教会の裏庭には、絶え間なく風を切り裂くような鋭い音が響き渡っていた。
「はああああっ!!」
十四歳になった啓悟の鋭い叫びと共に、彼の背中から生えた鮮やかな「剛翼」が、目にも留まらぬ超スピードで空中を舞う。
十数枚の赤い羽は、まるで自らの意思を持つ暗器のように、鋭い軌道を描いて一斉に筑紫の死角へと襲いかかった。
普通のプロヒーローであれば、防戦一方になるか、一瞬で切り刻まれているであろう規格外の速度。
だが、対峙する筑紫は、黒スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、避ける動作すら億劫そうに、ただ目を瞑っていた。
シュッ、と最小限の傾きで、筑紫の首元を赤い羽がかすめていく。
続く左右からの挟み撃ちも、筑紫はまるで最初からそこに羽が来ないことを知っていたかのように、半歩だけ足の位置をずらし、ひらひらとすべての軌道を紙一重で躱しきった。
「――そこだっ!!」
隙を突いて、啓悟自身が手元に残した最大の羽を木刀のように握り、筑紫の胸元へ必死に肉薄する。
しかし、筑紫は目を開けることすらなく、ただ無造作に右手の木刀を斜め上へと突き出した。
パン、と乾いた衝撃音が響く。
啓悟が踏み込もうとしたまさにその場所に、筑紫の木刀がまるで置いてあったかのように完璧なタイミングで迎撃していた。
体勢を崩した啓悟の喉元に、筑紫の木刀の先端がピタリと突きつけられる。
「……はい、終わり。なんつーか、お前今日も心がうるさいわけ」
筑紫は気だるげに薄目を開けると、木刀を引き、ふぅとため息をついた。
床の芝生にドサリと倒れ込んだ啓悟は、「クソッ……!」と悔し涙を浮かべながら地面を強く叩いた。
「まったく、毎回懲りろよな」
「なんで当たんないんだよ! 俺、さっきより絶対にスピード上げてたのに! あんた、後ろにも目がついてんのかよ!」
「目がついてるわけないでしょ、面倒くさい」
「…じゃあ、なんでさ」
「はぁ……お前さぁ、羽を動かす前に『右から行くぞ』って心がうるさいわけ。速度の前に、まずその無駄な思考を割り切りなよ。先を読まれる前に、思考を介さずに動け」
筑紫は木刀を肩に担ぎ、冷めた目で啓悟を見下ろした。
筑紫の個性は、戦闘中に極限まで研ぎ澄ますと、敵の「殺意」や「行動の意志」を脳内で思考した一秒未満の段階で先取りし、次にどこに攻撃が来るかを「確定した未来の予知」のように完璧に先読みすることができた。
啓悟がどれほど速度を上げようとも、動く前に「ここを狙う」という思考のノイズが筑紫の脳内に響いてしまう以上、筑紫にとっては止まっている的を避けるようなものだった。
「思考を介さないで動く……?」
「そう。お前の羽はせっかく優秀なんだからさ、頭で『こう動かせ』って命令する前に、羽自体に勝手に動いてもらいなよ。俺の予知の隙間を抜けるには、それしか無いよ、最速目指すんならそれくらいできなきゃな」
筑紫の言葉に、啓悟は荒い息を繰り返しながら、自分の赤い羽をじっと見つめた。
口は悪いし、いつもやる気なさそうに缶コーヒーばかり飲んでいる師匠だが、戦闘面においては絶対に攻撃を当てられない「先読みの怪物」。
啓悟の胸の中には、悔しさの裏側で、筑紫に対する「超えるべき圧倒的な壁」としての深い尊敬が、確かに刻まれ始めていた。
◇
「お怪我はありませんか。二人とも、お疲れ様でした」
裏庭から礼拝堂へと戻り、古い木製長椅子に腰掛けた啓悟の前に、祈は濡れたタオルと救急箱を抱えて静かに膝をついた。
あれから二人の特訓は白熱し、いつも以上に啓悟はぼろぼろだった。
服は擦り切れ、頬や腕には血がにじんでいる。
黒い修道服の袖を捲り上げ、泥と擦り傷だらけになった啓悟の小さな腕を、彼女は傷つきやすいガラス細工でも扱うかのように優しく両手で包み込む。
「……これほどの擦り傷、痛むでしょう。すぐに治しますね、啓悟くん」
祈が胸元の銀色のロザリオにそっと手を添え、目を閉じようとした、その瞬間だった。
「――おい。やめろ、神代さん」
それまで缶コーヒーを片手に壁に寄りかかっていた筑紫の、いつもの気だるげな余裕が完全に消え失せていた。
黒スーツのポケットから手を抜いた筑紫が、鋭い足取りで二人の間に割り込み、祈の手首を掴んで強引に止めに入ったのだ。
礼拝堂の空気が、一瞬にして冷たく張り詰める。
「筑紫様……?」
