さらに日は流れ。教会での奇妙な共同生活は、奇妙なまま、もはや逃れられない日常として定着しつつあった。
ある日の午後、祈はいつもの中央病院でのボランティアを終え、帰り道に街の小さなスーパーへと立ち寄っていた。
黒い修道服の上から白いレースのヴェールを深く被り、静かに野菜を吟味する祈。
その後ろを一歩引いて歩く黒スーツの筑紫は、買い物の荷物持ちをさせられながら、死んだ魚のような目で、ある一点をじっと睨みつけていた。
――キャベツの特売コーナーの陰。
どう見ても一般市民の体格ではない、身長二メートルを遥かに超えるトレンチコート姿の大男が、顔を隠すように大きなサングラスをかけ、不自然な手つきで大根を握りしめながら、じっと祈の方を盗み見ていた。
「……ねえ、神代さん。もう、ほんとになんなんだよ、あの男……」
筑紫は片手で自分の顔を覆い、魂が口から抜け出たような、消え入りそうな声で呟いた。
その肩は、日々の激務とそれ以上の精神的疲弊によって、気の毒なほどにガックリと落ちている。
「おや、筑紫様。どうかされましたか? お疲れでしたら、荷物は私が持ちますよ」
「違う、疲れてんのは俺の『頭』だよ。
……あのさぁ、今週これで何回目? 月曜日に君が教会の前を掃除してた時も、水曜日に子どもたちと公園で遊んでた時も、そして今日のスーパーも。行く先々にあいつが先回りして突っ立ってんの、流石にホラーの領域なんだけど」
筑紫の個性は、今もトレンチコートの大男――オールマイトの脳内から、湯水のように溢れ出る恋煩いを受信し続けていた。
『ああ、神代さん。今日も白いレースがよく似合う。なんてお美しいんだ。大根を選んでいる姿も神々しい。よし、今日こそは声をかけるんだ。八木俊典、お前は世界を救う男だろう、一人の女性に挨拶すらできないでどうする……! いや、しかし変質者だと思われたら……!』
「お前はもう十分に不審者だよ!! サングラスの下で目を血走らせて大根握りしめてんじゃねえよ!!」と、筑紫は脳内で全力のツッコミを炸裂させる。
数年間、世界最強の男が垂れ流すウブなポエムに晒され続けた結果、筑紫の精神はすでに限界を迎えていた。
「八木様も、たまたまお買い物をされているだけです。世界最強のヒーロー様であっても、お野菜はお召し上がりになりますから。温かく見守りましょう、筑紫様」
「見守れるか! あいつ、脳内でお前への『挨拶のシミュレーション』をもう五百回は繰り返してんだよ! 頼むから一言『こんにちは』って言ってさっさと帰ってくれ! 俺の脳の許容量が限界突破して弾け飛びそうなんだよ!」
筑紫は耳の奥の頭痛に耐えながら、本気で胃を押さえて愚痴をこぼした。
見た目が見た目なだけに、筑紫の中では祈はババァというよりもエルフのような存在になりつつある。
しかしそれを知らない世界最強の男は、今日も今日とて元気に不審者をしている。
自分の母親世代の女性を相手に、数年間も挨拶すらできずにストーカー紛いの徘徊を繰り返しているという、この世の終わりみたいな平行線。
筑紫は本日何度目か分からない溜め息をつくと、胸元の無線に手をかけた。
――『筑紫、対象に異常はないか』。
「あー、はいはい。こちら筑紫。対象に異常ありません。いつも通り買い出ししてます。接触者? いねぇよ。……じゃあな」
目の前でトレンチコートの巨人がモジモジしている特大の不審事案を、筑紫はもはや様式美として握りつぶし、公安へ定時の嘘を流した。
――そして、その日の夕方。
教会に帰った後のことだった。
「――はあ!? またオールマイトが特売コーナーの陰に……!?」
筑紫の先読みを超えようと日々鋭さを増している啓悟が、筑紫のこぼした愚痴を聞くや否や、持っていた木刀を床に落として絶句した。
背中の赤い羽が、困惑と激しい戸惑いで逆立つ。
「オールマイトってヒーローだよね、大丈夫? やばいじゃん、なんでそんなストーカーみたいなことしてんの……」
