第1話 知らない天井
白かった。
視界のすべてが、眩しいほどに。
ゆっくりと瞼を持ち上げた私の目に飛び込んできたのは、見たこともないほどに滑らかで、あまりにも清潔な、白い天井だった。
「……あ、っ」
身動きをしようとした瞬間、脳を直接かき混ぜられるような、激しいめまいが襲ってきた。
痛い、という感覚はない。
不思議なほどに、私の体には傷一つなかった。
それなのに、自分の体の境界線が酷くあやふやで、宙に浮いているかのような強烈な不快感が胸を突く。
――まるで、さっきまでバラバラに砕け散っていた肉体を、急ごしらえで無理やり繋ぎ合わせたかのような、悍ましい違和感。
「おや、気がついたかい…ああ、無理に動こうとしないで、じっとしていなさい」
穏やかな、けれどどこか事務的な声が聞こえた。
視線をかすかに横へ動かすと、そこには白い衣をまとった男――医師らしき人物が、複雑な機械の並んだベッドの脇で、私を見下ろしていた。
ここが、どこかの病院のベッドの上なのだということは、なんとなく理解できた。
けれど、おかしい。
何かが、決定的に違っている。
私の魂が覚えている景色は、もっと薄暗くて、カビと鉄の匂いがして、大勢の人の狂信的な熱気と――何より、絶え間ない激痛と、べっとりと肌に張り付くような血の匂いだったはずだ。
それなのに、この部屋はあまりにも静かで、あまりにも綺麗で、逆に吐き気がするほどに不気味だった。
「ここは…」
「ヒーロー公安委員会が管理する、中央病院の特別病棟だよ。君は数日前、ある大規模な事故の現場から救出されたんだ」
「ヒーロー教会…?」
「自分の名前に、心当たりはあるかい?」
なまえ。
医師の問いかけに応じて、意識を自分の内側へと向ける。
けれど、頭の芯に手を伸ばした瞬間、そこには真っ黒な、底の見えない深い穴がぽっかりと空いているだけだった。
私が、誰なのか。
今まで、誰に囲まれて、どんな風に生きてきたのか。
何も、思い出せない。
暗闇を手探りで進んでも、指先には何も触れなかった。
ただ、思い出しちゃいけない、と本能が叫ぶような、冷たい拒絶の気配だけが残っている。
「……わかり、ません。何も、思い出せなくて」
自分の声なのに、まるで他人の声を遠くで聞いているようだった。
自分が自分でないような、世界のすべてから切り離されてしまったような、強烈な孤独感がじわりと胸に広がっていく。
「そうか。無理もない」
医師は手元のカルテに何かを書き込みながら、淡々と、けれど憐れむような声で告げた。
「君が巻き込まれた事故は凄惨極まりないものだった。現場にいた人間は、君を除いて全員が即死。火災と爆発の規模からして、君が生きていたこと自体が奇跡なんだよ」
「事故…」
「…おそらく、その時の精神的ショックによる記憶喪失だろう」
――全員、即死。 その言葉が耳に届いた瞬間、私の胸の奥で、カチリと何かが凍りつく音がした。
頭は何も覚えていないのに、私の心が、その「地獄の終わり」を悟って、酷く冷たくて、奇妙な安堵を覚えている。
ああ、もうあそこへ戻らなくていいんだ。
私を縛り、傷つけ、血を求めていたモノたちは、もう誰もいないんだ、と。
それは、過去を失った恐怖を容易く塗りつぶしてしまうほどの、底暗い救いだった。
けれど、同時に私はまだ気づいていなかった。
すべてが消え去ったはずの私の心に、他人の好意や愛を拒絶するための、分厚い防壁が無意識に築かれてしまっていることに。
そして、私のこの『空っぽな体』が、死すら手繰り寄せる悍ましい異能を秘めていることも。
これから出会う、優しい老人、気だるげな黒スーツの男。 眩しすぎるほどの光を放つ、真っ直ぐな青年。
私を「お姉さん」と呼んで小さな手を伸ばしてくれた、愛おしい男の子。
彼らが私にどんな感情を向け、私がその温かさにどれだけ戸惑うことになるのか、この時の私はまだ、何も知らなかった。
これは、そんな私の、長い長い人生のお話。
可哀想な女の子が好きです。