エリアス神父が他界してから、さらに歳月が流れた。
啓悟は十三歳になり、相変わらず祈の黒い修道服の裾を掴んでは離さない生意気盛りの少年に成長していた。
筑紫の課す過酷な戦闘訓練に日々文句を言いつつも、彼の背中の赤い羽は、年々鋭く、最速の輝きを増している。
そして、変わらない教会の日常のなかで、その『異変』は突如として現れた。
それは毎週訪問を欠かさない、病院内での出来事だった。
「……あー、神代さん。なんつーかさ、あそこにいるあのデカい奴、心当たりある?」
いつもの中央病院の中庭。
車椅子の子供たちに絵本の読み聞かせを終えた祈に、黒スーツのポケットに手を突っ込んだ筑紫が、ひどく嫌そうな死んだ目で近づいて耳打ちした。
彼が顎で示した先――中庭の植え込みの影に、明らかに周囲の風景から浮いている「信じられないほどの巨躯を持つ大男」が一人、縮こまるようにして立っていた。
黄色い前髪を二本ツノのように逆立てたその男は、物音を立てないように必死に気配を消しながら、物陰からそっと祈を盗み見ては、目が合いそうになると慌てて顔を伏せてうろうろと不審な動きを繰り返している。
「いいえ。お見かけしたことはありませんが……お怪我でもされているのでしょうか。少し、お顔が赤いようですが」
白いレースのヴェールの向こうから、いつも通りの凛とした丁寧な敬語が返ってくる。
事情を知らない彼女は呑気なものだが、隣の筑紫は本気で胃を押さえていた。
「怪我っていうか、あれ……。
げぇ、マジかよ。オールマイトじゃん。なんでこんな田舎の病院に世界No.1ヒーローが潜伏してんの。面倒くさ……」
「オールマイト……? ああ、テレビでお見かけする、世界を救う偉大なヒーロー様ですね」
「そう、その最強のヒーロー様。それが何故か正体を隠して通院してるんだけどさぁ……。
お前さぁ、本当にいい加減にしてくれない? あいつの脳内、今とんでもないことになってんだけど」
筑紫の個性である共感層は、一定の距離にいる人間の本音や脳裏から漏れ出る感情を受信してしまう精神感応系の異能だ。
今も、正体を隠している(つもり)のオールマイトの脳内から、邪念のない熱烈な片想いのポエムがドバドバと筑紫の頭に流れ込んできていた。
「脳内が、ですか?」
「そうだよ! 聞く?『なんて綺麗な人なんだ、子どもを見る目がまるで聖母のようだ、ああ話しかけたい、でも私みたいな無骨な男が声をかけたら迷惑だろうか、神様どうか勇気をください』……って、おいふざけんなよ八木俊典!! お前世界最強だろ! 荒れ果てた超常社会を一人で救う救世主様だろ! 恋愛してる場合じゃないだろ、さっさと平和の象徴のお仕事に戻れよ!!」
筑紫は頭を両手でガシガシと掻きむしり、叫び出したいのを必死に堪えながら、本気で胃を押さえてキレ散らかした。
彼の個性は、一定の距離にいる人間の本音や脳裏から漏れ出る感情を強制受信してしまう。
今も、世界最強のヒーローが垂れ流すピュア度100%のウブな恋煩いが、暴力的な熱量で筑紫の脳内に直接ドバドバと流れ込み、ノイズとなって精神を削り続けていた。
「あいつ、あの体格で中身はただのチキンだからな!? 話しかけられずに、もう三十分もあそこでモジモジうろうろしてやんの。頼むから早く帰ってくれよ、俺の頭が割れそうなんだけど!」
筑紫は手元の缶コーヒーを怒りのあまりグシャリと握りつぶす。
だが、愛が何なのかわからない祈は、世界最強の男の熱烈なウブ心を一ミリも察していなかった。
「ふふ、きっと、お疲れなのです。世界を背負って戦うお方ですから、心が安らぎを求めていらっしゃるのでしょう。関わらない方がいい、なんて仰らず、温かく見守って差し上げましょう」
「あのねぇ……お前本当に毒気を抜かれすぎ。あいつの放つ『光』は眩しすぎるんだよ。公安にバレたら俺のお仕事が増えるの。だから絶対に話しかけに行くなよ!絶対!