「知るかよ。あいつ、君のおねえさんが好きすぎて、今や病院の周辺の犯罪者を裏で片っ端から先回りして駆除してんの。まぁ、お陰でこっちの警戒任務はクソ楽なんだけどさぁ……。
病院のボランティアのシフトまで把握されてる俺の『共感層』の身にもなってよ。飯が不味いったらありゃしない」
「うわ……。ヒーローの力、そんなことに使ってんの……憧れのヒーローがそんなことしてるとか、なんかショックなんだけど……」
啓悟は顔を複雑そうに、それでもお姉さんに変な虫がつくのは嫌だという独占欲から、祈の黒い修道服の裾をぎゅっと握りしめて、白いレースのヴェールの向こうを見上げた。
「おねえちゃん、オールマイトは絶対に無視して! 俺、もうすぐデビューして、あいつよりまともなヒーローになっておねえちゃんをこの公安から連れ出してあげるんだから! だからあんな変な奴に優しくしちゃダメだからねっ!!」
「ふふ、筑紫様は考えすぎですよ」
祈は健やかに成長する啓悟の頭を、昔と変わらない手つきで優しく撫でる。
「八木様はただ、お野菜を買いにこられただけです。そんなに怒るものではありませんよ」
「……え、いや、おねえちゃん、大根握って一時間は流石に買い物じゃないと思う……」
愛の概念を封印された祈にとって、ここ数年間続くオールマイトの熱烈な接近も、啓悟の狂おしいほどの独占欲も、等しく綺麗に受け流され続けていた。
それを見つめる筑紫は、魂の抜けた顔で新しい缶コーヒーを開け、この一生進展しないであろう関係に心底うんざりしながら呟いた。
「あーあ……ほんとになんなんだよ、あの男……。世界を救う前に、自分の脳内をどうにかしろよ、マジで……」
最強のヒーローによるストーカーじみた純愛と、それに付き合わされ続ける二人の男。 平凡な日常は、いよいよその均衡を破る運命の瞬間へと、静かに近づいていくのだった。
――――それから。
その日も、中央病院の中庭は穏やかな陽光に包まれていた。
黒い修道服に白いレースのヴェールを被った祈は、車椅子の老人たちに温かいお茶を配りながら、いつもの博愛の微笑みを振りまいている。
だが、その平和な景色の裏で、黒スーツ姿の筑紫の精神はとうに限界を迎えていた。
(……おいおい。マジでいい加減にしろよ、あの大男)
中庭に面した渡り廊下の影。
大きな観葉植物の鉢植えをこれ見よがしに抱え、その葉の隙間からサングラス越しに祈を凝視しているトレンチコートの巨躯。
怪我の治療という大義名分はどこへやら、もはや完全に不審者そのものの動きで周囲をうろうろしている世界No.1ヒーロー、オールマイト。
筑紫の個性が、彼の脳内からあふれ出る恋煩いを容赦なく受信し続ける。
『ああ、今日の神代さんも素晴らしい。お茶を注ぐ手つきすらお美しい。今日こそ、今日こそ声をかけるんだ……! いや、しかし変質者だと思われたら……!』
「もう十分に、手遅れなレベルで変質者だよ」
筑紫は頭が割れそうな頭痛に耐えながら、本日×回目となる深いため息をついた。
なんなら、祈の正体はどれだけ歳を重ねても見た目が変わらない『うちのエルフもどき』である。
本人は完全に正体を隠せていると盲信したまま、ステルス性の欠片もない怪しい反復横跳びを数年間も真横で観測させられている。
その狂気的な怪奇現象のノイズを強制受信させられている筑紫にとっては、たまったものではなかった。
だが、筑紫のうんざり加減が限界を超えたのは、単に彼の脳内ポエムが五月蝿いからではなかった。
公安の無線から漏れ聞こえる上層部の冷徹な声が、日増しにピリつき始めている。
筑紫がどれだけ「対象に不審な接触者はいません」と嘘の報告書をでっち上げようとも、最強のヒーローがこうも教会の周辺や病院でうろうろしていれば、いずれ公安の中枢に勘づかれる。
オールマイトに祈の存在――ひいては、公安の所業が表沙汰になることがあってはならない。
そうなれば、公安は祈を『危険なサンプル』として地下深くへ完全隔離し、二度と外へは出さなくなるだろう。
