男が初めて痕跡を残さない配達をする前年の12月。
石川の経営するタクシー会社の中堅ドライバーである木澤が帰社する際に女鳥羽川《めとばがわ》沿いを走っていると、四柱《よはしら》神社付近の路肩に倒れている男を発見する。
彼はすぐに車を停め、男の傍に駆け寄り「おい、大丈夫か!」と声を掛ける。
年末も近い深夜、明け方に向けて氷点下まで冷え込む最中に全身ずぶ濡れの男は、ひとまず生きてはいるものの非常に危険な状態であることが、その呼吸の浅さから見て取れた。
木澤はすぐに救急車を呼び、頭部に外傷がないことを確認するとどうにか後部座席まで男を運び込んでヒーターを最大限で回し、自身の上着を男に掛けて「しっかりしろ」と声を掛け続けた。男からの反応はなかった。
ほどなくして救急車が現場に到着し、隊員に向かって木澤は発見時の様子と、自分がした処置について説明した。
動かすことに懸念はあったが身体が冷えていたので車に運んで温めた旨を彼が不安そうに言うと救急隊員は脳内出血の症状が出ていたのかどうか尋ねた後に「温めてもらって正解ですね」と安心させるように彼に伝えた。
「病院に警察も来ると思うので、お車で病院までお願いできますか?」
「わかりました。一度、社に連絡を入れてから行くようにします」
木澤からの連絡を受けた石川は「俺もすぐ行く」と伝え病院へ向かう。
石川は薄暗い待合室で青い顔をした木澤を見つけると、事情を聞いた後に「警察の聴取が済むまで深夜残業つけとくからしっかり頼む」と努めて明るく振る舞った。
すぐに当番医が二人の元へやってきて木澤と共に説明を受ける。
状況から見て女鳥羽川へ転落したものと思われるが、CTスキャンの結果、脳内出血の形跡は見られないとのこと。驚くほど外傷もなく骨折箇所もないそうだ。
川から自力で這い上がったぐらいだから、低体温症になるまで意識もしっかりしていた可能性もあるそうで、男の意識が戻り次第MRI検査をするそうだ。
医師の説明が終わると、待機していた2名の警察官による聴取が始まる。
木澤が事情を説明すると、警察官からは同じような質問を何度も繰り返された。見てない部分に対しても言質を取るような質問も平気でしてくる。
挙句の果てに「お宅の会社ではよく倒れている人を拾うのか」といった質問をされた際には「子犬じゃないんだから」と石川は呆れすぎて声に出していた。
その後、男は身元が特定できるものを何も所持していないため明日から遺留品の捜索を行うこと、事件と事故の両面で捜査を行うこと、なにか進展があれば連絡をする、そんな説明をして帰って行った。連絡先は木澤ではなく石川にしてもらった。
結局、木澤たちが解放されたのは明け方近くになってからだった。
翌々日、石川の会社へ病院から連絡が入る。男の意識が戻ったことと「ご相談がある」とのこと。石川は真面目に働いてくれている木澤を信じていた。あいつが撥ねて隠していたなんてことはないはずだと。その不安は杞憂に終わる。
石川が病院に行くと、小さな会議室のような部屋に通され、医師の隣にはネームプレートを下げた若い男性が座っていた。ネームカードには市章が描かれている。
「先日、救急搬送された彼なのですが、実は記憶障害を起こしておりまして」
「記憶障害?事故のことを覚えていないってことですか?」
「ええ、エピソード記憶が丸ごと欠落していまして。昨日、意識が戻ったのでMRIで脳の検査をしたのですが問題なく、低酸素脳症などの兆候もありませんでした」
「エピソード記憶?低酸素……?つまり彼は記憶喪失ってことですか?自分が誰でここがどこかわからないアレのやつ?」
石川は物珍しい場面に遭遇し、ちょっと顔がにやけてしまっているのを必死で隠そうとしていた。医師は不謹慎な中年のニヤケ面を無視して説明を続ける。
