「宗右衛門町《そうえもんちょう》のキャバ嬢と同伴して延長だぁ?アフター行ったりしてねえだろうな?」
男の話に最も鋭く最も強く反応したのは石川だった。
戸田は「クククク」と楽しそうに笑っている。
陽菜は続きがあるのなら聞かせろという眼差しを男に向けている。
由加里はいつもの温和な表情を失い、慈愛の籠った眼差しはまるで深い洞穴のように輝きが失われてしまっていた。その視線の先は男ではなく石川だった。
「あ、いや、すまん。あまりにも想定外だったからパニックに……」
そう言って石川は由加里をチラ見すると「羨ましかったのかしら?」とにっこり微笑まれ「そ、そんなことはないです、はい」と彼女に向かって頭を下げた。
そんな石川に「未遂とはいえ前科持ちは大変だなあ、おい」と戸田がボソっと耳打ちすると「戸田さん?」と由加里が微笑みかける。
「あ、いや、話の腰を折って悪い。続けてくれ」
戸田に言われ、男は昨夜の出来事についての見解を話す。
「たぶん、人に紛れたかったんだと思います。店でも仕事関係じゃなくてプライベートの知り合いだって女の子に言ってたし」
「もしかしたら東京の会社が見張っているかもしれないからってことか?」
「はい。観覧車の中で書類渡してきたときに、確かにここなら見られないなって思いました。女の子たちは外見てたし。で、そのまま別れたら不自然じゃないですか。たぶんあの店はよく行く店で、片方の女の子は指名している子だったんじゃないかな」
「”おまえ”、キャバクラの指名とかなんでそんなこと知ってるんだよ」
「え?あれ?なんでだろう」
「わかった。そんな映画みたいなことするぐらい大阪の会社の人は警戒してるってことでしょ。だとしたら受け渡しも会社に持っていくのはまずいんじゃないの?」
最も冷静な陽菜がそう言うと「確かにな。先方と相談してみる」と石川がスマホでGmailを開き、受け渡し方法について新規の下書きを作成して保存した。
「で、女の子たちはかわいかった?ちょっとぐらいときめいた?」
「んー、睫毛がすごかった。あと、まじやばーい、しか言ってなかった」
「エロい気持ちにはならなかったの?お持ち帰りしたいとか」
陽菜の火の玉のような剛速球に生暖かく見守っていた中年三人が激しく反応する。
それはまるで、草むらの中からプレーリードッグが立ち上がって顔を覗かせるかのようにピョコンと背筋を伸ばして目を見開いて陽菜の方を見た。
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男が大阪《おおさか》へ行くより少し前の、とある日の地図制作会社の休憩室。
いつもの三人で昼食を摂りながら陽菜が記憶喪失について阿部と平田に説明する。
「自分のこと忘れてても運転できるのは、エピソード記憶と手続き記憶っていう二種類に分かれているからなんだそうですよ」
「エピソードと手続き?婚姻届を市役所に出したのは覚えてるけど大恋愛の相手が誰だかわからないってこと?え、なにそれ怖い。ロマンス詐欺ってやつ?」
「誰が誰を詐欺ってるのかわからないですけど、たぶんそんな感じで、物語のあらすじは覚えてるけど登場人物が思い出せないみたいな?」
「それって、どういうことなのかしら。恋人と手を繋いだって記憶のうち自分と恋人だけが消えるけど手だけは残ってるっていうことなの?ホラーだわね」
「手続き記憶っていうのは主に身体が覚えているってことらしいですよ」
「え、じゃあ、隣で寝てる男が誰なのかもわからないのにセックスしたってことだけは覚えてるってこと?合コンで酔っ払いすぎた次の日の朝みたいな話ね」
「ちょっと平田さん、なんの話ですか。武勇伝ですか」
「え、ちょっと待ちなよ小笠原ちゃん。その”彼”とセックスしたときにすげえ上手かったらどうするよ?え?この人って元々なにしてた人?ってならない?」
「あー」
