勇者一行です、通してください 作:もりもりら
依頼書に記されていた村へ到着したのは、町を出てから二日目の昼過ぎだった。
山間にひっそりと築かれた小さな村で、周囲を深い森と低い山々に囲まれている。畑では農夫たちが土を耕し、家々の煙突からは炊事の煙が細く立ち昇っていた。道端では子供たちが駆け回り、軒先に腰掛けた老人がそれを眺めている。
どこにでもありそうな、のどかな村だった。
「……邪神は?」
キスケは村の入口で依頼書を広げ、そこに書かれた村の名前と、目の前の看板を見比べた。
間違ってはいない。
依頼書には確かに、この村で邪神崇拝が行われている疑いがあると記されている。夜ごと村人が森へ集まり、奇妙な儀式を行っているという証言もあった。女神信仰を国教とするこの国では、正体不明の神を村ぐるみで崇めているだけでも充分に調査の対象となる。
そして、この村の入口には女神像の代わりに、木彫りの何かが鎮座していた。
まるでタコのような幾つもの触手がうにょうにょしている。彫刻が下手なのか、それとも本当にそういう姿の神なのか分からない。
『変なの』
無銘がキスケの肩越しから覗き込んだ。
「人前で喋んなっつったろ」
『まだ誰もいないもん』
「村入ったら黙ってろよ。てめェと話してっと俺が頭おかしいみてェになるからな」
『あるじ、もともと──』
「なんだ?」
『なんでもない』
その横でロドは木像を眺めていた。目穴すらない鉄仮面でどうやって見ているのか未だに分からないが、本人にとってはなにも問題はないらしい。
「これが、女神か?」
「てめェやっぱ目みえてねェだろ。これが女神だったら俺でも信仰やめるわ」
「貴様は信じているのか」
「あいにく無信仰でやらせてもらってるんでな」
そんなことを話していると、畑にいた中年の男が三人に気づいた。見慣れない旅人を警戒するどころか、人のよさそうな笑みを浮かべて近づいてくる。
「旅のお方ですか。珍しいですな」
「ああ。ちょっと泊めてもらおうと思ってよ」
「それはそれは。何もないところですが、どうぞゆっくりしていってください」
男は宿の場所まで丁寧に教えてくれた。拍子抜けするほど普通だった。
キスケは礼を言って村へ入ろうとしたところで、男に呼び止められる。
「旅のお方、右足からお入りください」
「……あ?」
「村へ入るときは右足からと決まっておりますので。左足から入りますと、災いを招くとされております」
意味は分からなかったが、この程度なら土地ごとの風習で済む話だろう。キスケは素直に右足から境界を跨ぎ、ロドもそれに倣った。
最初は、その程度だった。
宿へ着いて部屋を取り、夕食の席につくまで。例えば、井戸の前は息を止めろだとか、角を曲がる時は3歩で曲がるだとか、挙句の果てには鶏が目の前を通ったら踊れだの。その踊りのあまりの屈辱的な振りに、キスケは危うく刀を抜きかけたのだが、ロドが無表情で踊り始めたのを見て溜飲を下げたのである。ついでに無銘にも無理やり踊らせた。
食事時になって、ようやくキスケは機嫌を良くした。
山菜の煮込みに焼いた川魚、黒パンと具沢山の汁物。ここ二日ほど干し肉ばかりだったキスケは、久々にまともな食事に、思わず唾を飲む。
さっそく右手で魚へ手を伸ばす。
「旅のお方」
宿の主人が申し訳なさそうに止めた。
「魚は左手でお食べください」
「……あ?」
「邪神様は右手で魚を召し上がる者を嫌います」
キスケはしばらく主人を見たあと、黙って左手へ持ち替えた。慣れない手でどうにか魚をほぐして食べる。味は悪くない。
続いて煮込みへ手を伸ばした。
「そちらは七度噛んでからお飲み込みください」
「なんで?」
「八度噛むと邪神様が嫉妬なさいます」
「…………」
キスケは七回噛んで、飲み込む。次の一口を食べる。
「二口目は九度です」
キスケの手が止まった。
「……さっき七回っつったよな?」
「最初の一口は七度、二口目からは九度です」
「八回は?」
「邪神様が嫉妬なさいます」
