カスどもの救世 作:もりもりら
──そして、現在。
「なぜ貴様が生きている!」
本来なら、一生のうちに一度口にすることさえ珍しいはずの言葉を、ザハルは今日だけでもう何度叫んだか分からなかった。
地下牢の奥、崩れた石壁の向こうから現れたレイヴァンを見て、ザハルは完全に動きを止めていた。丁寧に撫でつけられていたはずの灰色の髪はロドとの戦いですでに乱れ、上等な衣服もあちこちに埃を被っている。領主らしい威厳などとうに消え失せていたが、それでもレイヴァンだけは見間違えようがないらしい。
「お久しぶりですね、ザハル」
「久しぶりではない! 貴様は死んだはずだ!」
「その話は後ほど。今は──」
レイヴァンが言い終えるより早く、横から大剣が振り下ろされた。ザハルは悲鳴を上げながら身を捻り、紙一重でそれを避ける。
「話している最中だろうが!」
「オレには関係ない」
「少しは待て!」
「待つ理由がない」
ロドは大剣を引き戻すなり、再び踏み込んだ。
「もう一戦だ」
「さっきからずっとやっているだろう!」
黒鉄めいた槍と大剣が激突し、地下牢に轟音が響いた。ザハルは押し込まれるどころか、片腕だけで大剣を弾き返す。その直後には反対側からキスケが斬り込み、ザハルは槍の石突きを床へ叩きつけて無理やり身体を浮かせた。
刃が靴底すれすれを通過する。
「お前まで来るな!」
「助太刀に来たっつっただろ。なにせ、報酬が出るんだからな」
キスケのとても正義の味方とは思えない悪どい笑みを見て、ロドはひとり「なるほど」と納得した。
「金か!? 金なのか!?」
「もっといいもんだ」
『わーい! やっと戦えるよー!』
着地したザハルへロドが迫り、キスケも反対側から刀を振るう。二人の間に打ち合わせなどない。互いに相手へ合わせる気すらないはずなのに、片方を防げばもう片方が死角へ入り、距離を取ろうとすれば逃げ道へ先回りされる。ザハルが魔法を放てばキスケが斬り払い、その隙にロドの大剣が迫った。
先ほどまでなら、ロド一人を何度でも葬れた。だが二人になった途端、それができない。
「鬱陶しい……!」
ザハルの槍から赤黒い光が迸った。キスケが横へ跳ぶのと同時に床が爆ぜ、石片が壁を叩く。その煙を突っ切ってロドが大剣を振り下ろすが、ザハルは槍で受け流し、その腹へ掌を向けた。
至近距離から魔力が弾ける。
ロドの身体が通路の奥まで吹き飛ばされ、積み上がった瓦礫へ突っ込んだ。
「一人!」
「減ってねェぞ」
瓦礫が動いた。
その下から鉄仮面が現れる。
「もう一戦だ」
「もう勘弁してくれえ!」
「気持ちは分かるぜ、マジでな」
何故か敵に慰められるザハルの悲鳴が地下牢に響いた。
キスケはその横から刀を振るった。槍が刃を受け止めると、甲高い金属音が耳を打つ。ザハルはそのまま力任せに押し返そうとしたが、キスケも引かない。刀と槍の間で火花が散り、互いの足元の石床に亀裂が走った。
先に離れたのはザハルだった。
槍を引くと同時に大きく後退し、荒い息を吐く。
「もういい……」
「あ?」
「もう、いいと言っているんだ」
ザハルは乱れた髪を掻き上げた。いつものように撫でつけようとしたのだろう。だが、途中で手が止まった。まるで、何かを諦めたかのようだ。
「……私は戦いたくない。痛いのも嫌だ。危険な目に遭うのも嫌いだ。人間とは、そういうものだ。私は人間だ、人間だから、弱くて脆い。だから衛兵を置いた。兵士を雇った。私が自分で戦わなくても済むようにしたのに……」
槍を握る指へ、力がこもった。
「どうして、こんなことになる」
俯いていたザハルが顔を上げる。
その目が、暗い地下で爛々と輝いていた。
「どうして、おれが──」
