記憶座標のサリエリ   作:siorin024

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終章 記憶座標のサリエリ

 白い光は、真帆の中からは消えなかった。

 研究室の白い壁に、地下格納庫の装甲板が重なる。

 午後の日差しの向こうで警報灯が回り、窓の外を走る車列に、発進したC204の残光が混じる。

 目の前には二人の岡部倫太郎がいた。

 一人は、薬指に銀色の指輪を嵌めている。

 もう一人は、傷の残る手を真帆へ伸ばしていた。

 届いたのかどうかは分からない。

 世界が白く塗り潰される直前、触れたような気もする。ただ、触れたかったという願いが感覚へ変わっただけかもしれない。

 その程度の、不完全な記憶だった。

 けれど、それだけではない。

 2026年の春。冷めた二杯目のコーヒー。

 柳林神社に飾られた、死んだ男の写真。

 暗闇の中で繋いだ手。二つしかない白いカップ。一つしかない寝室。熱を測るために触れた額と、必要がなくなってからも離れなかった指。

 発進席で笑う鈴羽。

 最後まで見ていて。

 そう言った少女へ、自分の声が答える。

 行ってらっしゃい。

 どの場面にも年月日の表示はなかった。前後も、理由も、すべてが揃ってはいない。

 記録ではない。

 再現性もない。

 それでも、他人の記憶だと切り捨てるには、触れた温度が近すぎた。

「……倫太郎」

 名前が口から落ちた。

 同時に、右手からカップが落ちた。

 薄い磁器が床へぶつかり、砕ける。

 岡部が目を開いた。

 真帆は息を止めた。

 その目を知っていた。

 大切な誰かを失い、それでも生き残ってしまった人間の目。

 SG世界線で長い年月をともにした岡部は、そんな目をしない。過去を語るときに一瞬だけ遠くを見ることはあっても、帰る場所を失ったように周囲を見回すことはなかった。

 世界線が変わった。

 そして彼だけが、変わる前の世界を覚えている。

 あり得ないはずの仮説が、ひとつの可能性として立ち上がった。

「岡部さん?」

 真帆は、この世界での呼び方を選んだ。

 伸びた手が、彼の白衣へ触れようとしていた。

 十年間、そうしてきた手だった。

 真帆は軌道を変え、患者の肩を支えた。

 

*

 

 由季と鈴羽が現れたとき、真帆の中で二つの鈴羽が重なった。

 訓練用端末の前で、発進承認を押せずにいた十四歳の鈴羽。

 C204の発進席で、涙を拭って笑った十八歳の鈴羽。

 目の前にいる鈴羽は、そのどちらでもあり、どちらでもなかった。

 腕に傷はない。出入口を確かめる癖もない。友人とのライブへ遅れることを気にして、父親の過保護を笑っている。

 真帆は、この世界の鈴羽が生まれた日を知っている。歩き始めた日も、初めて父親と言い争った日も知っている。

 そこへ、存在しない世界で彼女が発進席へ座るまでを見届けた日々が、輪郭の欠けた記憶として重なっていた。

「帰りは連絡してね。行ってらっしゃい」

 由季の言葉は、娘を日常へ送り出す母親のものだった。

「行ってらっしゃい、鈴羽」

 真帆の口からも、同じ言葉が出た。

 今度は、世界の終わりに添える言葉ではない。

 今夜になれば、この子は帰ってくる。

 鈴羽は笑って、「行ってきます」と答えた。

 その声を聞いた岡部が、真帆を見た。

 ほんの一瞬、彼の目に発進管制室の白い光が戻った。

 彼も、あの鈴羽を覚えている。

 真帆の中で、可能性がまた一つ確度を増した。

 

*

 

 紅莉栖が研究室へ飛び込んできたとき、真帆の中で二つの感情が同時に生まれた。

 会議を放り出してきた後輩へ呆れる気持ち。

 生きている紅莉栖を、ようやく見ることができたという安堵。

「ちょっと岡部! 意識を失ったってどういうことよ!」

 紅莉栖は怒っていた。

 正確には、怒ることで怯えを隠していた。

 昔から何も変わっていない。そう思った直後、それがどちらの記憶から出た感想なのか、真帆には判別できなかった。

 岡部が紅莉栖を抱きしめる。

 紅莉栖は文句を言いながら、その腕を振りほどかない。

 同じ銀色の指輪が光った。

 胸の奥が、静かに痛んだ。

 それ以上に、嬉しかった。

 この光景を見るために、自分は発進を命じた。

 その確信だけが、記憶より先にあった。

 真帆は床へ屈み、砕けたカップを拾った。

 手が震えていることを、誰にも見られないように。

 

