カスどもの救世   作:もりもりら

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その空虚な

 

 どんな異名も伝説も、彼の前では自らを着飾る装飾品に過ぎないことを知る。それはただ見栄えだけが良く、いざ刃を交えれば何の役にも立たない。

 

 『不屈のドンド』は、地に伏しながらそう悟った。

 

 これまで幾度となく格上と戦い、どれほど追い詰められても立ち上がってきた。そのしぶとさから与えられた『不屈』の二文字も、今日ばかりはひどく皮肉に思える。

 

 立ち上がる暇さえ、与えてもらえなかったのだから。

 

 彼と相対した者が弱いわけでは決してないはずだ。ドンド自身、それなりに名を知られた戦士であり、一回戦でキスケが倒した相手とて、この大会へ出場するだけの実力を備えていた。

 

 だが、キスケを前にすれば、その差さえ意味を失う。

 

 強者も弱者も変わらない。

 まるで赤子の手を捻るかのように、等しく倒される。

 

 ただの一撃だった。

 

 ドンドが得意とする大盾で受け止めたはずの斬撃は、その巨体ごと彼を試合場の端まで吹き飛ばした。盾こそ両断されなかったものの(何せ彼は刀を鞘から抜かなかった)衝撃までは殺しきれず、背中から石床へ叩きつけられた時点で勝負は終わっていた。

 

 一瞬の静寂を挟み、観客席が爆発した。

 

 あまりにも鮮やかな勝利に、誰かがキスケにも二つ名を付けようと叫ぶ。それに周囲が乗り、たちまち観客席の一角が騒がしくなった。

 

 しかし、肝心の二つ名が決まらない。

 

 無敵と呼ぶには、まだ勝った数が少なすぎる。不敗と謳うにも同じこと。剣技を称えようにも、技量を見定めるほど試合が続いていない。

 

 何しろ、あまりにも勝負になっていなかった。

 相手が弱いのなら話は簡単だった。だが、キスケが倒してきた者たちは、この勇者杯へ出場し、勝ち上がってきた戦士たちである。

 

 それなのに、彼らの実力を物差しにしても、キスケの強さを測ることができない。

 

 何が得意なのか。

 どこまで強いのか。

 どこに限界があるのか。

 

 それが見えるより先に、相手が倒れてしまう。

 

 結局、観客たちが共有できたのは、あまりにも曖昧な一つの事実だけだった。

 

 ──こいつは、とんでもなく強い。

 

 歓声を受けながら、キスケは無表情で試合場を後にした。

 

 

 

 

 試合を終えたキスケが選手用の通路へ戻ると、壁際に見覚えのある巨体が立っていた。

 

 全身鎧。兜まで被った大女。

 先日の観客席で散々罵り合った女騎士である。

 

「……げ」

「なんだ、その反応は」

 

 向こうも覚えていたらしい。露骨に低くなった声を聞き流し、その隣にいる人物へ目をやる。

 

 深く被った外套のフード。その奥から覗く金髪と、金色の瞳。先日の試合でエリシアを破った男──アルバートだった。

 

「少し、話をさせてもらえないかな」

 

 穏やかな声だった。ただ、それだけのはずだ。だというのに近くを通りかかった係員が、ちらりとこちらを見ただけでなく足を止める。

 

「こちらの部屋をお使いになりますか? 今なら空いておりますので」

「いいのですか?」

「もちろんです」

 

 係員は何の疑問も抱いていない様子で扉を開けた。参加者へ勝手に部屋を貸していい立場なのかも怪しいのに、アルバートが礼を言えば、それだけで満足そうに頷いて去っていく。

 

 キスケはその背中を眺めた。

 

「知り合いか?」

「いや。初対面だよ」

「ふうん」

 

 妙な奴だと思いながら、案内された部屋へ入る。扉が閉まるなり、女騎士がキスケの前へ出た。

 

「先に確認しておく」

「あ?」

「貴様、その首に下げているものを見せろ」

 

 反射的に胸元へ手が伸びた。

 着物の下には、いつもの首飾りがある。

 