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「は?エロい気持ち?」
「いや、だって男の人はエッチなことがしたくてそういう店に行くもんでしょうが!」
「自分から行ったわけじゃないし。それに飲み屋の女の子はそういう相手をする人じゃないでしょ。……あれ?そうだったっけ?」
さっきの石川と由加里のやり取りを見て、キャバクラとはそういう店だったのかもしれないと自分の認識を疑い石川を見ると「違うよ、違うから!」と否定してくれた。
「とにかく、あんたが百戦錬磨だったのかどうか、知りたかっただけだよ……」
消え入りそうな声でそう言う陽菜へ中年たちは心の中で全力でエールを送った。
「え?百戦錬磨ってなんの話?」
「やめやめ!もういい。忘れろ、キャバ嬢のことは忘れろ。今夜はもうここまでにしよう。”おまえ”は飯食ったら休め。それから陽菜は話あるから残ってくれ」
石川が強引に報告会を締め、戸田は帰って行き、4人で石川の自宅へ移動する。
「体力つけなくちゃと思って、今夜はすき焼きだから。いいお肉買ってきたから遠慮せずに食べてね」
由加里の気遣いに男は、軽く牛丼と被ってるなと思いつつ「ありがとうございます」と礼を言った。
キッチンですき焼きの支度をしながらコソコソ喋っている由加里と陽菜を見て石川が声を落として男に話しかける。
「”おまえ”さ、恋愛とかそういう感情って全然ないの?」
「んー、わからないです。自分のこともわからないのに他人のことまで気が回らないっていうか」
「じゃあ聞くけどさ、”おまえ”俺のこと好きか?いや、その恋愛じゃなくてだよ?」
「見ず知らずの自分を拾って養って貰ってすごく感謝していますよ。でも好きっていう感覚がよくわからないです。どういう気持ちなんですか?」
「うーん、そうだなあ。自分の考えていることが誰にも理解されなくても、この人だけには理解されたいって思うかどうか、か?」
「あー、社長には話通じて欲しいって思いますね、通じないと困るし」
「じゃあ、由加里は?陽菜は?」
そう尋ねられ男はキッチンの二人に目をやって答える。
「そうですね、社長と同じ感じですね。ただ二人とも話を端折るっていうか先回りすることがあるから、言ってる意味がわかんないときがありますね」
石川は男の反応を見て、陽菜に目がないとは思わなかった。
この男は自分というものがないにもかかわらずここまでやれている。今後、あれこれ経験していけば元に戻らなくとも自分というものが確立されるのだろう。
そしてそれを側で支え見守る存在としての陽菜を、少なくともいまは拒絶していないことがわかった。石川はそれが嬉しかった。
「なるほど、先回りか。確かにな。あははは」
ぐつぐつと煮えるすき焼き鍋を運んできた由加里が「なあに、一人でニヤニヤして」と石川に言うと「焦っちゃダメなんだってさ」と笑った。
すき焼きを4人で突きながら、石川は今後のことについてもう一度話をした。
遅くても3月末までには松本《まつもと》を離れるであろうこと。
男が一緒に来るのであればどうにか面倒は見るつもりだが、これまでのような生活にはならないであろうこと。身分を作って普通に働く必要があると。
そのために『就籍審査《しゅうせきしんさ》』という制度があり、身分を証明するものがない日本人に新しい戸籍を与え、新しい人生を始めるための仕組みがあるということ。
「審査の過程で二重戸籍にならないように全国の行方不明者のデータベースと照合するみたいだから、もしかしたら元の家族と繋がって身元がわかるかもしれない。それでもダメなら新しい戸籍ってことになる」
陽菜は石川の話を聞いて、その場では”彼”を呼ぶための名前がついていいことだと思った。だが家に帰って眠る前、元の家族が現れて”彼”が自分の前から去っていってしまうような気がしてなかなか眠れなくなった。