カスどもの救世 作:もりもりら
勇者杯も佳境に入り、闘技場を包む熱気はいよいよ増していた。
「そこだ! 行け! 何をしている、今の隙を逃すな!」
観客席を見下ろせる特等の観覧室で、ザハルは身を乗り出して叫んでいた。手元には飲みかけの茶が置かれ、その周囲には大会の進行表や領主として処理すべき書類まで雑然と積まれている。どうやら本当にここで仕事まで済ませているらしい。
眼下では次の試合が繰り広げられていたが、ザハルにとっては領地の政務よりもよほど重要らしく、選手が大技を放つたびに椅子から腰を浮かせている。
そこへ、慌ただしく扉が叩かれた。
「ザハル様!」
「なんだ! 今いいところだぞ!」
「緊急のご報告です!」
「後にしろ!」
「地下です! 封印区画へ続く扉が開かれました!」
ザハルの動きが止まった。
視線だけが、ゆっくりと扉へ向く。
「……なんだと?」
入室を許された兵士は息を切らしながら駆け込み、片膝をついた。
「先ほど、地下監獄のさらに下層、封鎖されていた区画へ続く扉が開かれているのを巡回の者が発見しました。内部へ侵入した者がいるものと思われます」
「誰だ」
「分かりません」
「分からないとはなんだ!」
「追跡しようとしたのですが、その先に結界が張られておりまして……我々では突破できず、侵入者を追うことができません」
ザハルは立ち上がった。
先ほどまで眼下の試合へ向けられていた興味は、完全に消えている。
「……封印は?」
「現在、確認できません。ただ、内部で魔力の変動が続いています。何者かがさらに奥の封印へ干渉している可能性があると」
「な、なぜもっと早く報告しなかった!」
「発見後すぐに参りました!」
「言い訳をするな!」
理不尽に怒鳴りつけてから、ザハルは観覧室の中を落ち着きなく歩き回った。やがて意を決したように出口へ向かい、数歩進んだところで止まる。
「兵は?」
「は?」
「地下に兵は何人いる!」
「通常の警備でしたら、」
「通常では足りん! 増やせ!」
兵士が目を瞬く。
「しかし、侵入者はすでに結界の向こうです。地下監獄まででしたら危険は──」
「お前に何が分かる! 侵入者が一人とは限らんだろう! 精鋭を呼べ。いや、精鋭だけでは足りん。闘技場の警備からも回せ!」
「ですが、大会の最中ですので──」
「いいか、今から私が向かう! その私に何かあったら大会どころではないだろうが!」
結局、ザハルが観覧室を出発した頃には、その後ろに十数人の武装した衛兵が付き従っていた。
それでも足りないと何度か口にしたものの、勇者杯の警備まで空にするわけにはいかないと説得され、渋々その人数で妥協したらしい。
地上の歓声が遠ざかり、一行は闘技場の地下へ降りていく。
石造りの階段を下るにつれて空気は冷え、華やかな大会の気配は薄れていった。やがて地下監獄へ続く鉄扉を抜ける頃には、観客たちの声も天井の向こうに微かに響く程度になっている。
ザハルは周囲を囲む衛兵を何度も確認しながら進んだ。
「おい、お前たち。前を歩け」
「はっ」
「そっちもだ。後ろを固めろ」
「はっ」
「左右も空けるなよ」
言われるままに衛兵が動いた結果、ザハルは完全に集団の中央へ収まった。
ようやく少し安心したらしい。
「まったく、誰だか知らんが面倒を起こしおって……捕らえたらただでは済まさんぞ」
安全を確保した途端に威勢を取り戻し、ぶつぶつと文句を言いながら地下監獄へ足を踏み入れる。
そこで、先頭の衛兵が止まった。
「どうした」
返事がない。
「おい、どうしたと聞いている!」
「ザハル様……」
衛兵の声が震えていた。
「囚人が、一人……」
ザハルが兵士たちの隙間から前を覗き込む。
地下監獄の通路。
左右に並んだ鉄格子の一つが、見るも無惨にひしゃげていた。
