完成へ近づくたびに、その研究は存在する理由を失っていった。
2032年の冬。
C204の主機関は、予定出力の八十一パーセントへ到達した。
真帆は計測値を三度確認し、端末へ承認の印を入れた。理論上、残る問題は時間座標の補正と、跳躍時に生じる機体外殻の歪みだけだ。
あと四年。
十分な時間ではない。
不可能な時間でもない。
「記録媒体の複製は」
背後から岡部が訊いた。
「三系統。ここ、橋田の拠点、それから西側の保管庫」
「暗号鍵は?」
「分割してあるわ。私と橋田の認証がなければ復元できない」
「君の個人記録は」
真帆は入力を止めた。
「必要ないでしょう」
「研究過程の欠落は、再検証を困難にする」
「成功すれば、再検証する人間はいないわ」
C204が2036年から鈴羽を送り出す。
鈴羽が2010年の岡部へ辿り着き、オペレーション・スクルドを成立させる。
紅莉栖が生き、第三次世界大戦の起こらない世界へ移る。
ならば、この地下研究施設も、C204の開発記録も、ここで過ごした二人の生活も、最初から存在しなかったことになる。
研究成果を未来へ残すことが目的ではない。
未来そのものを交換することが目的だった。
「日記くらいは残してもいい」
「あなたに読ませるため?」
「俺とは限らない」
「では誰に?」
岡部は答えなかった。
真帆は振り返った。
机の向こうに立つ岡部の髪には、以前より白いものが増えている。頬の傷は薄くなったが、消えてはいない。三十代半ばの男として当然の変化だった。
真帆だけが知っている変化でもある。
「観測者がいない記録に、科学的価値はないわ」
「すべての記録は、最初から観測者を選べない」
「詩人に転職したの?」
「死者は職業選択の自由まで奪われるのか」
「納税してから主張なさい」
岡部は小さく笑った。
真帆は端末へ向き直り、個人記録の項目を閉じた。
残さない。
残せないのではない。
これから消える時間に価値がないからでもない。
証拠がなくても、自分が観測した事実まで偽物にはならない。
その考えが科学的かどうかについては、判断を保留していた。
2034年、身体は計測機器より先に異常を検出した。
高出力試験の開始から、十一秒。
主機関の冷却圧は正常。電圧偏差も許容範囲。真帆が隔壁内の端末へ次の指示を入力しようとした瞬間、観測窓の向こうで岡部が立ち上がった。
彼が何を見たのか、真帆には分からなかった。
「真帆!」
警報が鳴るより早く、岡部が隔壁へ飛び込んだ。
腰へ腕が回る。
身体が床から浮いた。
「ちょっと、何を――」
言葉の途中で、背後の制御盤が破裂した。
白い閃光。
岡部は真帆を抱えたまま床へ倒れ込み、自分の背中で飛散物を受けた。
遅れて非常遮断装置が作動する。主機関の回転音が落ち、赤い警告灯が室内を染めた。
「倫太郎」
返事がない。
真帆は彼の胸元から身体を起こした。左の額から血が流れている。呼吸はある。瞳孔反応も正常。
「倫太郎、聞こえる?」
「……近い」
「は?」
「声が近すぎる。聞こえている」
真帆は息を吐いた。
「それだけ減らず口が叩けるなら、脳機能に問題はなさそうね」
「君の診断基準は独特だな」
床へ手をつき、岡部が起きようとする。
「動かないで」
「主機関を確認する」
「橋田が遠隔で停止させたわ。今はあなたの方が故障してる」
「人間に故障という表現を使うな」
「被験者は黙って」
真帆は岡部の肩を押し戻した。
白衣の背中が裂け、血が滲んでいる。致命傷ではない。だが、破片の一つがもう数センチずれていれば、そんな計算をする必要もなかった。
「どうして異常が分かったの?」
「音だ」
「警報より前よ」
「冷却管の振動が変わった」
「私には聞こえなかった」
「知っている」
岡部の手が、真帆の後頭部へ触れた。
髪をかき分け、傷がないことを確かめる。検査のための接触だった。
必要な時間を過ぎても、その手はそこにあった。
「……君に何かあったと思った」
「だから、確認もせず隔壁へ入ったの?」
「確認していたら間に合わなかった」
「結果論ね」
「ああ」
「次からはやめて」