虚偽報告書書く俺の身にもなってよ!」
パチリ、と筑紫の胸元の無線が鳴る。
――『筑紫、対象に異常はないか。不審な接触者は?』。
筑紫は盛大にため息をつくと、スイッチを入れ、平然とした気だるげな声で応じた。
「あー、はい。こちら筑紫。対象に異常ありませんよ。相変わらずボランティアとかいう趣味に勤しんで、いつも通り病院の患者さんと仲良く喋ってます。接触者? いませんねぇ。
……じゃ」
世界最強のヒーローが目の前で不審者のようにうろうろしているという特大の事態を、筑紫は彼女のため、そしてこの平行線の日常のために、完璧に握りつぶして嘘の報告を流した。
――そして、その日の夕方。教会に戻った後のことだった。
「――はあ!? そのデカい男、誰だよ筑紫さん!」
礼拝堂の雑巾がけをしていた啓悟が、筑紫のこぼした愚痴を敏感に聞き咎め、持っていた雑巾を床に叩きつけて激昂した。
背中の赤い羽が、怒りと嫉妬で逆立ってバタバタと激しく音を立てている。
「誰って、だからオールマイトだよ。世界を救う最強のヒーロー様。それが何故か、そこの神代さんに一目惚れして、病院の中庭でずっとモジモジうろうろしてんの。やべーよアイツ、ストーカーかよ、お陰で俺の『共感層』がノイズ塗れで頭割れそう」
「オールマイト!? なんであのオールマイトがおねえちゃんをつけ回してんだよ筑紫さん!」
「誰が知るかよ。世界を救う最強のヒーロー様がさぁ、何故か病院の中庭で、そこの神代さんに一目惚れしてモジモジうろうろしてんの。お陰で俺の『共感層』がノイズ塗れで最悪なんだって」
「オールマイトだろうがなんだろうが関係ないッ! 許せない!!おねえちゃんに変な虫がつくなんて絶対に嫌だ!!」
啓悟は顔を真っ赤にして、祈の黒い修道服の裾をぎゅっと力任せに握りしめ、白いレースのヴェールの向こうにある彼女の顔を、泣きそうな目で見上げて叫んだ。
「おねえちゃん! あのね、俺、もっと、もっと強くなるから! だからあんな不審なデカい男なんか無視して! 俺がおねえちゃんに一番大切にされる男になるんだから、絶対にあの男に優しくしちゃダメだからねっ!!」
「ふふ、啓悟くん。あの方はただ、お疲れなだけですよ。そんなに怒っては、可愛いお顔が台無しです」
祈は静かにその場に膝をつき、その小さな頭を優しく撫でる。
愛が何なのかわからない彼女は、啓悟のこの必死な独占欲も、オールマイトの初々しい恋心も、すべてをただの「子どもらしい甘え」と「聖者の親切」として、等しく綺麗に受け流してしまうのだった。
それを見つめる筑紫は、新しく開けた缶コーヒーをぽつりと飲み干し、お互いのクソデカ感情に呆れ果てながらため息をついた。
「あーあ……進展しないねぇ、本当に。ま、あいつの光でもこの女の凍土は溶かせないか。
……関わらないでくれよ、お互いのためにさ」
最強のヒーローの眩しすぎる片想いと、それに焦る二人の男たち。
交わることのない平行線の、奇妙で、けれど愛おしい日常が、ここからしばらく続いていくことになる。
――そもそも、世界最強のヒーローであるオールマイトが、なぜこの中庭で祈に心を奪われてしまったのか。
当時の彼は三十代後半。
師・志村菜奈を殺され、誰にも頼ることなく、たった一人で世界を救う『平和の象徴』になろうと狂気的に自らをすり潰していた時期だ。
「――救ける時はね、俊典。どんなに怖くても、笑顔で救けるんだ。この世界、笑ってる奴が一番強いからさ」
どんなに苦しくても、血を吐くような戦いの後でも、彼は人々の前で完璧な「安心の笑顔」を無理に造り出し、孤独な怪物になりかけていた。
そんなある日、激しいヴィラン戦の傷を癒すために訪れた病院の中庭で、彼は『本物』を見てしまったのだ。
ただの偶然だった。
しかし、それは運命というにはあまりにも陳腐なものだった。
黒い修道服に身を包み、頭から白いレースのヴェールを被った、神代祈の姿。
彼女は、車椅子の子供たちの小さな手を握り、静かに微笑んでいた。
その微笑みには、何の打算も、自己顕示欲も、ヒーローとしての名誉を求める浅ましさも、一滴すら含まれていなかった。
ただ純粋に、目の前の小さな命が愛おしくて、この子たちを守りたいという、純度百パーセントの透き通るような善意。
自分をすり潰している自覚すらなく、ただ世界に優しくあろうとする、あまりにも濁りのないその笑顔は――まさに、俊典が命を懸けて造り出そうとしている『平和の象徴』の、その先にある誰もが笑い合える世界の理想そのものだった。
(ああ……なんて、綺麗な人なんだ)
俊典の胸に走ったのは、単なる容姿の美しさへの憧憬ではなかった。
世界を救うために心を鬼にし、孤独な怪物になろうとしていた彼の魂が、彼女の放つ圧倒的な包容力に触れて、一瞬にして救われてしまったのだ。
この人の隣にいれば、自分は『平和の象徴』という化け物ではなく、ただの不器用な八木俊典という一人の人間に戻れるのではないか。そんな無自覚な飢餓感が、彼の胸の奥を激しく揺さぶった。
だが、これこそが、筑紫聡の言う「とんでもないヤバさ」であり、この恋の最大の悲劇だった。
なんなら、祈は(実年齢では)オールマイトより20は年上のババァである。
見た目こそ二十代の美しい聖女の姿で固定されているが、中身は過酷な超常黎明期の地獄を全て見てきた、年齢不詳の大ベテランだ。
世界を一人で救おうとする三十代後半の狂った聖者が、自分を「お姉さん」と勘違いして邪念のないウブな恋心を抱き、物陰から巨体を縮めてモジモジと見つめてくる。
実の母親の年齢に近い年上女性に、世界最強の男がチキン全開でアプローチすらできずにうろうろしている。
しかも、彼から見れば「救いの光」に見えるその微笑みが、信じていた神父への裏切りの絶望から「特別な愛(好意)を完全に封印してしまった結果、等しくすべての人に親切にするしかなり得なくなった、狂気的なお人形の仮面」だとは、夢にも思っていないのだ。
筑紫が受信するオールマイトの感情は、単にウブなだけでなく、「この人を、この人が守る世界を、今度こそ俺が命に代えても守り抜くんだ」という、眩しすぎるほどに真っ直ぐで、あまりにも重い、ワン・フォー・オールの宿命の光そのものだった。