空気が震えた。
キスケが反射的に一歩退き、ロドは逆に大剣を構えて前へ出る。
「──また、これに戻らなければならないっ!」
ザハルの身体から魔力が噴き上がった。
床に積もった砂埃が円を描いて吹き飛び、壁に掛けられていた鎖が激しく鳴る。人間の輪郭を保っていた身体が大きく変貌していき、上等な衣服の下に隠されていたものが、ついに人の姿を捨てた。
そこに立っていたのは、もはやラウルグの領主ではなかった。
巨体が地下牢の天井近くまで届き、長い腕の先には人のものとは思えない爪が伸びている。全身を覆う硬質な外皮の隙間から赤黒い光が脈打ち、頭部には歪な角が後方へ伸びていた。先ほどまで手にしていた槍さえ、その身体と比べれば細く見える。
────遥かな昔、勇者によってこの地の地下へ封じられた魔物。
その姿を見上げ、ロドが頬を赤く染めて歓喜の声を上げた。
「やはり貴様は強いじゃないかぁ!」
「喜んでんじゃねェよ気色悪ィな」
「死ねぇえええええええい!!」
ザハルが獣のような声で吠え、巨大な腕を振り下ろす。
二人が左右へ散る。
床が大きく沈み、石片が雨のように跳ねた。キスケは飛んできた破片を刀で弾きながら距離を詰めるが、巨大化したザハルの外皮へ刃を叩きつけても、浅い傷しか残らない。
「硬ェな」
『あるじ!』
「なんだよ!」
『あたし、できること増えたよ!』
「今言うことか!?」
『今使えそうだから!』
ザハルの腕をかわしながら、キスケは無銘を握り直す。
「何ができんだよ!」
『刀に属性つけられるようになった!』
「……は?」
『神様食べたからかな? 炎まとえるようになったよ!』
キスケは走りながら無銘を見た。
「はぁ!? 溶けるだろうが!」
『大丈夫だもん!』
「何を根拠に言ってんだ! 怖ェよ!」
『じゃあ水でも、電気でも、風でもなんでもいいよ!』
「なんでも!?」
いつの間にそんな多機能になったのか。
考えている暇もなく、ザハルの尾が横薙ぎに迫る。キスケは身を低くして潜り抜け、そのまま叫んだ。
「じゃあ風で!」
『はーい!じゃああるじが魔力込めて風の魔法の基礎術式を刀の柄に刻んでねー!』
「そこは自動じゃねェのかよ!」
途端、無銘の周囲で空気が唸った。
刀身に沿って風が渦を巻き、甲高い音を立てながら加速していく。キスケが試しに刀を傾けると、触れてすらいない石床の表面がギャリギャリと削れ、細かな石粉が飛び散った。風圧がキスケ自身の手にも刺すように伝わってくる。
「殺意高ェなおい!」
『強いでしょ!』
「俺まで削れそうなのが怖ェんだけど!」
『大丈夫だもん!』
「てめェのその言葉信用なんねェんだよ!」
まあ、それでも使えるものは使う。キスケはそういう男である。彼は地を蹴った。
ザハルの爪が迫る寸前に身体を滑り込ませ、無銘を振り抜く。今度は硬質な外皮で刃が止まらなかった。刀身を覆う風が接触した瞬間から表面を削り、そこへ無銘そのものの刃が食い込んでいく。
ザハルが大きく身を引いた。
「貴様、その刀……!」
追撃しようとしたキスケの頭上を、大剣が通過した。
「危ねェ!」
ロドだった。
大剣はキスケのすぐ横を抜け、そのままザハルへ叩き込まれる。ザハルが腕で受け止めた瞬間、キスケは低い位置から無銘を振るった。
上をロド。
下をキスケ。
ザハルは大剣を押し返しながらキスケへ蹴りを放つが、その足をかわしたキスケが懐へ入り、風を纏った無銘を外皮へ滑らせる。
「ロド!」
「なんだ」
「上だ!」
それだけで十分だった。
キスケが無銘を下から振り上げる。
風が爆発した。
ただ斬るために纏わせていた風を一方向へまとめて放つと、ザハルの巨体が僅かに浮いた。