鍵を開けたのではない。鉄格子そのものが外側へ押し曲げられ、人間一人が悠々と通れるほどの穴ができている。
その前に、男が立っていた。
擦り切れた外套、身の丈ほどもある大剣顔の上半分を覆う、目穴すらない鉄仮面。
「……あ」
ザハルの足が止まった。
先日の広場で捕らえた男──ロドだった。
「な、なぜ出ている!」
ロドは答えない。
大剣を片手に、こちらを向く。
それだけでザハルは一歩下がった。
「何をしている! 捕らえろ!」
命令と同時に、周囲を固めていた衛兵たちが前へ出た。
「抵抗するな!」
「武器を捨てろ!」
狭い通路を塞ぐように盾が並び、その隙間から槍が一斉に突き出される。
ロドは動かなかった。槍の穂先が届く寸前まで。
大剣が振られた。
たった一振りだった。
鈍い衝撃音が地下監獄を揺らし、正面に並んでいた盾兵がまとめて横へ弾き飛ばされた。後ろにいた兵まで巻き込まれ、何人もの身体が石壁や鉄格子へ叩きつけられる。
「なっ」
ザハルの声が裏返った。
左右から別の衛兵が斬りかかる。
ロドは一人目の剣を大剣の腹で受け流し、そのまま柄を返して兵士を転がした。背後から迫った槍には振り返りもしない。身体を僅かにずらして穂先をかわし、踏み込んだ勢いのまま肩からぶつかると、衛兵の身体が後続ごと押し戻される。
「囲め! 囲めと言っているだろう!」
ザハルが叫ぶ。
だが、囲むだけの人数は確かにいたはずなのに、ロドの周囲には瞬く間に空間ができていった。
剣を振るえば弾かれ、槍を突けばかわされ、盾を並べればまとめて押し崩される。ロドは大剣を振り回しているように見えて、その軌道には一切の無駄がない。刃をまともに当てることさえせず、立ちはだかる者だけを次々と戦闘不能にして前へ進んでくる。
そして、最後の一人が大剣の腹で薙ぎ払われた。
衛兵が石床を滑り、ザハルの足元まで転がってくる。
「…………」
つい先ほどまで自分を取り囲んでいた十数人の兵士が、全員倒れていた。
その向こうで、ロドだけが立っている。
鉄仮面が、真っ直ぐザハルへ向けられた。
「戦え」
「ひっ」
短い一言に、ザハルの肩が跳ねた。
「な、何を言っている! 私はこの都市の領主だぞ! 貴様のような犯罪者を相手にするわけがないだろう!」
「オレは貴様と戦うために、ここに残った」
「知らん! そんなもの私には関係ない!」
ロドが一歩踏み出すと、ザハルは二歩下がった。
「く、来るな!」
さらに一歩。
「来るなと言っているだろう!」
もう一歩。
「誰か! 誰かいないのか!」
ザハルはとうとう背を向けて走り出した。
「増援だ! 衛兵を呼べ! こいつを殺せ! 早くしろ!」
返事はない。
地下監獄に響くのは自分の足音と、背後から一定の間隔で近づいてくる重い足音だけだった。
ザハルは必死に通路を駆ける。何度も後ろを振り返り、そのたびに悲鳴を上げて速度を増した。ロドは走ってすらいない。大剣を片手に提げ、普段と変わらない歩調で追ってくる。
「な、なんなんだ貴様は! 金か!? 金なら払う! 望むだけ払ってやる!」
「いらん」
「なら女か!? 地位か!? なんでも用意してやる!」
「いらん」
「だったら何が欲しい!」
「戦え」
「それ以外を言え!」
怒鳴りながら角を曲がり、ザハルは近くにあった鉄扉へ飛び込んだ。
すぐさま扉を閉め、閂を落とす。
「はっ、はあっ……」
分厚い鉄扉だった。地下監獄で暴動が起きた際、区画そのものを封鎖するために作られている。人間がどうにかできる代物ではない。
ようやく助かった。
そう思った直後、扉の向こうから衝撃が響いた。
「ひぃっ!」
二度目。
鉄扉が大きくへこむ。
「嘘だろ……」
三度目はなく、代わりに大剣が鉄扉を突き破った。
「ひゃああああっ!」
ザハルは尻餅をつき、そのまま四つん這いになって奥へ逃げた。背後では大剣が引き抜かれ、続けざまの一撃で閂ごと扉が吹き飛ぶ。
