カスどもの救世 作:もりもりら
祭壇へ向かおうとした、そのときだった。
ぱち、ぱち、と場違いな拍手が洞窟に響いた。
「いやあ、お見事お見事」
聞き覚えのある声に、キスケの眉間へ深い皺が寄る。
振り返ると、通路の出口にナルニーナが立っていた。村人たちの前で見せていた敬虔な司祭の面影はどこへやら、壁に肩を預けながら楽しそうに笑っている。
「てめェ……」
「全部見てましたよ。いやあ、面白かった! 急に仲間割れを始めたと思ったら、そのまま二人で魔物まで倒しちゃうんだから。しかも一度も相談せずにだよ? 普通あんなのが出てきたら一旦休戦しない?しないもんなの?」
「こいつはイカれてんだ」
「貴様も大概だがな」
ナルニーナはくすくすと笑いながら二人へ近づいてきた。足元には先ほど倒した魔物の巨体が横たわっているというのに、それを恐れる様子もない。むしろ興味の対象は最初から二人だけらしく、キスケとロドを交互に眺める目は妙に楽しげだった。
「それにしても、キミたちって本当に変だよねえ?ボクの魔法は効かないし、あれだけの魔物を相手にしてもお互いを殺すことを優先するし……ねえ、どういう人たちなの?」
「旅人だ。んで、こいつはただの戦闘狂のストーカー」
「酷い言いようだな。では貴様は金の亡者か?」
『じゃああたしは?』
「てめェは黙ってろ」
『ひどい!』
ナルニーナが不思議そうに首を傾げる。
「その言葉、彼に向けたものじゃないよね?一拍、間がおかしかったしさ」
「気にすんな」
「いやぁ、もったいぶるねえ。いない誰かとお喋りだなんて、面白そうな物語があるに違いないのに」
「うるせェな」
キスケは無銘を鞘へ収めると、改めてナルニーナへ向き直った。
「それより、てめェに聞きてェことがある」
「はいはいなんでしょう?」
「なんでこんなことしてんだ?」
「こんなこと?」
「村人洗脳して、訳分かんねェ神様拝ませて、クソみてェなしきたり作って遊んでんだろ。何が目的だ?」
金か、権力か。
村人を利用して何かを企んでいるのか。
少なくとも、キスケにはそういう答えしか思いつかなかった。自分なら金のためにやる。大抵の悪党も似たようなものだろう。
ところがナルニーナは少し考え込んだあと、あっけらかんと答えた。
「ええ?そんなの簡単だよ。面白いから。ただそれだけ。ってか人生にそれ以上に大事なことってある?逆に教えて欲しいくらいだよ」
ナルニーナは悪びれもせず続ける。
「適当に神様の名前を考えて、教義を作って、奇跡っぽいことを魔法で見せてみたら、もうあっという間。最初は半信半疑だった人まで、周りが信じ始めると自分も信じちゃってさ」
まるで最近見つけた遊びについて話しているような口調だった。
「それで司祭になったのか?」
「まぁ、なりゆきで」
キスケには理解できなかった。
人を騙す奴なら知っている。金を奪う奴も、他人を利用する奴もわかる。キスケ自身、褒められたような人間ではないことは自覚していた。
だが、目の前の人間にはその分かりやすい欲がない。
退屈しないため。
ただそれだけのために、村ひとつを巻き込んでいる。
「……それで、キミたちはボクを断罪するつもりなのかな?でも、これって本当に罪なの?ボクが来る前のこの村の惨状を教えてあげようか?昔からの風習のせいで啀み合って、常に争いは絶えませんでした。大人たちは毎日のように飽きもせず怒鳴って、子どもは外に出ようとしないで怯えて蹲っています。どうぞ、滅びてください、って感じでした。──だから、このボクがその風習を変えてさしあげたのです。邪神様を祀り、邪神様のために生き、邪神様と共にありつづける。さすれば幸せに生きられますよって。信仰ってのはそういう機構だから。あれは団結させるため、人間が生み出した素晴らしい発明なんです。それをボクがこの村に持ち込んだだけ。ねぇ、キミたちの行為が必ずしも正しいだなんて、誰が決められるの?ああ、それこそ神様かなあ?」
