透明な配達人   作:ながずぼん

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#09

 上越《じょうえつ》市を出て来た道を戻り、再び豊田飯山《とよたいいやま》インターから高速に乗って松本《まつもと》へ。

 太陽は西の山に沈み、前方に見える白んだ空が紺色に染まっていく空のグラデーションを眺めながら、記憶を失ってから初めて忘れてしまった自身の人間関係について、男は思いを巡らせながらハンドルを握っていた。

 

 両親はどんな人だったのだろうか、兄弟は、友人は、恋人は?

 本当に心配しているのだろうか、それともいなくなってせいせいしているかも?

 もしも思い出した家族がロクでもないものだったら?

 友人や恋人だって実は別れたくなるような付き合いだったら?

 

 まだ少し明るい紺色の空にポツポツと星が輝き始める頃には「思い出せないのだから考えても仕方ない」という結論に至った。

 

 石川のタクシー会社に帰り着いたのは午後7時すぎ。

 さっそく弁護士に石川が日程調整の連絡を取ると、間髪入れずに「早ければ早いほどいい」とGmailの下書きに保存され、明日の配達となり戸田や陽菜に連絡が入る。

 そのやりとりをしている間に夕食の支度を由加里が済ませ三人で食卓につく。

 三人でずるずるとそうめんを啜り夏野菜の天麩羅を頬張りながら、男は依頼主である星野との邂逅について二人に聞かせた。

 男が星野のジェスチャーの真似をすると、石川は盛大にむせて左の鼻の穴からぴろんと1本のそうめんが一瞬顔を覗かせ、ひゅっと引っ込んだ。

 

「お、”おまえ”それ絶対に盛ってるだろ。そんなわざとらしい格好するかふつう」

 

「本当なんですよ。首傾げたままこっちにクイッって顔向けるんですから。まじで」

 

「あははは。わたしもそんなチャーミングなおばあちゃんになりたいわ」

 

 夕食後、部屋に戻らず三人でだべっていると、明日の金沢《かなざわ》往復の地図を持ってずいぶんと薄着の陽菜がやってくる。地図はすでに石川が受け取っていたのだが。

 

「はい、これ。走行ルートの分岐を見直したもの。迂回ルートは変更なしだから、大きい地図だけね」

 

「そうなんだ」

 

 男が地図を受け取り眺めていると陽菜が隣に座り、通るべき国道や県道の道順をレクチャーしてくる。風呂上りのふわっとした香りが男の鼻腔をくすぐる。

―――なんかいい匂いがする。あと、やけに近いな。

 

 男が地図に記された赤い線を指でなぞっているとき、陽菜はチラリと由加里へ視線を飛ばすと、視線の合った彼女は薄く微笑む。

 

「じゃ、明日気を付けて行ってきてね。わたしの地図は完璧なんだから、くれぐれも間違わないように。それじゃ伯父さん、伯母さん、おやすみなさい」

 

 本当に地図を届けに来ただけ、というテイで陽菜は帰って行った。

 

◇◇◇◇◇

 

 午前6時起床。由加里が用意した朝食を食べ、男は身支度を整えて石川の運転するスバル・レヴォーグの助手席に乗り込む。

 空は灰色でいまにも降りそうな天気。―――よりによってきょう降るのか……

 「気を付けてね」と由加里に見送られ、石川と共に国道158号線を西に向かう。

 朝早いのでまだ混雑はしておらず、順調に進んでいく。

 やがて新島々《しんしましま》の駅を通過し、梓川《あずさがわ》を渡り、問題のNシステムを通過。

 すぐ先の信号の手前、予告灯の丁字路を左折して細い道を進む。

 

「戸田さん用意してくれた車、どんなのか聞いてますか?」

 

「年季の入ったゴルフだって言ってたけどな。鍵を預かってるから着いたら渡すよ」

 

 梓川を渡り細い道を進んだ先に竜島《りゅうしま》温泉があり、駐車場に停めてある数台の中に、元々赤だっただろうボディが日焼けしてオレンジに退色しているフォルクスワーゲンゴルフがあった。

 石川がロックを解除しドアを開け、中を覗き込んでから男に鍵を渡す。

 

「まあ、大衆車だから特別なことはないな。ライトのスイッチだけ、そこのつまみを回すタイプだ。あと、GPSは外してあるけどバックモニターは使えるようにしてあるからモニターはそのままにしてあるって言ってたな」

 

