カスどもの救世 作:もりもりら
轟音とともに試合場の石床が砕け、二人の姿が観客の視界から消えた。
次に見えたときには、すでに場所が変わっていた。
ザハルが槍を突き出し、キスケが首を傾けて穂先をかわす。頬の横を抜けた槍を無銘で打ち上げ、そのまま懐へ踏み込むが、ザハルはあり得ない角度に上体を反らして斬撃から逃れた。さらに片手を地面につき、獣のように身体を回転させながら蹴りを放つ。
キスケは腕で受けた。
身体が横へ流れる。
着地するより早くザハルが追いつき、槍を振り下ろす。キスケは無銘で受け止めたが、足元の石床が耐えられず大きく沈んだ。
「重ェな!」
「貴様が軽いんだ!」
「体重の話してんじゃねェ!」
槍を滑らせ、無銘を振るう。
刀身を纏う風がザハルの外皮を削り、甲高い音を響かせた。ザハルは即座に飛び退くが、キスケも離さない。踏み込みと同時に二撃、三撃と斬撃を重ね、風が硬質な外皮を削ったところへ刃を叩き込んでいく。
ザハルの槍術も荒くはない。
長い得物の間合いを生かし、キスケを懐へ入れまいと穂先を走らせる。そこへ魔法まで混ぜてくるため、正面から押し切れるほど単純な相手ではなかった。
それでも、少しずつキスケが前へ出る。
槍の軌道を見切り、半歩ずつ間合いを潰していく。突きを刀の腹で逸らし、返された石突きを身を沈めてかわすと、低い姿勢のまま踏み込んだ。
無銘が振り上げられる。
ザハルが槍を盾にするも、風を纏った刃が柄を削り、ザハルの身体ごと弾き上げた。
「ぐっ──!」
空中で体勢を整えようとしたザハルへ、キスケが追いつく。
だが、その瞬間。
ザハルの口元が歪んだ。
キスケの背後で、空間が揺れる?
『あるじ、後ろ!』
無銘の声に従って首を振る。
何もなかった空間から、大斧が飛び出した。
「っぶね!」
身体を捻ってかわす。大斧はキスケの鼻先を通過し、そのまま試合場へ突き刺さった。
見覚えがあった。
先ほどザハルに倒された戦士が使っていたものだ。
「……は?」
さらに空間が揺らぐ。
一つではない。
キスケの周囲に次々と歪みが生まれ、そこから剣、槍、斧、戦槌が姿を現した。いずれも先ほどまで勇者杯の参加者たちが握っていた武器だった。
倒れた戦士たちの傍らを見ると、武器が消えている。
「人のもん勝手に使ってんじゃねェよ」
「使えるものを使ってなぁにが悪いっ! 全部、このおれさまのものなのだあ!!!」
ザハルが腕を振るう。
空中に浮かんだ武器が、一斉にキスケへ襲いかかった。剣を弾き、槍をかわし、横から迫る戦槌を無銘で受け流す。直後には頭上から斧が落ちてくるため、キスケは前へ飛び込んで逃れた。
その先にザハルがいる。
「死ね!」
武器の雨を抜けたところへ、本命の槍が突き出された。
キスケは身体を横へずらす。
穂先が脇腹すれすれを通過した。
その柄へ足を掛ける。
「な──」
槍を足場に駆け上がった。
ザハルが反応するより早く、その肩を蹴って跳躍する。背後では再び無数の武器が空間から現れ、キスケを追って向きを変えた。
空中では逃げ場がない。
だからキスケは、無銘を振った。
「おら吹っ飛べよ!」
刀身を巡っていた風が一気に膨れ上がった。
迫っていた武器がまとめて弾き飛ばされ、剣も槍も斧も、甲高い音を立てながら試合場のあちこちへ突き刺さる。
その中心を、キスケだけが落ちていく。
真下にはザハル。
無銘を両手で握る。
「クソがァ!」
ザハルも槍を突き上げた。
刃と穂先が正面からぶつかり、風が爆ぜる。
しかしザハルの槍が大きく逸れ、無銘がそのまま振り下ろされた。
