午後10時、男が石川の自宅に顔を出すと由加里が寝間着姿で玄関まで来る。
「おかえりなさい。無事に戻ってきてくれてよかった。あの人、もう寝ちゃってるから、お話は明日会社で聞かせて。きょうはゆっくり休んで」
どことなく浮かない顔の彼女に「あの、これ」と言ってお土産を渡すと「あら、ありがとうね」と少し表情が明るくなる。
男は「じゃあ、おやすみなさい」と言って部屋に戻り眠りにつく。
翌日の日中、石川はずっと出掛けていて男と顔を合わせることはなかった。お土産のずんだ餅はお茶の時間に由加里と従業員さんたちと食べた。
その夜、タクシー会社に六星ロジスティクスの面々が集まり、男が仙台での顛末を説明する。笠原というおじさんに会社に連れて行かれたら常務と専務が裏切り者で、会長がそれを暴き、社長はモブだったと。
「いやいや、”おまえ”には言ってなかったけど笠原さんて社長さんの名前だぞ」
「え、だって運転すごく上手かったですよ。運転手としか思えない程度に」
「恨みを買う汚れ仕事は先代の役目で、新体制の当代は陰に隠れてるってのはよくある話だ。大方、狸たちは社長も外そうとしてたんだろ」
男は石川に笠原氏の正体を告げられ、戸田の解釈を聞いて大企業って面倒だなと思った。そして車屋が昨日のうちに振り込むと言っていたと戸田に伝えると「ああ、着金は確認した」と、そちらも問題がないようだった。
「それにしても社内クーデターが絡んでいたとはねえ。情報漏洩が身内からってことは、そいつら株もしっかり買い込んでいるかもな」
上機嫌で話す戸田に誰からもリアクションがなかった。
いつも自分のルート設定について自慢げに確認してくる陽菜でさえ言葉少なく「大丈夫だったかな」とざっくりした問い掛けがあったぐらいだった。
その夜はそんな空気のまま解散になる。―――最後の仕事だったのに。
12月に入っても石川は毎日どこかへ飛び回っているようだった。
男はタイヤ交換をしたり、やたらゴミ捨てをしたりと忙しく過ごしていた。
2週目に入ったあたりで、ようやく石川の表情が晴れた。
ある日の朝、従業員を全員集めて来年1月から松本市内の別のタクシー会社に吸収合併されることになったと告げた。
「全員、雇用は継続。ただ社名が変わるだけだから安心して働いて欲しい」
石川が晴れやかな顔でそう言うと従業員たちは戸惑いながら「社長はどうするんですか」と尋ねる。彼は「北海道でじゃがいもでも作ろうかと思って。いま流行りのファイアってやつだよ」とぎこちなく笑った。
その場にいた全員がそれは彼の強がりであり、腹にイチモツを抱えていることを感じていたが「社長に農家が務まるのかなあ」などと茶化して彼の決断を尊重した。
数日後、戸田の呼びかけで六星ロジスティクスの面々が石川の事務所に集められた。
戸田が持ち込んで来たゼロ・フットプリントの配達は、埼玉県
「お前それ、どう考えても強盗の後処理だろ。死体遺棄じゃねえのか」
「そうとは限らないだろ。だから詳しい話は聞いてねえよ。未必の故意ってやつだよ」
「俺は降りる。どんなに金を積まれても犯罪の片棒を担ぐような真似はできん」
「まあ今回の窓口はオレだから、おまえが降りるのは止めねえよ。陽菜ちゃん地図作ってくれるか?」
「いやいやいやいや、伯父さんが外れるのにわたしがやるわけないじゃん」
陽菜は怒っていた。六星の危ういバランスで成り立っていた関係を報酬ありきで破壊し、石川たちを松本から追い立てたのは戸田だと思っていたから。
だが戸田は悪びれもせず男に問う。
「”おまえ”はどうだ?運転手やれるか?二人で山分けなら取り分はいつもの倍だぞ?」
「彼女の地図ないんですよね?無理じゃないですか?普通に」
「なあ戸田、わかっただろ。俺たちは金が欲しくてやってたわけじゃないんだ。依頼人の切実な想いに応えてやりたくてやってたんだよ」
