カスどもの救世 作:もりもりら
「やれ! そこだ! 叩き斬れ!」
耳障りな声が、闘技場を見下ろす一室に響いた。
一般の観客席から離れた場所に設けられた、領主専用の観覧室だった。分厚い絨毯が敷かれ、上等な調度品が並び、壁際には酒や軽食を載せた卓まで用意されている。正面だけが大きく開かれており、眼下の試合場を一望できた。
その特等席で、ザハルは身を乗り出していた。
「馬鹿者! 何をしている! さっさと刀を抜け馬鹿! 接着剤でも付いているのか!」
もちろん、戦っている本人に声が届くはずもない。試合場では、キスケが一人の男と向かい合っていた。
『奇っ怪なエデュンロン』の2つ名を持つ男。昨日、キスケから刀を盗ませた張本人である。
エリシアがそれを知っているわけではない。ただ、そしてエデュンロンの噂を耳にしていていれば。キスケの腰にある刀を見だエデュンロンの、あの大層驚いた滑稽な様を見れば。誰だって想像がつく。
エデュンロンに大した実力はない。ただ異様に運が良い。何故か試合前に対戦相手が腹を下したり、得物をなくしたり、家族が危篤だからと棄権したりするのだ。今日はどんな奇っ怪な奇跡を起こしてくれるのか。観客は卑怯な手を使っていることを分かっていながら面白がっているのだ。
最低ね、とエリシアは心の中で独りごちる。
「何を怯えているんだ、あの男は! さっさと行け!」
一方でザハルは苛立たしげに肘掛けを叩いた。その横で、メイド姿のエリシアは無言のまま茶を注ぐ。
「おい」
「はい」
「見えん」
エリシアは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
ザハルが鬱陶しそうに手を振る。
「お前だ、お前。そこに立たれると試合が見えんだろうが。反対から注げ」
「……失礼いたしました」
ティーポットを持ったまま反対側へ回る。
たったそれだけのことに、随分と偉そうな物言いをする男だった。
エリシアは何も言わず、茶を注ぎ終える。
「熱いな」
「……申し訳ございません」
「まったく、気の利かん奴だ」
こんな男に頭を下げるために、わざわざ慣れない服まで着てここへ潜り込んだわけではない。だが、いっときの反抗心で全てが台無しになっては意味が無い。エリシアは顔を引き攣らせながら頭を下げた。
「おおっ!」
ザハルが突然声を上げた。
どうやら試合が動いたらしい。
エリシアも視線だけを試合場へ向ける。
エデュンロンが先に仕掛け、キスケへ斬りかかったのだ
だが、次の瞬間には剣が宙を舞っていた。
何をされたのか、ここからではよく見えなかった。ただキスケは刀を抜いてすらいない。
相手の懐へ潜り込んだかと思えば、その腕を取って体勢を崩し、足を払う。そのまま男の身体が地面へ叩きつけられた。
終わりかと思ったが、キスケは離さなかった。腕を捻ったまま男を引き起こし、腹へ膝を叩き込む。
さらに一発。
もう一発。
どう見ても必要以上だった。
「いいぞ! やれやれ!」
ザハルは大喜びだった。
「ははは! あの男、昨日も随分あっさり勝っていたが、なかなか見せ方を分かっているじゃないか!」
エリシアは冷めた目でその横顔を見る。
ザハル自身が殴っているわけでもないのに、やけに誇らしげだった。安全な部屋から他人が殴り合うのを眺め、勝手な講釈を垂れる。
昔から変わらない。
「そこだ! 顔だ、顔をやれ!」
その声を聞いていると、エリシアの指に知らず力が入った。ティーポットの取っ手が軋む。
試合場では、ようやくキスケが男から手を離した。相手は地面に転がったまま起き上がれず、審判が試合終了を告げる。
