当じゃん!』
「うるせェな。意外と女のほうが強かったりすんだろ」
賭け札を受け取ると、空いている席を探して観客席へ入った。ちょうど前の試合が終わったところらしい。キスケは適当な空席へ腰を下ろす。
その隣には、随分と大きな騎士が座っていた。
全身を金属鎧で覆い、頭には兜まで被っている。座っていても分かるほど図体が大きく、隣にいるだけで妙な圧迫感があった。
キスケは一瞥しただけで興味を失った。
やがて場内へ二人の参加者が姿を現す。
片方は赤い髪の女だった。
エリシア・ベルナード。
対するアルバートはフードを目深に被った青年で、顔の大部分こそ隠れているものの、隙間から金色の髪が覗いている。
「お、あっちが女か」
『赤いね!おいしそう!』
「人間に対する感想じゃねェなァ」
『勝てるかな?』
「勝ってもらわねェと困るんだよ。俺の金が懸かってんだから」
無銘の声は当然ながらキスケにしか聞こえない。
そのため、隣の騎士からすれば、先ほどからキスケが一人でぶつぶつ喋っているようにしか見えなかった。
審判が二人を中央へ呼び、試合開始を告げる。
先に仕掛けたのはエリシアだった。
勢いよく間合いを詰め、鋭く剣を振るう。アルバートはそれを正面から受け止めず、身体をずらしながら刃を流した。
「行け赤髪! そいつぶっ倒せ!」
『やっちゃえー!』
「そうだそうだ! やっちまえ!」
エリシアが続けざまに攻める。
アルバートは二撃、三撃と受け流し、機を見て反撃するが、エリシアも素早く距離を取った。
『へたくそー!』
「そうだそうだ、へたくそー!」
隣の騎士がぴくりと動いた。
『よわむしー!』
「よわむしー!」
今度は明らかに兜がこちらを向いた。
キスケは気づかない。
『金髪ー!』
「金髪はただの特徴だろ」
『じゃあ、へなちょこ金髪!』
「そうだ! へなちょこ金髪!」
そこで隣から、低い声がした。
「……先ほどから聞いていれば」
「あ?」
キスケが横を見る。
全身鎧の騎士が、真正面を向いたまま言った。
「アルバート様のほうがお強いに決まっているだろう。その口を慎め、酔っ払い」
「だーれが酔っ払いだって?」
「酒臭い」
「飲んでんだから当たり前だろうが」
「なら酔っ払いではないか」
「うるせェな、そうだよ悪いかよ」
キスケは再び試合へ向き直った。
ちょうどアルバートがエリシアの攻撃をかわし、反撃へ移ったところだった。
『逃げるなー!』
「そうだ! 逃げんな卑怯者!」
「貴様ッ!」
「っんだよ!」
ついに騎士もキスケへ向き直った。
「アルバート様を卑怯者呼ばわりするな!」
「逃げただろうが!」
「回避だ!」
「同じようなもんだろうが!」
「全く違う!」
『あるじ、あの人うるさいね』
「ああクッソうるせェよなァ!」
もちろん無銘に答えたのだが、女騎士には自分へ言ったようにしか聞こえない。
「なんだと?」
「あ?」
『怒った!』
「怒った怒った!」
「貴様……!」
兜の奥から低い声が漏れる。
だがキスケはすでに試合へ戻っていた。
エリシアが大きく踏み込み、アルバートの剣を弾く。
「よし! 行け赤髪!」
『そのまま斬っちゃえ!』
「そうだ、そのまま斬っちまえ!」
「アルバート様を斬れなどと言うな!」
「試合だろうが!」
「限度というものがある!」
「命の保証はしねェってルールだろ!」
「だからといって応援する側が斬れ斬れと騒ぐ必要はない!」
ガチャガチャと鎧の音を立てて物理的にも煩い騎士を無視して、キスケは野次を飛ばす。
『首ー!』
「首だ首!首掻き切って血ィ吹け!」
「貴様ァ!」
女騎士がついに立ち上がった。
「さっきからアルバート様への侮辱が過ぎるぞ!」
「……なんだよ、てめェ。あいつのなんなんだ?」
「それは……」
一瞬、騎士が言葉に詰まる。
アルバートがお忍びで参加している以上、素性を大声で明かすわけにはいかなかったのだ。騎士は居心地悪そうに椅子に着く。だが、その躊躇いがキスケの興味を誘った。
「あ?なんだよ、言えよ」
「……私の知人だ」
「知人?」
「そうだ」
「ほーん。ただの知人の試合見て、そんなムキになってんのかよ」
「悪いか!」
「悪かねェけどよォ」
キスケは改めて闘技場のアルバートを見る。
フードから覗く金髪。整った輪郭。顔の大部分は隠れているが、いかにも女受けしそうな雰囲気はある。「なるほどなァ」とキスケは自身の顎を触りながら勝手に納得する。
「そんなに美男子が好きか、女ってやつはよォ」
騎士が固まった。
「……なぜ私が女だと分かった」
「声と動き」
その返答に、騎士は少しだけ目の前の酔っ払いに対する見方を変えた。戦争で喉に火傷を負い、女と思われないほど低い声となった。鎧姿で彼女を女だと思う人間はそういない。
「つーか、やっぱ女だったのかよ」
しかし墓穴を掘ってしまっただけらしい。騎士は兜の隙間からキスケを睨んだ。
「貴様……!」
「安心しろって! どうせ顔だけの男なんだよああいうのはよォ! だから俺が大会で当たったらぶん殴ってボコボコにして、顔の形変えてやらァ!そうすりゃ百年の恋も冷めんだろ!」
キスケが一升瓶をあおりながら、ギャハハと笑う。
すると女騎士はゆっくりと立ち上がった。
「……その前に私がお前の四肢をもぎ取ってやるわ」