ザハルは咄嗟に腕を上げて受けたが、風が外皮を削り、その上から刀が叩き込まれる。巨体が石床へ沈み、衝撃で試合場に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
キスケは着地と同時に刀を返す。
ザハルも倒れない。
爪を振るい、魔法を放ち、空間から新たな武器を呼び出す。だが、先ほどまでとは違っていた。
遅い。
キスケが速くなったわけではない。
ザハルが消耗している。
呼び出された剣を斬り落とし、その陰から放たれた魔法をかわす。ザハルが後退した分だけ踏み込み、逃げれば追う。槍の間合いへ付き合わず、懐へ入れば風を纏った無銘を叩き込む。
一撃ごとに、ザハルの動きが鈍っていく。
「なぜだ……!」
槍が弾かれる。
「おれは、こんな──!」
魔法は斬り裂かれる。
「貴様なんかに!」
キスケの蹴りがザハルの腹へ入った。
空間から呼び出した剣をキスケが斬り落とし、その陰から放った魔法も身を捻るだけでかわされる。間合いを取ろうと後退すれば同じだけ踏み込まれ、懐へ潜り込まれるたび、風を纏った無銘が硬質な外皮を削っていく。
「ちくしょう……!」
おかしい。
ロドが戦いから外れ、キスケ一人になったというのに状況はまるで好転していない。それどころか、先ほどより明確に追い詰められている。
ザハルは槍を振るい、至近距離から魔法を放った。キスケはそれを紙一重でかわすと、そのまま懐へ飛び込んで無銘を横薙ぎに振るう。
ザハルは辛うじて身を引いた。
そのとき、キスケの着物の胸元から何かが零れ出た。
古びたネックレス。
「……それは」
ザハルの動きが止まった。
見覚えがある。
あれは勇者の……
そして目の前には、自分が何をしても上回り、圧倒的な力で追い詰めてくる男がいる。
「貴様もまた、……勇者の末裔か」
「あ?」
ネックレスを見つめていたザハルの視線が、ゆっくりとキスケへ上がった。
一瞬だけ、目の前の姿に別の誰かが重なる。
届かない。
どれほど抗っても、こちらの力を当然のように上回ってくる。その感覚を、ザハルは知っていた。
「……またか」
低く漏れた声に、怒りが滲む。
「また、勇者か……!」
「何言ってんだ、てめェ」
「どいつもこいつも……何百年経とうが、おれの前に現れる!」
ザハルの魔力が爆発した。
周囲の空間が一斉に歪み、倒れた戦士たちから奪った剣、槍、斧、戦槌が次々と姿を現す。
「勇者も、その血を引く貴様らも──!」
無数の武器が放たれた。
「知らねェよ」
キスケは最初の剣を無銘で弾き、そのまま身体を沈めて槍をかわす。横から迫った斧を風ごと斬り飛ばし、武器の雨を正面から駆け抜けた。
「俺は俺だ。死んだ奴と一緒にすんな」
「黙れ黙れ黙れ! もう二度と、貴様らに奪われてたまるかぁ!!」
キスケの頭上に召喚された黒い槍が、質量を増して落とされる。無銘が下から跳ね上がり、激突した瞬間、刀身を覆う風が爆ぜた。
轟音、衝撃。
結果として、槍が大きく弾かれる。
「……俺がてめェに勝つのも、てめェが俺の前で這いつくばるのも」
がら空きになった懐へ、キスケの蹴りが入った。ザハルの巨体が吹き飛び、石床を削りながら転がっていく。
キスケは無銘を肩へ担いだ。
「俺が、強い。ただそれだけのことだ」
ザハルが片膝をつき、顔を上げる。
その視線は、キスケの胸元で揺れるネックレスから、風を纏う無銘へと移った。
このままでは勝てない。
「……なら」
ザハルの目が細まった。
相手がどれほど強かろうと、その力を支えている得物を奪ってしまえばいい。奪うのは得意だった。
「それを寄越せ!」
空間が歪んだ。
「あ?」
キスケの手から、無銘が消えた。
同時に、ザハルの眼前で空間が歪んだ。
