一年後、岡部倫太郎は二度目の葬式を迎えた。
正確には葬式ではない。
遺体はなく、死亡日も確定していない。戦時下の行政が一人の行方不明者へ与える時間には限りがあり、死亡認定から一年を過ぎたところで、漆原るかが私的な弔いの場を設けたのだ。
柳林神社の境内には、焼けた木材の匂いがまだ残っていた。
社殿の右半分は応急処置の板で覆われ、石段には爆風で欠けた跡がある。それでも注連縄は新しく、白い紙垂が春の風に揺れていた。るかは神職の装束を整え、祭壇へ榊と水を供えた。
中央に置かれた写真の中で、岡部は笑っていた。
二十歳にもならない頃の写真だった。黒いシャツの襟を立て、意味もなく片腕を掲げている。今の岡部より頬が丸く、目に宿る疲労も少ない。
真帆の知っている男とは、少し違う。
けれど、あれも確かに岡部倫太郎だった。
真帆は祭壇の前で頭を下げた。
死者へ祈ったわけではない。儀礼の手順に従っただけだ。
今朝、地下区画を出る前に測った岡部の体温は三十六度四分。睡眠時間は四時間二十二分。昨夜の演算で生じた頭痛を申告せず、鎮痛剤が二錠減っていた。
死者としては、ずいぶん手のかかる生体反応だった。
隣で、まゆりが二度、深く頭を下げた。
喪服の袖から覗く手は若い。写真の岡部と同じ時代から切り取られた身体が、その十六年後に立っている。
るかは、年齢を重ねていた。
頬の線は細くなり、所作には昔にはなかった静けさがある。真帆と同じだけの年月を、この世界で生きてきた顔だった。
儀式が終わると、るかは祭壇の水を替えた。
「まゆりちゃんは、変わらないね」
責める響きではなかった。
「うん。るかくんは、大人になったね」
「そうかな」
「とっても格好いいのです」
まゆりが笑うと、るかも微笑んだ。
その笑みの奥に、失われた十六年が沈んでいる。まゆりが帰ってきた事情を、るかは知っていた。けれど、岡部がともに帰還したことは知らない。
情報は、信頼ではなく危険度によって分けなければならない。
るかを信用していないのではない。信用しているからこそ、拷問されても答えられないようにした。
理屈は正しい。
正しい理屈で人を傷つけることにも、真帆はとうに慣れたはずだった。
「真帆さん」
るかに呼ばれ、真帆は写真から目を離した。
「何かしら」
「岡部さんが亡くなったと聞いたときも、泣かなかったそうですね」
誰から聞いたのかは訊かなかった。
まゆりではない。おそらく橋田か、抵抗組織の誰かだろう。
「泣けば、事実が変わるの?」
「いいえ」
るかは首を横に振った。
「ただ真帆さんは、今も岡部さんが帰ってくるのを待っているように見えます」
返答を用意するには、長すぎる沈黙だった。
真帆は、祭壇の写真を見た。
帰ってくるのを待っているわけではない。岡部は今朝も地下区画にいた。彼が待っているのは真帆の方だ。午後には帰ると告げてある。
それを説明することはできない。
「科学者は、結論が確定するまで判断を保留するものよ」
結局、そんな言葉しか出なかった。
るかは追及しなかった。
「そうですか」
もう一度、写真へ向き直る。
「それなら僕も、もう少しだけ保留にしておきます」
風が紙垂を鳴らした。
否定すべきだった。
岡部倫太郎は死んだ。待っても帰らない。そう告げるのが、この一年守ってきた計画にとって最善だった。
真帆は何も言わなかった。
沈黙は肯定ではない。
少なくとも、科学的には。
境内を出たところで、まゆりが布に包んだ保存容器を差し出した。
「これ、真帆さんに」
受け取ると、見た目より重かった。
「ずいぶん多いわね」
「二人分だから」
まゆりは、それ以上の説明をしなかった。
容器の隙間から、揚げ物の匂いがした。岡部が昔から好んでいたものだと、真帆も知っている。
「オカリン、ちゃんと食べてる?」
「私が見ていなければ忘れるわ」
「そっか」
まゆりは安心したように笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
何が大丈夫なのか、真帆は訊かなかった。
二人分の食事を鞄へ収める。まゆりの手が、包みの端を一度だけ整えた。
それは祝福でも、許可でもなかった。
ただ、生きて帰ってきた人間たちに夕食が必要だという、ごく当然の処置だった。
地下区画へ戻ると、岡部は作業机へ伏したまま眠っていた。
