白川《しらかわ》村のデイリーヤマザキに到着したのは正午を30分ほど過ぎたあたり。
店の前や歩道には外国人観光客のカップルが何組か、傘も差さずに携帯電話や小さなカメラを構えて自分や恋人を撮影している。
彼らが店の中のものを買い占めてしまっているのではないかと男は不安になったが、そんなことはなく、冷蔵ケースや棚にはしっかり商品が残っていた。
パンの棚を物色してみたが食指が動かず、味ご飯のおにぎり2つと卵焼きがセットになっているものと、ペットボトルの緑茶を昼食にすることにした。
車に戻り、さっそく食べようと思ったのだが、コンビニのカメラや外国人たちのカメラに映り込んでいることをすっかり忘れていたことに気付き、すぐに車を動かして走りながら食べることにした。―――連中のカメラは気にする必要はないか……
村の中のNシステムを一つ迂回し国道156号線で北上。トンネル、トンネル、そしてまたトンネルと続き、暗くはあったがハンドル操作が煩雑ではなかったので、おにぎりが食べやすい道でよかったと男は思った。
大きなつり橋で蛇行する庄川《しょうがわ》を渡ったところで富山県
道の脇にはスノーポールが並んでおり、雪深い地域であることを示している。
―――あのポール、昨日の妙高《みょうこう》でも見たけどなんだったかな。
鉄骨トラスの橋で庄川を渡り、高速の高架を潜って川に沿って東向きに曲がり、長いトンネルの先の集落の中で左折して国道304号線に。
きちんと整備された道でぐいぐい坂を上っていき、男が配達中に通った中でも最長と呼べるような長い長いトンネルを抜け出ると緩い下り坂になる。坂を下った先に南砺市の市街地が見える。
しばらく田園地帯というか道の両側はほぼ田んぼが続く。薄暗い峠道の森の緑と違って稲の緑は目に優しいと男は思う。
雨脚は弱まってはきていたが止む気配はない。しとしと、といった具合。
地元の車の往来があり交通量はそれなり。焦る場面でもないので流れに沿って中心市街地へと進んでいく。
東海北陸自動車道の高架手前にNシステムがあるので、田んぼの中の道で迂回する。
すぐにまた国道に戻り、青看板に従って金沢方面へ右折し県道27号線に入る。
街を出て山道に入る直前に迂回ポイントがあるので、車一台が通れるような細い生活道路で躱して県道に戻る。
最後の山越え区間は恐ろしい峠道ではなく、勾配はそれなりだったがカーブは緩く、必要な場所にはトンネルがあり、車道よりも一段高くなった歩道も整備された走りやすい道だった。
南砺市と金沢市を結ぶため通行台数もそれなりで、道路の構造よりも坂で踏まない軽自動車の方が厄介だった。
金沢大学の施設の脇を通過して市街地に入る。
弁護士の事務所は割と東側にあったため、市内での迂回は必要なかった。
午前7時半に松本を出発した男が、星野の茶封筒を携えて弁護士事務所に到着したのは午後3時過ぎだった。
事務所は時代を感じさせる木造の平屋であり、資産家の顧問にしては慎ましい佇まいだと思った男が呼び鈴を鳴らし「六星です」と告げると、女性職員が出迎えてくれて中に案内される。
通された応接室のような部屋は、赤く塗られた壁や格子の天井、ブ厚い絨毯が敷かれた上に猫脚のフェルト張りソファと、外観からは想像できない豪奢な内装だった。
すぐに弁護士と思わしき好々爺といった初老の男性が部屋に入ってくる。
「いやあ、遠いところご苦労やったねえ。長野《あっち》も雨やったけ?」
遊びに来た孫にでも接するかのように笑顔を向けて、弁護士は男を労いつつ対面のソファに腰を下ろす。
男は距離を置くように「ちょうど出る頃に降り始めました」と事務的に答える。
すると弁護士はぐっと身を乗り出して、声を落とし「んで、あとを残さんちゅうのは、どんだけの苦労があるんかねえ?」と尋ねる。
「苦労……、自分は運転するだけなので特に……。ああ、でも、旧道のような峠道は目が疲れます、肩が凝るというか。後は段取り通りに走るだけなので」
男は率直な感想を述べたまでだったが、弁護士は何か秘策のようなものがあるのではないかと期待していたようで、その話題に興味を失ったように前屈みだった姿勢を解いて、背もたれに背中を預けて「そうですかー」と呟いた。
そこで男は星野から預かってきた茶封筒を「これお預かりした荷物です」とローテーブルの上に置いた。
「ああ、ありがとう。んで、律子さんはお元気やったかな?」
―――リツコ?あの婆さんのことかな?