「なんで知ってんだよ」

「先日見えた。貴様と口論になった際、着物の合わせから僅かにな」

「喧嘩しながら人の胸元見てたのかよ。気色悪ィな」

「誰が貴様の胸元など好き好んで見るか!」

 

「二人とも、その話はもういいだろう」

 

 アルバートに窘められ、女騎士は不満そうに黙った。

 

 キスケは首飾りを取り出した。どうせ隠したところで、すでに知られている。女騎士は懐から一枚の紙を取り出すと、描かれた図と首飾りを見比べた。

 

 細部まで描き込まれた、古びた首飾りの素描だった。

 

「間違いありません」

「ああ」

 

 アルバートが静かに頷く。

 

「王家には、勇者の遺物に関する記録が残されている。その形もね。それは遺物の首飾りだ」

「だったら?」

「貴方が何者なのか、知っておきたかった」

 

 アルバートはそこでフードへ手をかけた。女騎士が僅かに身じろぎするが止めなかった。

 

 フードが下ろされ、金色の髪が露わになる。

 

「僕はアルバート。この国の第一王子だ」

 

 キスケは黙って相手を見る。それから女騎士に一度視線を移し、またアルバートへと戻した。

 

「へえ」

「……それだけか?」

 

 女騎士のほうが戸惑っていた。

 

「王子だからなんだよ」

「貴様……!」

 

「いいんだ」

 

 アルバートが女騎士を制した。

 その声音は穏やかなままだったが、不思議と耳に残った。先ほどの係員だけではない。試合のときもそうだった。アルバートが何かを言えば、人は自然と耳を傾ける。疑うより先に、この男なら信用していいのではないかと思ってしまう。

 

 それは威圧感とも、話術とも違う。

 人の警戒心を、知らぬ間に一段だけ下げてしまうような何かだった。

 

 だが、キスケには関係なかった。

 

「それで、王子様が俺になんの用だ?」

「勇者について、貴方と話をしたい」

 

 アルバートの声が少しだけ低くなる。

 

「父は三年後に魔王が復活するという予言を受け、勇者の遺物を集めた者と僕を戦わせることにした。勝った者を、次の勇者にするために」

 

「知ってる」

「なら、その決闘そのものが、僕に有利になるよう仕組まれていることは?」

 

 キスケの眉が僅かに動いた。

 

「そりゃ初耳だな」

 

「父は僕を勇者にしたいんだ。遺物を集める危険は他の者に負わせ、最後に僕が勝てばいいと考えている」

 

 アルバートは淡々と語っていたが、その言葉には明確な拒絶があった。

 

「僕は、そんな形で勇者になるつもりはない」

「じゃあ辞めりゃいいだろ」

「そうはいかない。魔王が復活するなら、誰かが戦わなければならないから」

 

 迷いのない答えだった。

 

「だから僕は王城を出た。自分で遺物を集め、自分の力で他の候補者に勝つ。そのうえで勇者になる。父が用意した椅子に座らされるんじゃない。僕自身の手で、勇者の座を奪い取りたい」

 

 キスケはしばらく黙っていた。

 大した志だ、どうぞ頑張ってください。

 

 感想としては、それだけだった。

 

「じゃ、頑張れよ」

「待て」

 

 女騎士が遮った。

 

「なんだよ」

「話を聞いていたのか、貴様は!」

「聞いてたから応援してやったんだろうが」

「そういう話ではない!」

 

 面倒臭そうに耳をほじりかけたキスケへ、アルバートが問いかける。

 

「貴方は、勇者になりたくないのか?」

「なりたくねェよ」

 

 即答だった。

 あまりにも迷いがなかったからか、アルバートのほうが一瞬言葉を失った。

 

「……では、なぜ遺物を集めている?」

「金」

「金?」

 

「全部集めりゃ、最後にてめェと戦えるんだろ。負けても報酬は出る。だから集めてる」

 

 アルバートの金色の瞳が僅かに見開かれた。

 