「こんなガキのな、放っておきゃ二日で治るような擦り傷に、いちいちその『力』を使うんじゃねえよ。上層部との契約忘れたわけ? 命令以外の個性使用は全面禁止だ。
……お前の体がどうなるか、分かってて言ってんの」
筑紫の低い、凄みのある声が静かな堂内に響く。
筑紫の個性は、祈の心にかけられた冷たい氷の鍵の奥で、個性を発動しようとした瞬間に微かに揺らめく「肉体が内側から削り取られるような凄絶な拒絶反応」を敏感に察知していた。
だからこそ、筑紫はプロの監視員として、そして一人の男として、彼女が自らをすり潰すのを全力で拒絶した。
「ですが、筑紫様。エリアス神父様は、出来る限りで人を助けなさいと私に仰いました。目の前で痛みに耐えている啓悟くんを、私が治せる力があるのに放っておくことは……」
「あの老いぼれ神父の遺言なんか知るかよ。駄目なものは駄目。いいか?お前はただの、公安の最高機密なんだからさ。大人しく消毒液と絆創膏で手当てしな」
筑紫は吐き捨てるようにそう言うと、祈の手首からパッと手を離し、またポケットに手を突っ込んで壁へと戻っていった。
いつも通りの冷徹な監視員のフリ。
だが、彼の心からは「この女を絶対に壊させない」という、割り切れない必死な焦燥の熱量がドバドバと漏れ出ていた。
二人の間に流れた、重苦しい空気。
啓悟は、タオルを握りしめたまま、その張り詰めた大人のやり取りをじっと見つめていた。
「……おねえちゃんの、個性」
啓悟は、消毒液を染み込ませた綿を自分の腕に優しくあてる祈の顔を、白いレースのヴェールの向こう側まで覗き込もうとするように見つめた。
「おねえちゃんの個性って、ただの『治癒の個性』じゃないの? なんで筑紫さんは、そんなに怒るんだよ」
「それは…」
「それに、おねえちゃんが力を使いそうになるとき、いつも、すごく……なんていうか、怖い感じがするんだ」
野生の動物のような、鋭い啓悟の直感。
祈の『生と死』を操る異能は、表向きは『ただの治癒』として公安に秘匿されている。だが、啓悟の剛翼は、彼女の纏う「死をも手繰り寄せる悍ましい異能」の気配を、本能的に察知して怯えていた。
「いいえ、啓悟くん。私の個性は、皆様を少しだけ元気にする、ただのありふれた力ですよ」
祈はいつもの通り、何も知らないお人形でいるために、綺麗な敬語のまま微笑みを返す。
けれど、啓悟の視線は、彼女の胸元で夕日を反射して鈍く光る、あの銀色のサポーターへと吸い寄せられていた。
「じゃあ……その、いつも肌身離さず持ってるロザリオは何? おねえちゃん、これに触る時だけ、個性の気配が消えるっていうか……。もしかして、そのロザリオに、何か秘密があるの?」
神父の形見であり、祈の個性の暴走を抑えるための、公安が嵌めた精神的な首輪。
啓悟のその無邪気で鋭すぎる問いかけに、祈は一瞬だけ手を止めた。
「これは……エリアス神父様が、私に遺してくださった、大切なお守りなのです」
「お守り?」
「これが私を世界に繋ぎ止めてくれる……とても、重くて、冷たいお守りなんですよ」
レースの網目の向こう。祈の口から漏れ出たのは、いつもの博愛の聖女とは明らかに異なる、底暗い、どこか世界を呪うような冷え切った声音だった。
「……え」
啓悟がその異質な気配に息を呑んだ瞬間、壁際で缶コーヒーを飲んでいた筑紫が、わざとらしく大きな音を立てて缶をゴミ箱に放り投げた。
「はい、お喋りはそこまで。ガキ、手当て終わったならさっさと部屋に戻って明日の訓練のイメトレしなよ」
「筑紫様」
「……神代さんも、おめでたいお人好しはそこまでにして、晩飯のスープの準備よろしく」
筑紫が強引にその場の空気をチャラにするように、気だるげな声を響かせる。
啓悟は自分の腕に貼られた絆創膏を見つめ、それから祈の胸元のロザリオをもう一度じっと睨みつけた。
(……やっぱり、何か隠してる。おねえちゃんも、筑紫さんも……公安の大人たちも)
お姉さんに大切にされたい。
この温かい居場所を、絶対に失いたくない。
そのためには、お姉さんをこんなに寂しそうな目に遭わせている「何か」を、俺がもっと強くなって、全部ぶち壊して自由にしてあげなきゃいけないんだ。
啓悟の幼い胸の中で、お姉さんの個性の謎とロザリオへの疑念は、彼が『最速の男』へと成り上がっていくための、暗い執念の火種として深く、深く燻り始めるのだった。