八王子《はちおうじ》から松本《まつもと》の事務所に戻ったのは午後3時過ぎだった。
駐車場に車を停めると、例の如く石川が事務所から出てきて男を出迎えた。
「ずいぶん待たされたんだって?まあ無事で戻って来れてよかったな、おい」
嬉しそうにする石川に背中をばしばし叩かれ男は「い、痛い」と声を上げた。
二人で事務所に入るとすぐに由加里がお茶を淹れて持ってきた。
「珈琲の方がよかったかしら?でもすぐに寝るならお茶の方がいいかなって。ああでも緑茶にもカフェインが入っているのよね。温めた牛乳とかにしましょうか?」
男は眠たいから何を飲んでも眠れるという言葉を飲みこみ「お茶、好きですよ」と言ってそのまま緑茶をもらった。普通の緑茶の味だった。
石川と由加里を相手に待ちぼうけの話をしているうちに、ガラの悪いメルセデスが事務所にやってくる。MINIを回収しに来た戸田だった。
男は急いで外に出て、MINIに乗り込んでいる戸田のショップの従業員に「2と3のシンクロが死んでると思う。4で3なら入った」と告げた。
「なんだ、”おまえ”壊しちまったのか?」
さほど責めている感じはないものの戸田にそう言われ一瞬怯んだ男だったが「無茶はしてない。普通に走ってたら入らなくなった」と自己弁護した。
「そうか、ずっと乗ってなかったしな。まあ、ギアが欠けてなきゃ修理して売り物になるか」
戸田は故障の原因をそれ以上追及することなく「あれもトルクないけどマニュアルだから峠はバッチリだっただろ?」と走り去っていくMINIを指差し男に尋ねた。
「はい。勝手にシフトアップしないから非力な感じはなかったです。でも、路面の凹凸を拾って、こう、バインバイン跳ねるから乗り心地は悪いですね」
「はははは。ゴムの塊だからな。小仏トンネルはスピード出せないようにわざと波打った舗装になっててMINIにとっちゃ鬼門だな」
戸田と男がMINIについて立ち話をしていると「おい、そんなところで喋ってないで中に入れよ」と石川が事務所から声を掛けてくる。
事務所の中で男は、石川夫妻と戸田に向かって弁護士にとても感謝された話をした。「なんか人の命を救ったらしいです」と。
「ああ、あの坂崎さんな。例の上司にパワハラされててあの人自身も相当追いつめられているみたいだからな。よくないよ?パワハラは」
石川がそう言って戸田に視線を向けると「オレはパワハラなんかしねえよ。バカでもわかるように指導してるだけだよ」と自信たっぷりに言った。
「ま、訴えられないように気を付けろよ。このご時世すぐに裁判だの労基署だのいろいろ面倒だからな」
その後、経営者の立場としては~といった話を石川と戸田が始めたので、頃合いだと思った男は「すみません、昨夜ロクに寝てないんで」と言って部屋に戻った。
◆◆◆◆◆
8月。世間は夏休みで観光客も増え、石川のタクシー会社も繁忙期。
ちょうど男が事務所で休憩しているタイミングでゼロ・フットプリント配達に関する問い合わせの電話が掛かってきた。
石川の応答から察するに、どうやらこの前の八王子の弁護士と縁のある金沢《かなざわ》の弁護士の話を聞いて、この特殊な配達を知り連絡をしてきたそうだ。
石川は相手が既に依頼するつもりで連絡してきたことを感じ、やり取りの痕跡を残さないようにGmailの下書きを使った連絡方法に切り替えようとしたのだが、どうにも相手が嫌がっているようだった。
相手は高齢者のようで石川が「お子さんかお孫さんに代わってもらうことはできますか?」と尋ねても代わろうとせず、頑としてGmailにも移行してくれない様子だった。
「それでは、その金沢の弁護士さんをご紹介頂けませんか?」
石川がそう言うと、了承してくれたらしく彼は電話番号をメモした。
通話を切ったらすぐに弁護士へ連絡しGmailの下書きで詳細を詰めることとなった。