「この大会も同じだ。指輪が欲しいから出てる。次の試合でてめェが勝ちゃ、俺と当たるんだったな」

 

「ああ」

 

「なら、そこでぶっ飛ばして指輪を貰う。残りも集める。そんで王城まで行って、最後にてめェに負けて金貰って終わりだ」

 

「貴様……!」

 

 女騎士が一歩踏み出したが、アルバートが手で制した。その顔から、先ほどまでの柔らかな笑みが消えている。

 

「……わざと負けるのか」

「そう言ってんだろ」

「どうして?」

「だから金が貰えるからだっつってんだろうが」

 

「そうじゃない」

 

 アルバートの声が低くなった。

 

「貴方が僕より強かったとしても、金のために負けるのかと聞いているんだ」

 

 キスケは眉を寄せた。

 

「何回言わせんだ。そうだよ」

「それで僕が勇者になって、魔王に負けたら?」

「知らねェよ」

 

 部屋の空気が止まった。

 女騎士の視線が鋭くなる。

 

 アルバートも、今度ばかりはすぐに言葉を返さなかった。

 

「その結果、大勢の人が死ぬとしても?」

「だったらてめェが勝て」

 

 キスケは面倒臭そうに返した。

 

「勇者になりてェんだろ。自分で遺物集めて、自分の力で勇者の座を奪い取るんだろうが。だったら魔王くらいてめェでどうにかしろよ」

 

「貴方にもし、その力があったなら?」

「だったらなんだよ」

 

「力のある者が戦うべきだ」

 

 今度はキスケが黙った。

 アルバートは真っ直ぐに彼を見る。

 

「誰にでもできることじゃない。もし僕より貴方のほうが強く、貴方なら救える人たちがいるのなら、貴方が戦うべきだ。少なくとも僕はそう思う」

 

「……随分勝手な話だな」

 

「勝手?」

 

「強いから戦え。できるからやれ。助けられるから助けろ。誰が決めたんだ、それ」

 

「目の前で誰かが死にそうで、自分なら助けられる。それでも見捨てるのか?」

 

「話すり替えてんじゃねェよ」

 

 キスケの声から、僅かに気怠さが消えた。

 

「目の前でガキが魔物に食われそうなら助けるさ。手ェ伸ばしゃ届くならな。けど、それと勇者になって世界背負えって話は別だろうが」

 

「僕には同じに思える」

 

「同じじゃねェ」

 

 キスケは吐き捨てる。

 

「目の前の一人助けたら、次は十人か? 十人助けられたら百人か? 百人助けられる奴は千人助けなきゃ悪人か? どこまで行きゃ終わるんだよ」

 

「終わりなんてないかもしれない」

 

「なら、なおさら御免だ」

 

「それでも誰かがやらなければならない」

 

「だから、てめェがやるんだろ」

 

 アルバートの言葉が止まった。

 

「俺は止めてねェぞ。むしろ応援してやってる。世界を救いてェ。勇者になりてェ。立派じゃねェか。好きなだけやれよ」

 

 キスケはそこで鼻を鳴らした。

 

「けどな、自分が背負いたいからって他人まで勝手に荷物持ちにすんな」

 

 女騎士が口を開きかけたが、アルバートが視線だけで止めた。

 

「……貴方ほどの力があっても?」

「関係ねェよ」

「多くの人を救えるとしても?」

「俺が強いのは俺の都合だ。それで知らねェ奴らに借金した覚えはねェ」

 

 アルバートの眉が寄った。そこには強い嫌悪感があった。目の前の男の身勝手さに、耐え兼ねるような。彼は自身の身分すら忘れ、剣のある言葉で責め立てるように言う。

 

 

「……僕には、それは力を持つ者の責任から逃げているように聞こえる」

 

「ああ、そうかよ」

 

 キスケは笑った。

 楽しそうな笑いではなかった。

 キスケもまた、目の前の男に対してどうしようもならない苦手意識を持ち始めていたのだ。だから、さっさと話を切り上げれば良かったものの、その口は止まらなかった。

 

「じゃあ聞くが、その責任とやらは誰が俺に渡した?」

 