「約束できない」
予想どおりの答えだった。
真帆は彼の手を後頭部から外し、そのまま自分の指を重ねた。
「なら、次は私も同じことをするわ」
「それは困る」
「お互いさまよ」
警告灯の赤い明滅の中で、二人はしばらく床へ座っていた。
名前を呼んだのは、身体が動いた後だった。
2035年の秋、地下の食卓に六人分の椅子が並んだ。
「いやー、こうして見ると壮観ですな」
ダルが折り畳み椅子へ深く腰を沈めた。
「何が?」
「地下施設の配給食が、由季氏の手にかかると人類の食事に見える件」
「もう、至さん。褒めるなら普通に褒めてください」
由季は笑いながら鍋の蓋を開けた。
湯気と香辛料の匂いが、機械油の染みついた食堂へ広がる。地上では食料の配給がまた削減されたばかりだ。材料の半分は、フェイリスの補給網から届いたものだった。
六人。
ダル、由季、鈴羽。
岡部、真帆。
そして、未来へ送られる予定の空席。
椅子は六脚だったが、食器は五人分しかない。最後の一脚にはC204の部品箱が置かれていた。
「父さん、邪魔」
鈴羽が箱を持ち上げ、壁際へ移した。
「それ超精密部品なんですけど」
「食卓に置くものじゃないでしょ」
「うちの娘が正論で殴ってくる件」
「至さんが悪いですよ」
由季の一言で、ダルは黙った。
鈴羽は十八歳になっていた。
短く切った髪。鍛えられた腕。座るときにも出入口を確認する癖。
真帆がかつて知っていた成人鈴羽と、よく似ている。
同じではない。
紀元前から2036年へ向かった鈴羽は、帰還した岡部とまゆりの記憶を持つ。目の前の鈴羽は、一年後に過去へ旅立ち、やがてその彼女になる。
二人が顔を合わせることはない。
この計画が成功する限り。
「真帆、薬」
岡部の声に、真帆は考えるのをやめた。
彼の右手が差し出されている。
「先に何か食べてから」
「もう食べた」
「その一切れを食事とは定義しないわ」
真帆は岡部の皿へ料理を取り分け、その横へ錠剤を置いた。岡部は文句を言わず、代わりに真帆の前から香辛料の強い皿を遠ざける。
「何をするの」
「君はこれを食べると眠れなくなる」
「いつの話よ」
「先月だ」
「あれは演算条件が――」
「四時まで起きていた」
「あなたにだけは言われたくないわ」
向かい側で、鈴羽が二人の手元を見ていた。
「何?」
真帆が訊くと、鈴羽は首を横に振った。
「別に。どっちの物か、よく間違えないなって」
机には薬瓶、カップ、食器が無造作に並んでいる。
「間違える要素がないでしょう」
「そっか」
鈴羽はそれ以上訊かなかった。
由季も何も言わず、空いた岡部の皿へ料理を足した。
名前のある家族は、関係を説明する必要がない。
父。
母。
娘。
名前がなくても、説明を必要としない関係はある。
真帆は自分のカップを取った。
飲む直前に、岡部のものだと気づく。
間違える要素は、あったらしい。
戻そうとすると、岡部が真帆のカップを取り、一口飲んだ。
「これで問題ない」
「問題しかないんだけど」
「洗浄の手間が一つ減った」
「合理性を言い訳に使わないで」
ダルが吹き出し、由季に肘で小突かれた。
鈴羽だけが真面目な顔をしていた。
「真帆さん」
「何かしら」
「来年、あたしを送り出すときの管制をお願いしたい」
食卓から音が消えた。
ダルは俯き、由季は鍋を持つ手を止めた。
岡部だけが、鈴羽を見ている。
「管制責任者は橋田でしょう」
「父さんは機体を作る人だ」
鈴羽はダルを見た。
「岡部倫太郎は、作戦を作った人」
次に岡部を見る。
「でも最後に、あたしを行かせるって言えるのは、真帆さんだと思う」
「根拠になってないわ」
「四年前、真帆さんは言った。怖くても、それが望んだ結果なら承認を押すって」
真帆は、訓練用端末の前にいた十四歳の鈴羽を思い出した。
「覚えていたの」
「忘れないよ」
「あたしが怖くなっても、真帆さんなら発進させてくれる」
「私に、あなたを死なせろと言ってるの?」
「違う」
鈴羽は真っ直ぐに真帆を見た。
「あたしが生まれた世界を、変えてほしいって頼んでる」
「真帆さんなら、それがどういうことか分かってるから」