「なんだ、もう終わりか」
さっきまで大騒ぎしていたザハルが、途端につまらなそうに椅子へ身体を預けた。
「もう少し楽しませろというのだ。まったく」
エリシアは返事をしなかった。
「おい。茶」
「……ただいま」
まだ半分以上残っている。
そう言いたくなるのを堪え、エリシアは再びカップへ茶を注いだ。この男の機嫌を損ねてはいけない。少なくとも、目的を果たすまでは。
ザハルは闘技場が好きだった。
好きという言葉では足りないほど、ここに入り浸っている。
大会がない日でも訓練や小さな試合を眺め、そのため、この領主専用の観覧室は半ば執務室と化していた。
部屋の奥には大きな机があり、その周囲には書類棚が並んでいる。領主としての政務だけではなく、闘技場の運営記録や出場者の資料、収支報告、さらには地下監獄から上がってきた書類まで、この部屋へ運び込まれていた。
領主であり、闘技場と地下監獄を管理するザハルにとって、ここにいれば大抵の仕事は済んでしまうらしい。
エリシアは茶を注ぎながら、その光景を何度も目にしていた。
机、書類棚、鍵の掛かった引き出し。
ザハルがほとんど目も通さず放り込む書類もあれば、自分で鍵を開けてしまうものもある。
どこに何が置かれているのか、どの棚をザハルが頻繁に使うのか。どの鍵を常に身につけているのか。
給仕をしながら、一つずつ覚えていた。
「おいそこのお前!」
「はい」
「これはなんだ」
ザハルがティーカップを指差していた。
エリシアは覗き込むが、琥珀色の茶が入っているだけで、特におかしなところは見当たらない。
「……お茶ですが」
「そんなことは見れば分かるだろ!虫が入っていると言っているんだ」
「虫?」
「口答えするな。見れば分かるだろう」
しかしエリシアがどれだけ目を凝らしても虫など浮かんでいなかった。
茶葉の欠片でも見間違えたのか、それとも単に気に入らないことがあって難癖をつけているだけなのか。どちらにせよ、ここで指摘すれば余計に面倒になることだけは分かる。
「……申し訳ございません」
「まったく。客に出すものだったらどうするつもりだ。全部取り替えてこい」
「かしこまりました」
「カップもだ。気持ち悪くて使う気にならん」
ザハルはもうこちらを見ていない。
「おおっ! そこだ! 行け!」
始まった試合へ身を乗り出し、つい今しがた自分が何を言ったのかさえ忘れたように騒いでいる。
エリシアは無言でティーセットをワゴンへ載せると、一礼して観覧室を出た。扉を閉めた途端、背後からまたザハルの歓声が聞こえてくる。
「……あいつ」
小さく吐き捨て、そのまま給湯室へ向かった。そして誰もいないことを確かめてからワゴンを止めると、エリシアは問題のティーカップを手に取った。
「……どこに虫がいるのよ」
残っていた茶を捨てる。
当然、虫など出てこなかった。
白いカップの内側には、茶葉の欠片すら残っていない。エリシアは忌々しげにそれを見下ろし──ふと、手を止めた。
磨かれた白磁の底に、自分の顔が映っていた。
小さな顔だった。
丸く窪んだ曲面に押し込められ、額は引き伸ばされ、頬はひしゃげ、二つの目だけが妙に大きくこちらを睨んでいる。
エリシアはカップを僅かに傾けた。
女の顔がぐにゃりと歪んだ。
もう一度傾ければ、今度は反対側へ歪む。
ほんの少し角度が違うだけで、元がどんな顔だったのかも分からなくなる。
「…………」
昔は、よく笑っていた気がする。
そんな当たり前のことさえ、ひどく遠い。