そこから無銘が現れる。
ザハルは迷わず柄を掴んだ。
「……取った」
その声には、自分でも信じられないものを手に入れたような響きがあった。
あれだけ自分を苦しめた刀が、今は自分の手にある。硬い外皮を容易く削り、まともに受けることすら許さなかった刃。それを奪っただけではない。キスケから武器を失わせ、自分はその力を手に入れた。
ザハルの口元が吊り上がる。
「は、はは……! これでやっと──」
『やだ』
小さな声がした。
もちろん、ザハルには聞こえない。
聞こえたのはキスケだけだった。
『あるじじゃない』
「……あ」
そこでキスケも思い出した。
無銘は、誰にでも扱える刀ではない。
ザハルが奪った柄を強く握り締める。
「これで貴様の──」
無銘の刀身が震えた。
ザハルが怪訝そうに手元を見る。
柄と掌の間で、青白い光が弾けた。
「……なんだ?」
『さわるなっ!!!』
瞬間、雷鳴が轟いた。
無銘から迸った雷光がザハルの腕を伝い、その巨体を一息に包み込む。闘技場全体が一瞬白く染まり、遅れて腹の底まで震わせる轟音が響いた。
「が──ッ!?」
ザハルの身体が硬直する。
手を離そうとしても、すでに遅い。
拒絶するように雷撃はさらに強まり、無銘を中心として幾筋もの光が迸った。足元の石床に亀裂が走り、周囲に転がっていた武器が衝撃で跳ねる。
やがてザハルの指が柄から離れ、無銘が宙へ放り出される。雷光が途切れ、刀が回転しながら落ちてくる。
キスケは一歩だけ前へ出ると、慣れた手つきで柄を掴んだ。
『あるじ!』
「おう」
『あいつ、勝手にあたし触った!』
「見てたよ」
『やだった!』
「知ってる」
『すっごくやだった!』
「分かったっつーの」
無銘はまだ不満そうだったが、キスケの手に戻った途端、先ほどまでの激しい雷は嘘のように消えていた。
その向こうで、ザハルがよろめく。
「な……んだ、その刀は……」
「そういや言ってなかったな」
キスケは無銘を軽く振り、鞘へと収めた。
「こいつ、俺以外が触るとキレるぞ」
「先に……言え……!」
キスケとの戦いで蓄積していた消耗に、今の雷撃が決定打となったのだろう。一歩踏み出そうとして、膝が崩れる。
それでも倒れまいと踏ん張ったが、二歩目は出なかった。
巨体が地に伏す。
闘技場を揺らしていた魔力も、空間に浮かんでいた無数の武器も、主を失ったように消えていく。
闘技場に、割れんばかりの歓声が響き渡った。
「人のものを奪っちゃダメって教わらなかったか?」
地に伏していたザハルの指が、ぴくりと動いた。
巨体を覆っていた赤黒い光が薄れていく。硬質な外皮に亀裂が走ったかと思えば、それは崩れるのではなく、内側へ溶け込むように消えていった。長く伸びた腕が縮み、歪な角も、尾も、鋭い爪も形を失っていく。
あとに残ったのは、灰色の髪を乱した一人の男だった。
上等だった衣服はすっかり傷み、丁寧に撫でつけられていた髪にも、領主らしい威厳など残っていない。
それでもザハルは、震える腕で身体を起こそうとした。
「……じゃあ」
「あ?」
「じゃあお前らも、人に嘘を吐いちゃダメって、教われよ!」
突然の怒声に、キスケが眉を寄せる。
「は? 何の話だ」
「勇者だ!」
ザハルは地面を拳で叩いた。
「あいつが先に嘘を吐いたんだ! おれは……おれはずっと待っていた!」
その言葉に、キスケは口を閉じる。
歓声も、いつの間にか止んでいた。
ザハルは荒い息を吐きながら、途切れ途切れに言葉を続ける。
「おれだって……最初から、こんなものだったわけじゃない」
自分の手を見る。
今はもう、爪も、硬い外皮もない。傷つき、震えているだけの人間の手だった。
