岐阜《ぎふ》市内に入ったのは午前4時過ぎ。
さすがに営業時間外だろうと男は思いつつ配達先のビルの前を通りがかると、指定されているフロアに灯りが点いていた。
ビルから少し離れた駐車場に車を停め、トランクから保冷バッグを取り出して歩き始める。―――身体が強張って……、腰が……ちょっと痛い。
外階段を上りエントランスのインターフォンで特許事務所の番号を押すと、男性の応答があった。「六星ロジフネッススです」と覚える気のない社名を名乗る。
「お待ちしておりました。いま開けますので4階へお願いします」
インターフォンの通話が途切れるのと同時に自動ドアが開く。
エレベーターで4階に上がり、大きなガラスのドアを開けて事務所に入る。
受付カウンターのところに男性職員が既に待機していたので保冷バッグをカウンターに乗せる。男性職員は小さな南京錠を見て「鍵はお持ちですか?」と男に尋ねる。
「いや、預かってないですね。どうやって開けるのかも聞いてないです」
男がそう答えると彼は苛立ちを見せた後「まあいいか」と呟いてカッターナイフを持ってきた。そして保冷バッグの蓋の部分を切り裂いた。
彼はバッグの中に入っていた梱包された試作品と思わしきナニカを手に取り、それから目を離さずに「ありがとうございました」と言った。
男は彼の不遜な態度など気にも留めず「こんな時間まで大変ですね。やっぱり国際特許事務所だから時差であれですか?」と満面の笑みを作りそう言って労った。労ったつもりだった。
「は?これ待ってたんですけど」
彼は明らかに不服そうな顔で男を睨みつけたが、男は「あはは、そうだったんですね」と笑みを貼り付けたまま事務所を出た。彼の不満など興味はなかった。
男性職員が空の保冷バッグを「なんなんだよあいつ!」と床に叩きつけている頃、男はもうエレベーターの中だった。
駐車場に戻ると眠気が限界だったので車内で仮眠をとる。
太陽に炙られて目覚めると午前10時頃だった。狭い車内で寝たせいか腰が痛い。
駐車場を出て国道21号線を東進する。
高崎《たかさき》市へ向かう際にNシステムに感知されたのは上信越道の佐久平《さくだいら》のあたり。そこからはなんの記録にも残っていない。
岐阜からの帰路は土岐《とき》インターまで監視を迂回しながら国道で移動し、そこからは高速道路を使って松本《まつもと》まで戻る。群馬県高崎市と岐阜県岐阜市を結ぶ線は消えている。
国道沿いのセルフガソリンスタンドに入り現金で給油を済ませて再び移動。
各務原《かかみがはら》市のバイパスに入る手前のうどん屋に入り、かけうどんを注文し適当な天麩羅を皿に取って昼食にする。
男はこの一連の購入システムをなぜ把握しているのかわからなかったが、あまり深く考えずサーバーから丼につゆを注ぎ、ねぎを山盛りにしてうどんを啜った。
恵那峡《えなきょう》サービスエリアで少し休憩を取り、記憶のない男が保護されている松本市内のタクシー会社まで辿り着いたのは午後1時の少し前だった。
会社の駐車場にFIATを停めると、事務所の中から中年男性が駆け寄ってきた。歳の頃は男の父親ぐらいの年代だが血縁関係にない。全くの赤の他人である。
石川光則《いしかわ みつのり》。このタクシー会社の代表取締役であり、《デジタルフットプリントを残さない》という奇妙な配送業の受託者である。
「おう、無事で帰ってきたな。どうだった?難しかったか?なにかトラブルに巻き込まれなかったか?おおそうだ、腹減ってないか?飯はまだか?」
事務所へと背中を押されつつ矢継ぎ早に質問をされ、男はなにから答えればいいのかわからず「南京錠のことで泣かれそうになったりイラっとされました」と一番印象深い場面について口にした。
「そうかそうか。そりゃあ大変だったなあ。まあきょうはゆっくり休め」
事務所のドアを開けながら石川はそう言った。