誰かを憎んだこともなかった。人の目を盗んで部屋を漁る方法も、嫌悪する相手へ頭を下げながら心の内を隠す方法も知らない、どこにでもいる少女だった。明日になれば今日と同じように家へ帰れると、疑ったことすらなかった。
きっと、あの頃の自分が今の顔を見ても、自分だとは分からない。
エリシアはカップを元の角度へ戻した。
歪んだ女が正面を向く。
赤い髪も、目も、間違いなく自分のものだった。
ザハルさえいなければ。
その考えだけは、何度繰り返しても変わらない。
あの男がすべてを歪めた。
それまで続いていたものを捻じ曲げ、二度と元の形には戻らないところまで壊した。
ならば、もう戻らなくていい。
エリシアはそれをワゴンへ戻し、新しいカップを取り出す。この歪みは、あの男を終わらせるためにあればいい。
夜になっても、ザハルはなかなか観覧室兼執務室から出ていかなかった。勇者杯の日程が終わったあとも書類に目を通し、途中で酒を要求したかと思えば今度は腹が減ったと言い出す。ようやく自室へ戻った頃には使用人たちの姿もまばらになっていた。
エリシアは仕事を終えたふりをしてしばらく待ち、廊下から人の気配が消えたところで観覧室へ戻った。鍵を開けて中へ滑り込み、扉を閉める。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った室内では、闘技場を望む大きな窓から差し込む月明かりだけが床を薄く照らしていた。
迷わず部屋の奥へ向かい、昼間に目星をつけておいた机の引き出しを開ける。
闘技場の修繕記録、違う。囚人の移送記録、これも違う。地下監獄の見取り図には一度手を止めたものの、求めている場所までは記されていなかった。
もっと下だ。
現在使われている地下監獄よりも、さらに深い場所にある。
──父はきっとそう考えていたはずだ。
グスタフ・ベルナード。かつてこの都市の評議員だった男で、市民のために働き、不正を嫌い、少し融通が利かないくらい真面目で――エリシアにとっては、ただの父親だった。
その父が、ある日突然犯罪者になった。
証拠が出て、証人が現れ、それまで父を立派な人間だと褒めていた者たちまで掌を返した。グスタフ・ベルナードは裏で悪事を働いていたのだと誰もが口々に語り、やがて父は犯罪者として剣闘士に堕とされて、闘技場へ送られた。
あの日の歓声を、今でも覚えている。
父が倒れたとき、人々は笑っていた。賭けに勝った者は喜び、負けた者は罵声を浴びせ、誰も一人の人間がそこで死んだことなど気にしていなかった。
そして誰も知らなかった。
父が死ぬ直前まで何を調べていたのか。この闘技場の地下に何があるのか。なぜ、それを調べ始めた直後に犯罪者になったのか。
偶然のはずがない。
父は何かを見つけた。見つけてはいけないものを見つけたから消された。そして、それをやったのはザハル。あの雷夜を、忘れもしない。幼いエリシアは見ていたのだ。見知らぬ男が、屋敷に侵入したのを。そして奴は言ったのだ。私は親友で、父にこっそりプレゼントを渡したいのだと。それをまんまと信じた愚かな自分。あの男。雷で一瞬照らされた顔は、ザハルに違いなかった。そして翌日、屋敷からは父を陥れる証拠品が見つかった。
だからキミは、ザハルに復讐心をもった。
当然キミの証言など、領主であったザハルはいとも簡単にかき消した。故にキミは確固たる証拠を探した。そしてお父さんが残したものを調べて、闘技場の地下深くに何かが封印されていることを知った。その封印に興味を持ったキミは、更に情報を必要としたのかな?