突然ペラペラと聞いてもいないことを喋り始めるナルニーナ。言葉で牽制し、言葉で相手の戦意を削ぐ。それが彼女の武器でもあった。
しかしキスケは暇そうに欠伸をした。
「……で?その話が、でっちあげの可能性もあるよな」
ナルニーナは笑みを深めた。
「いやぁ、嘘をつきすぎたかなあ?」
ナルニーナは楽しそうに肩を竦めた。その態度を見て、キスケはこれ以上聞くだけ無駄だと悟る。この女に何を尋ねたところで、本当か嘘か分からない答えが倍の長さになって返ってくるだけだ。
「まあどうでもいいが」
「おやおや、もうボクに興味をなくしちゃった?」
「最初から興味ねェよ。俺は依頼で来ただけだ」
「ああ、そうだったね。冒険者ギルドの依頼。つまりキミたちは、邪教を広めて善良な村人たちを洗脳した悪の司祭を捕まえに来た正義の味方というわけだ」
「俺は金貰えりゃなんでもいい」
「台無しだなあ」
ナルニーナが笑ったところで、キスケの脇をロドが通り過ぎた。大剣を肩に担ぎ、真っ直ぐ彼女へ歩いていく。
「……おやおやぁ?」
「捕らえる」
「ずいぶん急だね。もう少しお喋りしようよ。ほら、ボクが本当に悪人なのかとか、この村の人たちが本当に救われていないのかとか、考える余地はいくらでも──」
「なるほど」
そう口では言いつつも、ロドは足を止めない。
「わあ、会話にならない」
ナルニーナは困ったように笑いながら一歩下がる。
「ちなみに、ボクはか弱い聖職者なんだけど」
「嘘だな」
「即答?」
「魔力で分かる」
「キミ、見た目に反して意外と理性的だね」
言葉を重ねながらも、ナルニーナの視線は忙しなく動いていた。ロドとの距離、握られた大剣、背後の祭壇、通路までの位置。それらを一瞬で確かめながら、口だけは止めない。
「それにさ、捕らえるって簡単に言うけど、ボクをどうするつもり? 縛って連れていく? 女の子を? こんな暗い地下で? それって世間一般ではキミたちのほうが――」
大剣が振られた。
「わっ!」
ナルニーナの金髪が数本、宙を舞った。
「最後まで聞こうよ!」
「捕らえると言った。耳がついてないのか?」
「キミこそ鉄仮面で目が見えて無いのかなぁ?!今の首狙ってたよねえ??」
「どうせ貴様は避ける」
「避けなかったら!?」
「捕らえる手間が省ける」
「殺すなっつってんだろ!」
キスケの怒声が飛ぶ。
ロドは構わず二撃目を繰り出した。ナルニーナはシスター服の裾を翻して大剣をかわすと、後方へ大きく跳ぶ。
「いやいや、危ないって! ボク、肉体は普通の女の子なんだからね!?」
「よく喋る」
「黙ったら死ぬかもしれないから喋ってるの!」
ナルニーナが片手を振ると、空中に幾重もの魔法陣が展開された。炎、水、風、雷。それぞれ異なる系統の術式がほとんど同時に組み上がり、一斉にロドへ殺到する。
轟音が響いた。
炎が弾け、水が石畳を抉り、雷光が地下空間を白く染める。しかし煙の向こうから、ロドは平然と歩いてきた。
「うわあ」
ナルニーナが目を丸くする。
キスケもドン引きである。
『絶対に敵に回したくないね、あるじ』と無銘がキスケの脇を小突くが、キスケにとっては手遅れである。
しかし大剣が振り下ろされる寸前、ナルニーナの姿が掻き消えた。
次に現れたのは十数歩離れた祭壇の上だった。
「鬼ごっこなら付き合ってあげてもいいけど、捕まるのは御免だよ。ボク、これからキミたちのことをもっと知りたいし」
「てめェは捕まる側だろうが」