「九回なら嫉妬しねェの?」
「はい」
「なんで?」
「古くからそう伝わっておりますので」
キスケは何か言いかけたが、耐えた。
金のためだった。ここで騒ぎを起こして追い出されれば、調査どころではなくなる。
隣ではロドが律儀に九回噛んでいる。
「てめェ、よく平気だな」
「この土地の習わしなのだろう」
「だからって全部従う必要ねェだろ」
「郷に入っては郷に従えという」
「てめェ詐欺に遭っても気付かなさそうだな」
キスケは苛立ちながら食事を終えた。これで今日の苦行は終わりだと思っていたのだ。だが、考えが甘かった。
夜になり、寝台へ潜り込もうとしたところで、宿の主人が再び部屋を訪ねてきた。
「旅のお方。眠る前に、邪神様への感謝を七つ述べてください。同じ内容はいけません。それから八つ以上述べるのもお控えください」
キスケは寝台に腰掛けたまま、ゆっくり主人を見上げた。
「なんで?」
「邪神様がお決めになったことですので」
「……その邪神とやら、ずいぶん細けェ奴だな」
「滅相もございません! 偉大なる御方です!」
「変な踊り踊らせて、飯食う手に文句つけて、噛む回数数えて、寝る前に感想文まで要求してくる奴のどこが偉大なんだよ!」
「お、お静かに! 聞かれてしまいます!」
「誰にだよ!」
「邪神様です!」
キスケの中で、何かが切れた。
「だったら連れてこいよ! 直接文句言ってやる!」
「それはいけません!」
「こっちは昼から右足だ左手だ七回だ九回だって、てめェらの神は他人の動作数える以外にやることねェのか!?」
怒声が宿中に響き、廊下の向こうから他の宿泊客や村人たちが何事かと顔を覗かせる。それでもキスケは止まらなかった。
「だいたい七回だ九回だって誰が決めたんだよ! 神様がいちいち降りてきて『魚は左手でお願いします』とでも言ったのか!?」
『あるじ、怒りすぎじゃない?』
「てめェは黙ってろ!」
宿の主人がぎょっとする。
「わ、私ですか?」
「てめェじゃねェ!」
「では、どなたに……?」
「なんでもねェよ!」
余計に怪しまれたが、もはやそんなことはどうでもよかった。
「とにかく俺は寝る! 感謝もしねェ! 文句あんなら邪神本人連れてこい!」
「それはいけません!」
今度は宿の主人ではなかった。
女の声だった。
キスケが振り向くと、いつの間にか廊下に集まっていた村人たちが左右へ分かれていた。
その間を、一人の女が歩いてくる。
田舎の村には不釣り合いなほど鮮やかな金髪を長く伸ばし、身に纏っているのは、この国でよく見かける女神教会のものによく似たシスター服。ただし胸元にあるのは女神の聖印ではなく、何本もの触手が絡み合ったような奇妙な紋章だった。
そして何より、よく笑う女だった。
宿中へ響くほど怒鳴り散らしている不審な旅人を前にしても怯える様子はなく、むしろ面白いものでも見つけたように目を細めている。
彼女が現れた途端、周囲の村人たちが一斉に頭を下げた。
「司祭様」
女はそれに軽く手を振って応え、まっすぐキスケの前までやって来た。
「初めまして、旅人さん。ボクはナルニーナ。この村で、偉大なる神様のお言葉を皆さんへ伝える司祭をやっている者です」
そう名乗ると、ナルニーナは胸元で両手を組み、いかにも聖職者らしい慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「それと一つ訂正しておきますね。神様に直接文句を言いたいとのことでしたが、あの御方を呼ぶためには、まず全裸で三日三晩踊り続けなければなりません。あの、鶏の前で見せていた踊りですよ」
周囲の村人たちが神妙に頷いた。
キスケはナルニーナの顔をじっと見た。
彼女もにこにこと笑っている。
「……絶対いま考えただろ、それ」
その瞬間、ナルニーナの笑みがほんの少しだけ深くなった。
「ああ、いけません!」
突然、ナルニーナが大仰に両手を頬へ当て、天井を仰いだ。あまりにも芝居がかった仕草にキスケが眉をひそめる。