「なっ──!」
その下へロドが潜り込んでいた。
大剣を両手で握り、地面すれすれまで腰を落とす。
「いいな、それ」
キスケが笑う。
ロドも意図を理解した。
二人が同時に踏み込んだ。
無銘と大剣が、左右からザハルの巨体を掬い上げるように叩き込まれる。
「待っ──」
轟音。
ザハルの身体が天井へ激突した。
石造りの天井が砕け、巨体がそのまま上階へ突き抜ける。
「もう一発!」
キスケとロドも崩れた穴へ飛び込み、落下してくる瓦礫を足場に上へ追う。ザハルが体勢を立て直すより早く、風を纏った無銘と大剣が再び下から襲いかかった。
二度目の轟音とともに、さらに天井が抜けた。
「貴様ら、何を──!」
「突き上げろッ!」
三度目。
地下牢から地下施設へ、地下施設から闘技場の基部へ。ザハルが止まろうとするたび、下から二人の攻撃が追いついてくる。
古い石造りの天井が次々と砕け、日の差さない地下へ、遥か頭上から細い光が落ち始めた。
そして──
その頃、地上では次の試合が始まろうとしていた。満員の観客席に歓声が渦巻き、試合場では二人の選手が向かい合っている。
誰も、足元で何が起きているのか知らない。
最初に異変へ気づいたのは、試合場に立っていたアルバートだった。
「……?」
足元が揺れた。
一度。
続いて、二度。
観客たちの歓声が僅かに弱まる。
三度目は、地震と呼ぶにはあまりにも近かった。
試合場の中央が盛り上がった。
「……は?」
次の瞬間。
轟音とともに、闘技場の床が内側から爆ぜた。
大量の土煙と石片を巻き上げながら、巨大な何かが地上へ突き抜ける。何百年もの間、この街の地下に封じられていた魔物が、満員の闘技場へと打ち上げられた。
その後を追って、二つの人影が穴から飛び出してくる。
「っしゃあ! 出た!」
「まだ終わっていない」
「分かってる!」
キスケとロドが試合場へ着地した。
そして土煙の向こうで、ザハルがゆっくりと身を起こした。
■
最初に闘技場を満たしたのは、歓声ではなかった。
静寂だった。
つい先ほどまで勇者杯に沸いていた数万の観客が、一斉に声を失っている。試合場の中央には巨大な穴が穿たれ、そこから立ち上る土煙が午後の日差しを濁らせていた。崩れた石材がぱらぱらと穴へ落ち、その音だけが不自然なほどよく聞こえる。
やがて煙の中から現れた異形を目にして、観客席のどこかから悲鳴が上がった。
それをきっかけに、静寂が崩れた。
「魔物だ!」
「逃げろ!」
「なんでこんなところに──」
観客たちが一斉に立ち上がり、出口へ殺到しようとする。何万もの人間が同時に動けば、それだけで惨事になりかねない。係員たちが必死に制止しようとするが、突然現れた巨大な魔物を前にして、そんな声を聞く者などほとんどいなかった。
その混乱の中。
何の前触れもなく、実況席に一人の男が現れた。
転移魔法の残光を纏ったレイヴァンは、呆気に取られている実況役の男からマイクを受け取ると、軽く指先で叩いて音が入ることを確かめる。
『──レディース&ジェントルメン!』
突如として響き渡った陽気な声に、逃げようとしていた観客たちの足が僅かに鈍った。
『勇者杯をお楽しみの皆様! 突然の乱入者に、さぞ驚かれたことでしょう! しかしどうか慌てず、そのままお席でご覧ください! 皆様は今、この大会始まって以来──いいえ、このラウルグの歴史に残る瞬間に立ち会っています!』
「何やってんだ、あいつ」
試合場の端でキスケが呟いた。
レイヴァンは止まらない。
『皆様の目の前にいる怪物! これはどこからともなく現れた魔物ではありません! 遥か昔、魔王が存在した時代に勇者と戦い、殺されることなく、このラウルグの地下深くへ封じられた魔物です!』
