白い光は、真帆の中からは消えなかった。
研究室の白い壁に、地下格納庫の装甲板が重なる。
午後の日差しの向こうで警報灯が回り、窓の外を走る車列に、発進したC204の残光が混じる。
目の前には二人の岡部倫太郎がいた。
一人は、薬指に銀色の指輪を嵌めている。
もう一人は、傷の残る手を真帆へ伸ばしていた。
届いたのかどうかは分からない。
世界が白く塗り潰される直前、触れたような気もする。ただ、触れたかったという願いが感覚へ変わっただけかもしれない。
その程度の、不完全な記憶だった。
けれど、それだけではない。
2026年の春。冷めた二杯目のコーヒー。
柳林神社に飾られた、死んだ男の写真。
暗闇の中で繋いだ手。二つしかない白いカップ。一つしかない寝室。熱を測るために触れた額と、必要がなくなってからも離れなかった指。
発進席で笑う鈴羽。
最後まで見ていて。
そう言った少女へ、自分の声が答える。
行ってらっしゃい。
どの場面にも年月日の表示はなかった。前後も、理由も、すべてが揃ってはいない。
記録ではない。
再現性もない。
それでも、他人の記憶だと切り捨てるには、触れた温度が近すぎた。
「……倫太郎」
名前が口から落ちた。
同時に、右手からカップが落ちた。
薄い磁器が床へぶつかり、砕ける。
岡部が目を開いた。
真帆は息を止めた。
その目を知っていた。
大切な誰かを失い、それでも生き残ってしまった人間の目。
SG世界線で長い年月をともにした岡部は、そんな目をしない。過去を語るときに一瞬だけ遠くを見ることはあっても、帰る場所を失ったように周囲を見回すことはなかった。
世界線が変わった。
そして彼だけが、変わる前の世界を覚えている。
あり得ないはずの仮説が、ひとつの可能性として立ち上がった。
「岡部さん?」
真帆は、この世界での呼び方を選んだ。
伸びた手が、彼の白衣へ触れようとしていた。
十年間、そうしてきた手だった。
真帆は軌道を変え、患者の肩を支えた。
由季と鈴羽が現れたとき、真帆の中で二つの鈴羽が重なった。
訓練用端末の前で、発進承認を押せずにいた十四歳の鈴羽。
C204の発進席で、涙を拭って笑った十八歳の鈴羽。
目の前にいる鈴羽は、そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
腕に傷はない。出入口を確かめる癖もない。友人とのライブへ遅れることを気にして、父親の過保護を笑っている。
真帆は、この世界の鈴羽が生まれた日を知っている。歩き始めた日も、初めて父親と言い争った日も知っている。
そこへ、存在しない世界で彼女が発進席へ座るまでを見届けた日々が、輪郭の欠けた記憶として重なっていた。
「帰りは連絡してね。行ってらっしゃい」
由季の言葉は、娘を日常へ送り出す母親のものだった。
「行ってらっしゃい、鈴羽」
真帆の口からも、同じ言葉が出た。
今度は、世界の終わりに添える言葉ではない。
今夜になれば、この子は帰ってくる。
鈴羽は笑って、「行ってきます」と答えた。
その声を聞いた岡部が、真帆を見た。
ほんの一瞬、彼の目に発進管制室の白い光が戻った。
彼も、あの鈴羽を覚えている。
真帆の中で、可能性がまた一つ確度を増した。
紅莉栖が研究室へ飛び込んできたとき、真帆の中で二つの感情が同時に生まれた。
会議を放り出してきた後輩へ呆れる気持ち。
生きている紅莉栖を、ようやく見ることができたという安堵。
「ちょっと岡部! 意識を失ったってどういうことよ!」
紅莉栖は怒っていた。
正確には、怒ることで怯えを隠していた。
昔から何も変わっていない。そう思った直後、それがどちらの記憶から出た感想なのか、真帆には判別できなかった。
岡部が紅莉栖を抱きしめる。
