カスどもの救世 作:もりもりら
話は少し前に遡る。
「キスケさん」
次の試合を控えたキスケが選手用の通路を歩いていると、背後から呼び止められた。
振り返ればレイヴァンが立っている。いつものローブに、いつもの眼鏡。そして何か頼み事でもする前から謝っているような、あの頼りない佇まいも変わらない。
「……誰だよてめェ」
「……ああ、名前もまだ明かしていませんでしたね。私はレイヴァン・クローデル。貴方に全てを賭ける者です」
「はァ? 何言ってんだてめェ」
「すみません。少し、お時間をいただけませんか」
「これから試合なんだよ」
「長くは取りません。それと……できれば、人のいないところで」
キスケは露骨に嫌そうな顔をしたものの、レイヴァンは引かなかった。
仕方なく連れてこられたのは、闘技場の外周に設けられた小さな露台だった。
石造りの手摺の向こうには、城塞都市ラウルグが広がっている。巨大な外壁に囲まれた街並みを午後の陽が照らし、赤茶けた屋根の合間を縫って大通りが伸びていた。勇者杯に合わせて掲げられた色とりどりの旗が風を受けてはためき、露店の並ぶ広場には、この高さからでも分かるほどの人が溢れている。
背後の闘技場から歓声が上がった。
石壁を一枚隔てただけで音は遠くなり、風の音に混じって街へ流れていく。
「で?」
キスケは手摺に背を預けた。
「なんだよ」
「以前、貴方は私に面倒なことに巻き込むなと仰っていましたね。ですが、それは難しい状況になりました」
黙ったまま眉根を寄せるキスケに、レイヴァンは困ったように眼鏡を押し上げた。
「全てをお話します。私は最初から、強い人間を探すために勇者杯へ来ました」
風が二人の間を抜けていった。
レイヴァンのローブの裾が揺れ、その向こうでは大会の旗が大きく膨らんでいる。
「私は、ザハルを殺せる人間を探しています」
キスケが僅かに眉を寄せた。
「ザハルって、ここの領主か?」
「はい」
「あの偉そうなおっさんを?」
レイヴァンは眼下の街へ目を向けたまま答えた。
「その理由をお話しする前に、一つ知っていただかなければならないことがあります。キスケさん。勇者の遺物《久遠の指輪》について、どこまでご存じですか」
「優勝すりゃ貰える」
「それだけですか?」
「それ以外になんかあんのか」
「……ええ」
レイヴァンはローブの内側へ手を入れた。
取り出したのは、小さな布包みだった。
幾重にも巻かれた布を解いていくと、中から一つの指輪が現れる。華美な宝石もなければ、人目を引く装飾もない。金属は長い年月を経たようにくすみ、一見しただけなら闘技場に飾られているものの方がよほど伝説の遺物らしかった。
だが。
「……おい」
キスケが胸元を押さえた。
着物の内側で、ネックレスが淡い光を放っている。
今まで何度も闘技場で目にした指輪には、一度たりとも示さなかった反応だった。
「それ……」
レイヴァンの掌で、古びた指輪が陽光を受ける。
「こちらが本物です」
眼下では何も知らない人々が勇者杯を楽しみ、大通りを行き交っている。
「じゃあ、あそこに飾ってあんのは」
「偽物です」
キスケは一度、闘技場の方を見た。
「ふざけんな!」
怒声に驚いた鳥が、近くの屋根から一斉に飛び立った。
『あるじ、うるさーい』
「うるせェ! 俺はアレのためにこんなとこまで来てんだぞ!」
「お気持ちは分かります」
「分かってたまるか!」
ひとしきり怒鳴ったあと、キスケは大きく息を吐いた。
「……なんでてめェが持ってんだよ」
「私のものだからです」
「は?」
「正確には、私が継承したものです」
レイヴァンは指輪を掌の上で転がした。
「《久遠の指輪》。遥かな過去から未来まで、永遠と一瞬。そのすべてに存在し得るが故に、時に干渉する力を持つと伝えられています」
「時に干渉?」
「継承者は生涯に一度だけ、この指輪によって時を越えることができる」
遠くで鐘が鳴った。
次の試合が始まったのだろう。
すぐに闘技場から歓声が湧き上がり、それもやがて風に攫われていく。
「過去へも、未来へも」
キスケは何も言わなかった。
レイヴァンが冗談を言っているようには見えない。それ以上に、胸元のネックレスが目の前の指輪を本物だと告げていた。
