上越《じょうえつ》市水族館うみがたりの3階、日本海テラスに16時。
そこで依頼人から荷物を受け取る。
昼食を石川夫婦と共に摂り、休憩をして13時の少し前に車に乗り込む。
戸田から預かっているカードキーをスロットに差し込んでSTARTボタンを押すと、グボァンと元気よくエンジンが目覚めた。―――まともな車でよかった。
窓を開け見送る夫婦に「行ってきます」と告げ、タクシー会社を後にする。
松本《まつもと》インターから高速に乗り長野《ながの》方面へ。クルーズコントロールは白黒、覆面問わずパトカーがいても大丈夫なように90km/hで設定。ずっと走行車線。
安曇野《あずみの》を過ぎて犀《さい》川を渡るとそこそこの勾配の上り坂のトンネルに入る。
左車線の大型トラックが80km/hも出てないので、慎重に追い越し車線に入り、抜いたらまた走行車線へ。それの繰り返し。
姨捨《おばすて》サービスエリアの手前が頂点のようで、そこからは下り坂。
山間部なので勿論アップダウンを繰り返すが、基本的に山の上から長野の盆地へ降りていく。更埴《こうしょく》ジャンクションで直進して上信越道《じょうしんえつどう》方面へ。
似たような景色をしばらく進み、やがて豊田飯山《とよたいいやま》インターで高速を降りる。
国道117号線を北東方向に進むとすぐにオーバーヘッド式の電光掲示板があり、男は「あっ」と声が出たが、通過する際に載せられている機器類を凝視したところ、カメラもNシステムもないようだった。
―――あれだけ悔しがっていた彼女が見落とすわけないよな。
少し行って左折する。生活道路を進み、交差点のNシステムを迂回してさらに北へ。
国道292号線の交差点にもNシステムがあるので手前で迂回して住宅地の細い道から信号のない丁字路で国道に入る。
そこから先はひたすら山の中の道を上るだけ。両脇は鬱蒼と繁る森。
通行台数もそれほど多くないし、枯葉マークの軽自動車もいないので順調。
新潟県との県境を越えるとトンネルに入り、それを抜ければ下り坂。
しばらく進んだ交差点で迂回。妙高《みょうこう》市の市街地でもう一度迂回。
上信越道の高架を潜って直進していくと最後の迂回ポイントがある。2ブロックほど東の道へ逸れ、少し行った先でさっきの道に戻る。
そのまま北に向かって突き当りが日本海であり左手に水族館が見える。
水族館から離れた第二駐車場に車を停めて降りると、まだ日差しは強いけれど海風が吹いていて気持ちがいい。
あまりにも順調すぎて50分ほど早く着いてしまった男は、他の客に混じり展示を見て回ることにした。券売機でチケットを買うと順路が3階から降りてくるようになっていて、いきなり目的地の日本海テラスに出てしまう。
ビルの屋上が浅い池になっていて、外壁もガラスもなく細い柱と屋根があるだけで、見方によっては日本海と水面が地続きのようにも見える。
池を取り巻く通路の一番奥に、80代と思わしき老婆が佇んでいるのが見えた。
―――きっとあの人だろう。だけど、もし違ってたら上手くないな……
男が少し離れたところで老婆の様子を伺っていると、あちらも男の視線に気付いたようでチラチラと様子を伺っている。―――なんて声を掛けようか。
―――星野さんですか?って尋ねるか。それとも「六星」ですって名乗るべきか。
―――ていうか、チラチラ見るぐらい意識しているならそっちから声掛けてくれよ。
―――なんで椅子もない場所で待ち合わせにしたんだ、年寄りなのに。
―――あ、膝を擦り始めた。立ちっぱなしは無理だって。で、こっち見てるし。
―――腰曲げて痛たたたじゃないんだよ、何アピールだよ。
―――はー、困ったわって頬に手を当てて首傾げるな。その体勢でこっち見るな。
根負けした男は意を決して老婆に歩み寄り声を掛けた。
「さっきから辛そうですけど、座れるところに移動したほうがよくないですか?」