だからメイドになってここへ潜り込んだ。大嫌いな男にお茶まで淹れて、虫なんて入っていないのに頭を下げて、夜になれば一人でこっそり資料を漁って──
「……ちょっと待って」
「なに?」
返事があった。
エリシアの手が止まる。今のは自分の思考ではない。それどころか、いつからだったのか、自分ではない誰かの言葉があまりにも自然に入り込み、途中まで自分の独白だと思って聞いていた。
ゆっくり振り返ると、書類棚の前に一人の女が立っていた。
「…………誰?」
最初に思ったのは、とんでもなく綺麗な女だ、ということだった。
月明かりに照らされたその金の髪はまるで自ら光を帯びているよう、深い海に誘われてしまう錯覚を覚えるほど、その青い瞳には求心力がある。彫刻のように冷たくも整った容姿は、夜の薄暗い室内に立っているだけなのに妙に目を引き、こんな状況でなければ思わず見惚れていたかもしれない。
そして、その次に思った。
とんでもなく怪しい。
女はメイド服を着ていた。格好だけならここで働く使用人と変わらないが、エリシアは潜入してからザハルの身の回りを世話する人間の顔をできる限り覚えている。こんな女は知らないし、これだけ目立つ容姿なら、一度でも見ていれば忘れるはずがなかった。
新しく雇われたのか、別の場所で働いているのか。それとも自分と同じように使用人へ化けているのか。まだ何も分からない。
ただ、夜中に誰もいないはずの観覧室へ入り込み、他人の事情を本人の独白に紛れ込ませるように喋っていた女が、まともであるはずはなかった。
「こんばんは」
女はにこやかに挨拶した。その笑顔まで腹立たしいほど綺麗で、エリシアは警戒を強めながらスカートの下に隠されたナイフへ手を伸ばす。
「……あんた、誰よ」
「ボク? ナルニーナ」
「名前を聞いたんじゃないわよ。ここの使用人?」
「そう見える?」
「質問してるのはこっち」
「うん。だから答えたじゃないか。少なくともキミには、ボクがここの使用人かどうか判断できない」
「…………」
「だってキミも本物の使用人じゃないもの」
エリシアの指がナイフの柄を握った。
ナルニーナはそれを見ても笑みを崩さない。
「まあまあ、そんなに怖い顔しないでよ。別に誰かから聞いたわけじゃない。キミが教えてくれたんだ」
「私は何も喋ってない」
「喋るだけが人に何かを教える方法じゃないだろう? 夜中にこっそりこの部屋へ戻ってきて、ザハル本人には見向きもしないような古い資料ばかり探してる。しかも、さっきから闘技場の運営記録にはほとんど興味を示さないのに、地下監獄の資料が出てきたときだけ手を止めた」
ナルニーナは机の上へ視線を落とした。そこにはエリシア自身が選り分けた書類が並んでいる。
「これだけ見せてもらえば十分だよ。キミはお金を盗みに来たわけでも、領主様の弱みを探してるわけでもない。地下に用がある。でも場所を知りたいだけなら見取り図を見つけた時点で満足するはずなのに、キミはまだ探してる。つまり欲しいのは場所じゃない。地下にある何かについての、もっと具体的な情報」
「勝手な想像ね」
「うん、そうだよ」
あっさり認められ、エリシアは逆に言葉に詰まった。
「だから間違ってるなら教えて。ボクは訂正するから」
「誰が教えるもんですか」
「じゃあ、とりあえず合ってることにしておこう」
「なんでそうなるのよ!」
「違うなら否定すればいいのに、キミは『勝手な想像』としか言わなかったから」
エリシアは口を開きかけて、閉じた。
迂闊に否定すれば、それ自体が情報になる。
それに気づいた瞬間、ナルニーナの笑みが少しだけ深くなった。
「そう。それでいいよ。黙ってたほうが賢い」
「……あんた、本当に何者なのよ」
「ナルニーナ」
「だから名前じゃなくて!」
「じゃあ、キミに興味を持った人」
あまりにも堂々と言われ、エリシアは眉間に皺を寄せた。
「気持ち悪い」