「……時を超えるなんて、ありえねェだろ」
「それが有り得るのですよ」
「どうして言い切れる」
「使ったからです。この、私が」
あっさりとした答えが返ってくる。
「私は、この時代の人間ではありません。
──過去から来ました」
その言葉だけが、風の中にはっきりと残った。
「……どれくらい前だ」
「およそ三十年です」
「……思ったより最近だな」
「ええ。ですが、私にとってはここが未来であることに変わりありません」
レイヴァンは街を見下ろした。
「三十年前、この街を治めていたのは私です」
キスケの視線がレイヴァンへ戻った。
「てめェが?」
「はい。レイヴァン・クローデル。かつて、このラウルグを治めていた者の名です」
眼下には現在のラウルグがある。
人が行き交い、商人が声を張り、遠くの広場では子供たちが勇者杯の真似事でもしているのか、木の棒を振り回して走っていた。
「そして、私からこの街を奪ったのがザハルです」
レイヴァンの声は穏やかなままだった。
「奴は私が《久遠の指輪》の継承者であることを知っていました。襲撃を受け、私は殺されかけた。そこで用意していた偽物を渡し、死んだふりをしてどうにか生き延びました」
「偽物なんて最初から用意してたのか」
「立場上、狙われることには慣れていましたから。もっとも、あれほどの相手が来るとは思っていませんでしたが」
「そんなに強いのかよ。なにもんなんだ、ザハルってのは」
レイヴァンは眼下の街から視線を外し、キスケへ向き直った。
「──あれは、このラウルグの地下に封印されていた魔物です」
断言だった。
推測でもなければ、疑っているという言い方でもない。レイヴァンは三十年前、自分からこの街を奪った男の正体を知っている。
「遥か昔、魔王が存在していた時代、この地には一体の魔物が封印されました。勇者が殺しきれず、地下深くに閉じ込められた魔物。それがザハルです」
「……なんで魔物風情が、領主なんかやってんだよ」
「それは私にも分かりません。ですが私がこの街を治めていた頃には、すでに封印は相当に弱まっていたのでしょう。今からおよそ三十年前、ザハルは地上へ現れました。そして私を襲い、領主の座を奪った」
レイヴァンはそこまで話すと、石造りの手摺へ片手を置いた。長い年月を経た石の表面には細かな傷が刻まれ、その向こうでは、彼がかつて知っていたものとは違うラウルグが午後の日差しの中に広がっている。
「私はどうにか生き延びたあと、ザハルについて調べました。そして奴が地下に封じられていた魔物だと突き止めた。正面から戦っても勝ち目はない。ならば、まだ弱かった頃に殺してしまえばいい。封印されるよりもさらに昔、勇者と戦うよりも前へ戻り、力をつける前のザハルを倒す。そのために《久遠の指輪》を使いました」
「それで昔まで行って、弱いうちに殺そうとしたわけか」
「そのつもりでした」
「そのつもり?」
「……失敗しました」
レイヴァンが申し訳なさそうに笑った。
「過去へ向かったはずが、私は未来へ来てしまった」
「逆じゃねェか」
「返す言葉もありません」
「しかも一回しか使えねェんだろ」
「はい」
「馬鹿じゃねェの?」
「それも否定できませんね」
キスケは呆れたように鼻を鳴らした。
その横で、レイヴァンはまたもや街を眺めている。
「ですが、目を覚ましてから……別の意味でも驚きました」
「なんだよ」
「ラウルグが、まだあった」
キスケもつられて街を見やる。
「それどころか、私が治めていた頃よりも……」
レイヴァンは一度言葉を切った。
大通りを埋める人の群れ。城壁の内側いっぱいに広がった家々。荷馬車が門を出入りし、勇者杯を目当てに訪れた旅人や商人が街へ金を落としている。露店から立ち上る焼いた肉や香辛料の匂いが、高い露台にまで微かに届いていた。広場では子供たちが駆け回り、そのすぐ横を呆れた様子の母親が通り過ぎていく。さらにその向こうでは、新しい建物を造っているのか、足場を組んだ職人たちが忙しなく資材を運んでいた。
ザハルが善政を敷いている、とまで言うつもりはないのだろう。あの男の性格を少し見ただけのキスケにも、それは違う気がした。ただ、街は生きている。少なくとも三十年前に奪われ、それから滅びへ向かった都市には見えなかった。
