記憶座標のサリエリ   作:siorin024

1 / 6
序章 彦星の帰還

 2026年の春、比屋定真帆は死者のためにコーヒーを淹れた。

 紙コップは二つ。

 一つは自分の手の中にある。もう一つは、簡素な作業机の向こう側。座る者のいない椅子の前で、細い湯気を立てていた。

 放棄された貨物集積所の地下は、四月だというのに冷えていた。天井を渡る配管が、ときおり遠い砲撃の振動に震える。非常灯の青白い明かりが、床に引かれた黄色い境界線を照らしていた。

 その中央には、何もない。

 今はまだ。

 真帆は端末の時刻を確認した。予定された観測時刻を、すでに十九分過ぎている。

『真帆たん。そろそろ一度、退避した方がいい』

 耳元の受信機から、ダルの声がした。平静を装ってはいるが、呼吸がわずかに浅い。

「却下する」

『でも、観測窓の誤差は最大でも十三分って――』

「その計算をしたのは私よ」

『だから言ってんですけど』

「いいから監視を続けて、橋田」

 通信の向こうで、短いため息が落ちた。

 端末の片隅には、監視網から抜き出した古い記録が開かれたままになっている。

 岡部倫太郎。

 2025年、作戦行動中に消息を絶つ。生存の可能性なし。

 文字列の末尾には、処理済みを示す灰色の印があった。

 世界は彼の死を受理した。

 墓も遺体も必要なかった。この時代では、帰らなかったという事実だけで、人間は十分に死者になれた。

 真帆は画面を閉じなかった。閉じれば、そこに書かれた結論を認めることになるような気がしたから――ではない。

 そんな非科学的な感傷ではない。

 ただ、約束の時刻を再確認するのに都合がよかった。それだけだ。

 そういうことにしていた。

 

*

 

「帰還座標は?」

 暗い銀灰色の機体を背にした岡部は、真帆が差し出した端末へ目を落とした。

「ここだ」

「帰還時刻は」

「来年の春」

 真帆は顔を上げた。

「ずいぶん曖昧なフライトプランね」

「ならば、君が決めろ」

「私が?」

「その時刻、その座標で待っていろ」

 砲声が遠くで響いた。岡部の黒い外套が、格納庫へ吹き込む風に揺れた。

「命令なの?」

「約束だ」

 その言葉だけを残して、岡部倫太郎は2025年から消えた。

 

*

 

 二十七分。

 二杯目の湯気は、もう見えない。

 真帆はそれを捨てなかった。新しく淹れ直すこともしなかった。

 帰還座標に現れる機体が、周囲の物質を巻き込む可能性は排除できない。待機位置をあと二メートル下げるべきだ。頭では分かっていた。

 足は動かなかった。

『真帆たん』

「まだよ」

『でも――』

「倫太郎は、約束だけは破らない」

 口にしてから、真帆は眉を寄せた。

 訂正すべき命題だった。岡部は無茶をする。嘘をつく。何もかも一人で背負い、他人のためなら自分の生存を平然と計算から外す。

 約束を守る男なのではない。

 守らせなければならない男なのだ。

 端末の波形が跳ね上がった。

『来た! 真帆たん、下がって!』

 空気が軋んだ。

 境界線の内側で光が歪み、存在しないはずの輪郭が幾重にも重なる。紫電が床を走り、遅れて耳を塞ぐほどの衝撃音が地下空間を揺らした。

 真帆は腕で顔をかばった。

 焦げた空気と砂埃の向こうに、銀灰色の機体があった。

 C193。

 一年前、この場所には存在しなかった傷が装甲を覆っている。それでも機体は形を保ち、指定した座標の内側へ収まっていた。

 ハッチが開いた。

 最初に、黒い外套が見えた。

 岡部は機体の縁へ片手をつき、ひどく緩慢な動作で地面へ降りた。頬は痩せ、髪も髭も砂に汚れている。立っていること自体が、意地だけで成立しているように見えた。

 けれど、生きている。

 真帆の知っている岡部倫太郎が、そこにいた。

「……遅い」

 喉に張りついていたものを、皮肉の形にして押し出した。

「あなたは去年、死んだはずでしょう」

 岡部はゆっくりと顔を上げた。

「死者に時間厳守を求めるな」

 笑おうとしたのだろう。口元がわずかに歪んだだけだった。

 その背後から、小さな影が降りてきた。

「真帆さん」

 真帆は息を止めた。

 椎名まゆりだった。

 写真と記憶の中にしか残っていなかった、2011年の姿。十五年という時間に触れられることなく、あの日の面影をそのまま抱えた少女が、両足で2026年の床を踏んでいた。

「ただいま、真帆さん」

 泣き笑いの声だった。

 それだけで十分だった。

 救出は成功した。

「鈴羽は」

「予定通りだ」

 岡部が答えた。

 2036年。もう一人の鈴羽が旅立った、その直後へ。

 すべては予定通り。

 なら、ここから先に予定などない。

 真帆は岡部の前まで歩いた。

 頬へ手を伸ばす。指先が触れる寸前で、止まった。

 この男は死者だ。

 歴史の上では。記録の上では。この世界で岡部倫太郎という名前を名乗って生きることは、もう許されない。

 それでも。

 岡部の方から、止まった真帆の手へ頬を寄せた。

 乾いた皮膚の感触と、確かな体温が掌へ伝わった。

「観測結果はどうだ、真帆」

 真帆は答えなかった。

 代わりに外套の襟を掴み、その胸元へ額を押しつけた。弱々しい鼓動が聞こえる。測定機器などなくても、誤認しようのない生存反応だった。

 世界が何と記録しようと関係ない。

 この存在を、私は観測した。

「……おかえり、倫太郎」

 岡部の手が、ためらいながら真帆の髪へ触れた。

 二人分のコーヒーは、もうすっかり冷めていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。