「おそらく川に落ちた際に頭を強く打って記憶障害を起こしたのだと思いますが、通常、検査で脳へのダメージが検出されない場合は24時間以内に記憶は戻るのですが、今日になっても名前も住所も思い出せない状態です」
「それで?彼は?誰も知らない言葉で喋り始めたとか?」
社員が拾った男が記憶喪失になっていた。石川にとってはあまり変化のない日常に舞い込んだドラマチックな異常事態だった。完全に目が輝いていた。
医師は中年の妄想を無視して一般病棟に移された男との面会を提案する。石川が了承すると部屋にいた三人で男のいる病室に向かう。
男はベッドに仰向けで寝ており、天井をぼんやり見つめていた。
医師が体調について声を掛けると彼のほうに顔を向け「はい」とか「ええ」と短い返事をする。会話はできるようだった。
「この方の会社の従業員さんが救急車を呼んでくださったんですよ」と医師が言うと「ありがとうございます」と男は寝たまま石川に軽く会釈をして礼を述べた。
「いやあ、災難だったねえ。それにしても落ちた川から自力で這い上がるなんて大したものだ。もしかして、なにか特別な力に目覚めたりしていない?」
声を落として尋ねられた常識外れな問い掛けに男は「そういうものなんですか?」と逆に質問を返して石川の夢(ロマン)を打ち砕いた。
その後、石川は気を取り直して男の素性を尋ねたものの「わからない」以外の返事はなく、三人は揃って元いた事務室へ戻る。
そして医師から男の状況が説明される。
警察が遺留品の捜索を行ったが既に流されていたようで男の身元が特定できるようなものは発見できなかったそうだ。また、松本市内で捜索願が出されているものとの照合でも誰にもヒットしない。
歯の治療記録や指紋、DNA鑑定でも、前科者や行方不明者とは合致しなかった。
本人に尋ねても記憶喪失で名前もわからない状態であるため、昨日、病院から市の福祉課に相談したという。ここで若者が話を引き取る。
法律の扱いでは市で保護するべき事案ではあるが、実際には予算も預かる施設もないためすぐに保護する手立てがないと、彼は申し訳なさそうにそう言った。
「ああ、それで彼の面倒を見てくれないかって話? 記憶以外は健康だからベッド空けて欲しいけれども放り出すわけにもいかないし、行政の受け皿はいつになれば準備ができるかわからないしで」
「はい、おっしゃる通りで。本来、関係の不明な方が身元引受人になることはないのですが、石川さんは親身になってくださってますし、身元もはっきりしていらっしゃいますから。市役所さんの準備ができるまで一時的にお願いできないかと思いまして」
医師も市の職員も申し訳なさそうに頭を下げている。
「わかりました、いいですよ。ウチで面倒見ますよ。でもね10割負担の検査費用や入院費は市役所さんでお願いしますよ。私もそこまでお人好しじゃないんで」
石川は誰に相談することもなく男の身柄を預かると言った。
彼ら夫婦には子供がおらず、病室で見た男はちょうど息子がいればそのぐらいの年頃に見えた。妻も引き取ることを嫌がらないだろうという打算があった。
社員寮として建てて空き家になっているアパートもある。
洗車係でもやらせて記憶が戻るまで疑似親子になればいい、そんな気持ちで引き取ることを承諾したのだった。
その日のうちに男の退院手続きを済ませ、助手席に座る彼の横顔を見て「ふっ。子犬じゃないんだから、ってか」と石川は苦笑いをした。
後日、浅はかな石川は事の重大さを知ることになる。
身元引受人となることは行政上の手続きがとても煩雑であり、何度も何度も市役所に呼び出され、或いは市の職員が会社に来ることもあった。
会社の経営状況や資産状況について尋ねられることもあり、押し付けておいて文句だけは一丁前だなとイラっとした。
警察からも新しい情報が入れば連絡をすると言われ、こうして記憶を失くした男は正式に石川の元へ身を寄せることとなった。