「人間だった。どこにでもいる、ただの人間だったんだ。それを……あいつらが勝手に変えた」
魔王の軍勢が力を求めていた時代。
より強く、より頑丈で、命令に忠実な兵を作るため、人間を材料にした実験が行われていた。
ザハルも、その一人だった。
「気付いたときには、もう人間じゃなかった。身体は化け物になって、どれだけ嫌でも魔王の命令には逆らえない。戦えと言われれば戦うしかない。殺せと言われれば……そうするしかなかった」
ザハルの指が石床を掻く。
「誰がなりたかったと思う。誰が好きで戦った。痛いのも、死ぬのも、殺されるのも怖かった。逃げたかったに決まってるだろ……!」
戦いたくない、痛いのも嫌だ、危険な目に遭うのも嫌いだ。あれは命乞いのために作った言葉ではなかった。ザハルはただの、人間だったのだ。
「でも、逃げられなかった。おれは魔物だったから」
ザハルは俯いた。
「そこに勇者が来た」
その一言だけで、声の調子が変わった。
「勝てなかった。何をしたって勝てなかった。今日みたいにな」
自嘲するように息を漏らす。
「だが、殺されなかった」
ザハルは地下へ封じられた。
魔王の命令に縛られた魔物である以上、解放するわけにはいかない。それでも、かつて人間だったザハルを殺すことも勇者にはできなかった。だから封じたのだ。魔王を倒すまで。
殺しきれなかったのではない。
殺さなかったのだ。
その、慈悲により。
「言ったんだ。待っていろって」
ザハルの声が震える。
「魔王を倒したら、必ず戻るって。魔王が死ねば命令から解放されるかもしれない。そうしたら、今度こそ助ける方法を探すって」
キスケは何も言わなかった。
「だから待った」
暗い地下で。
「待ったんだよ」
何もない場所で。
「魔王が死んだことだって分かった。命令が消えたからな。もう戦わなくていい。もう誰も殺さなくていい。だったら次は、おれの番だと思うだろ」
勇者が戻ってくる。
今度こそ自分を助けてくれる。
「でも来なかった」
ザハルの声だけが、静まり返った闘技場に響いた。
「一年待った。十年待った。それでも来ない。何度目を覚ましても暗い地下だ。誰も来ない。何も変わらない」
どれほど時間が経ったのかすら、途中から分からなくなった。
「それでも最初は信じていたんだ。何か理由があるんだって。勇者にもやることがある。世界を救ったんだ、忙しいに決まってる。だから、もう少し待てばいいって」
だが、待てどもまてども。
誰も来なかった。
「そのうち、外から聞こえてくる話だけが変わっていった。勇者は偉大だった。勇者が世界を救った。勇者の血を引く者たちは特別だ。勇者の遺物は尊いものだ……」
ザハルが顔を上げる。
その視線が、キスケの胸元に下がるネックレスへ向いた。
「……ふざけるなよ」
声は低かった。
「おれには何も残さなかったくせに」
やがて封印は長い年月の中で弱まり、ザハルは自力で外へ出て、そこで知った。
勇者はもういない。
自分を地下へ置き去りにしたまま、とっくの昔に死んでいた。
「戻る気なんか初めからなかったんだ。おれみたいな化け物との約束なんか、あいつにとって最初からどうでもよかった」
「……それで勇者の子孫に復讐か?」
「他に誰がいる!」
勇者杯に、指輪。
それはただ勇者の子孫をおびき寄せるためだけの餌に過ぎなかった。勇者に縁のあるものを集め、調べ上げ、そのために水面下で策を練っていた。誰にも嗅ぎつけられなかった。だがそのどれもが無意味に終わった。
「約束した本人はもういない! 何百年も待たせて、勝手に死んで、英雄になって! だったら、残ってるものに返してもらうしかないだろ!」
勇者の血。
