由加里からの依頼があった翌日、石川は男に「配達の依頼があった」と告げる。
荷物の受け取り場所は愛知県
「新城市のJRバスの支社?そこまで下道で行けばいいんですか?」
「いや、行きも帰りも高速でいい。そのかわり配達中だけは監視を回避してくれ。だから少し手前で降りて支社で回収。で、回避しながら常滑《とこなめ》市まで。その後は名古屋《なごや》高速から乗ってくれればいい」
すでに陽菜が新城から常滑までのルート地図を制作しており、翌日には届いて出発するという異例の電撃作戦に、男は違和感を覚え「なにがあるんですか?」と石川に尋ねると「”おまえ”DVって知ってるか?」と逆に質問される。
「ディーブイ?いや、わからないです。当たり前に知ってることですか?」
「まあそうだな。ドメスティックバイオレンスって言ってな、ようは逃げられないような相手に暴力を振るうような話だよ。夫婦とか恋人とか親子とか」
「そうなんですね。社長がいつも由加里さんに叩かれているのもそれですか?」
「ばか、あれは愛情表現だよ。ああいうかわいいやつじゃなくて、本気で殴られたり金取られたりするんだよ。で、新城から常滑まで運ぶのはその被害者の女性だ」
石川がそう言うと男は「え?人を乗せるんですか?」と言った。珍しく驚いた表情を見せる男に石川も驚き「そうだ。嫌か?」と尋ねると「あ、いや別に。初めてのことだから」といつもの調子に男は戻っていた。
その女性をDV男から逃がすために由加里は家を空けているのだと一週間ほどの不在について訳を説明すると「社長と喧嘩したわけじゃなかったんですね」と男は然程興味がない感じで言うだけだった。
翌日の夕方、普段の格好をした陽菜がタクシー会社にやってきて男に地図を渡す。
コマ図は然程の枚数はなかったが、今回も縮尺の小さいものに赤いルートが示されたものが何枚かあった。
「我ながらいい仕事ができたと思ってる。由加里伯母さんのためなら気合も入るってものよね。ふふふ」
得意げに至近距離からルートの説明をする陽菜に対し男は、きょうはいつも通りいい匂いがしないなと思いながら話を聞いた。
「今回は戸田に頼んでない。GPSの配線外したからこれ乗ってけ」
そう言って石川は由加里の車であるホンダFitの鍵を男に渡す。
男を運転席に座らせ石川が助手席に乗る。「クルコン使うか?」と尋ねると「はい、高速はクルコンあると楽です。眠くなるけど」という男に石川はクルーズコントロールの設定方法を教えた。
午前3時20分の現地着に向けて、男は松本《まつもと》のタクシー会社を午前零時に出て高速道路に乗り、岡谷《おかや》ジャンクションから中央道を南下し、飯田山本《いいだやまもと》インターで三遠南信《さんえんなんしん》自動車道に入り、天竜峡《てんりゅうきょう》インターで下車して国道151号線で愛知県との県境を目指す。
◇◇◇◇◇
男が出発する半日ほど前、由加里はマンションを出る際、横谷に「また来てもいいかしら」と尋ね「泊まらないならな」とあしらわれながら部屋を出た。
JR目黒《めぐろ》駅の女性用トイレの個室に入り、コンビニで買ったマイナスドライバーで横谷のスーツケースの鍵を破壊し、中に入っていたものを確認すると案の定、預金通帳やパスポート、保険証、そしてマンションの権利書があった。
それらを元に戻し白いスーツケースごと黒いスーツケースの中に入れたら、すぐに関西方面行きの夜行バスについてスマホで調べる。大宮《おおみや》発で23時25分にバスタ新宿から出る便に空きがあり、2名分予約する。
石川へ連絡して、こちら側の準備はほぼ整ったため今夜決行で問題ないと告げる。
トイレを出てスーツケースをコインロッカーに預けるとマンションに戻る。
マンションのエントランスでインターフォンを鳴らし、晴香から貰った服を入れた鞄を忘れたと横谷に言うと「宅急便で送らせるから」と言われ「ここまで来ているのだからお願いよ」と懇願すると、通話は切れエレベーターホールに通じる自動ドアが開いた。
