その日の夜も、古い木造の教会は、いつものように不器用で、けれど酷く愛おしい平穏に満たされていた。
「筑紫さん、今ので三十回目!! ほら、今の剛翼の軌道、絶対に先読みのタイミングをズラせてただろ!」
「いや、全然。お前さぁ、羽を放つ直前に『これでどうだ!』ってドヤ顔するのやめな。心がうるさいどころか顔に出まくってて、読むまでもないんだけど。なんつーか、表情に出ないように気をつけなさいよ」
「あんたが早すぎるんだって!」
「はぁ、本当に面倒くさいガキだねぇ。だったらゴーグルか何かで顔隠しておきな。せっかく動体視力がいいんだから、視線で攻撃するところバレたらもったいないだろーが」
「くそー!!」
教会の裏庭、夜の冷たい空気の中で、体が出来上がりつつある啓悟が木刀を握りしめて筑紫に食ってかかっていた。
20代中盤になり、公安のエージェントとして脂の乗り切った筑紫は、相変わらず黒スーツのポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうに缶コーヒーを揺らしている。
「筑紫様、啓悟くん。夜風が冷えてきましたよ。温かいスープができておりますから、早く中へお入りなさい」
礼拝堂の勝手口から、黒い修道服に白いレースのヴェールを被った祈が、穏やかな声を響かせる。
その瞬間、啓悟は「おねえさん! 今行く!」と木刀を放り投げて笑顔で駆け出し、筑紫は「はいはい、お仕事終了」と、ネクタイを少し緩めて後に続いた。
啓悟は祈のことを「おねえさん」と呼ぶようになっていた。
「おねえちゃん」と呼んでいたころは幼さが残っていたが、今や声も変わり身長も伸び、祈の背を追い越そうとしている。
「今日はなんのスープ?」
「ふふ、お野菜をたくさんいただいたので、ミネストローネにしました。熱いので気をつけてくださいね」
「おーおー、また張り切っちゃって」
テーブルを囲み、三人で囲む温かい夕食の時間。
それは、公安の『監視員』と『最高機密』と『使い捨ての最高傑作』という、歪極まりない檻の中に作られた、偽物の家族の形だった。
(……あーあ。本当に、やりづらいったらありゃしない)
スープを口に運びながら、筑紫は内心で、そんな自嘲気味な愚痴をこぼしていた。
祈にも、啓悟にも、笑顔が増えた。
そして認めたくはないが、自分自身も、文句を言いながらもこの生活を大切にしていることを自覚していた。
最初の頃は、中身が凍土のくせに聖人のように振る舞う祈を、背筋が凍るほど薄気味悪いと思っていた。
生意気な啓悟の面倒を見るのも、上層部から押し付けられた最悪の厄介事だと思っていた。
すべては、割り切ったお仕事。
ただの、冷徹なルーティン。
そう自分に言い聞かせ、嘘の報告書を毎月でっち上げてきた。
だが、数年という歳月は、ひねくれた筑紫の心をあまりにも静かに、そして決定的に毒し抜いてしまっていた。
麻薬というにもあまりにも甘い毒。
毎朝、彼女の淹れてくれるハーブティーを飲み、生意気なガキの剛翼を躱し、回数は減ったがたまに病院でうろうろしているトレンチコートの『うちのエルフもどき』に執着するバカ大男に、胃を痛めながらキレ散らかす。
口では面倒くさがり、早く田舎のネズミ捕りにでも左遷してくれと嘯きながらも、筑紫は、この教会のなかにある穏やかな時間のすべてを、誰よりも深く、狂おしいほどに愛してしまっていたのだ。
このまま、交わらない平行線のまま、あと数年。
このガキが正式にプロとしてデビューして、俺たちの『お仕事』の形が変わるその日まで、この奇妙で愛おしい日常が続いてくれればいい。
筑紫の個性『共感層(シンパシー)』が、二人の濁りのない温もりを受信し、彼の胸の奥を静かに満たしていく。
――だが。
世界と国家の闇は、彼らにそんな「人間らしい未練」を許すほど甘くはなかった。
ジリリリリリリリリリリリッ!!!
突故として、教会の祭壇の奥に隠された、公安専用の通信機から、鼓膜を裂くような、悍ましい緊急警報の赤色灯が鳴り響いた。
一瞬にして、食卓の空気が凍りつく。
筑紫の『先読み』の直感が、背筋の毛穴という毛穴が総毛立つような、未曾有の災厄の到来を察知して、冷たい汗が全身から噴き出した。
「筑紫さん……?」
「……神代さん、啓悟。そこでじっとしてろ」
筑紫は椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、祭壇の通信機のスイッチを叩きつけた。スピーカーから飛び出してきたのは、これまで聞いたこともないような、公安上層部の、悲鳴と狂乱の混ざった怒号だった。
『――全エージェントに通達!! 雄英街区において、オールマイトが、敵(ヴィラン)の首魁であるオール・フォー・ワンとの戦闘により瀕死の重傷!! 現在、✕✕病院へ緊急搬送中である! 筑紫、お前は直ちに特A級サンプルを確保し、万が一の治癒のスペアとして、✕✕病院へ連行しろ。 繰り返す、最高警戒態勢だ!!』
「っ……、オール、マイトが……!?」
啓悟が驚愕に目を見開き、息を呑む。
テレビの向こうでいつも笑っていた、あの無敵のヒーローが死に駆けているという現実に、啓悟は声を失った。
だが、筑紫の脳裏を過ったのは、平和の象徴の危機に対するヒーロー的な焦燥ではなかった。
(八木俊典……! お前、何やってんだよ、世界最強のくせに……っ!)