(あいつの眩しすぎる光のせいで、この歪な日常が壊されるのだけは……絶対に御免だねぇ)
筑紫はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと壁から背を離した。
そして、観葉植物の陰でモジモジとうろついていた巨躯の背後に、足音もなく滑り込む。
筑紫の『共感層』が戦闘モードへと切り替わり、周囲の空気が一瞬にして刃物のように張り詰めた。
「――おい。いい加減にしろよ、世界最強のヒーロー様」
「ふぎゃっ……!? いや、私はただの通りすがりの一般市民八木であって、決して怪しいものでは……!」
ビクゥッ、と巨体を跳ね上がらせて振り返ったオールマイトは、サングラスをずらしながら、大きな身体を縮めて見苦しい言い訳を捲し立てた。
あまりの動揺っぷりに、抱えていた観葉植物の鉢植えがガサガサと激しく揺れている。
だが、筑紫の死んだ魚のような、底冷えする鋭い視線と、その胸元に覗く公安委員会のIDバッジを目にした瞬間、彼のトレードマークである黄色い前髪がぴたりと動きを止めた。
「……君は、彼女の『お目付け役』の」
「そう。神代 祈という最高機密の、公式な『監視役』。筑紫です。
……八木さん、あんたが世界を救うためにどんだけ無茶苦茶やろうが知ったこっちゃないけどさぁ。あんた、恋愛してる場合じゃないだろ。何年ストーカー紛いのうろうろ続けてんだよ、ほんとにうんざりなんだわ」
筑紫の容赦ない、極限まで冷え切った愚痴に、オールマイトは顔を真っ赤にして大きな手をバタバタと振った。
「す、ストーカーだなんて人聞きが悪い! 私はただ、彼女のあの濁りのない、美しい笑顔に……その、一人の男として、不器用ながらもお近づきになりたいと願っているだけで……!」
「お近づき、ねぇ……。あのさぁ、あいつのあの笑顔、残念だけど偽物だよ。善意は本物だけどね、中身はガチガチの凍土。特定の誰かを愛する心なんか、とうの昔に壊れてんの。お前のその眩しすぎる『光』じゃ、一生かかってもあの女の氷は溶かせないよ」
筑紫の個性が、オールマイトの心から溢れ出る「それでも彼女を守りたい」という、ワン・フォー・オールの重すぎる責任感と純愛を捉える。
その熱量に当てられ、筑紫はポケットの中で拳を強く握りしめた。
「これ以上、あいつに近づくな。これは俺個人の忠告じゃない。
……『ヒーロー公安委員会』としての、公式な警告だ。これ以上、あんたが彼女の周囲をうろついて日常を脅かすなら、公安として、No.1ヒーローであるあんたに対しても、相応の『措置』と『警告』を行わなきゃならなくなる。
……そうなれば、あの子は二度と、この病院の土を踏めなくなる。外界から完全に遮断されて、真っ白な部屋に引き戻されるんだよ。あんたのそのバカデカい愛のせいでさ」
「っ……!」
オールマイトの息が止まった。世界を救う最強の男が、一人のエージェントの警告の前に絶句し、その拳を震わせる。どれだけ強くなろうとも、公安という国家の闇から、彼女を救い出す術を今の彼は持っていなかった。
もし自分が近づけば、彼女をさらに深い地獄の檻へ閉じ込めることになる。
その残酷な現実を、筑紫の鋭い先読みが、完璧に突きつけていた。
「分かったなら、さっさと平和の象徴のお仕事に戻りなよ。
……本当にやりづらいったらありゃしない」
筑紫は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返し、ポケットに手を突っ込んで祈のいる中庭へと戻っていった。
背後では、届かない光を前にしてただ立ち尽くしているオールマイトの気配がする。
お仕事だから、と割り切っていたはずの日常。
だが、世界最強の男に警告を突きつけた筑紫の胸の奥には、公安への裏切りと、彼女を誰のモノにもしたくないという執着の炎が、いよいよ消せないほどに大きく燃え上がり始めているのだった。