勇者の遺物。
勇者が救った世界。
自分を置き去りにした者が残したものだけが、何百年経っても地上に溢れている。
「おれから人間を奪った奴らは死んだ! おれを騙して時間と正気を奪った勇者も死んだ! なのに、なんでおれだけが残ってる!」
石床を叩いた拳から力が抜けた。
「……誰に……いったい何を、憎めばよかった」
誰も答えない。
キスケも、答えを持っていなかった。
ザハルは俯いたまま、乾いた声を漏らす。
「許せなかった、ただ、許せなかっただけだ」
その言葉を最後に、闘技場へ重い沈黙が落ちた。
つい先ほどまで魔物の討伐を見世物として熱狂していた観客たちも、今は地に伏した一人の男を見つめている。
「……なるほど」
沈黙を破ったのは、レイヴァンだった。
実況席から姿を消し、いつの間にか試合場へ降りている。
ザハルが顔を上げた。
「貴様……」
「お話はよく分かりました。ですが、一つだけ不思議なんですよ」
レイヴァンはいつもの頼りなさそうな笑みを浮かべたまま、ザハルの前まで歩いていく。
「それほど人間が憎かったのなら──どうして、この街を壊さなかったんです?」
ザハルが黙る。
「私がこの時代へ来て、何より驚いたことがあります。ラウルグが残っていたことです。それどころか、私が領主だった頃より栄えていた」
「……何が言いたい」
「そのままですよ」
レイヴァンは周囲を見渡した。
「三十年です。あなたは三十年もの間、この街を治めていた。人間が憎くて仕方がないという魔物が」
「領主という立場が都合よかっただけだ……!」
「ええ。そういうことにしておきましょう。では、この闘技場は?」
ザハルの言葉が止まった。
レイヴァンはそれ以上、説明しなかった。
この闘技場が何のために建てられたのか、この街の者なら知っている。
地下に封じられた残虐な魔物を慰めるため。人間同士が争う声を子守唄に、静かに眠っていてもらうため。
「……なんとも、素敵な話ですね」
レイヴァンが呟く。
「魔物を慰めるために作られた闘技場に、その魔物自身は心を奪われてしまった。かつての平穏を望んだ人々の祈りは報われていた」
「違う」
「あなたは人間を憎みきれなかった」
「うるさい……」
「この街を好きになってしまったのでしょう?」
「黙れ……!」
ザハルは認めなかった。
認めるはずもなかった。
数百年抱えてきた憎悪も、地下で待ち続けた時間も、勇者への恨みも、そのすべてを今さらそんな言葉一つで片づけられてたまるものか。
「今の結果だけ見て……勝手なことを言うな……!」
ザハルの手が震える。
「あの時のおれが何を思っていたか、貴様に分かるものか! おれは、おれはおれは……! 何百年も一人で待って、それでも誰も来なかったのに……復讐なんかやめればよかっただの、人間を憎みきれなかっただの……今になってなら何とでも言えるだろうが!」
「ええ」
レイヴァンはあっさり頷いた。
ザハルが言葉を失う。
「分かりませんよ。私はあなたではありませんから」
「……は?」
「あなたのしたことを許すつもりもありません。だからといって、今さら善人だったことにするつもりもない。ですが──」
レイヴァンは手を差し出した。
「街一つを三十年治め、以前より栄えさせた。その実績まで無かったことにする必要はないでしょう」
ザハルが、その手を見る。
「……何のつもりだ」
「手を組みませんか?」
あまりにも平然とした言葉だった。
ザハルだけでなく、キスケまでレイヴァンを見る。
「おい」
「何です?」
「てめェ、今の話聞いてたか?」
「もちろん」
「こいつは魔物で、勇者の子孫に復讐しようとしてたぞ」
「存じてます」