「それは──」

 

「王様か? 女神様か? それとも助けてほしい奴ら全員で相談して決めたのか? 俺が強くなった瞬間、どっかから勇者の請求書でも届いたか?」

 

「いや……」

 

「同じだろうが。てめェらは勝手に期待して、勝手に役目作って、できる奴を見つけたら『お前ならできるんだからやれ』って押しつける。そんで役目が終わればお払い箱だ。同類じゃねェもんに対しては利己的で排他的。どうしようもねェよ、人間ってのは。なァ、救う価値なんかあると思うか?」

 

 そこでアルバートの表情が変わった。

 

「どうして人の善性を信じてやれないんだ!」

 

 アルバートの声が初めて大きくなった。

 

 部屋の外を歩いていた者たちが足を止める。

 誰もが何事かと振り向き、けれど窓からアルバートの姿を目にすると、不思議と険しい顔をしなかった。事情も知らないはずなのに、彼のほうに理由があるのだろうとでも思ったように、その場を離れていく。

 

 女騎士だけは微動だにしない。

 キスケも同じだった。

 

「……たしかに、醜悪な人間はいるでしょう。でも皆が皆、そうじゃないはずだ。僕は王子として生まれた。それを望んだわけじゃない。勇者の血を継いだことも、父が僕を勇者にしようとしていることも、僕が選んだわけじゃない」

 

 アルバートは自分の胸元へ手を置いた。

 

「それでも、僕にできることがあるなら逃げたくない。生まれも、力も、自分では選べない。けれど、それを何に使うかは選べる。僕はその力を人のために使いたい」

 

「なぜなら、今ここに存在していられるのは、僕だけの成果じゃないからだ。人と人との繋がりが、僕を生かしている。だから僕が自分を愛するように、この世界も愛している。愛する世界を魔王が壊そうとするなら、僕は正々堂々と守りたいんだ」

 

 

 

「……ああそうかよ。随分と立派なもんだな」

 

 世界を愛している。愛する世界を救う。勇者になる。そのために自分の力で遺物を集め、父親が用意した道ではなく、自分自身の手でその座を奪い取る。

 

 なるほど、立派な話だ。

 彼ほど勇者らしい勇者は、今後きっと現れないだろう。キスケは鼻で笑った。

 

「だがなァ、どんな大層な旗掲げても、柄が弱けりゃあっけなく折れる」

 

 アルバートの眉が僅かに動いた。

 

「折れた旗に、死んだ旗手に、誰が見向きすんだよ」

 

 

 それだけ言い捨てると、キスケは返事も待たずに踵を返した。これ以上話したところで平行線だろうし、そもそも他人が世界を愛していようが嫌っていようが知ったことではない。勇者になりたいなら勝手になればいい。自分は指輪を手に入れられればそれでいいのだ。

 

 そのまま扉へ手をかけようとしたところで、背後から低い声が飛んできた。

 

「待て」

「あ?」

 

 振り返ると、女騎士がアルバートの横から一歩前へ出ていた。

 

「そこまで言うのなら、まず私を倒してからにしろ」

 

「……なんの話だよ」

 

「聞こえなかったか。貴様がアルバート様の力を測ろうというのなら、その前に私を倒せと言っている」

 

「なんでそうなるんだよ」

 

「私すら越えられぬ者に、アルバート様の理想を笑う資格などない」

 

「笑ってねェだろ」

 

「同じことだ!」

 

「同じじゃねェよ!」

 

 女騎士は聞く耳を持たず、キスケとの間合いを詰める。その手はすでに腰の剣へ伸びていた。

 

「ちょうどいい。先日の決着もまだついていなかったな」

「まだ根に持ってんのかよ、デカ女」

「誰がデカ女だ酔っぱらいめ!」

 

「やめろ」

 

 アルバートの一言で、女騎士の動きが止まった。

 

「で、ですが、アルバート様」

「僕が戦う」

「しかし──」

 

「僕が戦うと言った!」

 