「だから嫌なんだってば」
ナルニーナは後ろ手に手を組み、楽しげに祭壇の縁を歩く。追い詰められているはずなのに、その顔には焦りより好奇心のほうが色濃く浮かんでいた。
「しかし困ったなあ。洗脳は効かない、正論っぽい話をしても聞かない、魔法を撃っても止まらない。キミたち、詐欺師との相性が悪すぎない?」
「知らねェよ」
「仕方ない」
ナルニーナは立ち止まると、突然胸元で両手を組んだ。
そして天井を仰ぐ。
「ああっ、偉大なる邪神様!」
「……また始まった」
「あなたの忠実なる司祭ナルニーナが、今まさに野蛮な男たちの手によって捕らえられようとしております! どうか哀れなボクを、その偉大なる御力でお救いくださいませ!」
先ほど村人たちの前で見せていたものと同じ、いかにもそれらしい祈りだった。
ただし、口元は笑っている。
「邪神様たすけてぇ! ボクこのままじゃ捕まっちゃ──」
言いながらナルニーナの足元に転移の術式が広がった。
「──うから、自分で逃げるけどね!」
「てめェ!」
「あははっ! それじゃあ二人とも、また──」
転移魔法が発動する。
はずだった。
ナルニーナの姿は消えなかった。
「…………」
満面の笑みのまま固まる。
「……あれ?」
足元の魔法陣を見る。
術式は正しい。魔力も流れている。それなのに、空間が繋がらない。
「おっかしいなあ」
ナルニーナがもう一度魔力を込めようとした、その瞬間だった。
祭壇の上空で、空間が裂けた。
何かが壊れたわけではない。洞窟そのものに巨大な黒い亀裂が走り、布を両側から引き裂くように空間が開いていく。
裂け目の向こうには何もなかった。
いや、何も見えなかった。
光の存在しない暗黒がどこまでも広がり、その奥で、途方もなく巨大な何かがゆっくりと蠢いている。
ナルニーナの笑顔が消えた。
「…………は?」
黒い裂け目から一本の触手が這い出した。
先ほど倒した魔物のものとは比較にもならない。人間の胴より遥かに太く、まるでタコのようなそれの濡れた表面には無数の奇怪な紋様が浮かび上がっている。その一本が裂け目の縁へ絡みつくと、空間をさらに大きく押し広げた。
二本目が現れる。
その奥には、まだ数え切れないほどの影が蠢いていた。
洞窟を満たしていた魔力が一変した。肌に触れるだけだったものが質量を持ったかのように圧し掛かり、祭壇の黒い水晶が激しく震え始める。壁に刻まれていた触手の紋様も次々と光を帯び、まるで何かの到来を歓待するように明滅していた。
キスケは無銘へ手をかけた。ロドも大剣を構え直す。
ナルニーナだけが動かなかった。
「…………」
口が半開きになっている。
いつもなら放っておけばいくらでも言葉が出てくる女が、何も言わない。
ナルニーナは裂け目を見上げ、それから祭壇を見た。壁に刻まれた紋様へ目を向け、最後に自分の胸元へ視線を落とす。
そこに刺繍された邪神の聖印。
自分で考えたものだった。
古い宗教から借りたわけでも、文献に載っていたわけでもない。禍々しく見えそうな線を適当に組み合わせて作り、それらしい由来まで後付けして村人へ教えた。
なのに、裂け目から現れた触手には、それと同じ紋様が刻まれている。
「……え?」
ナルニーナは胸元の聖印を摘まんだ。
触腕を見る。
もう一度、聖印を見る。
「え、ちょっと待って」
声が裏返った。
「待って待って待って待って。なに? なにこれ?」
「てめェの神じゃねェのか」
「違うよ!」
ナルニーナが勢いよく振り返った。
「知らない! ボクこんなの知らないよ!」
「さっき助け求めてただろ」
「あれはおふざけ!」
「神様に通じたんじゃねェの」
「通じるわけないでしょ! いないんだから!」