「あら、お優しいのね。でもね、ここで人を待っているの。とっても大切な用事があって。遠くから来られるその人を待たせるのは悪いから我慢するしかないわね」
「もしかして、待ち合わせはここに16時ですか?」
「あら、よくご存じね。あなたもこんな何もないところにいるってことは待ち合わせなのかしら?」
「ええ。すごく大事なものをお預かりすることになっているんです」
「あら、奇遇ね。私も待ち人にとっても大事なものを渡すことになっているの」
―――いつまで続くんだこの茶番……
男は「行きましょうか」と言って老婆の手を引いて1階のレストランに向かう。
幸いにして席は空いており、依頼人で間違いないであろう老婆と相向かいで座る。店員に注文をして、男のアイスコーヒーと、老婆のソフトクリームと温かい紅茶が運ばれてきたところでようやく自己紹介となる。
「初めまして星野さん。六星の配達人です」
「あら、この期に及んでお名前は教えてくれないのかしら?」
「名前は……、ないんです。事故で忘れてしまっていて」
「あらら、そうなんですの?お名前が思い出せないって……。そういえば私の兄も名前を忘れてしまっていたわね。私の顔を見て、誰?って言われた時は悲しかったわ」
―――痴呆の老人と一緒にしないでくれ。そういうのではないんだ。
「えーと、それで、お預かりするものはいまお持ちなんですか?」
「ええ。ここに」
そういって星野は肩からたすき掛けにしているバッグをぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、それ食べたらお預かりしますね」
男がそう言うと、「これはね」と言って星野は身の上話をし始めた。
星野の夫である清一郎は、上越市に居を構える資産家の四代目であり、彼の曽祖父は金沢の生まれで三男だったが、明治の半ばに上越で石油の採掘会社を立ち上げ財を成した。その息子である祖父も父も、清一郎本人も、電力会社や携帯関係に投資をして会社を大きくし、一族は働かなくても生きてゆける状態なのだという。
「でもね、人間働かないとダメになるのよ。いま私の長男が跡を継いで会社を切り盛りしているのだけど、仕事だとか言ってお酒を飲んでゴルフしてばっかり。実質、会社は夫の子飼いの番頭さんが仕切っているわ」
―――この話、いつまで続くんだろう。
「それでね、会社にはしっかりとした基盤があるから、夫の個人資産は金沢の本家に相続させるってずっと前から言ってたの。本家の総領は真面目な働き者でね。会社は小さいけれどしっかりやっているの。だから応援したいって」
「だから金沢の弁護士さんなんですね」
「そうなの。彼の知り合いにとても優秀な税理士さんがいてね。相続税のことも相談済みなのよ。うふふふ」
「そうなんですね。じゃあ早く荷物を届けて旦那さんを安心させてあげないと」
男がそう言うと「そうなのよ」と言って星野の身の上話、第二章の幕が上がる。
やれ長男の嫁が逆にいびってくるだの、次男は長男よりバカだけどかわいいだとか、自分が若い頃は長女の嫁ぎ先の義父がいやらしい目で見てきただとか。
―――なんなんだこれ。いつになったら荷物渡してくれるんだよ。
星野が一方的に続ける話を遮ったのはレストランの店員だった。
「そろそろ閉店になりますので」と言いに来た店員に男は心の中で感謝した。
星野がその場の会計を済ませ、レストランを出たところで「じゃあこれ、金沢までお願いしますね」と茶封筒を渡してきた。
「はい、お預かりします。金沢の弁護士さんから連絡が入ると思いますので、それまで少しお待ちください。では失礼します」
男がそう言って立ち去ろうとすると「あの……」と星野に呼び止められた。
「差し出がましいようだけど……、あなたのお名前、思い出せるといいわね。それからご家族のことも。きっと心配していらっしゃるでしょうから」
男は全く意味の理解できない言語で話しかけられたように真顔で「は?」と言い、そのリアクションに対して星野は「え?」と困惑した表情を向けた。