「今の言葉、邪神様のお耳に届いてしまいました! お怒りです。これは大変ですよ、旅人さん!」
「嘘つけ」
「嘘ではありませんとも! ああ、なんということでしょう。このままでは村に恐ろしい災いが降りかかってしまう……!」
ナルニーナは悲嘆に暮れる聖女のように胸元で手を組んだ。周囲の村人たちも真に受けたらしく、ざわざわと不安そうな声を上げ始める。
その様子を一瞥してから、ナルニーナはキスケへ向き直った。
「ですが、ご安心を。邪神様はとても寛大なお方です。あなたが心から反省していることをお示しになれば、きっとお許しくださいます」
「絶対やらねェぞ」
「まだ何も言ってませんよ?」
「全裸で踊れとか言う気だろうが」
「全裸までは結構です。その薄汚い身体は邪神を余計に怒らせます。ですから、今すぐこの場で《悔恨と贖罪の舞》を披露してください」
「正式名称あんのかよ」
「まず腰を落として両腕を大きく広げ、そのまま左右に三回ずつ腰を振ります。その後、天を仰いで――」
「死んでもやらねェ」
「では、仕方ありませんね」
ナルニーナが笑った。
ほんの一瞬、その青い、深海のような青い瞳の奥で何かが揺らいだ。
魔力だった。
呪文も、杖も、印も必要としない。キスケがそれに気づいたときには、すでに魔法は放たれていた。
「さあ、踊ってください」
柔らかな声が耳へ入った。
頭の奥へ直接何かを押し込まれたような、奇妙な感覚がする。
キスケは眉間に皺を寄せた。
「……嫌だっつってんだろ」
初めて、ナルニーナの笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
「さあ、踊りましょう」
「嫌だ」
「踊りたくなってきましたよね?」
「なってねェよ」
「腰を振りたい気分では?」
「てめェを殴りてェ気分にはなってきたなァ!」
キスケは拳を強く握り、肩を回した。
そんな彼の様子に、ナルニーナは首を傾げる。
効かなかった。そんなことがあるのか、と純粋な疑問が浮かぶ。
──詐欺師、ナルニーナ。
彼女は嘘をつくことに、何のためらいもない。
金のためでも、生きるためでもない。必要だから嘘をつくのではなく、呼吸をするように人を騙す。相手が何を信じたがっているのかを見抜き、それらしい言葉を並べ、望んだ答えを与えてやる。それで相手が笑おうが泣こうが、破滅しようが、彼女の胸が痛むことはなかった。
むしろ、自分の言葉一つで人が動く瞬間が好きだった。
昨日まで存在しなかった神を今日から信じさせることもできる。でたらめな戒律をありがたがらせ、何の意味もない石ころへ祈らせることもできる。最初は疑っていた者が次第に信じ込み、最後には自分から他人へ同じ嘘を語り始める。その様子を眺めていると、なんとも愉快な気分になった。
この村もそうだった。
邪神など存在しない。教義も伝承も、馬鹿馬鹿しいしきたりの数々も、そのほとんどはナルニーナが面白半分にでっち上げたものだ。それでも村人たちは信じた。ならば彼女にとって、それはもう充分だった。
そしてナルニーナには、人を騙すための才能がありすぎた。
口が回る。演技も上手い。人の顔色や声音から感情を読み取ることにも長けている。おまけに魔法まで異常なほど得意だった。火を起こすことも、傷を癒やすことも、並の魔術師なら何年も修練するような術さえ、少し教われば大抵は扱えた。
こと魔法に関しては、賢者と呼ばれる者たちと比べても遜色がない。
中でも、人の心へ干渉する魔法だけは別格だった。
一度も外したことがない。
どれほど意志の強い人間でも、どれほど魔力への抵抗力を持つ人間でも、ナルニーナがその気になれば最後には頷いた。
なぜ自分にだけそんなことができるのかを考えたことはある。しかしすぐに考えるのをやめた。
──まあ、ボクってば天才だからね。
ナルニーナにとっては、それで説明がついていた。
だからこそ、自分の魔法がキスケに通じなかったという事実に、恐怖より先に興味を抱いた。