轟音とともに鉄扉が床を滑った。
その向こうからロドが現れた。
「戦え」
「誰か助けてくれぇ!」
ザハルは立ち上がると再び逃げ出した。
地下監獄を管理する立場だけあって、その構造は知り尽くしている。通路を曲がり、階段を下り、普段は使わない管理用の区画まで逃げ込んだ。
それでもロドは追ってくる。
「しつこいぞ! 私は弱い! 見れば分かるだろう!」
「弱くない」
「弱い! ものすごく弱い! 剣などまともに握ったこともない!」
「嘘だな」
「なぜ分かる!」
返事はなかった。
ザハルは悪態を吐きながら走り続けた。
やがて、ザハルは通路の突き当たりまで追い込まれた。
「……ま、待て」
背中が石壁にぶつかる。もう下がれない。
ロドは歩みを止めず、大剣を引きずりながら近づいてくる。
「話し合おう。な? 貴様をここから出してやる。広場での一件も不問にするし、金だって好きなだけ払おう。だから、もう十分だろう?」
「戦え」
「だから嫌だと言っているだろう! 私は領主だぞ! 戦士ではない!」
ロドが大剣を構えた。
ザハルは壁に背をつけたまま、逃げ道を探すように左右を見る。
「本当に待て! 殺すな! 頼む、命だけは──」
大剣が振り下ろされ、轟音が響いた。
だが、砕けたのはザハルではなく、その背後にあった石壁だった。
ロドが僅かに鉄仮面を動かす。
ザハルは、すでにそこにはいなかった。
「……だから」
声は横から聞こえた。
「嫌だと言っただろう」
ロドが振り向く。
逃げ回るうちに、丁寧に撫でつけられていた灰色の髪はすっかり崩れ、何房も額へ垂れ落ちていた。先ほどまで怯えきっていた男と同じ顔、同じ声のはずなのに、その目だけが異様なほど爛々と輝いている。
獲物を前にした捕食者のような目だった。
「おれは、戦いたくないんだ」
ザハルが片手を上げる。
何もない空間が揺らいだ。
その手の中へ、一本の槍が現れる。
黒鉄めいた長い柄には、血管のような赤黒い筋が幾重にも走り、その先端には歪に捻れた巨大な穂先が据えられていた。刃は鈍い黒光りを帯び、周囲の光まで呑み込んでいるように暗い。武器というより、何か巨大な生物から切り出した牙を無理やり槍へ仕立てたような、禍々しい代物だった。
ザハルはそれを掴むと、軽く息を吐いた。
「まったく……どうしてこんなことになる」
次の瞬間には、ロドの目前にいた。
大剣が持ち上がるより速く槍が走る。
一閃。
それだけだった。
ロドの身体が崩れ落ちる。
大剣が石床へ落ち、重い音を響かせた。
「…………」
ザハルはしばらく槍を構えたまま動かなかった。やがて、ロドが起き上がってこないことを確かめると、手から槍が消える。
爛々と輝いていた目からも異様な光が薄れ、ザハルは乱れた髪を慌てて撫でつけた。しかし何度手櫛を通しても、元のようには整わない。
「まったく……なんなんだ、こいつは」
倒れたロドから距離を取り、乱れた服を直す。そして、誰もいなくなった通路を見回した。
「衛兵! どこにいる!」
声を張り上げる。
「もう終わったぞ! 早く来い! 私を助けろ! おい、誰かいないのか!」
返事はなかった。
「役立たずどもめ……! 何のために雇っていると思って──」
「もう一戦だ」
「ひゃあああああああああああっ!?」
勢いよく振り返ると、そこには死んだはずのロドが起き上がっていた。
首を軽く鳴らし、大剣を拾い上げる。
「いい槍だ」
「な、な、な……」
「次はどう来る?」
「なんで生きてるんだ貴様はぁ!?」
ザハルの悲鳴が地下監獄いっぱいに響き渡った。
ロドは答えず、拾い上げた大剣を肩へ担いだ。先ほど確かに致命となる一撃を受けたはずなのに、立ち姿には僅かな衰えも見えない。それどころか鉄仮面の下に覗く口元は愉快そうに吊り上がり、ザハルが後ずさるのに合わせて一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「待て! おかしいだろう! 今ので終わりだ! どう考えても終わりだろう!?」