 男は車に乗り込み陽菜が用意したブ厚い地図の束を助手席に乗せ、装備などを確認する。シートのヘタレ具合は酷くなく、カップホルダーもある。

 早速キーを差し込みエンジンをかけてみると、グヴォンと低い音がして始動する。

 

「これ、排気量はどれくらいなんですか?」

 

「確か1200のターボだったと思うぞ。7速のオートマで燃費も良かったはずだ」

 

―――MTモードもあるし、坂道は平気そうだな。

 

 男が石川に「行ってきます」と告げドアを閉めると、彼は軽く手を上げて送り出す。

 駐車場を出て、通って来た細い道を戻る。国道158号まで戻ったら左折して信号を越え西へ向かう。

 

 坂を上りリズム良くカーブを曲がり、最初のトンネルを越えた先で遂に雨が降り始める。ワイパーをインターバルで動かし、これ以上雨脚が強くならないことを祈る。

 ヘアピンカーブの先のトンネルに入り、トンネル内の分岐で左方向へ進む。トンネルを出ると目の前に奈川渡《ながわど》のダム湖が広がる。

 奈川沿いの県道26号を道なりに進み、いくつか集落を通過して分岐を直進して野麦《のむぎ》峠に向かう。雨は小降りのままではいてくれなかった。

 ワイパーレバーを連続の位置に動かし、フロントガラスの雨粒を弾かせる。

 ぽつりぽつりと点在する民家が見えなくなったところで、鬱蒼とした林に両脇を囲まれ始め、その先で完全なる峠道になる。

 

 道幅は狭く右手は急斜面で左手は崖。ヘアピンカーブがきついところは180度のターンになっている。速度を乗せられる区間がなく、およそ30km/hぐらいの巡航速度でとにかくカーブを曲がって曲がって曲がる。

 あまつさえ道の両端から伸びる木々の枝が空を覆い隠した上で、隙間から覗く空も雨雲が覆ってしまって薄暗いのでライトを点ける。

 出口が見えないヘアピンカーブかつ雨による視界不良で、視覚情報処理の負担が大きかった。―――この道、すごい肩凝る。

 

◇◇◇◇◇

 

 野麦峠に入ってから1時間ほど経過した時点で、国道361号線の丁字路を示す青看板が見え、男はようやく峠道から解放された気持ちになった。

 運転するのは嫌ではなかったが、さすがに字面通りの九十九折の峠道は酷だった。

 

 丁字路を右折し、国道361号線を高山《たかやま》方面へ。

 ダム湖や川に沿ってしばらく進み、街道に設置されているNシステムを迂回するため、左折して飛騨川《ひだがわ》を渡り生活道路で迂回する。

 国道に復帰した先の道の駅に立ち寄り、自販機で缶珈琲を買い喫煙スペースで煙草に火を点ける。雨は止みそうもなく、サーという雨音が辺りに響いている。

 吸い終えてトイレに行くと、車中泊をしていたと思われる中年男性が慣れた感じで歯を磨いていた。―――誰かがうんこしてても平気なのかな。

 

 再び走り始め、長いトンネルを抜けた先の丁字路を左折し、国道158号で高山の市街地へ。

 宮川《みやがわ》を渡り、高山本線のアンダーパスの手前を右折。立体交差の高架が見えたら左の側道へ入り県道458号線で街の西側を通る県道75号線との交差点を右折。

 中部縦貫道の高架を潜って県道471号線に入って高山市街地をクリア。

 北上して宮川の南側を通り飛騨《ひだ》市を通過。もう一度宮川を渡り国道471号線へ。

 三度宮川を跨ぎ国道360号線に入る。民家が消えたところで2度目の峠道に。

 

 高速道路やバイパスでトンネルを掘ったり橋が架けられたりして、峠道は誰も使わなくなっていく。だから前方の車に追いつくこともないし、後ろから煽られることもない。なによりすれ違いが困難な道幅で対向車がないのは幸いだった。

 いまこの瞬間、デジタルの記録にも残らず人に見られてもいない。男がどこにいるのか誰も知らない『透明』な存在になっていた。

 運転中の男は腹を擦りそうな急坂のヘアピンに悪戦苦闘しており、そんなポエムのような発想など微塵も考えていなかった。

 

 疲労困憊状態で峠道を抜けた先で宮川を渡り、世界遺産でお馴染みの白川《しらかわ》村の入り口にあるデイリーヤマザキで休憩をとる。

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