何か納得できないものを見るように街を眺めていたが、やがて小さく首を振る。
「ザハルが何を考えているのか、私には分かりません。人間を憎んでいるのか、ただ権力が欲しかったのか、それとも別の目的があるのか。三十年前も分からなかった。そして未来へ来た今は、余計に分からなくなりました」
「本人に聞きゃいいだろ」
「話し合いのできる相手なら、三十年前に殺されかけてはいませんよ」
「そりゃそうか」
あっさり納得したキスケに、レイヴァンは苦笑した。そのとき闘技場から一際大きな歓声が響き、露台の石床まで微かに震わせた。どうやら試合が決着したらしい。興奮した観客の声はしばらく続いたが、やがて次第に小さくなり、代わって街の雑踏が耳に戻ってくる。
「ともかく、私はザハルの正体と目的を確かめる必要があります。そして、必要ならば今度こそ倒さなければならない。ですが──」
「てめェじゃ勝てねェ」
「はい。三十年前、一度も勝てませんでした」
そこだけは取り繕うことなく、レイヴァンは認めた。
「だから、勇者杯へ来たのか」
「これだけ大きな大会なら、各地から腕に覚えのある者が集まる。もしかすれば、私では敵わなかったザハルを倒せるほどの人物も現れるのではないかと考えました」
そこでキスケは何かを思い出し、レイヴァンを睨んだ。
「……刀盗まれたとき、てめェが盗人止めずに俺を起こしたのもか?」
「…………」
「おい」
「申し訳ありません」
「やっぱりてめェ、俺を試してやがったな」
レイヴァンは眼鏡を押し上げながら視線を逸らした。ちょうど眼下を一群の鳥が横切り、闘技場の屋根に止まった。
「貴方がどれほど強いのか、どうしても確かめる必要がありました。あの刀を盗まれるまで眠り続けていたのは予想外でしたが」
「起こせや」
「起こしましたよ。盗まれたあとに」
「その前だよ!」
再びキスケの怒声が響き、近くに留まっていた鳥まで慌てて飛び立った。
「まあ、結果として貴方の実力を知ることはできました」
「そのために人の刀使ってんじゃねェ。あの後慰めるのに大変だったんだからな」
「そこについては本当に申し訳ないと思っています」
「本当に思ってんのか?」
問い詰めようとしたところで、レイヴァンは姿勢を正した。それまでのどこか頼りない態度がわずかに薄れ、キスケを真っ直ぐ見据える。そして躊躇いなく頭を下げた。
「ですが、おかげで確信できました。貴方なら、ザハルを倒せるかもしれない。……キスケさん。お願いします。私と共に、ザハルを倒していただけませんか」
「嫌だ」
即答だった。
レイヴァンはしばらく黙っていたが、それ以上頼み込むことはなく、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうですか」
「ああ。三十年前だか何百年前だか知らねェが、そいつとてめェの因縁だろ。俺を巻き込むんじゃねェ」
そう言ってしまえば、それで終わる話だった。
キスケは手摺から背を離し、闘技場へ戻ろうとする。しかし二歩ほど進んだところで足が止まった。
「…………」
『あるじ?』
「……チッ」
舌打ちして、頭を掻く。
知らなければよかった、とキスケは思った。
自分には関係ない。三十年前に何があったのかも、ザハルが何者なのかも、レイヴァンが元領主だったことも、本来ならどうでもいい。世界には困っている人間など掃いて捨てるほどいる。その一人一人を助けて回るほど暇でもなければ、そんな立派な人間になった覚えもなかった。
だが、こうして事情を聞いてしまった。
目の前には、自分では勝てない相手をどうにかしてくれと頭を下げている男がいる。そして、その相手を自分なら倒せるのだ。
そこまで揃ってしまうと、放っておくのも寝覚めが悪い。
昔からそうだった。目の前で魔物に襲われている人間がいれば、わざわざ見殺しにはしない。手を伸ばせば届くところにいるなら、仕方なく助ける。その程度のことはする。
問題は、キスケの場合、その手が届く範囲が少々広すぎることだった。
普通ならどうにもできない魔物も斬れる。普通なら諦めるしかない相手にも手が届く。だからといって、届くものすべてに手を伸ばしていたらきりがない。強いから助けろ、できるからやれと言われ続ければ、結局は村にいた頃と同じだ。自分の力を理由に、他人が勝手に自分の役目を決め始める。
