いつからか、わたしの家のトイレには世界地図が貼られていた。
両親が何を思ってそうしたのかは知らないけれど、わたしは毎朝便座に座りそれを眺め、国の名前やそれがどこにあるのかを自然と覚えた。
ずっと社会科や地理のテストの成績が異常に良かったのはそのおかげだと思う。
得意なものを活かすように、今は地図を作る会社に勤めている。
去年の暮れにお母さんの兄である伯父さんが、記憶喪失の男の人を保護したと聞いて、わたしは乞食みたいなおじいさんを想像した。
ところがお母さんは、どうやらわたしと同じ歳ぐらいの男の人だと言う。
それを聞いて、わたしは『自分の記憶がない』ってどういうことなのだろうと、とても興味が湧いた。
わたしたちの親類は、正月だからといって特に集まることもなかったが、記憶を失くした男の人が気になって、年明けの2日に伯父さんの家を訪ねた。
その年の冬は寒く、原付で走っていると睫毛が凍りそうになって引き返そうかとも思ったけれど、好奇心が勝って伯父さんの家まで辿り着くことができた。
玄関のところで由加里伯母さんに新年の挨拶をしてお邪魔させてもらい、リビングに入ると確かに同じ歳ぐらいに見える知らない男の人が炬燵に入ってテレビを観ていた。
実のところ、わたしにはかれこれ3年ほど彼氏がいない。
都内の大学時代に付き合っていた彼とは、地元に戻って約1年で別れた。
彼も地元の三重に戻り、おそらくわたしと別れる前に別の彼女ができていたのだと思うけれど、別れ話が出たときにはどうでもいいと思って詳しく聞かなかった。
そんなわけで、炬燵の彼については、もしかして運命の出会いなのではと思わなくもなかったが、一目見てときめかなかった。
なにかこう、記憶がないことと関係があるのかわからないけれど、枯れた感じというか、欲望が削ぎ落されすぎて生命力がないというか、とにかく年寄り臭かった。
ただ、なで肩でないことだけは減点対象から外れている。
わたしはどうしてか、なで肩の男性を相手にするとイライラしてしまい、馬鹿にしたような口をきいてしまう。どんなにイケメンだとしても、高収入だとか立派な人だったとしても、そこだけは条件反射で認められないのだ。
わたしも炬燵に入り「初めまして、光則伯父さんの姪の小笠原陽菜です」と彼に声を掛けた。伯父さんの姪って当たり前じゃん。伯父さんなんだから。わたしはなにを言っているんだろうと思った。
すると彼はわたしの方を向いて「初めまして、名前は……ないです」と真顔で言って頭を下げた。
名前はないって当たり前じゃん、記憶がないんだから。わたしは彼のそのフレーズが大層気に入った。そこからは何を話したか覚えていないけれど、ずっと一人で喋っていたような気がする。
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仕事初めの日の昼休憩、食堂として使っている休憩室で、わたしが姉御と慕っている先輩の阿部さん(32)と、お喋り仲間であるパートの平田さん(44)と、いつも通り一緒にお弁当を食べているときに彼の話をした。
「えー、記憶喪失って本当にあるのね。あ、でも痴呆みたいなものかしら」と平田さん。
「ボケと違って急に思い出したりするんじゃないの?で、小笠原ちゃんの伯父さんに向かって『だ、だれだおまえ!』とか言い出したりして」と阿部さん。
「そんなドラマチックな感じじゃないんですよ。もっとぼんやりしているっていうか。ただ、自分で『名前はない』って言うの、夏目漱石かよっておかしくて」
「ねえねえ、それで彼、どんな人なの?芸能人に例えると誰?」とゴシップモンスター平田さんが本気を出してくる。
「顔面偏差値が高めなら、悪いけど小笠原ちゃんといえども手加減しないから」と、ずっと見続けるのだから顔は大事、が家訓の阿部さんからの宣戦布告。
「芸能人ですか。いやー、芸能界にはいなさそうな感じですね。そもそも華がないというか、顔面偏差値はまるっきり中央値の人ですよ」
「えー、じゃあ陽菜ちゃんの彼氏候補にはならない感じ?」