「ひどいなあ。あはは、まるでキスケくんみたい。もしかして彼だけじゃなくてみんなに気持ち悪がられてるのかな、ボクって。でも、悪い話じゃないと思うよ。キミは何かを探してる。ボクは探し物が得意だし、魔法はもっと得意。古い文書でも術式でも、キミ一人では読めないものが出てきたら役に立てるかもしれない」
「何が目的?」
「面白そうだから」
「……信用できる要素が一つもないわね」
「そうかな? 退屈こそが原罪であり、神が人間に与えた罰なのさ」
ナルニーナは少し首を傾げた。
「まぁ少なくとも、ボクがキミを売るつもりなら、こうして話しかける必要はなかったよ」
エリシアの視線が鋭くなる。
「キミがこの部屋へ忍び込んだところで衛兵を呼べば、それで終わりだった。あるいは昼間、ザハルに『あのメイド、夜に部屋を漁ってやがりますよ』って教えてもいい。それをしないで、わざわざ同じ格好までしてここにいる」
ナルニーナはメイド服の裾を摘み、軽く広げてみせる。
「少なくとも今のところ、ボクとキミの利害はぶつかってない。だったら、正体の分からない怪しい女を追い出して一人で探すのと、正体の分からない怪しい女を利用しながら探すの、どっちがお得だと思う?」
「どっちも嫌よ」
「おやおや、欲張りだね」
「あんたにだけは言われたくない!」
エリシアは吐き捨てたものの、ナイフを抜くことはできなかった。
気に入らない。何を考えているのか分からないし、信用などできるはずもない。それなのに、この女の言っていることには一つ一つ筋が通っていて、追い出す理由を探そうとするほど、逆に今ここで敵に回す理由がないことを思い知らされる。
何より腹立たしいのは、それをナルニーナ自身も分かっていることだった。
「……勝手にすれば」
「うんうん、素晴らしい判断だ。みんながキミみたいに賢くしかし純粋だったら良かったのに」
「ただし邪魔したら末代まで呪うわ」
「じゃあ役に立てばいいんだね。ボク、そういうのってすっごく得意だから。ほら、探そう。ザハルが戻ってくる前に。ね?」
ナルニーナは返事を待たず、早速書類棚へ向かっていく。エリシアはその背中を睨みながら、ようやく気づいた。
いつの間にか、彼女がいったい何者なのか、という話が終わっている。
「……本当にむかつく女」
「ありがとう」
「褒めてない!」
どうやら耳までいいらしい。
それからしばらく、二人は手分けして資料を探した。
正確には、エリシアとしては手分けしたつもりなどなかった。ナルニーナが勝手に棚を漁り始めただけである。追い出そうにも騒ぎを起こすわけにはいかず、かといって見張っていては自分の目的が果たせない。仕方なく好きにさせているうちに、いつの間にかナルニーナが右側の棚を、エリシアが机と左側の棚を担当する形に落ち着いていた。
「これ?」
「違う」
「じゃあこれは?」
「それも違う。というか、いちいち見せなくていいから」
「でもボク、キミが何を探してるのか詳しいところは知らないよ?」
「教えてないもの」
「それで手伝わせるの、結構無茶じゃない?」
「あんたが勝手に手伝ってるんでしょうが」
「それもそうだね」
ナルニーナは納得すると、また棚へ向き直った。
調子が狂う。
何を言っても暖簾に腕押しで、こちらが腹を立てていることさえ楽しんでいる節がある。それでも作業そのものは意外なほど真面目だった。適当に書類を眺めているように見えて、読む速度は異様に速い。古い書式の公文書も難なく読み進め、ときおりエリシアが意味を取れずに飛ばしていた魔法関係の記述まで拾い上げている。
少なくとも、口だけではないらしい。
エリシアは机の最下段から古びた帳簿を引っ張り出し、中身を確かめた。あまりに文字が汚くすぐには解読できなかったが、よくよく読むと勇者の遺物と、末裔についての調査資料らしい。しかしこれは父が調べていたものとは関係がない。
「……これも違う」
「なかなか見つからないねえ」
「簡単に見つかるなら、こんなことしてないわよ」
「でも、案外そういうものほど、見つかるときは呆気なかったりするよ」
ナルニーナが何気なくそう言った直後だった。
扉の向こうから、足音が聞こえた。