筑紫の『共感層』が、通信の向こう側から漏れ聞こえる、公安の大人たちのどす黒い打算を受信していた。
『平和の象徴を死なせるな、だが、もし治療が不可能であれば、あのサンプルの力を強制的に削り取ってでも繋ぎ止めろ』――。
「……チッ、最悪だ……!!」
筑紫は自分のネクタイを乱暴に引きちぎり、叫ぶように祈を振り返った。
(頼むから……頼むから神代さんを、あの子を巻き込まないでくれよ……っ!)
あのバカ大男が、トレンチコートを着て大根を握って怪しい反復横跳びを繰り返していた、あの馬鹿馬鹿しくて愛おしかった日常。
筑紫が嘘の報告書を書いてまで必死に隠し、守ってきたあの教会の平穏が、公安の『命令』という絶対的な鎖によって、跡形もなく押し流されようとしている。
「筑紫様、行きましょう。公安の命令です。
……それに、八木様が、助けを求めていらっしゃいます」
祈は、いつものように静かに立ち上がり、椅子に座ったままの啓悟の肩にそっと手を置いた。
彼女の心は裏切りの傷で凍りついている。
けれど、エリアス神父の遺言を呪縛のように抱えた彼女の肉体は、公安の命令に従うフリをしながらも、目の前の命を救うための『救済の自動人形(ロボット)』として、もう誰の手にも止められないほどに完成してしまっていた。
「おねえさん……。うん、俺もおねえさんを守るために、一緒に行く…!」
「クソがッ……!!」
筑紫は激しく床を蹴り、二人を車に乗せて、雨が降り始めた夜の街へと猛スピードで車を走らせた。
道が悪かった。
上層部の胸糞悪い命令に逆らえず、自分の手で彼女を地獄の現場へと連れて行かざるを得ない己の無力さに、筑紫はハンドルを握る手に血がにじむほど力を込めた。
辿り着いた中央病院の救急ロビーは、文字通り地獄の様相を呈していた。
幾重もの公安の黒スーツたちが銃を構えて通路を完全封鎖し、医師や看護師たちの悲鳴混じりの怒号が、赤色灯のノイズと共に響き渡っている。
「特A級サンプルを連れてきたな、筑紫! 奥のオペ室へ待機させろ、もしもの時は――」
公安の職員が冷酷にそう言い放った、その時だった。
自動ドアが、勢いよく左右へと跳ね上がった。
「どけッ! ストレッチャーを通せ!! 心音停止まであと数十秒だ、急げ!!」
血まみれの白衣を着た医師たちに押され、搬送されてきたその『巨躯』を目にした瞬間、ロビーにいた全員が息を呑んだ。
そこにいたのは、誰もが知る無敵の平和の象徴ではなかった。
呼吸器官はズタズタに引き裂かれて形を失い、全身の臓器は内側から潰され、何より、その左腹部が、抉り取られたようにぽっかりと凄惨な赤黒い穴を空けている。
緊急処置に追われている医師や看護師たちが止血を試みているようだが、明らかに溢れ出る血液の量の方が多い。
いつ出血多量によるショック死をしてもおかしくない、肉塊と化した、死の手前の八木俊典の姿だった。
ストレッチャーが通った後は血だまりができ、その場に鉄臭い血の匂いと、肉の焼け焦げる嫌な匂いが立ち込めた。
まずい。
彼女に、今の彼の姿を見せてはいけない。
筑紫は、自分の背後に隠していた二人が、息を呑むのを感じた。
「――っ、八木、様……!!」
そして黒い修道服の裾を翻し、祈が、筑紫の制止をすり抜けて激しく駆け出した。
筑紫の個性『先読み』が、彼女が次の瞬間に、胸元のロザリオを自分の命の器を粉々に砕いて異能を暴走させる、最悪の未来の映像を完璧に捉えた。
ぞっとした。
「やめろッ!! 」
割り切ったお仕事の境界線を、神様にはなれない彼らの偽物の平穏を、完全に終わらせる筑紫の絶叫が、夜の病院のノイズの中に、虚しく掻き消されていくのだった。
伸ばした指先が、彼女の黒い修道服の生地をかすめ、虚しく空を切った。
(なんで、動けない――っ!)