初めてだった。
自分の思い通りにならない人間を見るのは。
そしてナルニーナという女は、自分の思い通りにならないものを嫌う性格ではない。
むしろその逆。
筋書き通りに進む物語ほど、つまらないものはない。
ナルニーナは小さく首を傾げながら、キスケを見つめた。その顔には、もはや敬虔な司祭を演じていたときとは少し違う笑みが浮かんでいる。
「……へえ」
新しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心に満ちた笑みだった。
「あ?」
「いえ。なんでもありません」
すぐに聖職者らしい微笑みを取り戻すと、ナルニーナは村人たちへ向き直った。
「ああ、なんということでしょう! この方は邪神様への贖罪を拒まれてしまいました!」
途端に村人たちが息を呑む。
「ですが、見捨ててはいけません。迷える方を正しき道へ導くことも、我々の務めです。皆さん、手伝ってあげてください」
ナルニーナがそう告げると、それまで怯えていた村人たちの表情が一斉に消え、同時に感情が抜け落ちる。
キスケは刀の柄へ手を置いた。
「……おい」
村人たちが一歩、こちらへ近づく。
「何しやがった、てめェ」
「何も? 皆さん、あなたのことを心配しているだけですよ」
また一歩。
宿の主人も、廊下から覗いていた老人も、先ほどまで怯えていた者たちが同じ顔で近づいてくる。
「さあ皆さん。この方に《悔恨と贖罪の舞》を教えて差し上げてください」
村人たちが一斉にキスケへ飛びかかった。
「ざっけんな!」
最初に伸びてきた腕を掴み、勢いを利用して横へ投げる。続く男の肩を押して壁際へ転がし、背後から抱きつこうとした老婆はさすがに投げるわけにもいかず、腕を外して寝台の上へ放り込んだ。
斬れば早い。
だが、相手は操られているだけの村人だ。
『あるじ、斬らないの?』
「斬れるか!」
『じゃあ峰打ち!』
「刀風情が俺に指図すんじゃねェ!」
『ひどいやい!』
刀を抜く暇すらない。キスケは次々と伸びてくる腕を払い、狭い部屋から廊下へ飛び出した。ところが階段の下からも村人が押し寄せてくる。
その向こうでナルニーナが楽しそうに手を振っていた。
「頑張ってくださいね、旅人さん!」
「てめェ後で覚えてろよ!」
「ボクは何もしてませんよ!」
「その台詞吐く奴は大体やってんだよ!」
キスケは二階の窓を蹴り開け、そのまま外へ飛び出した。
二階程度なら問題ない。地面へ着くと同時に身体を転がして衝撃を逃がし、その勢いのまま立ち上がる。背後から窓を開ける音が続々と聞こえてきたので、振り返らずに走った。
村の中央まで来たところで、見慣れた擦り切れた外套が目に入った。
ロドだった。
数人の村人に囲まれている。
「おいロド!」
「キスケか」
「何してやがる!」
「踊れと言われた」
「てめェもかよ!」
ロドの周囲にはすでに何人か倒れていた。死んではいないらしく、呻きながら身体を起こそうとしている。
「断ったら襲われた」
「だろうな!」
「妙だ。全員、同じ魔力の影響下にある」
「洗脳だよ! あの金髪女がやりやがった!」
ロドは鉄仮面を村人たちへ向ける。
「殺すか?」
「殺すな! 依頼失敗になるだろうが!」
キスケは追ってきた村人の胸元を蹴り、転ばせる程度の力で吹き飛ばした。
本来なら、ここで充分だった。
邪神崇拝の事実を確認した。それどころか、司祭が村人へ精神干渉の魔法をかけている現場まで見た。あとは村を離れて冒険者ギルドへ戻り、見たものを報告すれば依頼は達成となる。
そうするのが一番賢い。何より楽だ。普段のキスケなら迷わずそうしていた。
「……気に入らねェ」
『あるじ?』
「あの女、俺にクソみてェな踊りさせようとしやがった」
『そこ?』
「しかも笑ってやがった」
思い出すだけで腹が立つ。
あの余裕ぶった笑顔をどうにかして歪ませたい。
「このまま帰ったら俺の負けみてェじゃねェか」
『別に勝負してないと思うけど』