二人の動きが同時に止まる。
エリシアは咄嗟に机の上を見た。まずい。出した資料を戻しきれていない。机の引き出しも開いたままで、ナルニーナのいる棚からも数冊が抜き取られている。
しかも足音はこちらへ近づいてくる。
「誰か来る」
「うん」
「うん、じゃないわよ!」
声を抑えて怒鳴りながら、エリシアは慌てて資料を戻し始めた。だが間に合わない。足音はすでに扉のすぐ近くまで来ている。
逃げ道を探して窓を見る。無理だ。ここから飛び降りれば助かったとしても騒ぎになる。隠れる場所もない。大きな机の下へ潜り込めなくはないが、二人ともとなれば厳しい。
何より、ナルニーナが動かない。
「あんたも片づけなさい!」
「大丈夫だよ」
「何が──」
扉が開いた。
エリシアは反射的に背筋を伸ばした。
「……ん?」
入ってきたのは、よりにもよってザハルだった。
寝間着の上に上等な羽織を引っかけ、片手には燭台を持っている。忘れ物でも取りに来たのか、眠たげだった目が室内にいる二人を認めた途端、疑うように細められた。
「お前たち……こんな時間に、ここで何をしている?」
まずい。
エリシアの頭が急速に回り始める。掃除と言い張るには時間が遅すぎる。そもそも机の引き出しが開いている。ザハルから見える位置には何枚もの書類が出たままだ。
言い訳を考えなければならない。
しかし焦れば焦るほど、まともな言葉が浮かんでこない。
「申し訳ございません、ザハル様」
隣から、穏やかな声がした。
エリシアが見ると、ナルニーナが恭しく頭を下げていた。先ほどまでの馴れ馴れしい態度が嘘のように消えている。背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねた姿は、どこからどう見ても主人に仕える従順なメイドだった。
「どうしても明日までに整理しておきたかったものですから」
「整理?」
「はい。明日の勇者杯でザハル様がお使いになる資料を探しておりました」
ザハルの視線が机へ向かう。
エリシアの背中を冷たいものが走った。
「……それで、なぜ監獄の書類まで出している?」
見られた。
やはり誤魔化せない。
エリシアが最悪の場合を考えて剣の位置を意識した、その横で、ナルニーナは不思議そうに首を傾げた。
「必要ないのですか?」
「何?」
「てっきりザハル様は、すべてに目を通されるものかと」
ザハルの眉が動く。
ナルニーナは少し困ったように続けた。
「闘技場だけならともかく、ザハル様は地下監獄までご自身で管理なさっているでしょう? これほど大きな催しの最中ですから、万が一にも囚人が騒ぎを起こせば大変です。ですから、明日の試合に関係するものと一緒に、地下の報告もすぐ確認できるよう準備しておこうと思ったのですが……余計なことでしたでしょうか?」
「いや……」
ザハルの勢いが僅かに鈍った。
「そういうわけではないが」
「よかった」
ナルニーナが安堵したように微笑む。
「ザハル様は本当に大変ですね。これだけの規模の闘技場を管理しながら、領主として都市を治め、さらに地下監獄まで直接目を配らなければならないなんて。普通なら、それぞれ別の人間に任せる仕事でしょうに」
「まあな」
ザハルの胸がほんの少し反った。
エリシアは横目でナルニーナを見る。
──何を言っているの、この女。
つい先ほどまで、ナルニーナはザハルを憎んでいるエリシアの事情を面白がっていたはずだ。それが今は、心の底から主人を敬愛する使用人のような声で褒め称えている。
「それなのに勇者杯まで開かれて。今日も素晴らしい試合ばかりでした」
「見ていたのか?」
「もちろんです。特にザハル様が仰っていた、あの剣士への指示。あれには驚きました」
「おお、あれか」
ザハルの口元が緩んだ。
エリシアは唖然とした。
あれとはおそらく、昼間に安全な観覧室から叫んでいた野次同然の助言のことだ。
「分かる者には分かるか」
「ええ。わたしなど戦いには疎いものですから詳しいことまでは分かりませんでしたけれど、ザハル様には試合の流れが見えていらっしゃるのですね」