ざわめきが広がった。
ザハルが実況席を振り仰ぐ。
「レイヴァン……!」
『そして驚くべきことに、この魔物は長き封印を逃れたのち、人の姿を取り、我々のすぐ傍で生きていました! その名は──ザハル!』
一瞬の間。
『皆様もよくご存じ、このラウルグの領主です!』
今度こそ観客席が爆発した。
悲鳴、驚愕、怒号。誰もが隣の人間と顔を見合わせ、試合場の怪物と、いつも貴賓席に座っていた領主の姿を結びつけようとする。
「貴様ァ!」
ザハルの咆哮が轟いた。
だが、レイヴァンの声はそれすら利用するように一段高くなる。
『ご覧ください! どうやら本人も否定するつもりはないようです!』
「そういう問題ではない!」
『さて! 勇者杯とは何か!』
観客へ問いかけるように、レイヴァンが片手を大きく広げた。
『国王陛下による勇者選定の布告を受け、この地へ集った強者たちが力を競い、その頂点を決める大会! しかし──皆様、一度くらいは思いませんでしたか?』
ざわめきが少しずつ収まっていく。
『人間同士で戦い、最後まで勝ち残った者が、本当に勇者と呼べるのかと!』
その言葉に、キスケはどこかで似たようなことを言いそうな女を思い出した。
『ならば今、答えが現れました!』
レイヴァンがザハルを指差す。
『かつての勇者が殺しきれずこの地の地下へ封じた、魔王の時代の怪物! 勇者を名乗ろうという者たちの目の前に、これ以上ふさわしい相手がいるでしょうか!』
先ほどまで逃げようとしていた観客たちが、少しずつ試合場へ視線を戻していた。
恐怖が消えたわけではない。
だが、そこへ別の感情が混ざり始めている。
好奇心。
期待。
そして、自分たちは今、とてつもないものを目撃しているのではないかという興奮。
『この魔物を討ち果たした者こそ──本物の勇者だ!』
誰かが声を上げた。
それに別の誰かが応え、瞬く間に観客席全体へ広がっていく。恐怖から始まったはずの声は、やがて勇者杯のどの試合でも聞いたことがないほど巨大な歓声へ変わった。
その熱狂のただ中、観客席の一角に魔法陣が浮かび上がった。
「なになに!? 何が起きてるの!?」
転移してきたナルニーナが周囲を見回し、試合場のザハルを見つけた瞬間、目を輝かせた。
「……まさか」
隣にはエリシアもいる。
だが、その反応は正反対だった。
「あれが……ザハルなの?」
呆然とした声だった。
自分が追い続けてきた男と、試合場の中央で咆哮する怪物。その二つがどうしても一つに重ならないのか、エリシアは手摺に手を置いたまま動かなかった。
一方、ナルニーナは実況席から響くレイヴァンの説明を聞くほどに興奮を増していく。
「最高……」
そして堪えきれなくなったように両手を広げた。
「最高のシナリオじゃないか!」
「……は?」
「だってそうでしょう!? 封印を解いたら魔物はいなかった。なんと領主ザハルがその魔物だったから! そして勇者を決める大会の真っ最中に、地下から飛び出してくるんだよ!? しかも大会の参加者は全員揃ってる! こんなの、誰かが仕組んだってここまで綺麗にはいかないよ!」
エリシアが何か反応するより先に、ナルニーナは杖を召喚しては掲げる。複雑な術式が瞬く間に空中へ展開され、淡い光が観客席全体を覆うように広がっていった。
「……何してるの?」
「結界。せっかく面白くなってきたのに、流れ弾で観客が死んで中止になったら台無しじゃないか」
ナルニーナは満足そうに術式を確認すると、杖を下ろした。
「ボクたちは徹底的に傍観者でなくてはね」
エリシアは魂が抜けたように、ただその熱狂を眺めていた。
■