「してんだよ、今決まった」
ロドがこちらを見る。
「戦うのか」
「てめェは黙ってろ」
キスケは周囲を見回した。
村全体に術をかけているとすれば、ナルニーナが一人一人へ魔法を施して回ったとは考えにくい。宿で見せた魔法は直接かけたものだろうが、村人の数は百を優に超える。
これだけ広い範囲へ魔法を維持するなら、どこかに術の起点が必要になる。術者の魔力を溜め、そこから村全体へ術式を広げるための媒体。
それを壊せば、少なくとも村人にかかっている洗脳は維持できなくなるはずだった。
「……どこだ」
キスケは意識を集中させる。
村を満たしている魔力そのものは薄い。空気へ溶け込むように広がっていて、発生源を辿るのは難しかった。
だが、妙な偏りがある。
宿へ向かう途中で通った場所を思い出す。
村の中央。
古びた石組み。
老婆から、見るときには息を止めろと言われた場所。
「井戸か」
キスケは走り出した。
ロドも当然のようについてくる。
「なんでてめェも来んだよ」
「依頼中だ」
「こういうときだけ真面目かよ!」
井戸へ辿り着くと、周囲には誰もいなかった。石組みの縁から中を覗き込むと、かなり深い。昼間に見たときは暗くて分からなかったが、底から微かに魔力の気配が漂っている。
『あるじ、下になんかあるよ』
「やっぱりか」
井戸には水を汲むための縄が垂れていた。キスケはそれを掴み、深さを確かめる。
「降りるぞ」
「分かった」
『あたしも!』
「てめェは勝手についてくんだろ」
井戸を降りていくと、途中から石壁の様子が変わった。自然に積まれた石ではなく、明らかに人の手で整えられた横穴が続いている。湿った石の通路を進むにつれて魔力の気配は濃くなり、壁には村の入口で見たものと同じ、触手が絡み合ったような紋様が刻まれていた。
しばらく進んだところで通路が途切れ、その先に地下とは思えないほど広大な空間が現れた。
天然の洞窟を削って造ったのだろう。天井は高く、岩肌から染み出した地下水が絶え間なく滴り落ちている。足元には古い石畳が敷かれ、中央を貫くように祭壇まで続いていた。その祭壇の上には、人の頭ほどもある黒い水晶が据えられている。
キスケには魔術の詳しい仕組みまでは分からない。それでも、あれが普通の石ではないことくらいは分かった。村中に薄く漂っていたものと同じ魔力が、黒い水晶から絶え間なく溢れている。
「あれか」
近づこうとしたところで、背後から重い金属音が響いた。
振り返ると、ロドが背負っていた大剣を抜いていた。鉄仮面の下にあるその目はきっと爛々と輝いていることだろう。それほどの殺気と迫力があった。
「…………」
嫌な予感しかしなかった。
「何してんの、てめェ」
「ここなら広い」
「……ああ」
「人もいない」
「……おう、そうだな」
ロドは大剣を両手で握り、切っ先をキスケへ向けた。
「約束を果たせ」
「……今?」
「今だ」
キスケは祭壇を指差した。
「見えるか? 俺たちはあれを壊しに来た。そして今、村人全員洗脳されてる。お分かり?」
「分かっている」
「じゃあ後にしろよ!」
「断る」
「なァおい、常識的に考えてみろよ。依頼終わってから一戦だろ普通はよォ!」
キスケは頭を掻きむしった。だが、そんなパフォーマンスでロドが引き下がるはずもない。
「貴様が普通を語るか?」
「ああ、語るさ。語らせてもらうさ。このクソ刀のせいで変人扱いされてるだけでなァ、俺は常識人なんだよ」
『どうかなぁ?』
ロドが一歩踏み出す。
「待て! 正気かよ……敵地の真っ只中だぞ」
キスケは一歩引き、聞き分けのない子どもを宥めるように言う。
「オレは待った」
「二日な!」
「充分だ」
「どこがだ!」
もう話を聞くつもりはないらしい。
ロドの構えが僅かに沈む。
その瞬間、キスケも無銘へ手をかけた。
『あるじ、やるの?』
「くっそォ、やらなきゃあいつやめねェだろ。やるぞ、むめい」
舌打ちしながら無銘を抜く。彼女は嬉しそうに笑った。
「一回だぞ」