ナルニーナは裂け目を指差した。
「邪神様なんてボクが作ったの! 名前も! 教義も! 聖印も! お告げも! 全部ボクのでっちあげ! 存在しないものを存在するって言って、みんながどこまで信じるのか見てただけなの! だからあれは──」
触手が大きく動いた。
「ひゃっ!?」
ナルニーナが飛び退く。
明らかに怯えていた。
キスケはそんな彼女を半眼で見る。
「……邪神の司祭様が一番ビビってんじゃねェか」
「うるさいな! いると思ってないものが急に出てきたらキミだって驚くだろ!?」
「俺は最初から知らねェからな」
「ボクは知ってるから驚いてるの! 存在しないって知ってるんだよ!」
「目の前にいるぞ」
「だから混乱してるんでしょうが!」
ナルニーナは頭を抱えた。
「おかしいおかしいおかしい。どこで間違えた? ボクが知らないうちに何か召喚した? いや、そんな術式組んでない。そもそもあの聖印だって適当に──」
そこで、言葉が止まった。
ナルニーナはゆっくり顔を上げた。
裂け目の向こうで巨大な影が蠢いている。
自分が作ったはずの神。
自分が考えたはずの紋章。
存在するはずがないものが、当然のようにそこにいる。
しばらく呆然と見つめていたナルニーナの口元が、ふいに震えた。
「ふふっ……」
ナルニーナが顔を押さえたまま俯く。肩が小刻みに震え、それは怯えだろうか。否、堪え切れなくなった笑い声が指の隙間から漏れ出した。
「あはははははっ!」
「……チッ、とうとう壊れやがった」
「違う、違うよ! だって、こんなの……こんなの面白すぎるじゃん!」
顔を上げたナルニーナの瞳から、先ほどまでの狼狽はすっかり消えていた。代わりに浮かんでいるのは、隠しようもない歓喜だった。
「ボクが考えた嘘だよ!? ボクだけは嘘だって知ってたのに、本物が出てきちゃった! しかも助けてって言った瞬間に! なにそれ! どうなってるの!?」
「俺に聞くな」
「最高じゃん!」
ナルニーナは裂け目を見上げ、両腕を広げた。
「ボクの知らないところで、ボクの物語が勝手に動いてる!」
筋書き通りに進む物語ほど、彼女にとって退屈なものはない。
自分が嘘をつき、人を騙し、思った通りに動かす。それは楽しい。けれど、いつか必ず飽きが来る。登場人物が全員自分の言葉通りに踊る舞台など、結末まで知っている芝居を延々と眺めるようなものだ。
だからナルニーナは、自分の思い通りにならないものを愛していた。
キスケがそうだった。
ロドがそうだった。
そして今度は、自分ででっち上げた神すら、自分の知らないところで本物になって現れた。
「あははっ、何これ……!」
ナルニーナは心底楽しそうに笑う。
「すっごく面白くなってきた!」
その頭上で、彼女の筋書きには存在しなかった邪神が、ゆっくりとこちらの世界へ降りてきていた。
「どこが面白いんだよおい……」
キスケのボヤキなど聞こえていないのか、ナルニーナは裂け目を見上げたまま笑っている。その頭上ではさらに二本の触手が暗闇から這い出し、洞窟の壁へ絡みついていた。一本が僅かに動くだけで岩盤が軋み、天井から石片が降り注ぐ。
ロドは大剣を構えたまま、それを見上げていた。
「あれは神だ」
「んなの見りゃ分かるだろ! どう見ても邪神だ邪神!!」
「なるほど、寵愛児か。神が降りてきたのは、もしかしたらオレのせいかもしれない」
「ああそうだよもう全部何もかもてめェのせいだ! てめェがどうにかしろ!」
最早八つ当たりである。だがロドは頷いた。
「さすがに善処しよう」
「ああ是非とも善処してくれ! その不死身の身体で精々頑張ってくれ! 俺は逃げるぞ!」
言うが早いか、キスケは踵を返した。
『えぇ!? 神様斬らないの?!!!』