モニターにはC204の姿勢制御モデルが開かれ、数式の途中で入力カーソルが点滅している。右手の近くには、空になったコーヒーカップ。鎮痛剤の包装は見当たらない。
真帆は鞄を置き、岡部の背後へ回った。
遺影には触れなかった。
代わりに、寝癖のついた黒髪へ手を伸ばす。指先で一房だけ整えたところで、岡部の肩が動いた。
「……帰ったのか」
「起こした?」
「いや」
嘘だった。
岡部は顔を上げた。頬にキーボードの跡がついている。
「葬儀は済んだのか」
「ええ。あなたは今年も立派に死んでいたわよ」
「それは結構」
真帆が髪から手を離そうとすると、岡部がその手首へ触れた。
引き止めたわけではない。ただ、そこにあることを確かめるような触れ方だった。
「誰が来た」
「まゆりと、漆原さん」
岡部の指が、わずかに強くなった。
「ルカ子は」
「あなたが帰ってくるのを待っているように見える、と言っていたわ」
しばらくして、岡部は手を離した。
「伝えるべきだろうか」
「駄目よ」
「分かっている」
「なら訊かないで」
「分かっていても、訊かなければならないことはある」
真帆は反論しなかった。
鞄から保存容器を出し、机へ並べる。二人分の食器を用意すると、岡部が片方を受け取った。
「まゆりか」
「ええ」
「君は泣いたか」
「必要がなかったもの」
岡部は真帆を見た。
真帆は視線を合わせず、冷めたコーヒーを流しへ運んだ。
泣く必要はなかった。
振り返れば、死者が勝手に蓋を開け、つまみ食いをしている。
「それ、私の分なんだけど」
「二人分ある」
「配分が同じとは限らないでしょう」
「墓参りに行かなかった者にも、供物を受け取る権利はある」
「生きている人間は供物を食べないのよ」
「では、君は何を持ち帰ってきた」
真帆は答えず、岡部の手から一つ取り返した。
二人分の食事は、少し多かった。
その夜、余った一人分を明日の朝食として保存した。
死者の帰る場所では、そうして時間が先へ進んだ。
それから四年のあいだに、二人は五度住居を変えた。
六度目の移転が必要だと告げたのは、フェイリスだった。
「この調達経路は、あと三日で見つかるニャ」
2031年、かつて秋葉原と呼ばれていた区域の地下。
防火扉の向こうに残された小さな倉庫で、フェイリスは紙の帳簿を机へ広げた。電子記録を信用できない時代になっても、その指先の動きには往年のカードゲームのような華やかさがある。
声も仕草も変わらない。
けれど猫耳のカチューシャはなく、長い髪は後ろでまとめられていた。地上へ出るときは、目立たない灰色の外套を着る。秋葉幸高の娘としてではなく、いくつもの補給線を維持する責任者の顔だった。
「根拠は?」
真帆が訊くと、フェイリスは帳簿の三か所を爪で叩いた。
「北側の検問で医薬品の追跡が始まったニャ。昨日は同じ業者から二人、戻らなかった。ここを切らないと、真帆ニャンまで辿られる」
「分かったわ。研究資材は今夜移す」
「研究資材だけじゃないニャ」
フェイリスがページをめくった。
「男性用のシャツ。大きめの靴。定期的に減る鎮痛剤。砂糖の入らないコーヒーと、入れすぎるコーヒー」
真帆は帳簿を閉じた。
「研究助手がいるのよ」
「その助手の靴が凶真と同じ大きさなのは偶然かニャ?」
倉庫の時計が、小さく秒を刻んでいた。
真帆は反射的に文字盤を見た。
十九時十二分。
岡部は十九時までに外周の点検を終える予定だった。
「今、何を気にしたのかニャ」
「搬出に必要な時間よ」
「違うニャ」
フェイリスは帳簿を抱え、少しだけ首を傾げた。
「一人で暮らしている人は、そんなふうに誰かの帰る時刻を見ないニャ」
否定の言葉は、すぐに出せた。
真帆はそれを口にしなかった。
「いつから知っていたの?」
「知ってはいなかったニャ」
フェイリスの赤い瞳が細くなる。
「でも、ずっと世界のどこかにいる気がしてた」
一瞬だけ、猫の語尾が消えた。
真帆はフェイリスの記憶について、いくつかの仮説を持っている。世界線を越えて残る感情。説明のつかない既視感。岡部の能力ほど明確ではなくても、過去の改変に触れた者たちには、ときおり観測不能な残響が現れる。
今は検証している時間がなかった。
地上で短い警報音が鳴った。
フェイリスは懐から通信機を取り出す。受信した報告へ二つ指示を返し、真帆を見た。
