高崎《たかさき》から岐阜《ぎふ》までの配達を終えてから1か月が経つ。
4月末からの大型連休中、タクシー会社としては書き入れ時であるため石川夫妻は忙しく過ごしていた。居候である男は、自転車配達はすっかりブームが去ったようで依頼もないため、主に洗車など車のメンテナンスに従事していた。
世間が休みだなんだと浮かれていても、嫌だともつまらないとも思わなかったので態度にも一切出ていなかった。
そんな控え目すぎる青年の退屈そうな日常を慮って由加里は「どこか行きたいところはないの?」と夕食時に話を振るのだが「そうですねえ、このまえテレビで観たンゴロンゴロ自然保護区ですかね」とタンザニアの世界遺産の名を挙げ彼女のお節介を煙に巻くのだった。実際、動物は好きだった。
そんなある日、石川の元へ2回目のゼロ・フットプリント配達の依頼が来る。
依頼主は個人で、配達物は書類とのこと。それなりの高額報酬になるため通常配送の方が良いのではと諭してみるも、相当に切羽詰まっているのか「とにかく誰にも知られたくない」の一点張りだった。
その後、Gmailの下書きでやり取りする中で分かったのは、彼が行おうとしているのは内部告発であり、上司のパワハラで自殺した同僚の弔いでもあった。
ロマン派であり人情派でもある石川は、男気パワーを全開に彼の依頼を受けることにした。しかも、それなりの金額に抑えてである。
戸田に格安で車両を依頼すると用意されたのは年式不明のROVER MINIだった。
インパネが取り外されセンターメーター化されたそれは、エアコンもオーディオもないあっさりとした内装だった。ただし、キャブレターはSUのツインに換装されており「今度はトルクがないなんて言わせねえからな」と自信たっぷりだった。
「つってもこれ、マニュアルだろ?”おまえ”運転できるのか?」
石川にそう言われ、戸田から少しクセのあるバックギアへのシフト操作をレクチャーされた男がタクシー会社の駐車場で少し車を動かしてみると、前進、後進共に特に問題はなさそうだった。
山梨県
「最初は詰んだかと思ったわ。まあ、なんとかなったけどね。茅野《ちの》からは県道17号で甲府まで行って、甲州《こうしゅう》街道はカメラが躱せないから青梅《おうめ》街道で。途中で峠を越えて相模湖《さがみこ》へ抜けるルートよ」
彼女はそう言って地図の束を男に渡す。今回はコマ図の他に全体の区間を5つに分けた地図もあった。通る道が赤で塗られている。
「この大きいのいいですね。ありがとうございます」
「目印のないような交差点もあるから、あったほうがいいと思って。ていうか”あなた”ちゃんとお礼が言えたのね。初めて言われた気がする」
「そんなことないわよ。いつもちゃんと挨拶してドライバーさんたちからの評判もいいんだから」
自慢の息子とでも言わんばかりに由加里は笑って男のフォローをしていた。
◆◆◆◆◆
かくして配達の準備が整い配達当日を迎える。
書類の受け渡しは、甲府市内の24時間営業スーパーの駐車場に午前零時。
夕食を済ませ石川夫妻と陽菜に見送られ午後8時にタクシー会社を出る。
国道19号線のNシステムを迂回しつつ松本《まつもと》市内を南下。153号線の交差点で右折してバイパスへ。塩尻《しおじり》峠の上り坂をぐんぐん上る40年前の小型車。
焼肉屋の先で左に逸れて旧道へ。ライブカメラとNシステムを一括回避。
下り坂の大きなヘアピンになっている箇所を脇道からショートカットして再び20号線へ戻り岡谷《おかや》市内へ。
諏訪湖《すわこ》の左側、県道16号で茅野《ちの》市に向かう。茅野市内で御柱道《おんばしらみち》と呼ばれる県道196号に。それなりの坂道を東進して県道17号に入る。