無銘が悲鳴に近い声を上げる。
『神様の魂なんて、ぜぇったいすごい味だよ!!』
「てめェは食い物のことしか頭にねェのか! あんなもん斬ったら腹壊すぞ!」
『食べてみなきゃ分かんないじゃん!』
「試食感覚で神食おうとすんな!」
「もし貴様がここから逃げれば対処は遅れ、村人は助からないだろうな」
キスケの足が止まった。数秒黙ったあと、ものすごく嫌そうな顔で振り返る。
「……てめェ、どこでそんな技覚えたんだよ」
ロドは答えなかった。
キスケはたしかにロクデナシだ。
金が絡まなければわざわざ人助けをしようとは思わないし、決してお人好しではない。
だが、手を差し伸べれば助けられる人間が目の前にいて、無視ができるほど性根は腐っていなかった。寝る前にその人間を思い出して嫌な気分になるような経験は、絶対にしたくなかったのである。
「クソが……!」
キスケは悪態を吐きながら無銘を抜いた。
『やったぁ!』
「喜ぶな! やべェと思ったら即逃げるからな!」
「それでいい」
「てめェに許可されたくねェ!」
そのとき、裂け目から伸びた触手が動いた。
ただ横へ薙いだだけ。たったそれだけで空気が爆ぜた。
「ッ!」
キスケは咄嗟に地面へ伏せた。頭上を巨大な影が通過し、その先にあった石柱が根元から消し飛ぶ。ロドは避けずに大剣を叩きつけたが、刃が食い込んだのは僅かだった。
「硬いな」
「感想言ってる場合か!」
触手が持ち上がる。大剣を引き抜くより先にロドの身体が宙へ跳ね上げられ、そのまま洞窟の壁へ叩きつけられた。
岩壁が陥没する。
「……死んだ?」
「生きている」
瓦礫を押し退けてロドが立ち上がる。
その間にも、裂け目は広がっていた。
問題は触手ではない。
あれはまだ身体のごく一部に過ぎない。暗闇の向こうでは、それとは比較にならない巨大な何かがこちらへ近づいている。姿さえ見えないのに、その存在感だけで洞窟全体が軋んでいた。
「おい金髪!」
キスケが怒鳴る。
しかし返事がない。
「金髪!」
「あはははははは! ボクだけの神様だ! すごい、すごいよ! これからどうなっちゃうの? あはははははは!!」
「いつまで喜んでんだてめェ!」
キスケはナルニーナの後頭部を引っぱたいた。
「あいたっ!」
「どうにかしろ!」
「神様を?」
「穴だよ穴! てめェさっき逃げようとしてただろ! 空間弄れるんじゃねェのか!」
「あぁ〜なるほど」
ナルニーナは頭を押さえながら裂け目を見上げた。先ほどまでの浮かれた表情が少しだけ真面目になる。
「閉じること自体は、たぶんできるよ」
「おう今すぐやれ!」
「でも無理」
「どっちだよ!」
「術式を組む時間が足りない。あれ、向こう側から空間をこじ開けてるんだよ。ボクが閉じようとしても、神様が広げ続けてる限り押し負ける」
「じゃあどうすんだ」
「向こうから裂け目を押し広げてるものを、一旦全部どかして」
キスケは裂け目を見上げる。
縁には何本もの触手が絡みつき、扉を押し開く指のように空間を広げ続けている。
「……えー、あれ全部?」
「うん」
「チッ、面倒事押し付けやがって。先に言っとくけど、てめェ絶対捕まえるからな」
「生きて帰れたらね」
ナルニーナが笑う。
「だから十秒ちょうだい」
「十秒でいいんだな」
巨大な触手が振り下ろされた。
ロドが前へ出る。
大剣を両手で握り、真っ向から迎え撃つ。激突した瞬間、石畳が陥没した。ロドの両脚が地面へ沈みながらも、触腕の軌道が僅かに逸れる。
その隙にキスケが走った。
触手そのものを斬る必要はない。
狙うのは、裂け目の縁に絡みついている先端。
「無銘!」
『はぁい!』
「食いてェなら働け!」
『あるじ大好き!』
黒い刀身へ魔力が走った。