 今度は、よりはっきりと言い切る。

 女騎士はなおも食い下がろうとしたが、アルバートは首を横に振る。

 

「今の話を聞いていただろう。僕は、自分に与えられた力を何に使うかは自分で選ぶと言った。その僕が、彼と戦うことだけ君に任せてどうするんだ」

 

「ですが……! ただでさえ昨日、謎の者から襲撃にあったのです。これ以上アルバート様を危険な目に遭わせたくはありません!」

 

「君の気持ちは分かっている」

 

 アルバートはキスケへ視線を戻した。その金色の瞳から、先ほどまでの熱は引いている。

 

 代わりに、静かな意志があった。

 

「それでも。戦わなければならない時に戦えぬ者に、語れる理想はない」

「へえ」

 

 キスケは口の端を吊り上げた。

 

「なら話が早ェな」

「そうだね」

 

 アルバートはそれ以上、何も語らなかった。ただ勝つことのみが己が正義の証明となる。最後まで二人の視線が交わることはなく、キスケは部屋を後にした。

 

 

 

■

 

 

 

 頭上から、微かな歓声が響いていた。

 

 分厚い石と土を何層も隔てているはずなのに、数千人もの人間が一斉に声を上げれば、その振動は地下深くにまで届くらしい。天井から細かな砂埃が落ち、壁に掛けられた古い燭台の火が僅かに揺れる。

 

 勇者杯は今日も盛況だった。

 

 誰かが勝てば歓声が上がり、誰かが倒れればまた別の歓声が上がる。剣と剣がぶつかる音までは聞こえない。ただ、大勢の人間が熱狂しているという事実だけが、地鳴りのようになって地下へ染み込んでくる。

 

 エリシアは一度だけ天井を見上げ、そのまま何も言わず歩き続けた。

 その隣を、ナルニーナがついてくる。

 

「思ったより深いねえ」

「まだよ」

「まだ?」

 

「父の記録だと、今使われてる地下監獄は後から増築されたものらしいわ。その下に、もっと古い区画がある」

 

 昨夜手に入れた冊子と、父が遺した記録。それらを照らし合わせて見つけた道だった。

 

 現在使われている地下監獄から外れ、普段は倉庫としてさえ使われていない通路を抜ける。その先にあった石壁の一部をナルニーナが魔法で調べると、壁そのものに偽装された古い扉が見つかった。

 

 そこから先は、明らかに造りが違っていた。

 

 石材そのものが古い。長い年月によって角が丸く削れ、壁には今の王国では使われていない文字が刻まれている。通路も人間が日常的に使うには妙に広く、天井も高かった。

 

 そして何より、空気が違う。

 

 冷たいのだ。地下だから、というだけではなかった。長いあいだ誰にも触れられなかった場所特有の淀みがあり、進むほどに外の世界から切り離されていくような感覚が強くなっていく。

 

「おっとお嬢さん。お止まりなさいな」

 

 不意にナルニーナがエリシアの肩を掴んだ。

 

「何?」

「そのまま。右足、動かさないでね」

 

 言われて足元を見る。何もない。ただ古びた石床が続いているだけだった。

 

 ナルニーナがしゃがみ込み、指先で床の少し上をなぞる。すると何もなかった空間に淡い光が走り、複雑な紋様が浮かび上がった。

 

「ふーん、古い防衛術式だねえ。踏んでたら、この通路ごと焼かれてたかも、あーおっかない」

「……先に言いなさいよ」

「今気づいたんだよ」

「頼りになるんだかならないんだか分からないわね」

「踏む前に気づいたんだから、頼りになるってことじゃないかな。うん、何事もポジティブでなくては、良い復讐はできないよ」

 

 ナルニーナは楽しそうに言いながら術式へ指を触れた。光の線が一つずつほどけ、やがて何事もなかったかのように消えていく。

 

 エリシアはその様子を黙って見ていた。

 

 やはり連れてきて正解だった。

 昨夜手に入れた資料には封印へ至る経路と解除方法が記されていたが、途中に仕掛けられた術式のすべてまで載っていたわけではない。エリシア一人だったなら、ここへ辿り着く前に引き返すことになっていたかもしれない。

