白い光が消えたとき、世界から戦争の音がなくなっていた。
砲撃も、警報も、主機関の振動もない。
代わりに聞こえたのは、床へ陶器が落ちて砕ける音だった。
岡部は目を開いた。
白い壁。
午後の光が差し込む、大きな窓。
窓の外には、傷一つない東京の街並みが広がっている。
目の前に真帆がいた。
白衣を着ている。髪には白いものが混じり、目元には年齢相応の線が刻まれていた。頬に戦場の煤はなく、左手には薄い磁器のカップが一つ残っている。
もう一つは、床で割れていた。
「……倫太郎」
そう呼ばれた気がした。
真帆の唇が動いたのか、白い光の中に残った記憶だったのか、岡部には分からない。
彼女は一度息を止めた。
「岡部さん?」
違う呼び方だった。
岡部は答えようとした。
頭の奥で、何かが弾けた。
世界が頭蓋の内側から組み替えられていく。紀元前の砂漠。2026年の地下。二つのカップ。柳林神社の遺影。暗闇で繋いだ手。白衣の襟。C204を覆った光。
すべて覚えている。
そのどこにも、この部屋は存在しない。
「岡部さん」
真帆が手を伸ばす。
その指は岡部の白衣へ触れる寸前で止まり、進路を変えて肩を支えた。
「座って。聞こえる?」
「……真帆」
彼女の指が強張った。
ほんの一瞬。
「私が誰かは分かるようね」
声は平静だった。
真帆は岡部を窓際の椅子へ座らせ、卓上端末を操作した。
「日時を言える?」
「2036年」
壁面表示から読み取った。
「月日は?」
答えられない。
岡部にとって2036年は、鈴羽が旅立った日で終わっている。
真帆は追及せず、瞳孔へ小型のライトを向けた。
「頭痛は?」
「ある」
「吐き気」
「少し」
「左手は動く?」
岡部は指を開いた。
そこに、傷がなかった。
β世界線で掌へ残った裂傷も、長年の整備で刻まれた細かな傷もない。
代わりに、薬指へ銀色の輪が嵌まっていた。
見覚えのない指輪だった。
「ここは、どこだ」
真帆の目が岡部の左手へ落ちる。
「未来ガジェット研究所。東京共同研究棟」
冗談を訂正する気配はなかった。
「二十六年前、あなたたちが始めた研究室よ」
「俺たちが」
「岡部さん?」
岡部は室内を見回した。
壁の銘板には、確かにそう刻まれている。
未来ガジェット研究所。
その下に並ぶ名前。
岡部倫太郎。
牧瀬紅莉栖。
橋田至。
比屋定真帆。
戦争の地下で離散していた名前が、同じ場所に並んでいた。
窓際の棚に、古い機械が置かれている。
ダイバージェンスメーター。
赤い数字は、見たことのない値を示していた。
1.048596。
岡部は立ち上がった。
「成功した」
喉から掠れた声が出た。
「何が?」
真帆が訊いた。
その顔から、答えは読み取れない。
「いや」
岡部は指輪のある左手を握った。
「少し、眩暈がしただけだ」
「そう」
真帆は床に散ったカップの破片を見下ろした。
「それなら、どうして私はカップを落としたのかしらね」
岡部が顔を上げる。
「君も、何か――」
廊下から足音が近づいた。
真帆は岡部の肩から手を離した。
扉が開く。
「オカリン!」
その声だけは、何年経っても間違えようがなかった。
椎名まゆりは、四十二歳の顔で笑っていた。
「トゥットゥルー。……って、今はそれどころじゃないね。大丈夫?」
目尻に薄い皺がある。
髪は短くなり、落ち着いた色の服を着ていた。歩き方も、声の高さも、岡部が最後に見たまゆりとは違う。
それでも彼女は、間違いなくまゆりだった。
紀元前の砂に倒れていない。
十五年を飛び越えて、若い姿のまま2026年へ帰ってきてもいない。
2010年から今日まで、一日ずつ年齢を重ねてきた。
「まゆり」
「うん」
岡部は立ったまま、彼女の顔へ手を伸ばした。
頬へ触れる。
体温がある。
「オカリン?」
「……年を取ったな」
「ええっ」
まゆりが頬を膨らませた。
「病人の第一声として、それはどうかと思うのです」
後ろから、低い笑い声がした。
「激しく同意。オカリン、自分の顔を鏡で見てから言えし」
ダルだった。
腹回りは昔より少しだけ細くなり、髪には白いものが増えている。だが眼鏡を押し上げる指と、語尾だけは変わらない。
「ダル」
「何その、死んだ親友と再会したみたいな顔」
岡部は答えなかった。
この世界では、死んだのは彼らではない。
彼らとともに過ごした、岡部の二十六年間だ。
「検査の邪魔よ」
真帆が言った。
「橋田、まゆりを連れて一度外へ出て」