「三日という予測は訂正するニャ。三十分」
「ずいぶん誤差が大きいわね」
「研究者じゃないからニャ」
二人は同時に立ち上がった。
旧地下鉄の保守通路を抜け、潜伏区画へ戻る。隔壁を開くと、岡部はすでに研究データを三つの耐火ケースへ分けていた。
「遅いぞ、ロリッ子」
「凶真ごっこをしてる場合じゃないわ。十五分で出る」
「この鳳凰院凶真に撤退を命じるとは、相変わらず身の程を知らぬな。だが案ずるな、機関の包囲など――」
「倫太郎」
真帆が名前を呼ぶと、岡部は演技をやめた。
「状況は」
「北側の調達線から追跡された。西の排水路を使うわ」
「駄目だ。昨夜、崩落があった」
「なら東側」
「俺が囮になる」
「却下よ」
予想していた提案だった。
真帆は耐火ケースを一つ持ち上げる。岡部は同じ取っ手へ手を伸ばした。
「これは私が持つ」
「君の体格では速度が落ちる」
「あなたは左肩を庇っているでしょう」
「支障はない」
「被験者の自己申告は信用しないと、五年前に決めたわ」
互いに取っ手を離さない。
「痴話喧嘩は移動しながらお願いするニャ」
背後から聞こえた声に、岡部が動きを止めた。
真帆の方が先に振り向いた。
通路の入口で、フェイリスが笑っている。
岡部の顔から、すべての表情が消えた。
「フェイリス」
五年間、彼の生存を知らされなかった女の名前だった。
謝罪より先に警戒が浮かぶのが、岡部らしい。自分が知られた危険ではなく、秘密を知ったフェイリスへ及ぶ危険を計算している。
フェイリスは岡部の前まで歩いた。
「やっぱりそこにいたのニャ、凶真」
それだけだった。
責める言葉も、泣き声もない。
岡部は唇を開き、閉じた。
やがて、片腕を胸元へ引き寄せる。
「フゥーハハハ! この狂気のマッドサイエンティストが、世界ごときに殺されたと思ったか、フェイリス・ニャンニャン!」
声量は昔ほどではなかった。
それでもフェイリスは、目を細めて笑った。
「再会イベントは三十秒で終了ニャ。西側崩落区画の手前に搬送車を用意してある。崩落地点は今朝、アキハ一族が開通させたニャ」
「昨夜の情報を知っていたのか」
「秘密は値打ちがあるうちに守るものニャ」
フェイリスは踵を返した。
岡部と真帆は、まだ同じ取っ手を握っていた。
「二人とも、それを持って走るつもりかニャ?」
真帆が手を離した。
岡部がケースを持つ。代わりに真帆は、机の端に残された小型保管箱を抱えた。
中身は紅莉栖の研究記録だった。
爆発音が近づいた。
照明が落ち、非常灯へ切り替わる。岡部は先に通路へ出ると、暗闇の中で後ろへ手を伸ばした。
真帆は躊躇せず、その手を取った。
三十七センチ上にある顔は見えない。それでも、どちらが先に角を曲がり、どちらが背後を確認するか、打ち合わせる必要はなかった。
排水路の入口で銃声が響いた。
岡部が真帆を壁際へ引き、真帆はその胸元を掴んで物陰へ押し込む。互いに相手を庇おうとして、狭い隙間へ同時に滑り込んだ。
「君が先に行け」
「あなたが先よ」
「真帆」
「倫太郎」
「仲がいいのは分かったから、二人とも来るニャ!」
前方からフェイリスに叱られた。
狭い隙間では、真帆の額が岡部の胸元に触れていた。岡部が銃声の切れ間をうかがうため身を屈め、その額が真帆の髪へ触れる。
接触そのものは偶然だった。
だが、銃声が途切れても、二人はすぐには離れなかった。
先に進んだ岡部の手は、搬送車へ辿り着くまで真帆の手を離さなかった。
フェイリスは一度も振り返らなかった。
ただ、暗証扉を開ける横顔だけが、少し笑っていた。
新しい潜伏先は、秋葉原から離れた研究施設の地下にあった。
発電設備。遮蔽された通信回線。C204の部品を搬入できる貨物昇降機。以前の区画より条件はいい。
問題は、居住空間だった。
「寝室が一つしかないんだけど」
真帆が平面図を示すと、フェイリスは悪びれずに頷いた。
「二部屋分の生活痕跡は隠せないニャ」
「そういう意味で言ってるんじゃないわ」
「研究室にも長椅子がある。どちらかが使えばいい」
岡部が言った。
真帆は彼を見上げた。
「あなたが研究室で寝ると言って、そのまま三日間起きていたのはいつだったかしら」
「四年前だ」
「去年もよ」
「去年は二日だ」
「問題は日数じゃないでしょう」
フェイリスは鍵を真帆へ渡した。
「では、運用は二人に任せるニャ」