 

「行けるよ」

「そう」

 

 再び歩き出す。

 それからも何度か古い防衛術式に阻まれたが、そのたびにナルニーナが足を止めた。解除できるものは解除し、面倒なものは迂回する。あれほど喋る女が術式を調べている間だけは驚くほど静かで、エリシアはその横顔を何度か盗み見た。

 

 本当に何者なのだろう。

 

 魔法が得意だとは聞いていたが、得意などという言葉で片づけていいものには思えない。何百年も前の術式を前にしても迷う様子がなく、むしろ知らない仕掛けを見つけるたびに楽しそうにしている。

 

「ねえ」

 

 今度はエリシアから声をかけた。

 

「あんた、まだ聞かないのね」

「何をだい?」

 

「私が封印を解いて、どうするつもりなのか」

 

 ナルニーナは歩きながらエリシアを見る。珍しくナルニーナは何も言わなかった。

 

「……ここまで来たんだから、話しておく」

 

 しばらく、二人の足音だけが通路に響いた。

 

「この地下には、魔物が封印されてる」

「ああ、そうだね」

 

「ただの魔物じゃない。父の調べた記録では、魔王がいた時代から生きている化け物よ。当時の勇者が戦って、それでも殺しきれなかったから、この地下に封印した」

 

「その残虐な魔物を慰めるために。人間同士の争いの声を子守唄にするために、闘技場を建てたんだろう?」

 

「ええそうよ。闘技場は、その封印の上にある」

 

 エリシアは前を向いたまま続ける。

 

「私は、それを解き放つつもり」

 

 足音が一つだけ止まった。

 エリシアも数歩進んでから立ち止まる。

 振り返ることはしなかった。

 

「今なら、上には大勢いる。勇者杯の参加者、観客、運営、それからこの場所を作って、守って、父を見世物にした連中も」

 

 頭上から歓声が響いた。

 また誰かが勝ったのだろう。

 

 その音を聞きながら、エリシアは拳を握った。

 

「父はあそこで殺された」

 

 今でも思い出せる。

 自分にとっては世界でたった一人の父親だった。けれど、あの日の観客にとっては違った。

 

 犯罪者が一人、闘技場へ放り込まれただけだった。どちらが勝つか賭け、倒れれば笑い、次の試合が始まれば忘れてしまう。その程度のものだった。

 

「ザハルだけじゃない」

 

 自分でも、声が冷えていくのが分かった。

 

「私は、この闘技場そのものが嫌い」

 

 ここへ来るたび、あの日を思い出す。歓声を聞くたび、父が倒れた瞬間に聞こえた声と重なる。誰かが勝って喜ぶ声も、負けた人間をさまあみろと嘲笑う声も、何もかもが耳に障る。

 

「全部壊してやりたい。この闘技場も、勇者杯も、あの日みたいに何も知らずに笑ってる連中も。地下にいる化け物を放して、何もかもぐちゃぐちゃにしてやる」

 

 ナルニーナから返事はなかった。

 エリシアはようやく振り返った。

 

「……幻滅した?」

 

 口にしてから、自分でも妙なことを聞いたと思った。

 

 別に、この女にどう思われようと関係ない。

 

 父の無念を晴らすためだとか、ザハルの悪事を暴くためだとか、そんな綺麗な理由だけでここまで来たわけではない。自分がやろうとしていることが正しいとも思っていない。

 

 ただ、許せない。だから壊す。

 それだけだった。

 

 ナルニーナは黙って俯いている。

 やがて、その肩が小さく震え始めた。

 

「……何よ」

「最高」

 

 ナルニーナが顔を上げると、そこには満面の笑みが浮かんでいた。

 

「最高の展開じゃあないか!」

「…………は?」

 

「いいね、それ! すごくいい! 素晴らしいシナリオだよ!」

 

 先ほどまで防衛術式を調べていたときとは比較にならないほど目を輝かせ、ナルニーナは一気にエリシアとの距離を詰めてきた。

 