「僕、ここの技術責任者なんすけど」
「今は患者の安全が優先」
「へいへい。真帆たんが怖いので退散しますよー」
ダルはまゆりの肩を軽く押した。
「待って」
岡部の声に、まゆりが振り返る。
呼び止めて、何を言うつもりだったのか。
砂漠から連れて帰れた。
今度こそ年齢を重ねられた。
どちらも、目の前のまゆりには起きていない。
「……何でもない」
岡部は手を下ろした。
「また後でな」
「うん。また後で、オカリン」
その言葉を当然のように残して、まゆりが扉へ向かう。
開くより先に、扉が外から開いた。
「至さん、まだかかりそうですか?」
由季が顔を覗かせた。
その後ろに、鈴羽がいた。
十八歳。
短く切った髪は同じだった。だが、明るい色のカーディガンを羽織り、小さな鞄を肩に掛けた姿のどこにも、戦場へ向かう緊張はない。
出入口の位置を確かめることもなく、父親へ呆れた顔を向けている。
「父さん、まだ駅まで送るって言ってるんだけど」
「ライブが終わるのは夜だろ常考。警戒するに越したことはないわけで」
「九時。子供じゃないんだから一人で帰れる」
「至さん、鈴羽はもう十八歳ですよ」
「十八歳でも娘は娘なので」
「病人の前で何の話をしてるの」
真帆に叱られ、ダルが口を閉じた。
鈴羽が岡部を見る。
「岡部さん、大丈夫?」
数分前まで、発進席にいた顔だった。
同じ十八歳の鈴羽が、いまは友人との約束へ遅れることを気にしている。
腰に武器はない。腕に傷もない。扉へ背を向けたまま、両親と笑っている。
この世界のダルと由季は、娘を過去へ送り出すためではなく、夜道を心配しながら育てたのだ。
「ああ。問題ない」
岡部は喉の奥に引っかかったものを押し込んだ。
「楽しんでこい」
「もちろん」
「帰りは連絡してね。行ってらっしゃい」
由季が言った。
「行ってらっしゃい、鈴羽」
真帆も、同じ言葉を重ねた。
岡部は真帆を見た。
彼女はいつもの穏やかな顔で鈴羽を見送っている。
「行ってきます」
鈴羽は笑って手を振り、廊下を駆けていった。
タイムマシンではなく、友人の待つ場所へ。
由季がダルの腕を取り、まゆりも二人とともに部屋を出た。
また後で。
約束する必要すらない日常の言葉だった。
扉が閉まる。
岡部は目を閉じた。
成功したのだ。
自分たちは、本当に。
数分後、まゆりとダルが戻ってきた。
牧瀬紅莉栖は、扉を開けるなり岡部を怒鳴った。
「ちょっと岡部! 意識を失ったってどういうことよ!」
その声を聞いた瞬間、呼吸が止まった。
白衣。
赤みを帯びた長い髪。
四十代になった顔には、若い頃になかった鋭さと穏やかさが同居している。
生きている。
牧瀬紅莉栖が、生きている。
「紅莉栖」
名前が零れた。
紅莉栖は足を止めた。
「何よ、その顔」
岡部は何も言えなかった。
紅莉栖が近づく。
「頭を打ったの? 私が分かる?」
「クリスティーナ」
「分かってないわね」
反射的な返答だった。
紅莉栖の目が潤む。
怒っている。怯えている。それを隠すために、いつもより速く言葉を重ねている。
「急に倒れたって聞いて、会議を放り出してきたのよ。何ともないなら先にそう連絡しなさい。だいたい、あなたは昔から自分の身体を――」
岡部は立ち上がり、紅莉栖を抱きしめた。
言葉が止まった。
腕の中に体温がある。
何度失い、何度求めたか分からない存在が、年齢を重ねてここにいる。
「ちょっと、倫太郎?」
「生きている」
「そりゃ生きてるわよ」
「そうか」
「本当にどうしたの」
紅莉栖の手が、岡部の頬へ触れた。
左手の薬指に、同じ銀色の輪があった。
岡部はそれを見た。
紅莉栖も、岡部の視線に気づいた。
「……指輪まで忘れたとか言ったら、今度こそ本気で脳を調べるから」
「それは困る」
「だったら、その手を離しなさい。みんな見てる」
「構わん」
「私は構う!」
そう言いながら、紅莉栖は岡部を押し返さなかった。
視界の端で、まゆりが嬉しそうに笑っている。
ダルは露骨に顔を背けていた。
真帆だけが、割れたカップの破片を拾っていた。
岡部が見ると、彼女は顔を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
真帆は微笑んだ。
岡部の知らない、穏やかな笑い方だった。
それでいい。
この光景のために、彼女は発進を命じた。
この真帆は、それを知らない。