「はい。運命の出会いって感じじゃなかったですね。そもそもわたしが顔見に行ってる時点で運命ではないですけどね。あははは」
「見る角度によってはジャニっぽさがあったりしない?」
「ないですよ。どこからどう見てもアイドルにはなれない感じです。わたしが言うのもなんですけど、地味ですね」
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春、伯父さんから連絡があって話を聞きに行くと、監視カメラとNシステムを回避する配達ルートを設定できるか尋ねられた。真面目に。しかも高崎《たかさき》市から岐阜《ぎふ》市まで。
わたしはそれが成立するのかどうかに関わらず、すぐに地図を分割する必要があると思った。縮尺が小さい地図では細かい部分が把握できないだろうから。
「高速道路はまず除外して、国道や県道のライブカメラは国土技術研究センターのものが使えると思う。国土地理院の地図をベースにしているから位置も正確だと思う。だけどNシステムは……」
「データがない?」
「ううん。オービスやNシステムの位置を公開している個人サイトはあるから、それを流用すればだけど、正確性は担保できないから。一応ストビューで確認してみるけど、新しく設置されたものがあればお手上げになるかな」
「それは仕方ないよね。配達の前日に稼働しているような場所があれば知りようがないし」
「ねえ、伯父さん。夜逃げでもするの?」
お母さんからコロナ禍から伯父さんの会社が苦しいみたいだと聞いていたので、一応尋ねてみた。そうだと言われてもわたしにできることはないのだけれど。
でも、伯父さんの反応は思っていたものと全然違ってた。
「あははは。夜逃げするのに陽菜ちゃんに相談しないよ。俺、個人で配送業やってるんだけど、そういう『デジタルに痕跡を残さない』配達をしてくれって特殊な依頼があってさ。実現可能なのか知りたくて」
「そんな依頼があるんだ。じゃあわたしは、伯父さんが配達するための地図を作ればいいの?」
「いや、配達するのは俺じゃない。うちの居候の”あいつ”だよ」
「え?彼、運転できるの?っていうか免許証持ってるのに名前わからないってどういうこと?」
伯父さんが言うには、彼は無免許ではなく免許不携帯という状態らしく、もし警察に見つかっても減点はないし罰金の3000円払えば済むのだと言う。
わたしは『減点がない』という言葉を聞いて、なんとなく伯父さんの話が正しいのだと思った。
そして、伯父さんの会社から高崎市まで、そこから岐阜市までのルート作成について「やってみる」と返事をすると、伯父さんからバイト代の提案があり、けっこうな額だったので一応「ないと思うけど、これまずいものを運ぶやつ?」と尋ねると「いやいや、そんなわけないよ。俺だって犯罪者にはなりたくないから」と伯父さんは笑った。
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伯父さんの配達の話は、会社の二人には言っていない。だけど”彼”についての質問はちょいちょいしてくる。様子はどうだとか、何か思い出せそうなのかとか。
わたしは、痕跡を残さない配達のための複雑なルートを、わたしのコマ図を頼りに完璧に二度も走り抜けた時点で、彼を見る目が変わっていた。
普段は面倒くさがりで、会話も弾まないことが多いけれど、ここ一番という場面でズルをしない、裏切らないってことはわかった。
「ちょっと人生の先輩のお二人にお聞きしたいんだけど、この人ってわたしに興味があるのかな?って確認するの、どうやったらいいと思います?」
「あら、遂に重い腰を上げたのかしら。わたし応援しちゃう!当たって砕けろよ!」
「いや、砕けたくないから聞いてるんですよ、平田さん」
「そうだな。やっぱお色気じゃないか?男なんかちょっと薄着ならイチコロよ」
「えー、それまじですか?」
「まじ」
マッチングアプリを駆使して彼氏がたびたび入れ替わる阿部さんが言うのだから本当のことなのだろう。