記憶座標のサリエリ   作:siorin024

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第四章 約束された世界

 白い光が消えたとき、世界から戦争の音がなくなっていた。

 砲撃も、警報も、主機関の振動もない。

 代わりに聞こえたのは、床へ陶器が落ちて砕ける音だった。

 岡部は目を開いた。

 白い壁。

 午後の光が差し込む、大きな窓。

 窓の外には、傷一つない東京の街並みが広がっている。

 目の前に真帆がいた。

 白衣を着ている。髪には白いものが混じり、目元には年齢相応の線が刻まれていた。頬に戦場の煤はなく、左手には薄い磁器のカップが一つ残っている。

 もう一つは、床で割れていた。

「……倫太郎」

 そう呼ばれた気がした。

 真帆の唇が動いたのか、白い光の中に残った記憶だったのか、岡部には分からない。

 彼女は一度息を止めた。

「岡部さん?」

 違う呼び方だった。

 岡部は答えようとした。

 頭の奥で、何かが弾けた。

 世界が頭蓋の内側から組み替えられていく。紀元前の砂漠。2026年の地下。二つのカップ。柳林神社の遺影。暗闇で繋いだ手。白衣の襟。C204を覆った光。

 すべて覚えている。

 そのどこにも、この部屋は存在しない。

「岡部さん」

 真帆が手を伸ばす。

 その指は岡部の白衣へ触れる寸前で止まり、進路を変えて肩を支えた。

「座って。聞こえる?」

「……真帆」

 彼女の指が強張った。

 ほんの一瞬。

「私が誰かは分かるようね」

 声は平静だった。

 真帆は岡部を窓際の椅子へ座らせ、卓上端末を操作した。

「日時を言える?」

「2036年」

 壁面表示から読み取った。

「月日は?」

 答えられない。

 岡部にとって2036年は、鈴羽が旅立った日で終わっている。

 真帆は追及せず、瞳孔へ小型のライトを向けた。

「頭痛は?」

「ある」

「吐き気」

「少し」

「左手は動く?」

 岡部は指を開いた。

 そこに、傷がなかった。

 β世界線で掌へ残った裂傷も、長年の整備で刻まれた細かな傷もない。

 代わりに、薬指へ銀色の輪が嵌まっていた。

 見覚えのない指輪だった。

「ここは、どこだ」

 真帆の目が岡部の左手へ落ちる。

「未来ガジェット研究所。東京共同研究棟」

 冗談を訂正する気配はなかった。

「二十六年前、あなたたちが始めた研究室よ」

「俺たちが」

「岡部さん?」

 岡部は室内を見回した。

 壁の銘板には、確かにそう刻まれている。

 未来ガジェット研究所。

 その下に並ぶ名前。

 岡部倫太郎。

 牧瀬紅莉栖。

 橋田至。

 比屋定真帆。

 戦争の地下で離散していた名前が、同じ場所に並んでいた。

 窓際の棚に、古い機械が置かれている。

 ダイバージェンスメーター。

 赤い数字は、見たことのない値を示していた。

 1.048596。

 岡部は立ち上がった。

「成功した」

 喉から掠れた声が出た。

「何が?」

 真帆が訊いた。

 その顔から、答えは読み取れない。

「いや」

 岡部は指輪のある左手を握った。

「少し、眩暈がしただけだ」

「そう」

 真帆は床に散ったカップの破片を見下ろした。

「それなら、どうして私はカップを落としたのかしらね」

 岡部が顔を上げる。

「君も、何か――」

 廊下から足音が近づいた。

 真帆は岡部の肩から手を離した。

 扉が開く。

「オカリン!」

 その声だけは、何年経っても間違えようがなかった。

 

*

 