「ええ。お元気でしたよ。ただ、膝も痛いし、腰も痛いみたいでした」
「そうけ。あの人には旦那さん看取ったあともしっかりしとってもらわんと困るさけ、身体は大事にせんとねえ」
弁護士はしげしげと茶封筒を眺めながら少し寂し気な目をして星野の体調を心配する。男は今更訂正するのも憚られたので「実際は痛くもなんともないと思うけど」という言葉を飲みこんだ。
そのとき、ドアがノックされ、先ほどの女性職員が珈琲を運んできた。彼女が退室すると弁護士は、真面目な顔になって男に向かって言う。
「ウチは相続一本でやっとるさけ、全国に客おるんよ。相続ちゅうのは人間の醜いとこが表に出てしまうことがようあるんよ。親兄弟を憎んだり恨んだり。情けないことやわ」
その話に特に興味もなかった男は黙って珈琲を一口啜り、いつも飲んでいるコンビニのマシンの100倍美味しいと思った。
その後、「守秘義務があるさけ、詳しい話はできんのやけどね」と前置きをしつつ弁護士は詳細をぼかしながら家族間の骨肉の争いについてあれこれ話をしてきた。
―――ほぼほぼ喋ってるけど守秘義務があるんじゃないのか。
弁護士の話がひと段落したところで「それじゃ」と男が立ち上がると、弁護士も立ち上がり「また、お願いすることもあると思うわ。ほんなときはまた、よろしく頼むね」と握手を求めてきた。
男は彼の手を軽く掴み、金沢までのルートはこりごりだとは言えなかったので「社長に伝えておきます」と言ってその場を辞した。
駐車場まで歩いて戻り、ガソリンの残量をチェックする。
南砺市までは戻れそうだったので県道27号線で戻り、セルフスタンドで給油をする。
県道48号で北上して国道359号線へ。富山《とやま》市に向かって東進し、一箇所だけNシステムを迂回して県道59号の分岐で少し南に下り、空港の南側の橋で神通川《じんづうがわ》を渡り市街地へ。
渡った先でもNシステムを迂回したら、陽菜の地図を確認しつつ駅前に。
立体駐車場に車を停めて向かいの回転ずしへ行き、夕食を摂る。
腹がぱんぱんに膨れたら出庫して富山インターへ向かう。
インター付近のラブホに入り、シャワーを浴びてベッドで横になったら、一日中運転していた疲労からか男はすぐに眠ってしまう。
目覚めたのは午前4時すぎ。時刻的にはまだ寝ていても構わなかったが、頭も身体もすっきりとしていたので歯を磨き顔を洗って出発することにする。
富山インターから北陸自動車道で新潟《にいがた》方面へ向かい、糸魚川《いといがわ》インターで下車。
国道148号線を南下し、ライブカメラもNシステムもお構いなしに松本へ。
監視網からすれば、不意に富山に現れた車が糸魚川経由で松本まで行っただけ。上越も金沢とも結ばれることはない。
石川のタクシー会社へ帰り着いたのは午前8時の少し前。
まだ誰も出勤してきておらず、石川夫妻に戻った報告をするため男が彼らの自宅に顔をだすと、ちょうど朝食を摂っているところだった。
「お?帰ってきたな。おつかれ。もしかして徹夜で帰ってきたのか?」
「いえ。早めに寝たら早めに目が覚めたのでそのまま」
「お腹空いてない?もし食べるなら用意するけど」
由加里の申し出を「大丈夫です。帰ったら眠くなったんで一旦寝ます」と断って男は部屋に戻る。
なにしろ昨夜、回転ずしで25皿も食べたので腹は当分空かなさそうだった。