*

 

「この世界線の俺は、何と?」

 その言葉で、推測は確信へ変わった。

 真帆はリーディング・シュタイナーについて知っていた。

 岡部と紅莉栖から聞かされた、観測者の記憶だけが世界線を越えるという現象。仮説としてはあまりに都合がよく、証明するには観測者が一人しかいない。真帆は肯定も否定もせず、長いあいだ保留にしていた。

 いま、その唯一の観測者が目の前にいる。

「どの世界線の記憶を保持しているの?」

「紅莉栖が死に、第三次世界大戦が起きたβ世界線だ」

 端末の縁に置いた指が止まった。

 β世界線。

 その言葉が、散らばっていた記憶へ座標を与えた。

 冷えた地下室も、二つのカップも、白衣の襟へ触れた朝も、脳が作った意味のない像ではない。

 岡部が記憶している世界に、それらは存在した。

 彼が、覚えている。

 それだけで十分だった。

「……そう」

 真帆は表情を変えなかった。

 岡部へ告げたことに、嘘はない。

 この世界線の彼は、真帆を真帆と呼んでいた。

 リーディング・シュタイナーについても、彼と紅莉栖から聞いていた。

 ただ、観測したすべてを報告しなかっただけだ。

 科学者としては失格かもしれない。

 けれど、これは論文ではない。

 三人の人生だった。

 

*

 

 岡部が白衣の襟を折ったとき、真帆の手は考えるより先に動いた。

 いつも直していた場所だった。

 指先が布へ届く直前、真帆は手を止めた。

「……曲がってるわよ」

 彼は自分で襟を直した。

「真帆」

「何?」

 返事は、あまりに自然に出た。

 岡部は何かを言おうとして、やめた。

 何を訊こうとしたのか、真帆には分かっていた。

 覚えているのか。

 最後に、手は届いたのか。

 答えることはできた。

 全部ではない。

 それでも、何も覚えていないわけではないと伝えることはできた。

 真帆は言わなかった。

 彼が紅莉栖を選んだからではない。

 自分が選ばれなかったからでもない。

 存在しない十年を、罪悪感や責任として彼へ返したくなかった。

 あの世界で二人が選んだことを、この世界の二人へ課されるべき義務にしたくなかった。

 そして何より、紅莉栖が生き、岡部がその隣で年齢を重ねられる未来は、真帆自身が望み、作り、送り出したものだった。

 沈黙は敗北ではない。

 これが、比屋定真帆の選択だった。

「また明日」

 岡部が言った。

 真帆は一瞬、答えを忘れた。

 β世界線の最後に、明日はなかった。

 約束を交わさなければ、次の再会は存在しなかった。

 けれど、この世界では違う。

 扉を出ても、彼は消えない。

 明日になれば、また会える。

「また明日、岡部さん」

 扉が閉じた。

 真帆は、残されたカップを両手で包んだ。

 もう温かくはない。

 それでも指先には、別の世界で触れた熱が残っていた。

 私は、岡部倫太郎を愛している。

 そして、牧瀬紅莉栖という、不遜で、生意気で、どうしようもなく愛しい後輩も。

 サリエリは、アマデウスにはなれない。

 そんなことは、ずっと前から知っている。

 けれど、アマデウスが生きる世界を選ぶことはできる。

 消えた世界の音を覚え、その音が確かに存在したと知ることもできる。

 扉が閉じる直前に振り返った岡部の顔が、脳裏に残っていた。

 目が合ったのは一瞬だった。

 彼は何も訊かなかった。

 真帆も何も答えなかった。

 同じ記憶ではない。

 同じ人生でもない。

 それでも二人は、いま、同じ記憶座標に立っている。

 真帆は、閉じた扉を見つめた。

 声にはしなかった。

 おかえり、岡部倫太郎。

 


 

記憶座標のサリエリ〈了〉

 

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