山梨県に入り、県道17号を南下して小淵沢《こぶちざわ》へ。Nシステムを回避する箇所がいくつかあったが然程遠回りにならず、すぐに元の道に戻る。
韮崎《にらさき》市内で道の名称が県道17号から県道6号に。塩《しお》川を渡って甲斐《かい》市へ。
嫌な予感はなかったが男は順調すぎると思いつつ市街地へ進んでいく。
珈琲が飲みたかったがドリンクホルダーがないため諦めていたが、以前に石川と戸田の事務所に行った際にコンビニで紙のカップホルダーが貰えたことを思い出して、あれを助手席に置けばいいのかと右手のファミリーマートへ。
まっすぐレジに進みMサイズのホットを注文し、カップを受け取ったらマシンで淹れながらぐっと伸びをする。
―――どうして腰に負担のかかる車ばかり持ってくるんだ……
ボール紙でできたカップホルダーへ珈琲カップを突っ込み、車へ戻って助手席に置く。少し斜めになってしまうが、ダッシュボードよりはマシだった。
現在の時刻は午後11時。指定時刻には余裕があったので市内のコマ図を確認する。
迂回箇所はそれほど多くはない。とにかく道を誤って20号のカメラに映り込むことを避ければ良さそうだった。
再び移動を始めて30分もしないうちに24時間営業のスーパーに到着する。
店の前の自販機で蓋付の缶コーヒーを買い、一口飲んで残りは排水溝へ。
車に戻りハンドルレバーをくるくる回して窓を開け、煙草に火を点けて依頼人を待つ。吸い殻はさっきの缶へ。
◇◇◇◇◇
缶の中に吸い殻がずいぶん溜まってきた。午前2時。
いつまで経っても待ち人は来ず、待機している車がわからないのではないか、別のスーパーなのではないか、やっぱり止めたのではないか、男はいろいろと理由を考えても確認する術がなかった。
自転車で配達する場合は待機時間10分だったのだが、渡す場所に受取人が現れないことはなかった。なんなら先に来て待っていることがほとんどだった。
だが今回は約束の時間から2時間経っても現れない。
荷物がないのでは戻るしかないので、朝になるまでその場で眠ることにしてシートを目いっぱい倒して目を瞑る。
◇◇◇◇◇
窓ガラスを叩く固い音と共に「すみません、すみません」と困窮した男性の声で男は目を覚ます。フロントガラスから見える空は白んでいる。
起き上がって男性の方へ顔を向けると、目の下に炭でも塗ったようなクマを作り、脂ぎった顔で何度も何度も頭を下げている。
着ているシャツはヨレていてネクタイを緩めている。歳は40代といったところだろうか。―――警備員に起こされたわけじゃなさそうだ。
男は窓を開け、男性の話を聞くことにした。
「約束の時間に遅れて大変申し訳ありません!急な仕事が入ってどうしても抜けられず……、この不始末、どうお詫びしたらよいか……」
声が裏返るほど半ば叫ぶように謝罪した後、腹でも切りそうな勢いの男性に「あの、坂崎さんですか?」と男は依頼人であるのかどうか確認する。
「は、はい!坂崎です!あなた、六星ロジスティクスの方ですよね?」
「ええ。六星のものです。で、配達は継続されますか?キャンセルにしますか?」
「ああ、ああ、キャンセルだなんてとんでもない!是非お願いします。追加料金がかかるようなら請求してください。あ、あの、これ、書類です」
坂崎はガムテープで厳重に封がされたブ厚い角2封筒を窓からねじ込んできた。
「お金のことはわからないので社長に聞いてください。とにかくこれ届けますので」
男は封筒を受け取りながらそう言って窓を閉めた。
「ありがとうございます!助かります!何卒、よろしくお願い致します」
坂崎は腰を折って叫ぶように礼を言った。
エンジンをかけ車を発進させ、スーパーの駐車場から出るときにルームミラーでさっきまでいた場所を確認すると、坂崎は深々と頭を下げたままだった。