男が石川家の居候になってしばらくの間、タクシーの洗車や掃除、オイル交換や空気圧チェックなど雑多な手伝いをして過ごし、社長夫婦はおろか従業員からも働き者だと歓迎されていた。噂を聞きつけてやってきた陽菜ともこの頃知り合う。
石川はしばらく前からタクシー会社以外に、もう一つ個人事業主としての商売があった。『貨物軽自動車運送事業』という、黒ナンバーの軽バンでの配送業。
彼曰く「タクシーやってると荷物だけ運んでくれって話がよくあるんだよ」とのこと。人間を運ぶことと荷物を運ぶことは別の許可が必要になるため、断るには惜しい依頼を受注するためにその体制を整備していた。
とはいえ本業もあるためほぼ開店休業中であった黒ナンバー配送業だったが、ある日、石川に天啓が訪れニッチな配送業としての活路が見いだされる。
妻の由加里が都内に住む妹を訪ねるため特急あずさで新宿《しんじゅく》へ向かっている最中、翌日に妹と一緒に行くはずのミュージカルのチケットを家に置き忘れてきたことに松本《まつもと》駅を発車後すぐに気付き石川へ連絡をする。
甲府《こうふ》駅のホームで待つよう石川は告げ、すぐさまチケットを持って高速で甲府へ向かう。入場券を買ってホームで待つ妻にチケットを届けたとき、まるで幽閉された城へ救出にやってきた白馬の王子様に向ける乙女な顔をする彼女を見て稲妻に打たれる。
「で、思ったのよ。届け先の住所なんか曖昧でいいんじゃないかって。やっぱさあ、俺って天才だと思うんだよ、うん。まじで」
日曜の昼下がりに事務所でニッチな配送業を始めるきっかけについて自画自賛する石川の話を聞いていた陽菜は「伯父さん、それがなければイケおじなんだけどなあ」と思ったままを声に出していた。
石川の隣に座る由加里は、その時の献身がよほど嬉しかったのか例のうっとり顔を石川に向けて「うふふ」と微笑んでいる。
陽菜の隣で対面の夫婦の様子を見て男は「そんなにか?」と思っていた。
ニッチな配送業については積極的に宣伝をしていたわけでもなかったので、月に数回あるかないかの個人請けの受注件数の中でも一般的な依頼の方が大勢を占めているのが現状だった。ようするに自慢するほどのものではなかった。
だが、その説明をした翌週に石川がリサイクルショップで自転車を買ってきて男に与え「これで市内の曖昧配達してみないか?」と提案してきた。
受注は石川の個人事業で請けるが、自転車で行ける範囲や荷物であれば男にやらせてみようと思ってのことだった。
男はいつも通り断る理由が見当たらないと思い、「はい」と返事をした。
由加里から話を聞いた陽菜が石川の個人事業のインスタアカウントを開設し『変な配送はじめました。冷やし中華はまだです』と男が自転車に跨る画像をゴリゴリに加工して投稿したところ、興味本位の依頼がすぐに入った。
女子高にいる娘に弁当を届けて欲しいという依頼。男は自転車を漕いで依頼主の自宅で弁当を受け取り娘さんの通う女子高の昇降口で女の子に渡した。
すぐさま噂になった。実際、男は特筆すべき容姿の持ち主ではなかったが「イケメンがほかほかの弁当を持ってくる」という盛った噂はたちまち学校中に広まった。
重量と距離で料金設定がされていたため、雨降りの日にコンビニの駐車場に傘を届けてくれなんていう横着な依頼もあった。傘を買うより安くなる場合もある。
プレゼン資料の印刷に手間取り後追いで届けるとか、結婚式場へ宴も酣な場面へサプライズプレゼントを届けることもあった。
依頼のほとんどを男は断らなかったが、距離が遠いものだけはさすがに無理とお断りをしたのだが、そもそもこの事業は石川が始めたものなのだからと妻から諭され、市内でもちょっと遠いものや塩尻《しおじり》や安曇野《あずみの》あたりへの配送は石川がハンドルを握った。