後日、チームの皆を集めて石川から説明されたのは、上越《じょうえつ》市に住む資産家が危篤状態であり、遺産を巡って家族が骨肉の争いをしているとのこと。
臥せっている当人は長くないことを予見して遺言書を残しており、これを破棄されたり勝手に書き換えられては困るとのことで、上越で預かり金沢へ届けるという依頼内容だった。
「それって公共の監視カメラとかに記録されても問題ないんじゃないの?」と陽菜。
「それじゃ仕事にならないじゃないか。いいんだよ請ければ、相手資産家だし」と戸田。
「甲府の件もそうだったけれど、とにかく誰にも知られたくないんだろう。実際に素人がNシステムのデータで追跡なんかできないけどさ」と石川。
「じゃあ、普通に高速道路使って運べばいいの?」と由加里。
「そんなことしたら看板に偽りありってなっちゃうじゃないか。やるからにはキッチリ隠密で配達しなきゃ」と石川。
男は、次は壊れない車がいいなと思っていた。
◆◆◆◆◆
もうすぐ8月も終わり。地図と車両の準備ができたので配達に向かうことに。
戸田が用意したのは2013年式のルノー・メガーヌエステート。
どっしりとしたちょっといい車を見て男は安堵した。
スイッチ類がいろいろ付いているが、戸田が説明したのはクルーズコントロールの使い方だけ。他の機能は「別に使わなくても問題ない」とのことで省かれた。
「ソナーがピーピー煩いけど気にするな」と彼が言ったのは障害物センサーが衝突まで余裕があるのに反応するということらしい。
陽菜から数枚の地図が渡されたが、彼女は不服そうな表情をしている。
「今回は日本海沿いに国道8号を行けばいいから楽勝だと思ったのよ。でもね、調べたら全然無理なの!避けられないの!他の道をどう辿っても無理なの!」
彼女が言うには、国道8号線には並走する一般道がない箇所にNシステムがあるらしく、それならばと遠回りになっても南下したところで山が険しすぎて東西に繋がる道がないそうだ。
ようやく西へ進むことができる道が現れるのは松本から。つまり荷物を受け取ったら一旦事務所へ戻ってくることになる。
「敗北よ、敗北……」
悔しそうにする陽菜に向かって男は「一回帰ってきて休めるならありがたいけど」と言ったが、彼女にとっては慰めにもならないようで表情は曇ったまま。
「それだけじゃないの。松本からも迂回路がない場所があるのよ……」
「ないわけじゃないんだろうけど、迂回する距離があまりにも現実的じゃないんだよ。別に陽菜ちゃんのせいじゃないんだけど、な」
石川が精いっぱいのフォローを入れ、その『どうしようもない地点』の対処方法について説明する。
陽菜が設定したルート上で迂回不可な地点は一箇所だけ。アルピコ交通
手詰まりな彼女から相談を受けた石川は戸田と協議して車を乗り換えるしかないという結論に至った。
Nシステムの先に竜島《りゅうしま》温泉という施設があり、そこまで石川の車に同乗して行く。温泉の駐車場には戸田が積載車にシートを被せてNシステムを通過させた車を停めておく。上越から金沢まで移動するだけなのに、監視を避けるために大掛かりな作戦になっていた。
「いま渡された地図は、上越と松本の往復用?」
「そう。ただ、車を替えるし途中で痕跡が消えればいいから、上信越道の豊田飯山《とよたいいやま》インターで乗り降りして上越市までは国道292号線で。カメラはないから迂回するのはNシステムだけ」
成果のある話題だからか陽菜の様子が少し落ち着いたと男は思った。
「金沢の弁護士さんとは荷物を持って戻ってきたら配達の日時を決定するってことになってるから、とにかく明日、気を付けて行ってきてくれ。じゃあ今夜は解散」
てっきりすぐに出発するものだと思っていた男は、少し拍子抜けした。