岡部は生きていた。
それは喜ぶべき事実であると同時に、ひどく取り扱いの難しい観測結果だった。
「動かないで」
「動いてはいない」
「呼吸で数値がぶれるの。できればそれも止めて」
「死者へ戻す気か、君は」
「三十秒くらいなら問題ないでしょう」
携帯型の診断装置を岡部の胸から外し、真帆は表示された数値を保存した。
脱水。低血糖。複数の擦過傷。左肩には、機体の安全帯で強く圧迫された痕がある。どれも今すぐ生命を脅かすほどではない。ただし、この男が申告していない症状が存在しないという保証にはならなかった。
岡部倫太郎は自分の痛みを隠すことに関してだけは、昔から非凡な才能を持っていた。
簡易医務室の隅では、まゆりが眠っている。毛布から覗く横顔は、やはり真帆の記憶にある少女のままだった。
一方、鏡に映った自分の目元には、十五年分の影がある。
不公平だとは思わない。
時間は平等に流れるものではない。それを証明するために、彼らは人生の半分を費やしてきた。
「ダイバージェンスメーターは」
岡部が訊いた。
「変動なし。少なくとも、私たちはまだβ世界線にいるわ」
「そうか」
落胆も安堵もない声だった。
「まゆりを2011年へ戻さなかった判断は」
「妥当よ。彼女がいなかった十四年間も、私たちがここへ辿り着いた因果の一部でしょう」
「旧鈴羽の座標は?」
「機体から航行記録を回収した。2036年、C204が出発した直後に設定されている。予定どおりよ」
「なら、問題ない」
「問題がないかどうかを決めるのは、検証を終えてから」
岡部は小さく息を吐き、それ以上は反論しなかった。
素直なのではない。反論する体力すら残っていないのだ。
それでも彼の視線は、机の上に置かれた黒い端末へ向いていた。真帆が先ほど閉じたはずの死亡記録。その画面を、ダルが再び開いている。
『公的データの同期を確認したお』
壁面モニターの向こうで、ダルが眼鏡を押し上げた。
『軍、医療機関、抵抗組織の記録まで全部同じ。岡部倫太郎は2025年中に消息不明。翌年まで生存したことを示すログは一件もない』
「当然ね。作らせなかったんだから」
『死亡扱いを覆す必要は?』
「ないわ。むしろ、覆してはいけない」
世界が必要としているのは、遺体ではない。
岡部倫太郎が2025年から先の歴史に存在しないという、矛盾のない記録だ。
紀元前へ旅立った岡部は、その年が終わるまで戻らなかった。死亡した人間として書類に閉じ込められ、2026年の春になってから、誰にも観測されない地下へ帰還した。
歴史の上では死者。
真帆の目の前では生者。
二つの事実は、今のところ破綻せずに共存している。
「潜伏先は、以前の区画をそのまま使える」
真帆は検査器具をケースへ戻しながら言った。
「地上との通信は私と橋田を経由すること。許可なく外へ出ない。物資の搬入経路も変える必要があるわね」
「必要ない」
岡部の声は静かだった。
真帆の手が止まった。
「何が?」
「俺の潜伏先だ」
岡部は外套の内側から、小型の記憶媒体を取り出した。傷だらけの指で、机の上へ置く。
「C193の航行記録、旧鈴羽へ渡した予備電源の仕様、紀元前で取得した全データが入っている。C204の完成に必要なものは、これで揃うはずだ」
「だから?」
「俺の役目は終わった」
その言葉だけが、妙に滑らかだった。
帰還してから何度も頭の中で繰り返していたのだろう。
『オカリン』
「世界はすでに俺を死者として認識している。なら、その認識を維持するのが最も安全だ。俺が存在し続ければ、君たちまで危険にさらす」
「それで?」
「真帆」
「続きを言いなさい」
岡部は黙った。
続きなど聞く必要はなかった。
地下から姿を消す。追跡者を遠ざける。必要なら、本当に死亡する。
呼び方が違うだけで、この男が選ぶ結論はいつも同じだ。
「却下よ」
「これは提案ではない」
「研究責任者は私よ。被験者が勝手に実験計画を変更しないで」
「俺はいつから被験者になった」
「二十七分遅れて帰還した瞬間から」
真帆は岡部の前へ立った。
三十七センチの身長差がある。見下ろされることには慣れていた。だからといって、見上げる側が従う理由にはならない。
「2036年に鈴羽が出発すれば、過去にオペレーション・スクルドを成立させる因果が完成する。その瞬間、世界線は再構築される可能性が高い」