 椎名まゆりは、四十二歳の顔で笑っていた。

「トゥットゥルー。……って、今はそれどころじゃないね。大丈夫?」

 目尻に薄い皺がある。

 髪は短くなり、落ち着いた色の服を着ていた。歩き方も、声の高さも、岡部が最後に見たまゆりとは違う。

 それでも彼女は、間違いなくまゆりだった。

 紀元前の砂に倒れていない。

 十五年を飛び越えて、若い姿のまま2026年へ帰ってきてもいない。

 2010年から今日まで、一日ずつ年齢を重ねてきた。

「まゆり」

「うん」

 岡部は立ったまま、彼女の顔へ手を伸ばした。

 頬へ触れる。

 体温がある。

「オカリン?」

「……年を取ったな」

「ええっ」

 まゆりが頬を膨らませた。

「病人の第一声として、それはどうかと思うのです」

 後ろから、低い笑い声がした。

「激しく同意。オカリン、自分の顔を鏡で見てから言えし」

 ダルだった。

 腹回りは昔より少しだけ細くなり、髪には白いものが増えている。だが眼鏡を押し上げる指と、語尾だけは変わらない。

「ダル」

「何その、死んだ親友と再会したみたいな顔」

 岡部は答えなかった。

 この世界では、死んだのは彼らではない。

 彼らとともに過ごした、岡部の二十六年間だ。

「検査の邪魔よ」

 真帆が言った。

「橋田、まゆりを連れて一度外へ出て」

「僕、ここの技術責任者なんすけど」

「今は患者の安全が優先」

「へいへい。真帆たんが怖いので退散しますよー」

 ダルはまゆりの肩を軽く押した。

「待って」

 岡部の声に、まゆりが振り返る。

 呼び止めて、何を言うつもりだったのか。

 砂漠から連れて帰れた。

 今度こそ年齢を重ねられた。

 どちらも、目の前のまゆりには起きていない。

「……何でもない」

 岡部は手を下ろした。

「また後でな」

「うん。また後で、オカリン」

 その言葉を当然のように残して、まゆりが扉へ向かう。

 開くより先に、扉が外から開いた。

「至さん、まだかかりそうですか?」

 由季が顔を覗かせた。

 その後ろに、鈴羽がいた。

 十八歳。

 短く切った髪は同じだった。だが、明るい色のカーディガンを羽織り、小さな鞄を肩に掛けた姿のどこにも、戦場へ向かう緊張はない。

 出入口の位置を確かめることもなく、父親へ呆れた顔を向けている。

「父さん、まだ駅まで送るって言ってるんだけど」

「ライブが終わるのは夜だろ常考。警戒するに越したことはないわけで」

「九時。子供じゃないんだから一人で帰れる」

「至さん、鈴羽はもう十八歳ですよ」

「十八歳でも娘は娘なので」

「病人の前で何の話をしてるの」

 真帆に叱られ、ダルが口を閉じた。

 鈴羽が岡部を見る。

「岡部さん、大丈夫?」

 数分前まで、発進席にいた顔だった。

 同じ十八歳の鈴羽が、いまは友人との約束へ遅れることを気にしている。

 腰に武器はない。腕に傷もない。扉へ背を向けたまま、両親と笑っている。

 この世界のダルと由季は、娘を過去へ送り出すためではなく、夜道を心配しながら育てたのだ。

「ああ。問題ない」

 岡部は喉の奥に引っかかったものを押し込んだ。

「楽しんでこい」

「もちろん」

「帰りは連絡してね。行ってらっしゃい」

 由季が言った。

「行ってらっしゃい、鈴羽」

 真帆も、同じ言葉を重ねた。

 岡部は真帆を見た。

 彼女はいつもの穏やかな顔で鈴羽を見送っている。

「行ってきます」

 鈴羽は笑って手を振り、廊下を駆けていった。

 タイムマシンではなく、友人の待つ場所へ。

 由季がダルの腕を取り、まゆりも二人とともに部屋を出た。

 また後で。

 約束する必要すらない日常の言葉だった。

 扉が閉まる。

 岡部は目を閉じた。

 成功したのだ。

 自分たちは、本当に。

 

*

 

 数分後、まゆりとダルが戻ってきた。

 牧瀬紅莉栖は、扉を開けるなり岡部を怒鳴った。

「ちょっと岡部! 意識を失ったってどういうことよ!」

 その声を聞いた瞬間、呼吸が止まった。

 白衣。

 赤みを帯びた長い髪。

 四十代になった顔には、若い頃になかった鋭さと穏やかさが同居している。

 生きている。

 牧瀬紅莉栖が、生きている。

「紅莉栖」

 名前が零れた。

 紅莉栖は足を止めた。

「何よ、その顔」

 岡部は何も言えなかった。

 紅莉栖が近づく。

「頭を打ったの? 私が分かる?」

「クリスティーナ」

「分かってないわね」

 反射的な返答だった。

 紅莉栖の目が潤む。

 怒っている。怯えている。それを隠すために、いつもより速く言葉を重ねている。

「急に倒れたって聞いて、会議を放り出してきたのよ。何ともないなら先にそう連絡しなさい。だいたい、あなたは昔から自分の身体を――」

 岡部は立ち上がり、紅莉栖を抱きしめた。

 言葉が止まった。

 腕の中に体温がある。

 何度失い、何度求めたか分からない存在が、年齢を重ねてここにいる。

「ちょっと、倫太郎?」

「生きている」

「そりゃ生きてるわよ」

「そうか」

「本当にどうしたの」

 紅莉栖の手が、岡部の頬へ触れた。

 左手の薬指に、同じ銀色の輪があった。

 岡部はそれを見た。

 紅莉栖も、岡部の視線に気づいた。

「……指輪まで忘れたとか言ったら、今度こそ本気で脳を調べるから」

「それは困る」

「だったら、その手を離しなさい。みんな見てる」

「構わん」

「私は構う!」

 そう言いながら、紅莉栖は岡部を押し返さなかった。

 視界の端で、まゆりが嬉しそうに笑っている。

 ダルは露骨に顔を背けていた。

 真帆だけが、割れたカップの破片を拾っていた。

 岡部が見ると、彼女は顔を上げた。

 一瞬だけ、目が合う。

 真帆は微笑んだ。

 岡部の知らない、穏やかな笑い方だった。

 それでいい。

 この光景のために、彼女は発進を命じた。

 この真帆は、それを知らない。

 岡部はそう自分へ言い聞かせ、紅莉栖を抱く腕に力を込めた。

 