由季の指が、鍋の取っ手を強く握った。
ダルの眼鏡は、白く曇って表情を隠している。
娘を過去へ送れば、彼女が生まれた歴史そのものが再構築される。
それでも二人は止めなかった。
この家族は十八年間、その日のために娘を育ててきた。
真帆は鈴羽から目を逸らさなかった。
「恐怖で応答できなくなった場合、こちらの判断で発進を中止する」
「うん」
「機体異常が規定値を超えた場合も同様」
「うん」
「それ以外なら、あなたが泣いていても発進させるわ」
鈴羽は笑った。
「それでいい」
「では、引き受ける」
由季が鍋を置き、鈴羽の肩へ手を添えた。
ダルは眼鏡を外し、曇りを拭った。
「料理、冷めるお」
誰も冷めた料理を気にしてはいなかった。
それでも全員が食事を再開した。
生活とは、そういうものだった。
帰り際、由季が紙袋を真帆へ渡した。
「余っていたので」
中には、新しいマグカップが二つ入っていた。
装飾のない、白い陶器。形も大きさも同じだった。
「物資が余るような時代だったかしら」
「こういうときは、黙って受け取るものですよ」
由季は穏やかに笑った。
「二つとも、丈夫なものを選びました」
真帆は礼を言い、紙袋を受け取った。
関係について、由季は何も訊かなかった。
鈴羽へ向けた言葉と同じように、それを名前で縛る必要はなかった。
その夜、真帆は古いカップを棚の奥へ移した。
欠けたカップを捨てることはできなかった。新しい二つを手前へ並べる。
「由季からか」
岡部が寝室の入口に立っていた。
「ええ」
「気を遣わせたな」
「あなたが死者のくせに生活感を出しすぎるからよ」
「君も共犯だろう」
「今さら単独犯にする気?」
「まさか」
岡部は真帆の隣へ立った。
棚の二つのカップを見ている。
「SG世界線の俺は、君を知らないかもしれない」
不意に言った。
「私のことを?」
「今の君をだ」
岡部の声は静かだった。
「リーディング・シュタイナーが発動する保証はない。発動したとしても、どの時点の記憶が、どこまで持ち越されるかは分からない」
「そうね」
「この時間を持たない俺が、君の前で別の顔をしているかもしれない」
「それが本来のSG世界線のあなたでしょう」
「君は、それでいいのか」
真帆はすぐに答えなかった。
よくはない。
この十年を忘れられることも、別の自分がこの男を知らずに生きていることも。
世界を救うという言葉で、自分たちの生活だけを美しく切り捨てられるほど、真帆は善良ではなかった。
「よくはないわ」
岡部が真帆を見る。
「あなたが忘れたら腹が立つ。私が忘れても、たぶん腹が立つでしょうね」
「理不尽だな」
「感情に再現性を求めないで」
「科学者の言葉とは思えん」
「でも」
真帆は、岡部の手へ自分の手を重ねた。
「記憶されるために研究してきたんじゃない」
岡部の指が動く。
真帆の指の間へ、ゆっくりと重なった。
「紅莉栖を救うためよ」
「分かっている」
「戦争を止めるため」
「ああ」
「あなたを、その先まで生かすため」
岡部は答えなかった。
代わりに、重ねた指へ力を込めた。
「だから私が選ぶ。忘れることも、忘れられることも」
「……最後まで共犯者か」
「最初からそのつもりでしょう」
二人は明かりを消した。
暗闇の中でも、どちらの手かを間違えることはなかった。
2036年、最後の朝。
真帆は二人分のコーヒーを淹れた。
由季から受け取った、同じ形の白いカップ。
一つには砂糖を入れない。
もう一つには、少し多く入れる。
岡部は寝室から出てくると、砂糖のない方を取った。白衣の襟が片側だけ折れている。
「待って」
真帆はカップを置き、岡部の前へ立った。
襟へ手を伸ばす。
三十七センチの差を埋めるため、岡部は言われる前に少し身を屈めた。
「今日くらい、自分で直せないの?」
「君の仕事を奪わないための配慮だ」
「そんな仕事に就いた覚えはないわ」
折れた襟を戻し、皺を指で伸ばす。
手を離す理由が見つからず、白衣の胸元へ置いたままにした。
岡部も急かさなかった。
「真帆」
「何?」
