―――ついにこの日がやってきた。
「――おい、筑紫。神代 祈の経過観察報告書に、また数行の不備がある。一度、本部に直接戻って説明しろ」
公安上層部からの冷徹な呼び出しの通信が、教会の通信機に響いたのは、オールマイトに警告を突きつけた数日後のことだった。
表向きは『定期査定と書類の修正』。
だが、オールマイトの執拗な接近に、公安の中枢がいよいよ不審の目を向け始めた兆候であることは、筑紫の鋭い『先読み』の直感が告げていた。
今回の呼び出しに合わせ、祈と啓悟の二人も、公安の『定期健康診断』という名目で同時に連れて行かれることになった。
ただし、行き先は別々だった。
祈は公安の厳重なセキュリティ下にある隔離病院の特別病棟へ。
そして筑紫と、彼に連れられた啓悟の二人は、そこから数キロ離れた公安委員会の『中央本部ビル』へと呼び戻されたのだ。
「……相変わらず、吐き気がするほど真っ白で趣味の悪いビルだねぇ」
公安本部の冷たいリノリウムの廊下。
黒スーツのネクタイを少し緩めながら、筑紫はポケットに手を突っ込んで気だるげに毒を吐いた。
その一歩後ろを歩く啓悟は、周囲をせわしなく見張る公安の黒スーツたちの視線を、背中の赤い羽を不快そうに小さく羽ばたかせながら睨み返している。
いつのまにかプロ一歩手前の鋭さを纏い始めた啓悟の横顔には、いつも教会で見せるような甘えは一切なかった。
「なぁ、筑紫さん。なんでおねえちゃんだけ、あっちの病院に置いてこなきゃならなかったんだよ。あいつら、またおねえちゃんに酷い実験をしてるんじゃないのか」
「声がデカいよ、ガキ。お仕事の場に私情を持ち込むな」
筑紫は、ある程度の情報を啓悟に渡していた。
というのも、祈に直接聞いても教えてもらえないと理解した啓悟が、直接筑紫に問いただしただけなのだが。
筑紫は気だるげにため息をついたあと、ぽつぽつと、祈が公安から受けた仕打ちについて話し始めたのであった。
「でも…」
「あっちの病院の方が、お前の大好きな『うちのエルフもどき』のデータを取るための、最新の冷たい機械が揃ってるってだけの合理的な理由だよ。
……ま、俺たちがここで上層部のクソジジイどもを納得させりゃ、すぐにまたあの子を回収して教会に帰れる。お前はただ大人しく、俺の後ろで便利な最高傑作のフリしてな」
筑紫はそう言って啓悟の頭を乱暴に小突き、最奥にある重厚な応接室の扉を開けた。
部屋の奥、巨大なデスクの前に座る公安上層部の男が、感情の失せた冷ややかな目で筑紫を見上げる。
筑紫の共感層が、男の脳内から漏れ出る「筑紫が本当に職務を全遂しているか」「特A級サンプルの周囲で、オールマイトの目撃証言が多すぎるのは何故だ」という、冷徹な疑念のノイズを瞬時に受信した。
「筑紫。提出された今月の報告書だが、神代 祈の『精神的な安定』に関する記述が些か抽象的だな。彼女の『愛の封印』に、本当にひび割れなどの兆候はないのだな?」
「ええ、ありませんよ。相変わらず中身はガチガチの凍土です。特定の誰かを特別に想う心なんか、一滴も残ってません。ただ神父の遺言をロボットみたいに実行して、おめでたい博愛の笑顔を浮かべてるだけです。
……データを見れば分かるでしょう、個性の因子も完全にコントロール下にありますよ」
筑紫はソファに深く腰掛け、足を組みながら、平然とした嘘の言い訳を滑らかな敬語で捲し立てた。
彼の『先読み』の個性が、男が次に「では、なぜオールマイトが――」と問い詰めてくる未来のセリフを、一秒先から完璧に捉えていた。