「勇者を決めるためのお祭りの真下に、昔の勇者が殺しきれなかった魔物が封印されてるんだよ? しかも上では何も知らない人たちが、誰が一番強いか競い合ってる。その真っ最中に封印が解けて、何百年も閉じ込められてた魔物が出てくる!」

 

「いや、私、復讐するって話を──」

 

「分かってるよ。でも、そもそもさあ、人間同士でみみっちく小競り合いして、一番強かった人が勇者っていうのも変じゃない?」

 

 ナルニーナは両手を広げ、まるで頭上にある闘技場そのものを示すように見上げた。

 

「だったら、昔の勇者が殺しきれなかった魔物を殺した人こそ、本物の勇者でしょう?」

 

 エリシアはしばらく何も言えなかった。

 

「……あんた、本当に頭おかしいわね」

「よく言われる」

「言われるでしょうね」

 

「それにキミの復讐もできる。闘技場は滅茶苦茶、勇者杯も滅茶苦茶、その上で誰かが魔物を倒せたら新しい勇者まで決まる。すごいよ、一つの出来事で三つも話が動く」

 

「私にとっては物語じゃないんだけど」

 

「知ってるよ」

 

 ナルニーナはあっさり答えた。

 

「だから面白いんじゃあないか」

 

 やはり信用する相手を間違えたかもしれない。

 

 昨夜ほんの少しでも見直した自分を殴ってやりたい気分になったが、少なくとも止められなかったことには安堵していた。

 

 エリシアは再び前を向く。

 

「……行くわよ」

「うん!」

「楽しそうに返事しないで」

 

 二人はさらに地下へ進んだ。

 

 やがて通路は緩やかな下り坂へ変わり、壁の造りもさらに古くなっていった。人の手で積み上げられた石壁のはずなのに、一つ一つの石が異様に大きい。ところどころに刻まれている文字も読めなくなり、ナルニーナでさえ足を止めて眺めることが増えていく。

 

 空気も重くなっていた。

 魔力に疎いエリシアにさえ分かるほど、何かが満ちている。

 

「近い?」

 

「たぶんね。さっきから魔力の流れが全部同じ方向に向かってる。封印を維持するために、この辺り一帯から集めてるみたい」

 

 注意深く進んでいくとついに通路が途切れ、二人の前に巨大な扉が立ちはだかった。

 

 エリシアは無意識に足を止めた。

 扉と呼ぶには、あまりにも大きかった。左右の壁とほとんど一体化した石造りで、見上げなければ上端が見えない。表面には幾重にも円を重ねた巨大な術式が刻まれ、その中心を貫くように、古びた鎖が何本も張り巡らされている。

 

 何百年。

 

 その時間が、形を持って目の前に立っているようだった。

 

「……ここ」

 

 エリシアは父の記録を取り出した。

 

 間違いない。

 父が辿り着こうとしていた場所。

 そのために資料を集め、調査を続け、そして──

 

 エリシアは記録を握る指に力を込めた。

 

「お父さん」

 

 小さく呟く。

 返事などあるはずもない。

 

「見つけたよ」

 

 ナルニーナは何も言わなかった。

 

 珍しく茶化しもせず、エリシアが記録をしまうまで待ってから、扉へ近づいていった。

 

「術式は資料通り。ずいぶん古いけど、まだ生きてるよ」

「解ける?」

「ボクを誰だと思ってるの?簡単だよ、朝飯前とまではいかないけどさ」

 

 ナルニーナは腰に手を当て自慢げに言うものの、うってかわって神妙な顔をする。

 

「ただし、一度解いたら戻せないと思う」

「構わない」

「中にいるものが、キミの想像よりずっと酷いものでも?」

「そのために来たのよ」

「上にいる人たちがどうなっても?」

 

 エリシアは頭上を見た。

 ここまで深く潜ると、もう歓声は小さくなっている。けれど今も、あの場所では試合が続き、誰かが戦い、誰かがそれを見て笑っている。エリシアもまた、微笑んだ。

 

「愚問ね」

 