「ああ、わかってたよ。どうせ乗らねえってのも、おまえがしばらく前から金の工面をしてたのもな。重光さんたちと会ってから、もう腹を決めてたんだろ?」
「まあそうだな。いつかああいう連中に目を付けられてこういう話が来ると思ってた。だからあの時、潮時だと思ったよ。で、これ、長いことすまなかったな」
石川はそう言ってソファの脇に置いてあったクラッチバッグを取り、戸田に渡す。
戸田は中身を確認すると「確かに」と言って脇に置いた。
「お前、連中から詰められたりするのか」
「いいや、オレもこの話を振ってきた奴も直接は関わってねえ。それに追い込めば元まで辿られるだろうから、ああいう連中はこれがダメなら次ってなるだけだろう」
「そうか。それだけちょっと気になってたんだ」
石川はこの期に及んでも戸田の身の安全を心配していた。彼のそんなお人好しぶりに、由加里も陽菜も鼻の頭を赤くしていた。
「じゃあ、ついでに頼みたいんだけど、あのシトロエンまだ売ってないだろ?俺のレヴォーグ売っちまったから、あれ譲ってくれねえか、格安でさ」
「わかった。明日、車と一緒に書類届けるから自分で名変してこい。餞別だ。おまえ札幌に越すんだってな」
―――熊の目がちょっと寂しそうだ。熊なのに。
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陽菜の勤め先の休憩室。
一身上の都合という理由で辞表を提出した陽菜に、社長から外注先として個人請けしないかと提案があり、渡りに船だった彼女は申し出を快諾した。
その報告を平田、阿部両名にしていた。
「よかったわねえ。当面は陽菜ちゃんが養うことになるんでしょう?例の彼」と平田。
「そうなるんですかねえ。とにかく新しい身分を得るまでは就職できなさそうだし」
「で、小笠原ちゃんと一緒に街を出るってどんな感じなの、その彼。ヒモ生活を期待している感じなの?」
「そこなんですよお、阿部さん。わたしまだ一緒に松本を出るって言えてなくて。こんなのなんて言えばいいのかぜんぜんわかんなくて……」
「あらやだ。それなのに辞表だしちゃったの?やるわねえ陽菜ちゃん」
「まあ、有体に言えば既成事実一択だね。男なんて一回抱かせとけばイチコロよ」
「え、でもあなた、そうやって付き合い始めた彼氏とすぐ別れるじゃない?」
陽菜が言いたかったことを平田が代弁してくれた。阿部は「こちらから見限ってるだけです」と強弁する。そして三人の不毛な話し合いは続く。
□□□□□
男が女鳥羽川《めとばがわ》で発見された日からおよそ一年後の深夜。
石川から”借りている”DS4を彼が運転し、甲州街道《こうしゅうかいどう》を東京に向かっている。
助手席には折り畳まれた関東地方の地図を膝に乗せた陽菜。
「ねえ、あの時聞けなかったけど、どうしてわたしも付いて行くって言ったとき、当たり前みたいな顔してわかったって言ったの?」
「いや、そういうものかなと思った。だって、ねえ」
「どういうものなのよ。はっきり聞くけど”あなた”わたしのこと好き?」
「んー、どうなのかな。嫌じゃなかったから嫌いではないと思う」
―――なによそれ。乙女の純情をなんだと思ってるんだ。
「まあいいわ。それでさ、東京で就籍審査するじゃない?そのときに本当の家族が見つかったら、やっぱりそっちに戻るの?」
「実家の太さ次第じゃない?働かなくていいぐらい太ければって感じかな」
「えー。じゃあ実家が太いとわたし捨てられるんだ」
「いや、不労所得で生きていけるんだから、いけるんじゃないか」
―――え、なにがいけるの?どこにいくの?どういうこと?
目を白黒させる陽菜を見て男が言う。
「ま、どっちにしろ、なるようになるよ」
◆おわり◆
次話『episode 0』で物語は閉じます