昭和感漂う内装の事務所に入ると、事務机の椅子に座る赤いフレームの眼鏡をかけた男より少し若い年齢の女性が「あっ、おかえりー」と男に声を掛けた。
彼女は石川の妹の娘、つまりは彼にとっての姪であり、小笠原陽菜《おがざわら ひな》という。都内の大学卒業後に地元である松本に戻り地図製作会社に勤務している。今回の配達のルート設定及び監視回避のコマ図を制作したのは彼女だった。
「ねえねえ、どうだった?全クリした?まさか和田峠行ってないよね?あ、恵那の岩村の交差点、けっこうギリギリだったけどうまく躱せたかな?」
男は彼女の捲し立てるような早口の質問を浴びて「血、なのかな」と思いつつ、「たぶん大丈夫。コマ図の通りに走ったから」と返事をして、石川に促されるように古ぼけたソファにぼすんと座った。
すると事務所の奥から人数分の珈琲を中年女性が運んできた。
彼女は石川由加里《いしかわ ゆかり》。石川の妻であり、男の食事の面倒を見てくれている。タクシー会社の専務であり配車係でもある。
「おつかれさま。夜通し運転大変だったでしょう。お昼食べたら寝ちゃっていいからね。きょうはうどんにしようと思うけど、いいかしら?」
慈愛に満ちた目を向ける彼女に「うどんは嫌です」と男は言えなかった。「はい」とだけ短く返事をして、目の前に置かれた珈琲に口をつけた。
すると「ああそうだ、車を回収してもらわないと」と石川が独り言のように呟き携帯でどこかへ連絡をする。「おお、戻ってきたぞ。車も無事だ」そう言って短いやり取りを交わして通話を終える。
この日二度目のかけうどんを食べ終わる頃、一台の黒のメルセデスが駐車場に入ってきた。黒い500E。30年以上前から黒塗りの高級車といえばこれ。
バタムバタムとドアが閉まる音が二つした後で、FIATが走り去る音が聞こえた。
事務所に入ってきたのは体格のいい中年男性、戸田忠恒《とだ ただつね》。石川とは高校時代の同級生であり、市内で輸入中古車販売業を営んでいる。
今回の配達に使われたFIAT500は彼が手配したもの。ナビやETCを取り外す作業を行ったのも彼自身だった。
「おう、車どこもぶつけてなかったな。キッチリ運んできたか?」
男は戸田が苦手だった。皆は好き勝手に話をするだけで放っておいても会話は流れていくが、彼は返事をじっと待つからだ。しかもその目は獲物の隙を伺うツキノワグマみたいだと思っていた。―――また熊の目で見られてる……
「ええ。事故はしていません。ただ、トルクが足りなくて坂道がきつかったです。マニュアルモードにして2速ホールドのべた踏みでやっと上る感じで」
「ははは、そうかそうか。じゃあ次の依頼があったらもっと馬力のあるやつ用意してやるよ。418号の細い道走るのにいいと思ったんだがな」
こちらの言い分を理解したふりをして、まったく聞き入れていない感じの戸田に男の苦手メーターはさらに上昇した。
「それにしても助かったよ陽菜ちゃん。俺が調べてコマ図作ってたらまだ出発もできてなかったからさあ。最近は老眼も酷くてパソコンも見てられないからねえ」
石川にそう褒められた陽菜は、男が持ち帰ったコマ図に視線を落としながら地図の束をぱらぱらと捲りながら、まるで独り言のように話し始める。
「監視カメラは100パー信用できる財団法人のものだし、Nシステムは個人サイトだったけどストビューと照合したらなかなか精度高かったし。わたしそもそも地図見るの好きだしねー」
「やっぱり陽菜ちゃんの地図とオレの車、そして”こいつ”の腕があればどんな配達だって問題ないだろ。このチームならもっと稼げるんじゃねえか。わははは」
「ちょっと。俺が取ってきた仕事なんだからさ、俺の営業力も褒めて貰わないと」
中年二人がはしゃいでいる様子を見て、もういいかなと思った男は「ちょっと昼寝します」と言って事務所を出て、事務所の隣にある社員寮として使われていた木造アパートの部屋へ行き、ごろんとベッドに寝転がりすぐに微睡んだ。