「当然だ。この闘技場を何年見てきたと思っている。あそこで左へ回り込んでいれば、少なくともあんな無様な負け方にはならなかった」
「やっぱり!」
ナルニーナが目を輝かせた。
その反応があまりにも自然で、エリシアは一瞬、本当に感心しているのではないかと思った。
「わたし、あのとき何を仰っているのか全部は理解できなかったんです。でも、きっとザハル様にはわたしたちには見えないものが見えているんだろうなって」
「ふん。まあ、素人には分からんだろうな」
「そうですよね。わたしももっと勉強しないと」
完全に機嫌が直っている。
それどころか、ザハルは先ほどまで二人が何をしていたのか追及することすら忘れかけていた。
エリシアは呆れながらも、その隙を逃さなかった。
ナルニーナがザハルの視線を引きつけている間に、机の上の資料を一枚ずつ元へ戻していく。慌てて動けば怪しまれるため、あくまで「整理を続けている使用人」のふりをしながら、手元だけを動かした。
「それに、今日の勇者杯を見て改めて思いました。これほど大勢の腕自慢を集められるのも、ザハル様だからこそなのでしょうね」
「そう思うか?」
「だって、国王陛下の布告があったとはいえ、勇者の遺物を賞品にするなんて誰にでもできることではありませんもの。あれだけの人間がザハル様の闘技場に集まって、明日は誰が勝つのかと夢中になっている。わたしだったら毎日でも自慢してしまいます」
「はははっ、そうかそうか!」
単純すぎる。
エリシアは呆れを通り越して、少し心配になってきた。
こんな男に父は──
そこで思考を切る。
今は余計なことを考えている場合ではない。
最後に残った書類を棚へ戻そうとしたとき、その奥に何かが見えた。
他の資料に隠れるように、薄い冊子が一冊だけ横向きに挟まっている。
エリシアは手を止めた。
古い。
表紙だけで分かった。周囲に並ぶ比較的新しい書類とは明らかに年代が違う。端は傷み、紙も変色している。
どうしてこんなものが、ここに。
エリシアはこっそりザハルを窺った。
「そうだろうそうだろう。そもそもこの大会を成功させるために、私がどれほどの時間と労力を費やしたことか! まず警備一つ取っても──」
「まあ、それもザハル様が?」
「無論だ。それだってのにあの、ロドとかいう囚人は今日も騒ぎを起こして……け、けっして怖いとかではないがな! ただ大変というだけで」
彼はナルニーナと話すことに夢中になっている。エリシアは冊子を抜き取った。表紙には、見覚えのある印があった。父の資料で何度も見たものだった。
心臓が跳ねる。
すぐに中を開きたい衝動を堪え、エリシアは別の書類で隠しながら最初の数頁だけを確認した。古い地下施設についての記録が並んでいる。現在使われている監獄よりも古い区画。そのさらに下へ続く経路。そして、何枚かめくったところで、エリシアの指が止まった。
封印術式。
その文字を見た瞬間、周囲の音が遠ざかった。
探していた。
ずっと、これを探していた。
父が辿り着きながら、最後まで解き明かすことのできなかった場所。その扉を開くために必要なものが、今、自分の手の中にある。
読み進めたい。
だが今は駄目だ。
エリシアは震えそうになる指を押さえ、冊子をメイド服の内側へ滑り込ませた。
「──というわけだ。私がいなければ、まともに大会一つ開けん連中ばかりだからな」
「まあ……それでは、こんな時間までわたしたちが残っているほうが、かえってザハル様のお邪魔になってしまいますね」
「ん?」
ナルニーナが申し訳なさそうに目を伏せる。
「ザハル様ほどお忙しい方なら、夜くらいはゆっくりお休みいただかないと。わたしたちがここにいるせいで、ザハル様ご自身が確認に来なければならないなんて……わたし、そこまで考えが及びませんでした」
「いや、別にお前たちを確認しに来たわけでは──」
「でも、わたしたち使用人がきちんとしていれば、ザハル様がこんな時間にまで気を配る必要はないでしょう?」