「嗚呼、素晴らしきかな。個人的な復讐は、最も優先されるのさ」

 

 ナルニーナはそれ以上何も言わなかった。

 扉の前にしゃがみ込み、昨夜手に入れた冊子を開く。エリシアも隣に立ち、指示された位置へ手を添えた。

 

「じゃ、いくよ」

「ええ」

 

 エリシアが剣を抜くのを確認してから、ナルニーナは術式へ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、巨大な扉を覆っていた紋様に淡い光が走り、幾重にも重なった円を巡りながら古い文字を一つずつ消していく。

 

 やがて最後の光が失われると同時に、扉を縛りつけていた鎖が一斉に外れた。何本もの鎖が凄まじい音を立てて石床へ落下し、その轟音が地下全体を震わせる。

 

 エリシアはすぐさま剣を正面へ構え、ナルニーナも一歩下がって片手を扉へ向けた。その掌にはすでに魔力が集まり、何が飛び出してきても迎え撃てるよう備えている。

 

 なにしろ、この向こうに封じられているのは、かつての勇者ですら殺しきれなかったという魔物なのだ。

 

 重い音を響かせながら、巨大な石扉が開き始めた。

 

 その瞬間だった。

 

 僅かに生まれた隙間から、黒い煙が噴き出した。

 

「っ!」

 

 エリシアは咄嗟に後ろへ跳んだ。

 

 最初は細い筋に過ぎなかった黒煙が、扉が開くにつれて勢いを増していく。やがて濁流のように溢れ出し、あっという間に二人の視界を黒く塗り潰した。

 

「ナルニーナ!」

「いるよ! そのまま動かないで!」

 

 すぐ近くから声が返ってくる。

 エリシアは剣を構え直し、煙の向こうへ目を凝らした。

 

 何も見えない。

 

 扉がどこまで開いたのかさえ分からない。ただ石が擦れ合う重い音だけが続き、その奥で何かが動いたような気さえする。

 

 来る。

 

 エリシアは全身に力を込めた。

 

 黒煙の中から巨大な腕が伸びてくるかもしれない。次の瞬間には、かつての勇者さえ殺せなかった化け物が姿を現すかもしれない。

 

 やがて石の擦れる音が止まった。

 

 扉が開ききったらしい。

 それでも二人は動かない。黒煙だけが辺りを漂い、開け放たれた扉の向こうを覆い隠している。エリシアは剣を構えたまま、煙の奥を睨み続けた。来るなら、ここだ。

 

 そのとき、扉の奥から風が吹いた。

 黒煙が一息に散った。

 

 

 

 

 

 ────そこには、なにもなかった。

 

 エリシアは息を呑んだ。

 黒煙が晴れた巨大な牢獄には、何本もの太い鎖と、その先に繋がれた巨大な枷だけが残されていた。壁には深い傷が無数に刻まれ、床もところどころ大きく抉れている。黒煙の消えた地下には、空になった牢獄だけが残されていた。

 

「いない……」

 

 エリシアは剣を構えたまま立ち尽くし、息を漏らすように呟いた。隣ではナルニーナも魔法を放つために上げていた手を下ろさず、いつもの笑みさえ消して空になった牢獄を見つめている。

 

 父の記録が正しければ、魔物はここに封じられているはずだった。扉は閉ざされ、封印の術式も確かに残っていた。それを今、自分たちの手で解いたのだから、本来ならこの向こうにいるはずなのだ。

 

 最初から空だったとも考えられない。巨大な枷も、床を這う鎖も、壁に刻まれた無数の傷も、この場所に何かが封じられていたことを物語っている。

 

 それなのに、いない。

 

 

 そのとき、遥か頭上から微かな振動が降ってきた。何層もの石と土を隔ててもなお届くほどの、大勢の人間が一斉に沸き立つ声。

 

 勇者杯の歓声だった。

 

 エリシアがゆっくりと頭上を見る。

 隣で、言葉すら失ったナルニーナも同じように顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 ────では、魔物は今、どこにいる?

 

 

 

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