やがてこの配送業の噂が広がっていき、同時に営業範囲も塩尻市から岡谷《おかや》市、佐久《さく》市へと広がっていった。短距離であれば相変わらず男が自転車でこなしていた。
「もう俺の商売、タクシー会社なのか運送業なのかわからないよ。疲れた!」
石川はタクシーの運転をするわけではないが、週の半分ほどが黒ナンバーの配達業務となっていたため疲労困憊であった。
そして、男が石川の元で働き始めてから3か月ほど経ったある日、高崎市のとある企業から配達の依頼が入る。
「ちょっとお尋ねしたいのですが、そちら特殊な配送にご対応頂けると聞いてお電話差し上げたのですが」
「ええ。特定の建物の指定なく場所指定で配達しております。待機時間は10分間になりますが」
「ああ、そうなんですね。実は弊社でお願いしたいのは、配送の痕跡が残らない形でお願いしたくてですね。極秘裏に。そういったものはお引き受け頂けませんか」
その配達の特殊性はロマン派である石川の琴線に触れた。むしろ琴線鷲掴みと言ってもいいほどだった。石川はちょっといい声になって「詳しく話をお聞かせください」と返事をしていた。
連絡手段はGmailアカウントを共有してGmailの下書き保存で行うことになった。
詳しい受け渡しの条件、報酬、配達日時、全て下書き保存で行われた。
諸条件が固まったところで監視回避のためのルート設定及びコマ図制作のため陽菜に連絡を入れると彼女は二つ返事で引き受けた。「おもしろそう」と。
車両については黒バンのナビを外してもよかったのだが、どこからか話を聞きつけた戸田に「なんかコソコソやっているらしいけど、どんな話なんだ?」といった調子で詰められ、車両代金の未払い分が残っている負い目もあったので石川は彼も仲間に加えることにした。
「で、ドライバーはどうするんだ?おまえが運転するのか?」
「それしかないだろ。”あいつ”を使えればいいけれど、身元不明で無免許だから運転はさせられないしなあ」
「”あいつ”が無免許かどうかはわからねえぞ。いっぺん運転させてみて判断すりゃいいじゃねえか」
「運転てどこでだよ?ウチの駐車場じゃ狭くてロクに動かせねえぞ」
「オレの店の『アレ』だよ」
不敵に笑う戸田の話を理解した石川は男と一緒に彼の営むショップへ行く。
そこにあった『アレ』とは、三面スクリーンと、ケージで一体化されたバケットシートとペダル、ステアリングの筐体。スケルトンボディが紫色に妖しく光る自作PC。
インストールされているソフトはForzaだった。
男をシートに座らせると戸田が操作方法を説明して、まずはフリー走行から。
彼が駆る赤い跳ね馬は、中年たちが必死で叩きだしたコースレコードをいとも簡単に更新する。そして周回するたびにどんどんラップタイムを短縮させる。
「お、おい、おいおいおいおいおい……」
「もしかしてと思ったんだけどよ、こいつめちゃくちゃ上手いな。ハハハ」
続けてレースモードをプレイ。接触ギリギリでNPCの車を躱していく画面を食い入るように見つめながら石川は言う。
「俺さ、この前アマプラでGT(グランツーリスモ)が上手い奴を集めて本物のレーサーにする映画観たんだよ。実話だって話だった。”こいつ”もまさか…」
「ハハハ。レーサーってことはないと思うけど、運転できないってことはねえよな」
「だけど、だけどよ、やっぱ無免許で捕まったら俺の監督不行き届きに……」
「無免許じゃねえよ。”こいつ”の免許証は川に流されてて免許不携帯ってだけだろ。不携帯の罰金知ってるか?3000円だぜ?もし捕まっても3000円でチャラだよ」
「まじか。3000円ならいくらでも払うぞ。よし決めた!ドライバーは”こいつ”だ」
男はそんな話になっているとは露知らず、ステアリングのギアが発生させるキックバックについて《戻り過ぎる。こんな車あったら左折で対向車線はみ出してる》としか考えていなかった。