筑紫の脳内には、彼の持つ『先読み』の個性が、最悪の映像をこれでもかと鮮明に突きつけていた。
一秒後、祈がストレッチャーに縋り付く。
二秒後、彼女を縛り付けていた銀色のロザリオが、限界を超えた異能の逆流によって粉々に砕け散る。
三秒後、世界最強の男の肉体が再生を始め、引き換えに、祈の体内の臓器が内側から悲鳴を上げて弾け飛ぶ――。
分かっている。
一秒先の未来のすべてが、確定した映像として頭に流れ込んできている。
『先読みの怪物』と恐れられた俺の異能なら、どんな敵の不意打ちだって最小限の動きで躱し、的確に処理できたはずだった。
なのに、どうしてだ。
どうしてこの確定した最悪の未来だけは、俺のこの鈍い身体は、どれだけ血を吐く思いで足を動かそうとしても、絶対に間に合わない。
(オールマイトと彼女に接点はないはずなのに、どうして――っ!!)
筑紫の胸の奥で、引き裂かれるような血の叫びが暴れ狂っていた。
あいつが病院の中庭でうろうろしていた数年間、俺は公安の目を欺くために嘘の報告書を書き続け、あいつには直接「これ以上近づけばあの子は真っ白な部屋に引き戻される」と公式な警告まで突きつけて、完全に二人の距離を切り離したはずだった。
彼女は、あの男と一度だってまともに言葉を交わしたことはない。
あの男の正体がオールマイトだと知った時だって、「やばくない?」と引いていた啓悟とは対照的に、「お野菜を買いに来ただけですよ」といつも通りおっとり笑って、ただの『疲れた大男』として綺麗にスルーしていたはずだった。
接点なんか、どこにも無かった。
二人の線は、永遠に交わらない平行線のはずだった。
それなのに、どうして。
どうして彼女は、あの大男が血まみれの肉塊になって運ばれてきた瞬間、自分の世界の全てだったエリアス神父の遺言すら踏み越えるような悲鳴を上げて、迷わずに命を投げ出せるんだ。
(お前がそんな顔をして駆け出す理由なんて、俺の『共感層』のどこを探したって、どこにも無かったはずだろ……ッ!)
筑紫の個性が、彼女の心に触れる。
そこには相変わらず、裏切りの傷に染まったガチガチの凍土が広がっている。
誰のことも特別に想わない、誰も信じないと決めた冷たい暗黒。
なのに、その氷の底から、彼女自身すら自覚していない、狂おしいほどの『何か』が、火山のように凄まじい熱量で噴き出し、彼女の身体を八木俊典の元へと突き動かしている。
――ああ、そうか。
筑紫は、自分の胸の奥が、生まれて初めてドロドロとした濁流のような『嫉妬』と『絶望』で焼き切れていくのを感じていた。
彼女の凍りついた心は、オールマイトの眩しすぎる光に触れたあの瞬間から、本人の意思とは関係なく、無意識のうちに、あの男の命を自分の命以上に特別だと選んでしまっていたのだ。
愛がわからないはずの、お人好しのお人形のままで。
「やめろ……やめてくれ、祈……ッ!!」
筑紫は、生まれて初めて神様を恨んだ。
超常黎明期の地獄を生み出し、彼女を生き神として切り刻んだこの狂った世界を恨む。
彼女をただの治癒のスペアとして使い捨てようとする、公安のクソ上層部を恨む。
世界を救うために自らをすり潰し、挙句にボロボロになって彼女の平穏を巻き添えに壊しにきた、あの世界最強の男を恨む。
そして何より――。
数年間も特等席で彼女の隣にいて、毎朝美味しいスープを食べさせてもらい、彼女の「筑紫様のお心は温かい」という言葉に毒気を抜かれておきながら。
彼女の心の凍土に、1ミリのひび割れも作れず、あの男の光に一瞬で負けてしまった、己のこのひねくれた無力な魂を、筑紫は死ぬほどに呪った。
医者と看護師が、祈をストレッチャーから離れるように指示をする。
しかし、公安の黒スーツ共がそれを止めた。
「サンプルを試せ!!」
「固定しろ! 異能を最大出力で八木に注ぎ込ませるんだッ!!」
筑紫の『先読み』通りに、周囲の公安の黒スーツどもが冷酷な声を張り上げ、一斉に彼女の元へと群がっていく。
一秒先の未来が、ついに現在へと追いつく。
筑紫の視界の先で、祈の細い両手が、八木俊典の潰れた胸元へと 翳された。
パキン、と。
教会の冷たい空気の中で、彼女が何よりも大切に握りしめていた、銀色のロザリオが――
彼女を世界に繋ぎ止めていた、公安の歪な精神の首輪が、あまりの個性の過剰駆動によって、音を立てて粉々に砕け散った。