その頃、試合場には早くも一人の騎士が降り立っていた。
アルバートの女騎士だった。
重い鎧を纏った巨体が着地した瞬間、石床に亀裂が走る。続いて試合場にいたアルバートも剣を抜いてザハルと向かい合った。
それを見た勇者杯の参加者たちも黙ってはいなかった。
「面白ぇ! 勇者の名は俺が貰う!」
「魔王の時代の怪物だと? 相手にとって不足なし!」
観客席や選手用通路から次々と戦士たちが姿を現す。《鉄壁》《剛腕》《迅雷》──各地で名を上げ、それぞれの異名を背負ってこの大会へやってきた者たちだ。本来なら一人でも並の魔物など問題にならない猛者たちが、一斉にザハルを取り囲んだ。
しかし最初に飛び込んだ戦士が、次の瞬間には吹き飛ばされた。
その背後から二人が同時に斬りかかるが、ザハルは片腕を振るっただけでまとめて弾き飛ばす。魔術師が放った炎を正面から突き破り、槍使いの突きを爪で逸らし、そのまま蹴り飛ばす。
異名も、戦歴も、名声も関係なかった。
勇者杯へ集まった強者たちが、まるで雑兵のように蹴散らされていく。
その中で唯一、ザハルとまともに打ち合っている者がいた。
王子の忠実なる女騎士、カルロッタだった。
巨大な剣とザハルの爪が激突し、衝撃が試合場を走る。力負けしないどころか、踏み込んだ女騎士がザハルの巨体を僅かに押し返したことで、観客席から大歓声が上がった。
だが、彼女は追わない。
ザハルがアルバートへ視線を向けた瞬間、すぐさまその前へ戻る。攻め込める機会があっても深追いせず、常にアルバートとザハルの間へ立つ。
「僕は大丈夫だ! 僕に構わず──」
「なりません!」
「でも、このままじゃ!」
「お下がりください」
短いやり取りの間にも、ザハルの槍が迫る。女騎士は正面から受け止めたが、守る対象を背後に抱えたままでは、その力を攻撃へ回せない。
その様子を、少し離れた試合場の端でキスケとロドが眺めていた。
「……てめェは行かねェのかよ」
キスケが聞くと、ロドは肩に担いだ大剣を下ろしては答えた。
「複数戦は苦手だと言ったはずだ」
「複数って仲間の方もかよ」
「ああ、一体一こそ至高だ。貴様こそ、どうした」
「ちょっと疲れたんだよ。最近戦ってばっかだからな」
キスケはその場へ腰を下ろした。地下からザハルをここまで打ち上げるだけでも相当に動いたうえ、考えてみればこのところロドだの邪神だの勇者杯だのと、妙に戦ってばかりいる。
「少しくらい休ませろ」
「だが、レイヴァンとかいう男は、ザハルを倒した者に指輪を渡すと言っていた」
キスケが実況席を見る。
レイヴァンはいつの間にそんな条件まで追加したのか、観客を煽りながら《久遠の指輪》まで高々と掲げていた。
「いいのか?」
「弱ったところをトドメ刺すんだよ」
「なるほど」
二人は揃って試合場へ視線を戻した。
勇者を目指す者たちが必死に戦っている横で、優勝候補二人が完全に休憩していた。
そして、その間にも状況は悪化していく。
「邪魔だ、雑魚ども!」
ザハルが槍を横薙ぎに振るう。
衝撃が地面を走り、取り囲んでいた戦士たちが一斉に吹き飛ばされた。ナルニーナの張った結界へ何人かが激突し、光の膜が大きく波打つ。観客から悲鳴が上がったものの、すぐに倒れた戦士が立ち上がれば、それすら歓声へ変わった。
ザハルは肩で息をしながら周囲を見回した。
観客席。
勇者杯の参加者。
実況席に立つレイヴァン。
そして、女騎士に守られて剣を握るアルバート。
自分が三十年かけて築いた立場も、人間として振る舞ってきた姿も、すべて暴かれた。今や数万の人間が、自分を魔物として見下ろしている。
「……もういい」
低い声が漏れた。
「もう、どうでもいい」