そんなものはもう御免だった。
だというのに、一度事情を聞いてしまえば、何もしないというのも妙に後味が悪い。
「…………チッ」
二度目の舌打ちは、一度目より長かった。
背後では、レイヴァンが何も言わず待っている。急かしもしなければ、正義だの人々のためだのと説教してくることもない。それがかえって腹立たしかった。
キスケは眼下に広がるラウルグを一瞥した。これだけ人間がいれば、困っている奴の一人や二人どころではないだろう。手を伸ばそうと思えば、どこまでだって伸ばせる。
「……あー、クソ。面倒くせェな」
助けるとも、助けないとも言えないまま、キスケは頭を掻いた。
その様子をしばらく見ていたレイヴァンが、ふと思い出したように口を開く。
「では、依頼として引き受けてください」
レイヴァンが再びローブへ手を入れる。布の擦れる小さな音のあと、先ほどの包みが取り出された。
その布が開かれた瞬間、キスケの胸元でネックレスが再び光を帯びる。
「ザハルを倒すのに力を貸していただけるのであれば、報酬として《久遠の指輪》を差し上げます」
キスケの視線が、掌の上の指輪へ落ちた。
遠くで大会の進行を告げる鐘が鳴っている。大通りから届く雑踏も、闘技場を満たす歓声も変わらない。三十年前からこの街にいなかった男と、三十年間この街に居続けた男。その二人の事情など何一つ知らないまま、ラウルグでは今日も人々が飯を食い、商売をし、勇者杯に熱狂している。
ああ、そうだ。そのすべての時間を越えてきた男の手に、《久遠の指輪》はあった。
「やる」
レイヴァンは何度か瞬きをした。
「……あはは、貴方らしいのかもしれませんね」
「なんでだよ。つうか俺は最初からそれ目当てでここまで来てんだぞ。本人がくれるっつってんなら大会出る意味もねェだろうが」
「それは、まあ……そうなのですが」
「だったらさっさと倒しに行くぞ」
キスケは踵を返し、今度こそ露台を出ようとする。
「キスケさん」
「あ?」
呼び止められて振り返ると、レイヴァンは指輪を布に包みながら、ほんの少し可笑しそうに笑っていた。
「貴方という人が、少し分かってきた気がします」
「気色悪ィこと言ってんじゃねェ」
『あるじぃ、嬉しそう』
「そりゃそうだろ! 指輪が手に入んだぞ!」
誰もいない横へ喋りかけながら、キスケは露台を出ていく。その背中を眺めながら、レイヴァンは手の中に残った《久遠の指輪》を布で包み直した。
本来ならば、彼ではないのだろう。
勇者杯には王子アルバートがいる。身分も素性もはっきりしており、その人柄も、これまでの振る舞いを見る限り信用に値する。ましてや勇者の遺物や勇者の因縁に関わる話なのだ。誰に託すべきかと問われれば、王族であり、勇者の血を引く彼を選ぶ方がずっと真っ当だった。
一方で、キスケについて知っていることなどほとんどない。どこから来たのかも、何をして生きてきたのかも、あの異常な強さをどこで身につけたのかも分からない。金に目がなく、態度は粗暴で、おぞましい刀を持ち、その刀とおそらく会話をしているだろう男。信用できるかと問われれば、レイヴァンにもまだ頷くことはできなかった。
それでも、選ぶならこちらだった。
レイヴァンは闘技場を運営していた。人間同士が傷つけ合い、ときにはその人生そのものが壊れる様を、大勢の人間が歓声を上げて楽しむ場所である。その醜悪さを知らなかったわけではない。それでも必要ならば使ったし、そこから生まれる富も、人の流れも、街を潤す熱狂も利用してきた。
綺麗なものだけを選んで目的を果たせるほど、世の中は都合よくできていない。要はレイヴァンは、聖人などでは決してなかったのだ。ただ三十年前に殺されかけ、未来へ誤って渡ってきただけの男。そして、闘技場を運営してきただけに、賭けにおいては誰よりも上手い自信がある。
ザハルを倒す。
そのためならば、まだ信用しきれない男に全てを賭けることも厭わない。勇者の遺物を報酬として差し出すことも。正しい人間に希望を託すより、確実に届き得る刃を選ぶ。
そこに後悔など、微塵もなかった。