「オレはまだ戦える」
「そういう問題ではない!」
ロドが床を蹴った。
「ひぃっ!」
情けない悲鳴を上げながら、ザハルの手に再び槍が現れる。横薙ぎに迫った大剣を柄で受け止めると凄まじい衝撃が通路を駆け抜け、周囲の鉄格子が一斉に震えた。ザハルの身体が横へ押されるものの、数歩で踏み止まる。そこへロドがさらに踏み込み、押し込んだ大剣を強引に返して斬り上げた。
「や、やめろと言っている!」
ザハルは槍から片手を離した。
掌の前に幾重もの魔法陣が重なり、閃光とともに衝撃が炸裂する。至近距離からまともに食らったロドが吹き飛び、鉄格子を二つまとめて突き破って牢の中へ転がり込んだ。
それでも、すぐに瓦礫が動いた。
「う、嘘だろう……」
ロドが何事もなかったように立ち上がる。
「いいぞ」
「よくない!」
大剣が振るわれ、砕けた鉄格子の残骸がまとめてザハルへ飛んだ。ザハルは槍を振るってそれらを弾き落としたが、その向こうからロドが突っ込んでくる。飛来物は目隠しに過ぎない。低く構えた大剣が胴を狙って迫り、ザハルは咄嗟に上体を反らした。
ただ、その避け方がおかしかった。
足は動いていない。
腰から下をその場に残したまま、上半身だけが倒れるように後方へ沈み、大剣が胸のすぐ上を通過する。人間ならばそのまま背中から床へ落ちる角度だったが、ザハルの身体はそこで止まった。
ロドが僅かに動きを止める。
ザハルの目が爛々と光った。
「だから──」
倒れかけた姿勢のまま身体が跳ね起きた。
「やめろと言っている!」
槍の石突きがロドの顎を打ち上げ、その身体が浮いたところへ、ザハルは穂先を向ける。空中にいくつもの魔法陣が展開し、そこから放たれた光弾が次々とロドへ殺到した。
爆発が重なる。
ロドの身体はさらに奥へ押し流され、最後の一発を受けて石壁へ叩きつけられた。壁面が大きく窪み、亀裂が天井まで走っていく。
「はあっ、はあっ……」
ザハルは槍を握ったまま肩で息をする。
「……今度こそ死んだだろうな」
瓦礫の中から腕が伸びた。
「ひぃぃっ!?」
大剣を支えにロドが立ち上がる。
「貴様、本当にいい加減にしろ! 私は戦いたくないと言っているだろう!」
「オレは戦いたい」
「知るか!」
ロドが笑い、また突っ込んできた。
今度は先ほどまでより速い。
大剣を頭上から叩きつけると見せかけ、寸前で軌道を変えて胴へ薙ぐ。ザハルは槍を縦にして受けたものの、そのまま壁際まで押し込まれた。石壁を背に逃げ場を失ったところへ、ロドは大剣を引き戻すことなく柄頭を打ち込む。
ザハルの頭が横へ弾かれた。
「──っ!」
初めてまともに一撃が入った。
「ハッ!」
「喜ぶな!」
続けて振り下ろされた大剣を、ザハルは横へ転がって避ける。刃が石床へ食い込んだ瞬間、槍を手放して両手を床についた。
そのまま、四肢を使って駆けた。
ロドの横を抜けるほんの一瞬だけだったが、それは到底、人間の走り方には見えなかった。地面を這う獣のような低さで一気に間合いを詰め、ロドの背後へ回り込むと同時に二本の脚で床を蹴る。
ザハルの身体が跳ね上がる。
空中で槍を再び顕現させ、その勢いのままロドへ叩きつけた。
大剣が間に合う。
槍と大剣がぶつかり合い、火花が散った。
ザハルは空中にいる。踏ん張る場所などない。それにもかかわらず押し負けたのはロドの方だった。
巨体が沈み、石床が足元から砕ける。
「ぐ……!」
「終わりだ終わり! おれさまの平穏のために消え失せろお!」
ザハルは槍を押し込んだまま片手を離すと、ロドの胸へ掌を向けた。至近距離に魔法陣が生まれ、そこから炎が噴き出す。爆炎に呑まれたロドが吹き飛ぶより先に、ザハルはさらに別の魔法を組み上げた。