「ならば、ここ数年、彼女の行く先々でオールマイトが目撃されているという報告は、一体どういうことだ?」
「ああ、あれですか」
筑紫は鼻で笑い、缶コーヒーを飲むような気軽さで、あらかじめ用意していた完璧な嘘を並べ立てる。
「ただの偶然の怪奇現象ですよ。あいつ、世界を救う『平和の象徴』のお仕事で頭がイカれてるのか知りませんけど、最近あの周辺のヴィランを過剰に駆除して回ってるんです。お陰でこっちの警戒任務(お仕事)はクソ楽なんですけどね。神代さんが病院でボランティアしてる時も、ただの通院のついでに中庭の植物の影でモジモジうろうろしてるだけです。接触? させてませんよ。あんなバカ大男の眩しい光、うちのサンプルの凍った心には一ミリも響きやしませんから。
……俺が完璧に見張ってます、お仕事ですからね」
筑紫のその完璧な、淀みない『先読みの嘘』の前に、上層部の男はそれ以上の追及の手がかりを失い、忌々しそうにカルテを叩いた。
「……フン。お前が完璧に管理していると言うなら、今回はこれ以上の追及はせん。だが忘れるな、筑紫。彼女は死すら手繰り寄せる大量破壊兵器だ。もし制御を失えば、あの宗教団体のように、周囲の人間を全て巻き込んで『処理』することになる」
「――っ」
筑紫の背後に控えていた啓悟の背中の赤い羽が、男の「処理」という言葉に反応して、殺意を孕んでピンと逆立った。
筑紫はそれを先読みし、男が気づくよりも速く、啓悟の足元を自分の革靴で強く踏みつけて強引にその動きを抑え込んだ。
「分かってますよ。そんな最悪な事態にならないよう、丁重に見張るのが俺の役目ですから。
……修正書類のサインはこれで終わりですね? じゃ、俺たちは病院でサンプルを回収して、さっさと田舎の教会に帰らせてもらいます」
筑紫はサインを終えた書類を放り投げると、まだ男を睨みつけている啓悟の首元を掴み、乱暴に応接室を後にした。
白い廊下に出た瞬間、啓悟は筑紫の手を振り払い、激しい戸惑いと怒りの混ざった声で噛みついた。
「なんで止めるんだよ、筑紫さん! あいつ、今おねえちゃんを『処理』するって……!」
「お前さぁ、本当に心がうるさいわけ。あいつの脳内で次に出る『警備の呼び出しの意志』まで完璧に先読みしてやってんだよ、こっちは。ここで暴れて公安の犬どもを敵に回したら、それこそあっちの病院にいるおねえちゃんに二度と会えなくなるぞ。それとも何か? お前はまだ、あのバカデカいオールマイトの光に頼って、おねえちゃんを奪われる方がマシなわけ?」
「……っ、そんなの、絶対に嫌だ……!」
啓悟は顔を複雑な悔しさに染めて拳を握りしめ、背中の羽を固くすぼめた。
オールマイトがうろうろしているだけでこれほど公安の目がピリつき、大切な人の安全が脅かされる。
世界最強のヒーローがどれだけ近くにいたところで、この国家の闇の檻から、おねえちゃんを救い出す術を今の自分たちは持っていない。
その残酷な無力さを、筑紫の冷徹な言葉が、完璧に啓悟に突きつけていた。
「分かったなら、さっさと行くよ。お前も健康診断あるだろ」
「…わかった」
「なんつーか、ほんとにお仕事ってのは、やりづらいったらありゃしない」
筑紫はネクタイを乱暴に緩め、冷え切った顔で歩き出す。
お仕事だから、と割り切っていたはずの嘘の報告書。
だが、世界最強のヒーローの影と、公安の容赦ない冷徹さの狭間で、彼女を誰のモノにもしたくないという筑紫の胸の奥のどす黒い未練は、いよいよ引き返せない破滅へのカウントダウンを刻み始めていた。