紅莉栖は文句を言いながら、その腕を振りほどかない。
同じ銀色の指輪が光った。
胸の奥が、静かに痛んだ。
それ以上に、嬉しかった。
この光景を見るために、自分は発進を命じた。
その確信だけが、記憶より先にあった。
真帆は床へ屈み、砕けたカップを拾った。
手が震えていることを、誰にも見られないように。
「この世界線の俺は、何と?」
その言葉で、推測は確信へ変わった。
真帆はリーディング・シュタイナーについて知っていた。
岡部と紅莉栖から聞かされた、観測者の記憶だけが世界線を越えるという現象。仮説としてはあまりに都合がよく、証明するには観測者が一人しかいない。真帆は肯定も否定もせず、長いあいだ保留にしていた。
いま、その唯一の観測者が目の前にいる。
「どの世界線の記憶を保持しているの?」
「紅莉栖が死に、第三次世界大戦が起きたβ世界線だ」
端末の縁に置いた指が止まった。
β世界線。
その言葉が、散らばっていた記憶へ座標を与えた。
冷えた地下室も、二つのカップも、白衣の襟へ触れた朝も、脳が作った意味のない像ではない。
岡部が記憶している世界に、それらは存在した。
彼が、覚えている。
それだけで十分だった。
「……そう」
真帆は表情を変えなかった。
岡部へ告げたことに、嘘はない。
この世界線の彼は、真帆を真帆と呼んでいた。
リーディング・シュタイナーについても、彼と紅莉栖から聞いていた。
ただ、観測したすべてを報告しなかっただけだ。
科学者としては失格かもしれない。
けれど、これは論文ではない。
三人の人生だった。
岡部が白衣の襟を折ったとき、真帆の手は考えるより先に動いた。
いつも直していた場所だった。
指先が布へ届く直前、真帆は手を止めた。
「……曲がってるわよ」
彼は自分で襟を直した。
「真帆」
「何?」
返事は、あまりに自然に出た。
岡部は何かを言おうとして、やめた。
何を訊こうとしたのか、真帆には分かっていた。
覚えているのか。
最後に、手は届いたのか。
答えることはできた。
全部ではない。
それでも、何も覚えていないわけではないと伝えることはできた。
真帆は言わなかった。
彼が紅莉栖を選んだからではない。
自分が選ばれなかったからでもない。
存在しない十年を、罪悪感や責任として彼へ返したくなかった。
あの世界で二人が選んだことを、この世界の二人へ課されるべき義務にしたくなかった。
そして何より、紅莉栖が生き、岡部がその隣で年齢を重ねられる未来は、真帆自身が望み、作り、送り出したものだった。
沈黙は敗北ではない。
これが、比屋定真帆の選択だった。
「また明日」
岡部が言った。
真帆は一瞬、答えを忘れた。
β世界線の最後に、明日はなかった。
約束を交わさなければ、次の再会は存在しなかった。
けれど、この世界では違う。
扉を出ても、彼は消えない。
明日になれば、また会える。
「また明日、岡部さん」
扉が閉じた。
真帆は、残されたカップを両手で包んだ。
もう温かくはない。
それでも指先には、別の世界で触れた熱が残っていた。
私は、岡部倫太郎を愛している。
そして、牧瀬紅莉栖という、不遜で、生意気で、どうしようもなく愛しい後輩も。
サリエリは、アマデウスにはなれない。
そんなことは、ずっと前から知っている。
けれど、アマデウスが生きる世界を選ぶことはできる。
消えた世界の音を覚え、その音が確かに存在したと知ることもできる。
扉が閉じる直前に振り返った岡部の顔が、脳裏に残っていた。
目が合ったのは一瞬だった。
彼は何も訊かなかった。
真帆も何も答えなかった。
同じ記憶ではない。
同じ人生でもない。
それでも二人は、いま、同じ記憶座標に立っている。
真帆は、閉じた扉を見つめた。
声にはしなかった。
おかえり、岡部倫太郎。