部屋のチャイムを鳴らすとドアが開き横谷が不機嫌そうな顔を見せる。由加里は玄関まで入り「上がるつもりはないから」と言って晴香の部屋にある茶色の鞄を取ってきて欲しいとお願いする。
当然中身を確認されることは織り込み済みだった。案の定、部屋の奥でジッパーの開く音が聞こえたが、下着類はないため晴香の着替えだとは思わないだろう。
横谷は由加里に晴香の鞄を乱暴に渡し「他に忘れ物があっても宅急便だから」と吐き捨てるように言い、由加里が玄関を出るとこれみよがしにカチャリと鍵を掛けた。
◇◇◇
晴香のマンションを出て新宿《しんじゅく》へ移動し、彼女の仕事が終わるのを待つ。
LINEのやり取りで午後7時に駅の喫茶店で待ち合わせることとなり、それまでは新宿をあちこち歩き細々したものを買い出し、新宿駅のトイレで荷物の整理をする。
待ち合わせの少し前に喫茶店に入って、注文した珈琲が運ばれてくるのと同時に仕事帰りの晴香はやってきた。
お互い言葉を交わさずとも目を合わせただけで、緊張と高揚と安堵が綯い交ぜになった感情を共有した。
晴香の珈琲が届いたところで彼女は携帯を操作し、横谷への定時連絡を送る。
「仕事のトラブルで帰りが遅くなるって言ってあるの。バスに乗るまで1時間置きに送るようにするから」
少し寂しそうな表情をする晴香に向かって由加里は真剣な眼差しを向ける。
「あなた、本当は彼のところに戻りたいんじゃ……?」
「会社を解雇されるまでは、あんな人じゃなかったんだけどね……」
「そうね、あなたの彼氏だものね。でも、将来はどうなるかわからないにしても、いまは一旦距離を置くべきだと思う。お願いだから自分を大切にして欲しい」
「うん、大丈夫。あの人はクズになっちゃったんだよ。戻ろうだなんて思わないから安心して。ああ、そうだ。固定資産税の納税証明書、きょう取ってきたよ」
由加里を安心させるように晴香はそう言って微笑んだ。
「そう。これで、どこへ行っても新しい生活が始められるわね。それで、どこへ行くか決めたの?」
「まだ。明日セントレアに行ってから決める。決まったらすぐ連絡するから」
喫茶店を出たらバスの発車時刻まで二人で食事などをして過ごした。定時連絡は欠かさずに。
そして二人はバスタ新宿の4階から23時25分発の大阪行きの夜行バスに乗る。
◆◇◆◇◆
国道151号線で東栄町《とうえいちょう》まで辿り着いていた男は東栄インターから三遠南信道に乗り、トンネルをいくつか抜けて浜松《はままつ》いなさインターで降りる。
国道257号線を北西方向に向かう。陽菜が言うには結局151号線に戻るルートらしいのだがそのまま151号線を走るより道がいいらしい。
151号線との丁字路から西は257号線との重複区間となっており、新東名の高架を潜り、道の駅の手前の交差点にJRバスの新城支社があったので駐車場に車を停め、エンジンを止めてバスの到着を待つ。
予定時刻より15分ほど遅れてバスが駐車場に入ってくる。
乗降口から女性が二名降りて来た。その後、運転手もバスから降りた。
二人の女性が男の乗る車の方へ近づいてきて、一人は由加里であることに男は気付くと車から降りる。由加里がいつになく真剣な面持ちで「お願いね」とだけ男に言うと、もう一人の女性と抱き合い事務所の方へ歩いていった。
この大きなスーツケースと鞄を持った女性が『荷物』だと理解し、彼女の荷物をトランクに載せ、後部座席のドアを開けて「乗ってください」と促した。
この配達が彼女の逃亡であると石川から聞いていたので、民間の防犯カメラにもなるべく姿が映らないようにする彼なりの配慮だった。
事務所前でこちらの様子を伺いながら運転手と話をしている由加里が気になり、男は出発を躊躇っていると、やがて彼女は両腕を曲げて頭の上に丸印を作った。
話がついたようだったので、男は常滑市に向けて出発する。