「コーヒーが冷める」
「誰のせいよ」
「科学者は観測事実を感情で歪めるべきではない」
「あなた、最後の日まで腹が立つわね」
「最後ではない」
真帆は岡部を見上げた。
「その先まで、だろう」
十年前、自分が彼へ突きつけた言葉だった。
「合格点ね」
真帆は白衣から手を離した。
二人でコーヒーを飲んだ。
いつもと同じ温度だった。
C204は、地下格納庫の中央にあった。
鈍い銀色の機体表面へ、作業灯の白い光が流れている。
十年を費やした機械。
この世界に存在したすべての時間を、存在しなかったことにするための装置。
『姿勢制御、正常』
ダルの声が管制室へ響いた。
『時空間座標、固定。補助電源、出力安定。こっちはいつでもいける』
「了解」
真帆は管制卓の数値を確認した。
隣には岡部がいる。白衣の襟は、もう乱れていない。
格納庫では、由季が鈴羽の首元へ手を伸ばしていた。防護服の留め具を確認し、それから娘の頬へ触れる。
音声回線は閉じられている。
二人が何を話したのか、真帆には聞こえなかった。
聞く必要もなかった。
ダルが格納庫へ降りる。
鈴羽と拳を合わせ、何かを言った。鈴羽が笑い、ダルの胸へ額を押しつける。
父と母と娘。
最後まで、名前のある家族だった。
鈴羽は二人から離れると、管制室を見上げた。
『真帆さん』
回線が開く。
「聞こえているわ」
『ちょっとだけ怖い』
「そう」
『中止する?』
「規定値はすべて正常。あなたの応答にも異常はない」
『泣いてても?』
鈴羽の目元には、確かに涙があった。
「契約どおりよ」
『了解。……真帆さんは、あたしが小さい頃から変わらないね』
「身長の話なら、回線を切るわよ」
『違うって』
鈴羽は涙を残したまま笑った。
『ずっと見ててくれた』
「観測は研究者の仕事よ」
『うん。だから、最後まで見てて』
「そのためにここにいるわ」
鈴羽は涙を拭い、機体へ乗り込んだ。
ハッチが閉じる。
由季はその場に立ったまま、両手を胸の前で組んでいる。ダルは管制卓へ戻り、無言で最終確認を始めた。
『主機関、起動』
低い振動が地下を満たす。
ダイバージェンスメーターの赤い数字は、β世界線の値を示したままだった。
岡部がそれを見ている。
「倫太郎」
「ああ」
「準備は?」
「できている」
「嘘ね」
「君もだろう」
「ええ」
準備ができる日は来ない。
だから、発進させる。
『時間座標、2010年7月28日』
ダルの声が震えた。
『最終ロック』
管制卓に、発進承認の表示が灯る。
真帆は指を置いた。
この操作によって、紅莉栖が生きる。
まゆりが年齢を重ねる。
鈴羽が戦争を知らずに育つ。
岡部倫太郎が、死者にならずに生きる。
そして、ここにいる自分たちは消える。
「C204」
声は震えなかった。
「目標時間座標、2010年7月28日。跳躍後、オペレーション・スクルドを予定どおり遂行」
『了解』
鈴羽の声が返る。
「阿万音鈴羽」
一度だけ、名前で呼んだ。
『何?』
「行ってらっしゃい」
短い沈黙。
『――行ってきます、真帆さん』
真帆は発進承認を押した。
「発進して」
光が、C204の輪郭を覆った。
空間が歪む。
機体は光の奥へ沈み、次の瞬間には消えていた。
格納庫の中央に、何もない。
ダイバージェンスメーターの数字が揺れた。
赤い光が一桁ずつ、観測できない速度で書き換わっていく。
「真帆」
岡部の声がした。
振り向く。
彼の顔から血の気が引いている。
リーディング・シュタイナー。
仮説は正しかった。
喜ぶべきだった。
紅莉栖が生きる未来へ、倫太郎が辿り着く。自分で選び、自分で発進させた。それが十年間の研究の、唯一必要な結果だった。
それでも。
この世界を、あと一秒だけ終わらせないで。
計算にも命令にもできない願いを、真帆は初めて切り捨てられなかった。
「倫太郎」
発進命令では一度も震えなかった声が、彼の名前を呼ぶだけで揺れた。
岡部が真帆へ手を伸ばす。
真帆は管制卓を離れ、その手へ腕を伸ばした。
指先が触れたのか。
触れる前に世界が途切れたのか。
最後の観測結果は、白い光の中へ消えた。