「ああ」
「これ終わったら依頼中は二度と仕掛けんな」
「オレが勝てばもう一戦だ」
「もう一戦する前に俺が死んでんだよッ!」
言い終わるより早く、ロドが踏み込んだ。
大剣が振り下ろされる。
キスケは正面から受けず、身体を横へ滑らせた。刃がすぐ脇の石畳へ叩きつけられ、轟音とともに亀裂が走る。砕けた石片が頬を掠める中、キスケは無銘を横薙ぎに振るった。
ロドが大剣を引き戻す。
刃と刃がぶつかった。
甲高い金属音が洞窟中へ反響する。
キスケは鍔迫り合いなどしなかった。膂力で押し合えば分が悪いことは分かっている。無銘を滑らせて大剣を逸らしながら懐へ潜り込み、そのままロドの脇腹を狙う。
ロドが後ろへ跳んだ。
切っ先が軽装の表面を裂く。
着地と同時に、今度はロドが笑った。
「いいぞ」
「こっちはよくねェんだよ!」
再び間合いが潰れる。
大剣と刀では、間合いも重量もまるで違う。ロドはその長さを存分に使い、キスケを近づけまいと縦横に大剣を振るう。キスケは紙一重でそれをかわし、受けざるを得ない一撃だけを無銘で逸らしながら少しずつ懐へ潜り込む機会を窺った。
──その攻防の最中だった。
洞窟の奥から、岩が軋んでいるような低い音が響いた。続いて、地面が揺れた。
祭壇の上に置かれた黒い水晶が微かに明滅し、そこから溢れていた魔力が奥の岩壁へ吸い込まれていく。
亀裂が走った。
一本、二本と広がり、岩壁全体を蜘蛛の巣のように覆っていく。次の瞬間、壁が内側から弾け飛んだ。
大量の岩石と砂埃が洞窟へ降り注ぐ。その奥から、巨大な前脚が姿を現した。
黒ずんだ皮膚は岩のように硬く隆起し、その表面には幾筋もの青白い紋様が脈打っている。続いて現れた頭部には目がなく、顔の半分ほどを占める口だけが横へ大きく裂けていた。隙間なく並んだ牙の間から粘ついた唾液が糸を引き、背中からは節のない触腕が何本も伸びている。
四つの脚で立ち上がれば、人間の倍以上の高さがあった。魔物が洞窟へ踏み出すたび、石畳に亀裂が入る。
そして、ひときわ太い触腕の根元には、祭壇と同じ紋様が刻まれていた。
黒い水晶を守る番人。
そう考えるのが自然だった。
魔物は二人の侵入者を認めると、巨大な口を開いた。咆哮が洞窟を震わせる。
天井から砂埃が降り、地下水の水面が細かく波打った。並の冒険者なら、その姿を見ただけで逃げ出してもおかしくない。
無銘は『ひゃあ!』と叫んだ。
だが。
キスケはロドを見ていた。ロドもまたキスケだけを見ている。あれほどの巨体が現れたというのに、二人とも魔物へ向き直ろうとすらしなかった。
先に踏み込んだのはロドだった。大剣が唸りを上げて振り下ろされ、キスケは横へ滑るようにかわす。そのまま懐へ入り込もうと無銘を振るったところで、背後から触腕が横殴りに迫った。
キスケはロドの大剣を避けるついでに身を沈め、頭上を通過する触腕へ無銘を走らせた。斬り落とされた触腕が背後へ落ちるより早く、低い姿勢からロドの腿を狙う。ロドは後ろへ跳んだが、その着地点へ魔物の前脚が振り下ろされた。
大剣が一閃する。
岩のような皮膚が砕け、魔物の前脚が大きく弾かれた。それでもロドの鉄仮面は魔物へ向かなかった。振り抜いた大剣をそのまま返し、迷いなくキスケの首を狙う。
「チッ!」
無銘で刃を逸らした直後、二人の間へ別の触腕が叩きつけられた。石畳が砕け、無数の破片が飛び散る。キスケはその一本を足場にして駆け上がると、勢いのままロドへ斬りかかった。
ロドが大剣で受け止める。二人分の体重を支えきれず、触腕が地面へ沈んだ。
直後、二人はほとんど同時にそこから飛び降りた。キスケの無銘が上から、ロドの大剣が下から触腕を斬りつけ、太い肉の塊が途中から千切れ飛ぶ。
魔物が苦悶の咆哮を上げた。
それでも二人の視線は交わったままだった。
キスケが着地と同時に間合いを詰めれば、ロドは大剣を横薙ぎに振るって迎え撃つ。無銘を合わせれば力負けする。キスケは上体を反らして刃をやり過ごし、戻る勢いを利用してロドの胴へ蹴りを叩き込んだ。ロドが僅かによろめいたところへ追撃しようとするが、その横から魔物の巨体が突っ込んでくる。