キスケは地面を蹴り、触手へ飛び乗る。その表面を駆け上がりながら無銘を振り下ろすと、先ほどまでとは明らかに違う手応えが返ってきた。
刃が入る。
浅い、だが斬れる。
『うわ、なにこれ! すごい! すっごい匂いする!』
「味見してる場合か!」
キスケは同じ傷へ二撃目を叩き込むと、触腕が大きく痙攣する。その根元へロドの大剣が入り、二つの傷が繋がった。
巨大な触手が裂け目から外れ、洞窟へ落下する。
空間が僅かに縮んだ。
「次!」
キスケが別の触腕へ向かう。
ロドも何も言わず反対側へ走った。
何度も刃を交えた二人に、相談などなかった。戦いの中で互いがどう動くのか嫌というほど分かっている。
キスケが斬ればロドが叩き込む。ロドが触手を押さえれば、キスケが傷口へ無銘を滑り込ませる。別の触手が横から迫れば、一方が避けた先へもう一方の攻撃が入り、結果として邪神の攻撃だけが次々と削られていく。
皮肉なことに、殺し合っているときより息が合っていた。
「五秒!」
ナルニーナの声が飛ぶ。
彼女の周囲には幾重もの魔法陣が展開されていた。先ほど使おうとしていた転移魔法とは比較にならないほど巨大で複雑な術式が、空間そのものへ縫い付けられていく。
残る触手は三本。
一本をロドが力任せに裂け目から引き剥がす。もう一本へキスケが無銘を叩き込む。
最後の一本が動いた。狙ったのは、術式の維持に集中しているナルニーナだった。
「おい!」
巨大な触手が振り下ろされる。ナルニーナは動けない。ここで術式を解いて逃げれば、最初からやり直しになる。キスケの位置からでは間に合わず、代わりにロドが地面を蹴った。ナルニーナと触手の間へ身体を滑り込ませ、大剣を盾のように構えた直後、凄まじい轟音とともに触手が直撃する。
石畳が砕け、ロドの身体が地面へ叩きつけられた。
「ロド!?」
「続けろ」
「……キミ、本当に頑丈だねえ!」
キスケは倒れたロドの大剣へ足を掛け、それを踏み台にして跳んだ。最後の触手が目の前に迫り、両手で握った無銘を大きく振りかぶる。
「ご馳走だ、食らえよ無銘ィ!」
『いっただきまぁぁあす!』
全体重を乗せた斬撃が、すでにロドの大剣によって傷ついていた箇所へ食い込んだ。無銘の刃が一気に走り、最後まで裂け目に絡みついていた触手が外れる。
そうして外側から押し広げられていた空間は支えを失い、待っていたかのように収縮を始めた。
「今だ!」
「言われなくても!」
ナルニーナが両手を合わせると、周囲に展開されていた魔法陣が一斉に回転を始めた。幾重にも重なった術式が裂け目を覆い、その左右から空間そのものを引き寄せていく。黒々と開いていた亀裂は徐々に細くなり、このまま閉じるかに見えた。
──しかし、神はそれを許さなかった。
暗闇の奥で、初めて巨大な輪郭が動く。それが顔なのか、身体なのかさえ分からない。否、矮小な我々の脳味噌では、理解できない、認知を拒否しただけなのだ。ただ、それはこちらを認識した──キスケには、それだけがはっきりと分かった。嗚呼、あれは闇よりなお昏き方。以来人間は宇宙と深海とを見失った。
「……やべ」
次の瞬間、凄まじい力が裂け目の向こうから押し寄せた。閉じかけていた空間が再び左右へ押し広げられ、魔法陣が軋むように激しく明滅する。
「ちょっ、強っ……!」
術式を維持するナルニーナの足が石畳を滑り、身体がじりじりと後ろへ押されていく。
「おい!」
「無理無理無理! これ本当に神様だよ! ボク一人じゃ押し返せないって!」
「てめェ賢者並みに魔法使えんだろ!」
「神様は賢者より上なの!」
「知らねェよ!」
キスケは咄嗟にナルニーナの背中へ手を当てた。
「何!?」
「魔力流しゃいいんだろ!」