「分かっている」
「いいえ。あなたは分かっていない」
岡部の眉がわずかに動いた。
「そのとき、この世界線のあなたが生きていればどうなる?」
「……リーディング・シュタイナー」
「発動する可能性がある。SG世界線の2036年にいる岡部倫太郎へ、ここでの記憶が持ち越されるかもしれない」
「仮説にすぎない」
「だから検証するのよ」
「失敗すれば、君の十年を無駄にする」
「私の時間を、あなたが勝手に無駄と定義しないで」
想定より強い声が出た。
眠っていたはずのまゆりが、毛布の中で身じろぎをした。
真帆は一度だけ目を閉じた。怒鳴る必要はない。感情は論証を補強しない。
それでも、撤回するつもりはなかった。
「あなたは、自分が消えれば私たちを守れると思っている。けれど、それは検証された事実ではないわ。単に、あなたが一番慣れている失敗の仕方よ」
「……何?」
「自分だけを計算から外すこと」
岡部の表情から、わずかな抵抗が消えた。
届いたのだ。
ならば、もう一度突きつける。
「あなたを2036年まで生存させる」
真帆は、机の上の記憶媒体を岡部の方へ押し戻した。
「それが私の新しい研究課題よ」
「俺の意思は無視か」
「尊重はするわ。採用するとは言ってない」
『横暴な主任研究員キタコレ』
「橋田は黙っていて」
『はい』
短い沈黙の後、部屋の隅から声がした。
「まゆしぃも、真帆さんに賛成なのです」
まゆりが毛布を肩にかけたまま、診察台の上で身体を起こしていた。
「起きていたの?」
「途中からだけどね」
まゆりは岡部を見た。
顔には幼さが残っている。けれど、その目だけは、岡部が知らない時間をすでにいくつも越えてきた人間のものだった。
「オカリンは、まゆしぃたちを迎えに来てくれたよ」
「……ああ」
「だから今度は、オカリンが未来まで来る番なのです」
岡部は視線を伏せた。
「俺は、2025年に死んだ人間だ」
「記録と生体反応の区別もつかないの?」
真帆が言うと、まゆりが少しだけ笑った。
「それならオカリンは、死んだまま生きればいいんじゃないかな」
無邪気な言い方だった。
だが、どんな理論より正確に、彼らの置かれた状況を表していた。
岡部倫太郎という名前は死んだ。
その男の肉体と記憶だけを、誰にも知られず未来へ運ぶ。
世界を騙すというのなら、それくらいの矛盾を抱えてみせればいい。
岡部はしばらく答えなかった。
やがて机の上の記憶媒体へ手を伸ばし、再び自分の外套へ収めた。
「……検討する」
「不合格。答えになってないわ」
「君は少し黙るという選択肢を検討してくれ」
「必要性を認めない」
『あ、これいつもの二人だ』
ダルの声に、まゆりがもう一度笑った。
岡部だけが困ったように目を閉じた。
けれど、地下から消えるとは、もう言わなかった。
翌朝、真帆は二人分のコーヒーを淹れた。
前日に冷めたまま残された紙コップは、もう片づけてある。代わりに使ったのは、地下区画の棚から出した不揃いのマグカップだった。
片方は、縁が少し欠けている。
岡部は何も訊かず、欠けていない方を真帆の前へ置いた。
自分はもう一方を取り、机の向かいへ腰を下ろす。
昔からそうだった。
真帆がどちらを使うか、彼は知っている。
「身体の具合は?」
「問題ない」
「被験者の自己申告は信用しないことにしたの」
「ならば訊くな」
岡部は一口飲み、顔をしかめた。
「冷めている」
「死者に適温を求めないで」
「昨日と話が違わないか」
「科学は更新されるものよ」
真帆もカップへ口をつけた。
本当に少し冷めていた。けれど、淹れ直すほどではない。
岡部がカップを置いた。
「真帆」
「何?」
「俺は生きる」
飾りのない声だった。
「2036年まで」
真帆はすぐには答えなかった。
胸の奥に生じた変化を、安堵と呼ぶには観測値が足りない。
「合格点ね」
「厳しい採点だな」
「ただし、期限の設定が間違ってるわ」
「期限?」
「2036年までじゃない」
真帆はカップを置き、岡部を見上げた。
「その先もよ、倫太郎」
岡部は答えなかった。
ただ、欠けたカップを持つ指から、わずかに力が抜けた。
2025年に死んだ男の時間が、2026年の春に再び動き始めた。