「やってみろやデカ女!」
「表へ出ろ!」
「ここが表だろうが!」
『あるじ、試合! 試合!』
「今それどころじゃねェ!」
キスケは咄嗟に無銘に食ってかかった。
しかし無銘の声が聞こえない女騎士にとっては、自分が蔑ろにされたようにしか聞こえない。
「何がそれどころではない、だ!アルバート様を侮辱した罪、この場で裁いてやる!」
「てめェが絡んできたんだろうが!」
「貴様がアルバート様を愚弄するからだ!」
『へなちょこー!』
「そうだそうだ! へなちょこ野郎だ!」
「また言ったな!」
「言ったよ!」
キスケはもはや無銘の野次を片っ端から代弁し、女騎士はそのたびに律儀に食ってかかる。
『よわむしー!』
「よわむし!」
「貴様ァ!」
いつの間にか周囲の観客まで試合そっちのけで二人を見ていた。その間にも、当のアルバートとエリシアは真面目に戦っている。
エリシアの剣がアルバートのフードを掠めた。
「あっ」
女騎士の声が止まる。
身体が硬直した。
「おっ、いいぞ!」
『もうちょっと!』
「もうちょっとだったぞ! 次は当てろ!」
「当てるな!避けろアルバート様!」
「行け赤髪!」
「負けるなアルバート様!」
「ぶっ倒せ!」
「返り討ちにしろ!」
もはや観客席でも別の戦いが始まっていた。
そして二人が互いに身を乗り出し、今にも殴り合いへ発展しそうになった、そのときだった。
ひときわ大きな歓声が闘技場を揺らした。
「勝者──アルバート!」
二人同時に闘技場を見る。
いつの間にか試合は終わっていた。
アルバートが剣を収め、その向かいではエリシアが悔しそうに武器を下ろしている。
キスケはゆっくり手元を見る。
エリシアに賭けた札があった。
『負けたね』
「…………」
『あるじのお金、なくなったね』
「…………」
『だから言ったのに』
「てめェも応援してただろうが!」
キスケが何もないところへ怒鳴った。
隣の女騎士がそれを見て僅かに引いたものの、酔っぱらいの妄言だろうとすぐに気を取り直して堂々と腕を組む。
「ふん」
「んだよ」
「だから言っただろう。アルバート様のほうがお強いと」
「どうだかな?わざと負けたかもしんねェよ?」
「負け犬の遠吠えとはこの事を言う。素直に見る目がなかったと認めるが良い」
「チッ、うるせェな。てめェが戦ったわけじゃねェだろうが」
「貴様の金はなくなったわけだが」
「……ま、まだあるし」
キスケの声色が途端に弱くなるの見るや否や、女騎士は勝ち誇ったように言い放った。
「ざまあみろ!」
「あー言ったなてめェ!ついに言いやがったな!」
「もういちど言おうか。ざ、ま、あ、み、ろ!」
「2回も言いやがった!」
キスケは頭を掻きむしって俯く一方で、女騎士はこれでもかと背を反らして愚かな酔っぱらいを見下した。
「人の主をへなちょこだの弱虫だの散々罵った報いだ馬鹿め!」
「半分くらい俺じゃねェんだよ!」
「全部貴様の声だった!」
「だから違ェんだよ!」
「酔いでついに頭がおかしくなったか!」
『ざまあみろー!』
「てめェまで乗っかるな!」
周囲の観客が何事かと振り返るほどの騒ぎになっていた。もっとも、騒がしいのはキスケたちだけではない。
勝った、負けた。いくら儲けた、いくら損した。次は誰に賭ける。そんな声が観客席のあちこちから飛び交い、アルバートの勝利を讃える歓声と混ざり合って、巨大な闘技場を満たしていた。
「ちくしょう、エリシアに賭けてたのによ!」
「だからアルバートにしとけって言っただろ!」
「ざまあみろ!」
どこかで笑い声が弾けた。
試合場の中心に立ち尽くしていたエリシアは、ふと顔を上げた。
──ざまあみろ!
負けた。
悔しくないわけではない。
けれど、それ以上に耳についたのは観客席から降ってくる声だった。
笑い声。
歓声。
勝った、負けたと騒ぐ声。
金を失ったと喚く男と、それを容赦なく嘲笑う女。
誰かの勝敗を肴にして、楽しそうに笑っている人々。
エリシアは立ち尽くしたまま、ここではないどこかを見ていた。
──歓声が聞こえる。
今よりもずっと幼かった自分は、同じ場所でそれを聞いていた。
大勢の人間が笑っていた。
知らない誰かが酒を掲げていた。
誰かが金を受け取り、誰かが金を失って怒鳴っていた。
そして、そのすべてに囲まれて。
父がいた。
闘技場の中央に。
誰かお父さんを助けてください。
お父さんが倒れているんです。
だれか、だれか、
お父さんを助けて、生きているんです。
幼い自分が観客席の中から叫ぶ。だが、歓声が全てをかき消した。無力な自分が、まだあの場にいる。まだ叫んでいる。
それなのに、下卑た野次が、自分の声にかぶってしまう。
──ざまあみろ!
誰も父の名前など呼ばなかった。
誰も父の献身と、功績を知らなかった。
誰も父の無実を信じてはくれなかった。
そこにはただ罪を犯して剣闘士に堕ち、そして死んだ男がいて、観客は次に何が起こるのかを待ちながら、楽しそうに騒いでいた。
エリシアは俯き、拳を握った。
背後ではまだ歓声が続いている。
何年経っても同じだった。
この場所も。
ここに集まる人間も。
何一つ。
「……何も変わってない」
小さく吐き捨てると、エリシアは誰にも振り返ることなく闘技場を後にした。