その言い方に反論する余地を探したが、見つからなかった。
真帆は寝室の扉を開けた。
狭い部屋に、ベッドが一つ。壁際には古い机と、衣服を収める棚がある。避難先としては十分だった。
岡部が後ろから室内を覗く。
「俺は長椅子を使う」
「いまさらでしょう」
口から出てから、その言葉が何を省略したのかに気づいた。
岡部も気づいたはずだった。
何年、同じ区画で朝を迎えたと思っているの。
何度、机へ伏した彼へ毛布を掛けたと思っているの。
何度、目を覚ましたとき、自分の肩に彼の外套が掛けられていたと思っているの。
それらはすべて、共同研究に必要な健康管理だった。
そう分類しておけば、説明はつく。
「そうだな」
岡部は、それ以上何も言わなかった。
フェイリスが廊下の向こうで、聞こえないふりをしている。
荷解きを始めた。
岡部の外套を入口近くの鉤へ掛ける。真帆の白衣をその隣へ。机の中央には、避難の最後まで手放さなかった小型保管箱を置いた。
蓋を開く。
紅莉栖の論文。アマデウスの基礎設計。タイムマシン理論へ繋がる断片的な記録。
救うべき後輩が、そこにいた。
その横へ、岡部が二つのマグカップを置いた。
一つは縁が欠けている。
「それまで持ってきたの?」
「君が捨てないからだ」
「データより優先した覚えはないわ」
「俺が優先した」
岡部は欠けていない方を真帆へ寄せ、自分の外套を取りに戻った。
机の上には、紅莉栖の記録と、二人分のカップが残った。
そのどちらかを選ばなければならないと、誰かに言われたことはない。
ただ真帆が、自分でそう思い込んでいただけだ。
紅莉栖を救うための机と、倫太郎が帰るための部屋は、同じ場所にあっていい。
真帆は欠けていないカップを棚へ入れた。
もう一つを、その隣へ置く。
存在しないはずの生活は、その夜からも、二人分の音を立てて続いた。
移転から三か月後、十四歳の鈴羽は訓練用端末の前で指を止めていた。
画面の中央には、赤い文字が表示されている。
発進承認。
まだ存在しないC204を模したシミュレーターだった。姿勢制御、座標入力、緊急停止。ダルが組んだ訓練課程を、真帆が実用に耐える形へ修正した。
「制限時間はあと十秒」
「分かってる」
「分かっている人間は、そこで指を止めないわ」
鈴羽は承認欄を見たまま言った。
「真帆さんは、岡部倫太郎のこと、どう思ってるの?」
「その質問が発進手順のどこに含まれるのか、説明してもらえる?」
「含まれてない」
「なら、訓練を続けなさい」
残り六秒。
鈴羽は押さなかった。
「父さんと母さんを見てるから、分かるんだ」
「観察対象が二人では、統計として不十分ね」
「そうやって難しい言葉で逃げるときの真帆さん、母さんに似てる」
「由季に謝りなさい」
「どうして?」
時間切れを告げる音が鳴った。
画面上で仮想機体が制御を失い、失敗を示す表示へ切り替わる。
鈴羽は悔しがらなかった。
「岡部倫太郎が地上に出る日は、ずっと時計を見てる。帰ってきたら見ない」
真帆は答えなかった。
「食事を残すと怒るのに、無事に帰ってきた日は怒らない。あと、岡部倫太郎が寝てるときだけ、声が小さい」
「ずいぶん研究熱心ね」
「好きなの?」
「質問の定義が曖昧よ」
「否定しないんだ」
鈴羽が横を向いた。
まだ十四歳だった。
けれど、この時代で十四年生きた目をしていた。
「作戦が成功したら、この世界はなくなるんでしょう」
「正確には、異なる世界線へ再構築される」
「岡部倫太郎と真帆さんが、一緒にここへ帰ることも?」
問いは幼かった。
だからこそ、言葉を飾る余地がなかった。
「なくなるわ」
「怖くないの?」
「怖いわよ」
鈴羽の目が少しだけ大きくなった。
真帆は端末を再起動した。
「でも、消えることと、存在しなかったことは同じじゃない」
再び、発進承認の文字が現れる。
「私が観測した。彼も観測した。それで十分よ」
「それでも、押せる?」
「押すわ。それが、私たちの望んだ結果なら」
鈴羽はしばらく真帆を見ていた。
やがて画面へ向き直り、赤い承認欄へ指を置く。
今度は、時間切れになる前に押した。
仮想機体の数値が安定し、発進成功の表示へ切り替わる。
「そっか」
「何が?」
「真帆さんが、岡部倫太郎をどう思ってるか」
「論理が飛躍しているわ」
「でも、間違ってない」
鈴羽は笑った。
真帆は訂正しなかった。