床が隆起する。
石の柱が下からロドを打ち上げ、天井すれすれまで浮いた身体へ雷が落ちる。青白い閃光が地下を埋め尽くし、遅れて轟音が鼓膜を叩いた。
それでも終わらない。
落下してきたロドを待ち構え、ザハルは槍を両手で握った。
「これで──」
踏み込む。
「トドめだぁ!」
槍の一撃がロドを捉え、地下監獄の奥へと吹き飛ばした。何度も床を跳ね、転がり、やがて動かなくなる。
今度こそ静寂が訪れた。
ザハルはその場にへたり込みそうになりながらも、槍を杖代わりにしてどうにか立っていた。
「……死んだか?」
返事はない。
安堵した途端、手の中の槍が消えた。
ザハルは乱れた灰色の髪を両手で撫でつけ、服についた埃を払い始める。何度整えても髪は元通りにはならず、苛立たしげに舌打ちしてから、倒れているロドへ恨めしそうな視線を送った。
「まったく……とんでもない奴だ。こんな騒ぎを起こしおって」
「もう一戦だ」
「ぎゃあああああああっ!」
ザハルが飛び退いた。
ロドはまた起き上がっていた。
「なんなんだ貴様は! どうして死なない!?」
先ほどまでの異様な攻防が嘘だったかのように、ザハルは悲鳴を上げながら通路を走り、背後から迫る大剣に頭を抱えた。
「来るな! 来るなと言っているだろう!」
振り返りざまに片手を振る。
それだけで床から巨大な氷柱が突き出し、ロドを天井近くまで弾き飛ばした。
ザハルは逃げ続けている。命乞いもする。隙があれば衛兵を呼び、どうにかロドから離れようとする。そのくせ追いつかれるたび、尋常ではない魔法と槍術で返り討ちにするのは決まってザハルだった。
「もう一戦だ」
「なんなんだよこいつはぁ!」
半ば泣きながら放った魔法が爆発し、ロドが通路の向こうへ消えていく。ザハルは息を切らしながら、その場で膝に手をついた。
「はあっ……はあっ……いい加減に……」
足音が聞こえた。
「…………」
ザハルが恐る恐る顔を上げる。
しかし今度は、ロドが飛んでいった方向ではない。
反対側の通路からだった。
「だ、誰だ!?」
すぐさま声を張り上げる。
「衛兵か!? 遅いぞ! 早くこいつをどうにか──」
「うるせェな」
聞き覚えのない声だった。
暗い通路の向こうから、一人の男が歩いてくる。
年季の入った外套に、着物の下にシャツを着込むというこの国では妙に浮いた格好。腰には二振りの刀が差され、一振りは異様な禍々しさを放っている。
『あるじー、なんかすごい音してたよ?』
「見りゃ分かる」
キスケは崩れた壁や床、ひしゃげた鉄格子を見回した。その先で、瓦礫を押し退けながらロドがまた立ち上がる。
「……何してんだ、てめェ」
「キスケか。貴様こそ何をしにきた」
ロドは大剣を拾いあげようとしながら問う。
「助太刀に来た」
「…………え?」
ロドの口から、普段ならまず出ない間の抜けた声が漏れた。鉄仮面の奥からキスケを見据えたまま、しばらく微動だにしない。先ほどまで何度叩きのめされても嬉々として立ち上がっていた男が、今度ばかりは大剣を拾うことさえ忘れていた。
「どういう風の吹き回し──」
「……なぜだッ!!」
しかしザハルの声が割り込んだ。
その視線は、キスケのさらに後ろへ向けられている。
通路の暗がりから、もう一人の男が姿を現した。
前髪を軽く上げ、眼鏡をかけた男だった。上等な衣服の大半をローブの下へ隠し、いつものようにどこか申し訳なさそうな様子で立っている。
レイヴァン・クローデル。
その姿を見たザハルから、先ほどまでの情けない狼狽が消えていた。
「……なぜだ」
レイヴァンは答えない。
ザハルの乱れた灰色の髪の下で、目が大きく見開かれる。
「貴様ッ、なぜ生きている!」
本来なら、一生のうちに一度口にすることさえ珍しいはずの言葉を、ザハルは今日だけでもう何度叫んだか分からなかった。