岡部はそう自分へ言い聞かせ、紅莉栖を抱く腕に力を込めた。
簡易検査が終わる頃には、日が暮れていた。
戦争のない東京には、夜になっても灯りがある。
窓の向こうで無数の看板と車列が光り、空襲警報に遮られることなく人々が歩いている。
岡部は研究室に一人で残った。
正確には、一人ではなかった。
真帆が、机の向こうで検査結果を読んでいる。
「脳波、血圧、血液検査。どれも大きな異常はないわ」
「そうか」
「ただし、記憶の混乱がないとは言ってない」
真帆は端末を閉じた。
「2036年だと答えるまでに、壁面表示を見たでしょう」
「観察力は衰えていないようだな、比屋定さん」
口にして、奇妙な感覚があった。
比屋定さん。
かつて使っていたはずの呼び方なのに、他人の言葉を借りたように響く。
真帆も、わずかに目を伏せた。
「あなたに比屋定さんと呼ばれるのは、久しぶりね」
「この世界線の俺は、何と?」
「……この世界線?」
真帆の目が、わずかに細くなった。
「それはつまり、あなたが別の世界線から記憶を持ち越したと言いたいのかしら」
岡部は答えなかった。
「リーディング・シュタイナー――とかいう、あなたの特殊能力によって」
「君は、それを知っているのか」
「あなたと紅莉栖から聞いているわ。信じていたかどうかは別として」
「今は?」
「目の前の観測結果を無視するほど、非科学的ではないつもりよ」
真帆は岡部の目を見た。
「どの世界線の記憶を保持しているの?」
「紅莉栖が死に、第三次世界大戦が起きたβ世界線だ」
端末の縁に置かれた真帆の指が止まった。
「……そう」
それ以上、表情は変わらなかった。
「それで、質問の答えだけど」
真帆は一度だけ視線を伏せた。
「真帆よ。この世界線のあなたは、私をそう呼んでいたわ」
「公私ともに、長い付き合いだから」
その言葉が何を意味するのか、岡部には分からない。
この世界にも、岡部と真帆が重ねた長い年月がある。
戦争も、地下生活も、同じ寝室もない。
代わりにどんな議論をし、どんな朝を迎え、どんな距離を築いたのか。
岡部本人だけが知らない。
「飲む?」
真帆が、残った一つのカップを差し出した。
コーヒーには砂糖が入っていない。
「なぜ、俺の好みを」
「何年同じ研究所にいると思ってるの」
真帆は自分の分を用意しようとして、何も持っていない右手を見た。
「今日は一つしか残ってないわね」
「新しいものは」
「給湯室にいくらでもあるわ」
「ならば取ってくればいい」
「そうね」
真帆は動かなかった。
岡部はカップへ口をつけた。
味は、β世界線で最後に飲んだものと同じだった。
豆も、水も、器具も違う。
同じはずがない。
それでも同じだと、身体が先に判断した。
「真帆」
名前で呼んだ。
「何?」
真帆は、当然のように応じた。
岡部の胸が強く鳴った。
彼女自身も気づいたのか、遅れて表情を整える。
「何かしら、岡部さん」
「君は」
覚えているのか。
問いは喉まで出かかった。
もし何も覚えていなければ、この真帆へ失われた二十五年を背負わせることになる。
もし断片だけを覚えているなら、言葉にすることで、彼女がこの世界で生きた記憶を傷つけるかもしれない。
問いかけるのは、答えを求める自分のためだ。
岡部はそれを知っていた。
「……いや。何でもない」
「そう」
真帆は追及しなかった。
沈黙の中で、窓の外の灯りが瞬いている。
やがて真帆が立ち上がった。
「今日は帰りなさい」
「どこへ」
訊いてから、左手の指輪に触れた。
「紅莉栖が待っているわ」
「ああ」
岡部も立ち上がる。
白衣の襟が、椅子の背に当たって折れた。
真帆の手が動いた。
まっすぐ岡部の胸元へ伸びる。
指先が襟へ届く直前で止まった。
「……曲がってるわよ」
真帆は手を下ろした。
「自分で直して」
岡部は襟へ触れた。
2036年の朝、同じ場所を直した指の感触が蘇る。
「真帆」
「何?」
岡部はもう一度、問いかけようとした。
覚えているのか。
最後に、俺の手へ触れたのか。
何一つ訊けなかった。
「また明日」
代わりに、そう言った。
真帆は少しだけ目を見開いた。
「ええ」
やがて、いつものことのように頷く。
「また明日、岡部さん」
岡部は研究室を出た。
扉が閉じる直前、振り返る。
真帆は机の上に残された一つのカップを、両手で包んでいた。
何も知らない人間の顔をしていた。
岡部は、その沈黙を信じることにした。