ザハルの身体から、再び赤黒い魔力が噴き上がる。
「全部バレたなら、もういい! 街も、闘技場も、何もかも──全部ぶっ壊してやる!」
魔力の奔流が試合場を震わせ、観客席を覆う結界が低く唸った。
「まずは貴様だ、レイヴァン!」
ザハルの目が実況席を射抜く。
「三十年前に死んでいればよかったものを!」
続いて、その視線がアルバートへ向いた。
そこにある怒りの質が変わった。
「それから──勇者の末裔!」
アルバートが剣を構える。
ザハルが踏み込んだ。
「アルバート様!」
女騎士が割って入り、振り下ろされた一撃を受け止める。轟音とともに足元が陥没し、彼女の身体が大きく沈んだ。それでも退かず、背後のアルバートへ攻撃を通さない。
「下がって!」
「なりません!」
「僕も戦える!」
「分かっています!」
それでも女騎士は退かなかった。
アルバートが踏み出そうとすれば、その前には必ず彼女の背中がある。横から回ろうとすればザハルの魔法が飛び、女騎士がそれを防ぐ。剣を握っているのに届かない。戦おうとしているのに、守られている。
自分で勇者の座を奪い取りたいと願って、この場所まで来た。
だが今、本物の怪物を前にしている自分は、誰かに守られて立っていることしかできなかった。
アルバートは剣を握る手に力を込めた。
守られているだけでは駄目だ。そう言い聞かせるように女騎士の脇を抜け、一気にザハルとの距離を詰める。
「アルバート様!」
制止を振り切って振るわれた剣を、ザハルは片腕で受け止めた。刃が硬い外皮へ食い込み、確かな手応えが返る。しかし、それだけだった。
「──勇者の末裔が!」
ザハルの反撃は速かった。
アルバートが防御へ移るより先に、その前へ女騎士が割り込む。凄まじい衝撃が鎧を打ち、巨体が地を滑って倒れた。
「──っ!」
アルバートが駆け寄る。女騎士は起き上がろうとしたが身体が動かず、握っていた剣が手から離れた。
周囲を見れば、立っている戦士はもう僅かだった。各地で名を馳せた者たちが倒れ、先ほどまでザハルを囲んでいた輪も消えている。
少し離れたところでそれを眺めていたキスケが、膝に手を置いて立ち上がった。
「……そろそろか」
無銘を肩へ担ぎ、歩き出す。
アルバートも立とうとしていた。剣を杖代わりに身体を起こし、再びザハルへ向かおうとする。
その襟首を、横から伸びてきた手が掴んだ。
「あ、」
次の瞬間、アルバートの身体が宙を舞った。
キスケはそのまま倒れている女騎士も拾い上げると、続けて観客席の方へ放り投げる。結界へ激突する直前、ナルニーナが術式を操作して二人を受け止めた。
「てめェには勇者になって貰わなきゃ困るんだよ」
返事を待つことも、振り返ることもしなかった。キスケの関心は、もうアルバートにはなかった。
残った戦士たちも退き、試合場の中央にはザハルだけが立っている。そこへキスケが歩いていくと、観客席の歓声が次第に大きくなった。
「貴様一人で来たのか」
「ああ」
ザハルの視線がロドを探す。
当の本人は試合場の端まで下がり、崩れかけた壁へ背を預けて腕を組んでいた。
「たまには見て学ぶか」
「てめェが言うと気色悪ィな」
「早くやれ」
「うるせェ」
キスケは無銘を下ろした。
刀身を覆うように風が渦を巻き始め、甲高い音とともに足元の石床をギャリギャリと削っていく。
ザハルも槍を構えた。
黒鉄めいた長い柄に走る赤黒い筋が脈打ち、巨大な穂先から禍々しい魔力が溢れ出す。
「……貴様も、勇者になりたいのか」
「まさか」
キスケは刀を肩へ担いだ。
「金が欲しいだけだ」
地を蹴った。
刀と槍が激突する。
轟音とともに試合場の石床が砕け、二人の姿が観客の視界から消えた。