「ついさっき街ぶっ壊すっつってたぞ」
「少々感情的になっていたのでしょう」
「少々で済ませるか!」
レイヴァンは気にした様子もない。
善人だから救うのではない。罪を許したわけでもない。使えるから使う。それは、レイヴァンがキスケを頼った時と全く同じ理由だ。
「あなたは強い。そして街を治める能力もある。何より、三十年も領主を続けられる程度にはラウルグという街を理解している。ここで失うには惜しい」
「……正気か、貴様」
「お互い様でしょう」
レイヴァンは手を差し出したままだった。
「私もあなたも、綺麗な人間ではない。今さら仲良く善人になろうなどとは申しません。互いに使えるものを使えばいい」
ザハルはその手を睨みつける。
長い沈黙があった。
「…………馬鹿が」
やがて、ザハルの手が動いた。
「本当に……昔から、気に食わない男だ」
「光栄です」
「褒めていない」
弱々しく、それでもザハルは膝を着いてよろめきながらも立ち上がろうとして、腕を伸ばす。
レイヴァンも僅かに身を屈め、彼が立つ手助けをしようとする。
二人の手が触れようとした。
そのときだった。
ザハルの身体が、不自然に止まった。
「──は?」
何が起きたのか分からないまま、視線を落とす。
背後から突き立てられた刃が、身体を貫いていた。
刃を伝って、赤い血が落ちる。
一滴、二滴と石床を濡らし、やがてそれはザハルの足元へ広がっていった。
赤かった。
魔物のものとも、人ならざる何かのものとも違わない。人間と同じ、赤い血だった。
ザハルがゆっくりと振り返る。
そこに、エリシアが立っていた。
「……お前……」
「あんたの過去なんて」
エリシアは刃を握ったまま、ザハルだけを見ていた。
「あんたが昔、人間だったとか。魔物にされたとか。勇者に裏切られたとか」
ザハルの口元から力が抜ける。
伸ばしていた手が震えた。
すぐそこにレイヴァンの手がある。
あと僅かだった。
「そんなの──」
指先が届くことはなかった。
「知ったものか!」
エリシアが叫ぶ。
ザハルの膝から力が抜けた。
その身体が前へ傾き、石床へ倒れ伏す。灰色の髪が地面へ散らばり、その下から流れ出した赤い血が、ゆっくりと石の継ぎ目を伝っていった。
レイヴァンへ伸ばされていた手も、もう動かない。
「あんたが何百年苦しんだって、わたしには関係ない! どんな理由があったって、どんな可哀想な過去があったって──!」
エリシアは倒れ伏したザハルを見下ろす。
「わたしのお父さんを殺したのは、あんたでしょうが!」
返事はなかった。
ザハルは人の姿のまま、自らが流した赤い血の中に倒れていた。
誰も動かなかった。
全員がザハルの過去を聞いていた。
遠い昔の悲劇を知った。勇者との約束を知った。数百年の孤独を知った。そして、三十年間の献身も。
しかし知ったところで、それは彼らにとって過去の話だ。
だが、エリシアだけは違った。
彼女は、彼女だけは傍観者ではない。
「はは……」
エリシアの喉から、小さな音が漏れた。
「あは……あははは……!」
それは次第に大きくなっていく。
「あはははははははははははははっ!」
まるで無垢な少女のような、晴れやかな笑顔だった。
ずっとこの日のために生きてきた。
幼く無垢で無力だったわたしを嘲笑い、お父さんの献身と功績を略奪して、闘技場の中心で尊厳を踏み躙った男が。
──お父さんと同じように、闘技場の見世物となって殺される!
「……ざまあみろ!!」
そこには歓声も、拍手も。下卑た野次さえない。
勇者を決めるために集まった何万もの人々が見守る中、エリシアの狂ったような笑い声だけが、闘技場にいつまでも響き渡っていた。