二人は示し合わせたわけでもなく左右へ分かれた。
魔物だけがその間を駆け抜ける。
すれ違いざまに二つの刃が走った。
キスケは右側から首筋を斬り裂き、ロドは左側から大剣を叩き込む。血を撒き散らした魔物は勢いを殺せないまま祭壇の脇へ激突したが、二人はその結果を見ることなく、再び互いへ向かっていった。
キスケの刺突をロドがかわし、そのまま肩からぶつかってくる。キスケは押し負けながらも足を踏ん張り、無銘を横へ薙いだ。ロドは大剣の腹で受け止めると、力任せに刀ごと押し返す。
キスケの身体が後方へ弾かれた。
そこへ大剣が迫る。
間に割って入ったのは、またしても魔物だった。
背中から伸びた触腕が大剣へ絡みつき、その軌道を僅かに狂わせる。ロドは躊躇なく腕を振り抜き、触腕ごと切断した。キスケはその隙に懐へ潜り込んだが、ロドの膝が腹へ迫る。身体を捻ってかわし、互いに距離を取った。
その間にも、魔物は確実に傷を増やしていた。
二人の攻防へ割り込むたびに脚を斬られ、触腕を落とされ、硬い皮膚には無数の亀裂が走っている。二人は魔物を倒そうとしているわけではない。ただ互いを殺すうえで邪魔になるものを、その都度排除しているだけだった。
それが結果として、恐ろしく効率のいい連携になっていた。
苛立った魔物が残った触腕を一斉に広げた。キスケとロドをまとめて押し潰すつもりなのだろう。頭上を覆うように何本もの触腕が迫る中、キスケはその隙間を縫ってロドへ走った。ロドも同じだった。
触腕の雨を抜けた二人の刃が、再び激突し、鍔迫り合いになる。
「しつけェんだよ、てめェ……!」
「まだ終わっていない」
「終わらせてやるよ!」
キスケが力を抜いた。押し込んでいたロドの身体が前へ流れたところで身を捻り、横へ抜ける。しかしロドもすぐに踏みとどまり、大剣を振り返す。
そのとき、傷だらけの魔物が最後の力を振り絞って突進してきた。
狙われたのはロドだった。
それでもロドはキスケから目を逸らさない。迫る巨体をぎりぎりまで引きつけ、大剣を振り上げる。
キスケも同時に動いた。
二人の斬撃が魔物へ入る。
無銘が前脚の付け根を深く斬り裂き、大剣がすでに傷だらけになっていた首へ叩き込まれた。支えを失った巨体が傾き、そのままロドのほうへ倒れ込んでくる。
ロドは大剣を引き抜きながら身をかわした。
ほんの一瞬。
倒れてくる巨体を避けるため、ロドの足運びが変わった。
キスケは見逃さなかった。
魔物の身体が石畳へ激突し、洞窟全体を揺らす。その轟音に紛れてキスケは死体の背へ飛び乗り、まだ沈み込んでいる巨体を足場にして跳んだ。
ロドが気付き大剣を持ち上げる。
だが、もう遅い。
「よっしゃあ!」
キスケは振り下ろされた大剣の内側へ飛び込み、ロドの胸元を蹴りつけた。体勢を崩したところへ着地と同時に足を掛け、そのまま身体を捻る。
ロドの背中が石畳へ叩きつけられた。
大剣が手を離れ、床を滑っていく。
起き上がらせる暇は与えない。
キスケはロドの胸を踏みつけ、無銘を逆手に持ち替えると、その切っ先を喉元へ突きつけた。
「へへっ、俺の勝ちだ」
魔物の巨体が完全に動きを止め、ようやく洞窟に静寂が戻った。
ロドはしばらく無銘の切っ先を見つめていたが、やがて抵抗をやめた。
「……魔物を利用したな」
「勝手に隙作ったてめェが悪いんだよ」
「なるほど」
「納得すんなら最初から仕掛けてくんな」
キスケは無銘を引くと、ロドの胸から足を退けた。
「これで一戦だからな。約束は果たした。次、依頼の途中で仕掛けてきたら一回につき金取るからな」
「いくらだ」
「食いつくんじゃねェよ!」
ロドはすでに次の戦いについて考えているようだったが、キスケは無視して祭壇へ顔を向けた。
ようやく本来の目的に戻れる。
そこには、先ほどよりもはっきりと感じられるほど濃密な魔力が渦巻いていた。