撫でつけた黒髪の中年男性はセンチュリーの後部ドアを開けながら「運転手の笠原です」と名乗った。
彼の身元を確認する術を持たない男だったが乗り込む前に「会長さんの?」と尋ねると少し感心したような面持ちになる。
「はい。尾藤会長の運転手の笠原です。お迎えに上がるよう言われております」
これが罠だったとしても車に乗る以外の選択肢はないなと覚悟してセンチュリーの後部座席に乗り込む。ボフムとドアが閉められ、笠原氏の運転で駐車場から出る。
車内は静寂そのもので乗り心地も素晴らしかった。なにより笠原氏の運転が丁寧であり、運転手の肩書は嘘ではないと、そこだけは信じられると男は思った。
しばらく流れる景色を眺めていたが、どこに向かっているのかもわからないので、車内のあれこれに目を向けると、インパネ周りの各種ボタンに書かれている用途が全て日本語表記なことが目に留まる。
カーテン、とか、テレビ、とかスイッチのボタンにカタカナで表記されている。
―――輸出するつもりがないってことなのか。
そうこうしていると目的地に到着したようだった。でかいビルの車寄せで車を停めた笠原氏が男の方へ振り向き「会長からの言伝です」と言う。
「案内される会議室に入る前にトイレに行ってください。一番奥のブースのタンクの中に『荷物』がありますから、それを回収してから会議室に入ってください」
男はその意図がわからなかったが、やることは理解し「わかりました」と返事をすると、笠原氏は車を降りてドアを開け、無言で降りるように促される。
入口の自動ドアを抜けると吹き抜けのホールに若めの男性社員が待っていて「ご案内いたしますのでこちらへ」とエレベーターへと先導される。
エレベーターの中に入ると彼が社員証を翳してから階のボタンを操作した。
8階で降りると廊下の両脇に部屋がいくつかあるフロアになっていて男性社員に先導されるまま廊下を進む。
彼が案内してくれた会議室であろうドアの前には別の男性社員が待機していて男に向かって「お荷物をお預かりします」と言ってくる。
男は「いえ、これは直接会長に」と言うと「危険物の検査をしたらすぐお届けしますので」と言われ、半ば強引にアタッシュケースを奪われてしまう。
そして案内の彼がドアをノックしようとするので「すみません、先にトイレに」とお願いすると、それまでの丁寧な対応とは打って変わって勝手に行けと言わんばかりに廊下の先を指差した。
男は一人でトイレに行き、笠原氏の言った通りに一番奥のブースに入って大便器のタンクの蓋を持ち上げると、中にはビニル袋に包まれたボイスレコーダーが入っていた。
濡れた袋を取り出して蓋を元に戻し、袋の中身をスーツの内ポケットに入れてビニル袋は洗面台下のゴミ箱に捨てた。
会議室の前に戻ると案内役だけが残っていて、ドアをノックし中からの返事を待って男を部屋の中に入れた。
会議室の中には、初老が二人と中年三人がテーブルについていて、壁際の椅子に七三の縁なし眼鏡が鞄を抱えて座っている。
「おう、来たか。遠くからご苦労様。そっちの椅子に掛けてくれ」
一番貫禄のある初老がお誕生日席から男に声を掛ける。―――あの人が会長か。
「彼が大阪からの密使というわけですか。しかしね会長、もう東京とは八割がた話はついているんです。今更そいつが何を持ち込んでも、検討に値しないでしょう」
男に一瞥をくれながらもう一人の意地悪そうな初老が言う。
「こちらの従業員のリストラはしないという希望が通っていないじゃないか。あんな条件が飲めるわけがないだろう」
「しかし会長、役員はほぼ残れるんです。その後の業績如何では従業員たちを呼び戻すことも可能ではないですか。決して悪い条件ではないです」
貫禄の初老が尾藤会長のようだ。彼を真面目そうな中年が説得している。
―――つうかこの話、部外者の自分が聞いてしまってもいいのだろうか。
男は場違いな居た堪れなさを感じ隣の七三に目を向けると、彼は表情を変えずにゆっくりと頭を下げた。―――え?なにそれ?どういう意味?