「できるの?」
「知らん!」
「最高!」
「何がだ!」
キスケが力任せに魔力を流し込むと、ナルニーナを中心に展開されていた術式が一際強く輝いた。押し広げられていた裂け目が僅かに縮み始めるが、それでもまだ向こう側の力には及ばない。
すると、先ほど地面へ叩きつけられたロドが起き上がった。何事もなかったようにナルニーナの隣まで歩み寄り、無言のまま彼女の肩へ手を置く。
「え、キミも?」
「使え」
「雑だなあ!」
さらに大量の魔力が流れ込み、ナルニーナの目が見開かれた。左右から流れ込んでくる二人分の魔力を感じ取り、思わず振り返った。
「……なに、この二人」
「早くしろ!」
「あはっ」
ナルニーナが笑った。
「じゃあ、遠慮なく!」
術式が爆発的に拡大した。
洞窟を埋め尽くすほどの光が溢れ、押し返されかけていた魔法陣が再び裂け目を呑み込んでいく。黒い空間は今度こそ急速に狭まり始めた。
そのとき、裂け目の奥から最後の抵抗とばかりに一本の触手が飛び出した。閉じようとする空間へ強引に割り込み、こちら側へ這い出そうとする。
キスケは無銘を構え、ロドも傍らに転がっていた大剣を拾い上げた。視線を交わすことすらなく、二人は同時に踏み込む。
二つの刃が触手を捉えた。
無銘が斬り込み、その直後を追うように大剣が叩き込まれる。触手は二人の斬撃に押し返され、そのまま閉じていく裂け目の向こうへと消えていった。
その瞬間、ナルニーナが両手を打ち合わせる。
「お帰りください、邪神様!」
空間が閉じた。
黒い亀裂は瞬く間に細まり、一本の線となったかと思えば、それすら何事もなかったように掻き消える。それまで地下空間を満たしていた重苦しい魔力も嘘のように失せ、遅れて壁の紋様から光が消えていった。祭壇に置かれていた黒い水晶には一本の亀裂が走り、それを起点に無数のひびが全体へ広がると、乾いた音を立てて粉々に砕け散った。
あとには、不自然なほどの静寂だけが残った。
三人はしばらくその場から動かず、つい先ほどまで裂け目が存在していた空間を見つめていた。
最初に口を開いたのはキスケだった。
「……帰ったか?」
「まー多分ね」
「たぶん?」
「神様を追い返した経験なんてキミにはあるかい?もちろんボクにはない。つまりこの世界の誰も、この状況を説明できるわけないのさ」
「それでもてめェの神だろうが」
「全然ボクに攻撃的だったけどね!」
ナルニーナはそう言い返したものの、すぐに堪え切れなくなったように口元を歪めた。
「あは……あはははっ! すごい! 神様を追い返しちゃった! 急に実感湧いてきたあ! ボクたち神様を追い返したんだよ!」
そのハイテンションはどこからやってくるのか。キスケはげんなりした。
「俺はもう帰りてェ……」
『あるじ!』
「今度はなんだよ……」
『神様、おいしかった!』
「食ったのか?」
『ちょっとだけ!』
「腹壊して死ね」
『ひどい!』
疲れ切ったキスケが肩を落とす一方で、ロドだけはその場に腰を下ろし、裂け目が消えた場所をじっと見つめ続けていた。やがて何かを確かめるように大剣を握り直し、ぽつりと言う。
「また来るだろうか」
「てめェ、もう一回戦いたいとか言い出すんじゃねェだろうな」
「違う。むしろ、逆だ」
「は?」
キスケは一瞬理解が遅れた。
あの戦闘狂が、戦いたくないだなんて。天地がひっくり返っても有り得ないはずだ。そんなキスケの心中を察したらしい、ロドは口をへの字に曲げて抗議する。
「言っておくが、オレにも苦手な戦闘はある。例えば……ギミックボスとか」
「結構選り好みするタイプの戦闘狂かよてめェ……」
「あと複数戦」
「それはわかる」
初めてロドと気が合った瞬間だった。