「まあ……それはそうだな」
「申し訳ありません。残りはこちらで済ませておきますから、どうぞザハル様はお休みください。明日も勇者杯がありますし、ザハル様がお疲れでは皆も不安になります」
「皆が?」
「当然です」
ナルニーナは迷いなく頷いた。
「この都市を治めているのは、ザハル様なのですから」
ザハルは満足そうに鼻を鳴らした。
「そうか。ならば、ここは任せるとしよう」
「はい。おやすみなさいませ、ザハル様」
「うむ。ああ、それと明日は酒を切らすなよ。今日の給仕は遅かった」
「承知いたしました」
「まったく、私が一つ一つ言わんと何もできんのだからな」
ぶつぶつと文句を言いながらも、その足取りは来たときより明らかに軽かった。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、エリシアは大きく息を吐いた。
「…………あんた」
「うん?」
ナルニーナは先ほどまでと何一つ変わらない笑顔を向けてきた。
「よく、あんなに次から次へと心にもないことが言えるわね」
「心にもないとは失礼だなあ。ザハル様がとってもお忙しいのは本当だよ?」
「そこじゃないわよ!」
思わず声が大きくなり、エリシアは慌てて口を押さえた。ナルニーナは可笑しそうに笑っている。
「それに、嘘ばっかりでもないよ。人を喜ばせたいなら、本当のことを混ぜたほうがいいんだ。あの人はこの闘技場が大好き。自分が一番よく知ってると思ってるし、自分がいないと何も回らないとも思ってる。だったら、それを否定する必要なんてないでしょう?」
「だからって……」
「人ってね、自分が信じたいことを他人の口から聞くと、すごく安心するんだよ」
ナルニーナは机へ腰を預けた。
「『あなたは賢い』『あなたは必要とされてる』『あなたは正しい』。ボクが新しいことを教えてあげたわけじゃない。あの人が最初から自分について信じてることを、ちょっと言葉にして返してあげただけ」
「…………」
「だからボクの言葉を疑うことは、自分自身を疑うことになる。そんなの嫌でしょう?」
エリシアは何も答えなかった。
改めて、とんでもなく怪しい女だと思った。
同時に──胸元へ手を当てる。
服の内側には、先ほど見つけた冊子がある。
もしナルニーナがいなければ、ザハルが入ってきた時点で終わっていた。捕まっていたか、逃げるしかなかったかは分からないが、少なくともこの資料を手に入れることはできなかっただろう。
「……助かったわ」
「ん?」
「二度も言わせないで」
エリシアはナルニーナから目を逸らした。
「助かったって言ったの」
少しの沈黙があった。
「どういたしまして」
返ってきた声は、意外にも普通だった。
からかわれると思っていたエリシアは拍子抜けし、それを悟られる前に冊子を取り出した。
「それより、これを見て」
「おっ、何か見つけた?」
「たぶん、探してたもの」
二人で机へ向かい、冊子を開く。エリシア一人では理解できない古い術式がいくつも描かれていたが、ナルニーナは頁をめくるごとに興味深そうに目を動かしていた。
その横顔を、エリシアはちらりと見る。
信用したわけではない。
何者なのかも分からないし、目的が「面白そうだから」などという人間を簡単に信用できるはずもない。
それでも、先ほどまでとは少し違っていた。
少なくとも今、この女は自分を売らなかった。
逃げることもできたのに残り、自分まで危険になる状況でザハルを相手にし、その隙を作った。
ならば今だけは、利用してやればいい。
それだけだ。
エリシアはそう自分に言い聞かせながら、ナルニーナの指が示す術式へ目を落とした。
そのため、気づかなかった。
頁をめくりながら、ナルニーナがほんの僅かに口元を緩めたことに。
──必要なものが、必要なときに、ちょうど手の届くところから出てくる。
なんて物語的なんだろうね?
ナルニーナは何も言わず、次の頁をめくった。その指先に、ごく微かな魔力の残滓がまとわりついていた。