2026年の春、比屋定真帆は死者のためにコーヒーを淹れた。
紙コップは二つ。
一つは自分の手の中にある。もう一つは、簡素な作業机の向こう側。座る者のいない椅子の前で、細い湯気を立てていた。
放棄された貨物集積所の地下は、四月だというのに冷えていた。天井を渡る配管が、ときおり遠い砲撃の振動に震える。非常灯の青白い明かりが、床に引かれた黄色い境界線を照らしていた。
その中央には、何もない。
今はまだ。
真帆は端末の時刻を確認した。予定された観測時刻を、すでに十九分過ぎている。
『真帆たん。そろそろ一度、退避した方がいい』
耳元の受信機から、ダルの声がした。平静を装ってはいるが、呼吸がわずかに浅い。
「却下する」
『でも、観測窓の誤差は最大でも十三分って――』
「その計算をしたのは私よ」
『だから言ってんですけど』
「いいから監視を続けて、橋田」
通信の向こうで、短いため息が落ちた。
端末の片隅には、監視網から抜き出した古い記録が開かれたままになっている。
岡部倫太郎。
2025年、作戦行動中に消息を絶つ。生存の可能性なし。
文字列の末尾には、処理済みを示す灰色の印があった。
世界は彼の死を受理した。
墓も遺体も必要なかった。この時代では、帰らなかったという事実だけで、人間は十分に死者になれた。
真帆は画面を閉じなかった。閉じれば、そこに書かれた結論を認めることになるような気がしたから――ではない。
そんな非科学的な感傷ではない。
ただ、約束の時刻を再確認するのに都合がよかった。それだけだ。
そういうことにしていた。
「帰還座標は?」
暗い銀灰色の機体を背にした岡部は、真帆が差し出した端末へ目を落とした。
「ここだ」
「帰還時刻は」
「来年の春」
真帆は顔を上げた。
「ずいぶん曖昧なフライトプランね」
「ならば、君が決めろ」
「私が?」
「その時刻、その座標で待っていろ」
砲声が遠くで響いた。岡部の黒い外套が、格納庫へ吹き込む風に揺れた。
「命令なの?」
「約束だ」
その言葉だけを残して、岡部倫太郎は2025年から消えた。
二十七分。
二杯目の湯気は、もう見えない。
真帆はそれを捨てなかった。新しく淹れ直すこともしなかった。
帰還座標に現れる機体が、周囲の物質を巻き込む可能性は排除できない。待機位置をあと二メートル下げるべきだ。頭では分かっていた。
足は動かなかった。
『真帆たん』
「まだよ」
『でも――』
「倫太郎は、約束だけは破らない」
口にしてから、真帆は眉を寄せた。
訂正すべき命題だった。岡部は無茶をする。嘘をつく。何もかも一人で背負い、他人のためなら自分の生存を平然と計算から外す。
約束を守る男なのではない。
守らせなければならない男なのだ。
端末の波形が跳ね上がった。
『来た! 真帆たん、下がって!』
空気が軋んだ。
境界線の内側で光が歪み、存在しないはずの輪郭が幾重にも重なる。紫電が床を走り、遅れて耳を塞ぐほどの衝撃音が地下空間を揺らした。
真帆は腕で顔をかばった。
焦げた空気と砂埃の向こうに、銀灰色の機体があった。
C193。
一年前、この場所には存在しなかった傷が装甲を覆っている。それでも機体は形を保ち、指定した座標の内側へ収まっていた。
ハッチが開いた。
最初に、黒い外套が見えた。
岡部は機体の縁へ片手をつき、ひどく緩慢な動作で地面へ降りた。頬は痩せ、髪も髭も砂に汚れている。立っていること自体が、意地だけで成立しているように見えた。
けれど、生きている。
真帆の知っている岡部倫太郎が、そこにいた。
「……遅い」
喉に張りついていたものを、皮肉の形にして押し出した。
「あなたは去年、死んだはずでしょう」
岡部はゆっくりと顔を上げた。
「死者に時間厳守を求めるな」
笑おうとしたのだろう。口元がわずかに歪んだだけだった。
その背後から、小さな影が降りてきた。
「真帆さん」
真帆は息を止めた。
椎名まゆりだった。
写真と記憶の中にしか残っていなかった、2011年の姿。十五年という時間に触れられることなく、あの日の面影をそのまま抱えた少女が、両足で2026年の床を踏んでいた。
「ただいま、真帆さん」
泣き笑いの声だった。
それだけで十分だった。
救出は成功した。
「鈴羽は」
「予定通りだ」
岡部が答えた。
2036年。もう一人の鈴羽が旅立った、その直後へ。
すべては予定通り。
なら、ここから先に予定などない。
真帆は岡部の前まで歩いた。
頬へ手を伸ばす。指先が触れる寸前で、止まった。
この男は死者だ。
歴史の上では。記録の上では。この世界で岡部倫太郎という名前を名乗って生きることは、もう許されない。
それでも。
岡部の方から、止まった真帆の手へ頬を寄せた。
乾いた皮膚の感触と、確かな体温が掌へ伝わった。
「観測結果はどうだ、真帆」
真帆は答えなかった。
代わりに外套の襟を掴み、その胸元へ額を押しつけた。弱々しい鼓動が聞こえる。測定機器などなくても、誤認しようのない生存反応だった。
世界が何と記録しようと関係ない。
この存在を、私は観測した。
「……おかえり、倫太郎」
岡部の手が、ためらいながら真帆の髪へ触れた。
二人分のコーヒーは、もうすっかり冷めていた。