*

 

 簡易検査が終わる頃には、日が暮れていた。

 戦争のない東京には、夜になっても灯りがある。

 窓の向こうで無数の看板と車列が光り、空襲警報に遮られることなく人々が歩いている。

 岡部は研究室に一人で残った。

 正確には、一人ではなかった。

 真帆が、机の向こうで検査結果を読んでいる。

「脳波、血圧、血液検査。どれも大きな異常はないわ」

「そうか」

「ただし、記憶の混乱がないとは言ってない」

 真帆は端末を閉じた。

「2036年だと答えるまでに、壁面表示を見たでしょう」

「観察力は衰えていないようだな、比屋定さん」

 口にして、奇妙な感覚があった。

 比屋定さん。

 かつて使っていたはずの呼び方なのに、他人の言葉を借りたように響く。

 真帆も、わずかに目を伏せた。

「あなたに比屋定さんと呼ばれるのは、久しぶりね」

「この世界線の俺は、何と?」

「……この世界線?」

 真帆の目が、わずかに細くなった。

「それはつまり、あなたが別の世界線から記憶を持ち越したと言いたいのかしら」

 岡部は答えなかった。

「リーディング・シュタイナー――とかいう、あなたの特殊能力によって」

「君は、それを知っているのか」

「あなたと紅莉栖から聞いているわ。信じていたかどうかは別として」

「今は?」

「目の前の観測結果を無視するほど、非科学的ではないつもりよ」

 真帆は岡部の目を見た。

「どの世界線の記憶を保持しているの?」

「紅莉栖が死に、第三次世界大戦が起きたβ世界線だ」

 端末の縁に置かれた真帆の指が止まった。

「……そう」

 それ以上、表情は変わらなかった。

「それで、質問の答えだけど」

 真帆は一度だけ視線を伏せた。

「真帆よ。この世界線のあなたは、私をそう呼んでいたわ」

「公私ともに、長い付き合いだから」

 その言葉が何を意味するのか、岡部には分からない。

 この世界にも、岡部と真帆が重ねた長い年月がある。

 戦争も、地下生活も、同じ寝室もない。

 代わりにどんな議論をし、どんな朝を迎え、どんな距離を築いたのか。

 岡部本人だけが知らない。

「飲む?」

 真帆が、残った一つのカップを差し出した。

 コーヒーには砂糖が入っていない。

「なぜ、俺の好みを」

「何年同じ研究所にいると思ってるの」

 真帆は自分の分を用意しようとして、何も持っていない右手を見た。

「今日は一つしか残ってないわね」

「新しいものは」

「給湯室にいくらでもあるわ」

「ならば取ってくればいい」

「そうね」

 真帆は動かなかった。

 岡部はカップへ口をつけた。

 味は、β世界線で最後に飲んだものと同じだった。

 豆も、水も、器具も違う。

 同じはずがない。

 それでも同じだと、身体が先に判断した。

「真帆」

 名前で呼んだ。

「何?」

 真帆は、当然のように応じた。

 岡部の胸が強く鳴った。

 彼女自身も気づいたのか、遅れて表情を整える。

「何かしら、岡部さん」

「君は」

 覚えているのか。

 問いは喉まで出かかった。

 もし何も覚えていなければ、この真帆へ失われた二十五年を背負わせることになる。

 もし断片だけを覚えているなら、言葉にすることで、彼女がこの世界で生きた記憶を傷つけるかもしれない。

 問いかけるのは、答えを求める自分のためだ。

 岡部はそれを知っていた。

「……いや。何でもない」

「そう」

 真帆は追及しなかった。

 沈黙の中で、窓の外の灯りが瞬いている。

 やがて真帆が立ち上がった。

「今日は帰りなさい」

「どこへ」

 訊いてから、左手の指輪に触れた。

「紅莉栖が待っているわ」

「ああ」

 岡部も立ち上がる。

 白衣の襟が、椅子の背に当たって折れた。

 真帆の手が動いた。

 まっすぐ岡部の胸元へ伸びる。

 指先が襟へ届く直前で止まった。

「……曲がってるわよ」

 真帆は手を下ろした。

「自分で直して」

 岡部は襟へ触れた。

 2036年の朝、同じ場所を直した指の感触が蘇る。

「真帆」

「何?」

 岡部はもう一度、問いかけようとした。

 覚えているのか。

 最後に、俺の手へ触れたのか。

 何一つ訊けなかった。

「また明日」

 代わりに、そう言った。

 真帆は少しだけ目を見開いた。

「ええ」

 やがて、いつものことのように頷く。

「また明日、岡部さん」

 岡部は研究室を出た。

 扉が閉じる直前、振り返る。

 真帆は机の上に残された一つのカップを、両手で包んでいた。

 何も知らない人間の顔をしていた。

 岡部は、その沈黙を信じることにした。

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