「まあいい、それで君、『荷物』は持って来てくれたのかね?」
「え?どっちの?」
不意に尾藤会長に尋ねられ、男は咄嗟に思ったままを口にした。
すると会議室の全員の視線が男に注がれる。
「後で手に入れたほうだ、マイケル君」
―――は?マイケル?
男はマイケルの意味がわからなかったが席を立って尾藤会長の元へ行き、スーツの内ポケットからボイスレコーダーを取り出し、黙ったまま彼の目の前に置く。
「先生。記録を頼む」
そう言って尾藤会長はボイスレコーダーを操作すると、なかなかのボリュームで再生されたそれは、意地悪い初老が誰かとの通話のようだった。彼は常務と呼ばれている。
会長はこっちで抑える、とか、ポストの約束は大丈夫か、とか、ついでに成功報酬がどうとか、さながら悪代官と越後屋の会話が繰り広げられていた。
「さて常務、申し開きはあるか?」
「会長も人が悪い。こんな捏造を信じるんですか。先生も、こんなものを公式に扱わないでくださいよ。これはきっとAIかなにかで作られたものですよ。私じゃない」
「そうだといいんだがな。で、君、大阪から運んでくれたものはあるか?」
一旦席に戻っていた男に再び視線が注がれる。常務と、真面目そうな中年、おそらく社長が見合って一瞬ほくそ笑むのを男は見逃さなかった。
―――強奪避けがこんな風に役立つとは。
男は立ち上がり、ジャケットを脱いでワイシャツのボタンを外す。
腹に巻き付けたガムテープを剥がし、目を見開いている常務と社長を尻目に重要書類を会長の元に届ける。
「こりゃ驚いた。いままでどんな修羅場を潜ってきてるんだ。ははは」
会長は封筒の中から書類を取り出して内容を確認し、モブの中年たちへと回す。
「あの、これで配達は完了でいいんですかね?」
「ああ、ありがとう。君の社長さんが羨ましいな。どうだ?うちに来ないか?」
「いや、事情があって……。それよりも預けた鞄て返してもらえるんですかね?」
「ほーう。鞄を預けていたのか。専務、すぐにお返しするように」
青ざめた顔の、実は専務だった真面目そうな中年は内線でどこかへ連絡し、ロビーの受付でアタッシュケースをお返しすると言った。―――社長はモブの誰かなのか。
男が了承し、シャツのボタンを留めてジャケットを羽織ると会長が声を掛ける。
「笠原に駅まで送らせるから。また仙台に来ることがあれば遠慮なく寄ってくれ」
「ありがとうございます」
―――次に仙台に来たとき……、たぶんそれまで会長さん生きてないだろうな。
男が会議室を出ると、恨みがましい顔の案内役が1階まで先導してくれる。
受付でアタッシュケースを受け取り外に出ると笠原氏がセンチュリーの脇に立って待機しており「大変、お世話になりました」と後部座席のドアを開けてくれる。
仙台駅まで送り届けてもらい、車を降りる前に「会長さんにマイケルって呼ばれたんですけど、あれってなんだったんですか?」と男が笠原氏に尋ねると、「あの方はずっと、この街のゴッドファーザーになるのが夢でした」と嬉しそうに教えてくれた。
―――いや、どこが面白いのかぜんぜんわからないんだけど。
コインロッカーでスーツケースを回収し、せっかくなので駅ビルでお土産を買う。
窓口でチケットを買い16時30分発の東北新幹線はやぶさで東京へ向かう。
18時過ぎに東京《とうきょう》駅に着いたら中央線で新宿《しんじゅく》まで行き、一旦、改札を出てチケットを買って、19時発の特急あずさに乗って松本《まつもと》へ。
21時45分、松本駅に到着し駅を出ると石川の会社のタクシーが待機していたので運転手に声を掛けると、とても驚いていた。
「会社まで」
シートに深く腰掛け、いつも洗車しているタクシーで送ってもらった。