パキン、と。
銀色のロザリオが砕け散る。
それは彼女を世界に繋ぎ止めていた公安の首輪であり、同時に、信じていた神父への裏切りの絶望から自らを守るための、頑なな仮面の終わりでもあった。
白光が視界を埋め尽くす精神の底で、祈の意識は、走馬灯のように数年間の淡々とした日常の記憶を巡っていた。
――本当は、ずっと気がついていたのだ。
中央病院の中庭で、車椅子の子供たちに絵本を読み聞かせているとき。あるいは、街の小さなスーパーで、夕食のための野菜を吟味しているとき。
いつだって、少し離れた物陰から、白いレースのヴェールの網目を突き抜けて届くほどの、強烈な視線があった。
トレンチコートの襟を立て、サングラスをかけ、あるときは人参、あるときは白菜を握りしめてうろうろしている、あの信じられないほどの巨躯を持つ大男。
筑紫はいつも「世界最強のストーカーだ」「脳内ピンクポエムで頭が割れそう」「本気でうぜぇ」と胃を押さえてキレ散らかしていたけれど、祈にとって、その男――八木俊典は、何よりも『不思議な人』だった。
(いつ、話しかけてくださるのかしら)
薄い白いレースの向こう側で、祈はいつも、ほんの少しだけもどかしい気持ちを抱えていた。
何年もの間、行く先々に現れるというのに、彼は決して祈に話しかけようとはしてこなかった。
祈の側は、いつ話しかけられてもいいように、心の準備をしていたのだ。非の打ち所がない丁寧な敬語を頭の中で用意して、彼が「こんにちは」と言ってくれるのを、今か、今かと待っていた。
なのに、あの大きな身体をこれでもかと縮こまらせて、物陰からモジモジとうろついているだけで、一向に距離を縮めてはくれない。
(話しかけてくださればいいのに。……私は、あなたとお話がしてみたいです)
それは、心を凍らせたはずの自動人形には、決して宿るはずのない、ひどく初々しい願いだった。
どうして話しかけてくれないのだろう。もしかして、私が何か粗相をしてしまったのかしら。
そんな風に、一人でそわそわと思案した夜だって、一度や二度ではなかったのだ。
実の親に生き神として切り刻まれたらしいが、その記憶は自分の中には残っていない。
神父の報告書によって「誰も信じない」と心を閉ざした祈にとって、大人の視線はすべて、搾取と打算に塗れた悍ましい暴力でしかなかった。
だからこそ、顔を隠すように黒い修道服を着て、白いレースを被っていた。
なのに、あの男の視線は、不思議とちっとも怖くなかった。
(むしろ……とても、温かい)
サングラスの奥から注がれる彼の視線は、祈の凍りついた心の肌に、まるで日向ぼっこのような心地よい体温を伝えてくる。
テレビの向こうで「私が来た!」と豪快に笑ってみせるのだと、子供たちは揃って言う。
誰もが恐れ敬う世界最強の男。
それほどに強い人のはずなのに、どうして私の前では、あんなに迷子の子どものように怯えて、モジモジとうろついているのだろう。
何がそんなに怖くて、あんなに優しそうな目で私を見つめているのだろう。
お話してみたい。
あの大きな声で、私の名前を呼んでくれたなら、どんなにいいだろう。
けれど同時に――どれだけ脳内で情熱的なポエムを爆発させていても、決して無理に踏み込んでこようとはせず、ただ静かに見守ってくれている彼のその「不器用な境界線」が、傷つきやすかった祈の心を、逆にひどく安心させてくれていたのも事実だった。
愛なんて、わからない。
特定の誰かを特別に想う心の部屋には、分厚い氷の鍵がかかっている。
けれど。
(……死なないでください)
肉塊と化してストレッチャーで運ばれてきた彼の凄惨な姿を見た瞬間、祈のなかで、数年間分の「もどかしさ」と「話してみたいという願い」、そして「あの温かい視線を失いたくない」という狂おしいほどの情愛が、一瞬にして爆発した。
神父様の遺言だから人を救うのではない。公安の命令だからスペアとして動くのでもない。
ただ、あの不思議で、優しくて、眩しすぎる大男と――いつかちゃんと、言葉を交わしてみたいから。
「――っ、八木、様……!!」
精神の底から現実のロビーへと意識が引き戻された瞬間、祈の細い両手が、八木俊典の壊れた胸元へと強く翳された。
首輪を失った彼女の真の異能が、生と死の境界線を強引にひっくり返すようにして、凄まじい白光と共にロビー全体へと暴走気味に解放されていく――。
「が、はっ……、ぁ……、あ、大……」
ストレッチャーの上、八木俊典の口から漏れ出るのは、人間が発するそれとは思えない、ゼリー状の血を孕んだ悍ましい呼吸音だった。
千切れた肺胞が虚しく収縮を繰り返し、潰された臓器が蠢くたびに、内側からボコボコと不気味な音が鳴り響く。
抉れ落ちた左腹部からは、止めどなくどす黒い血が溢れ出て床のリノリウムを赤く染めていた。
死の淵――いや、すでに彼の魂の半分は、あの世の暗闇へと片足を踏み外している。
誰もがその命の終わりを確信した、まさにその瞬間だった。
「――『還りなさい』」
祈の、地を這うような静かな、けれど絶対的な「命令」が静寂を切り裂くようにしてロビーに響き渡った。
刹那、彼女の細い両手から溢れ出た白光が、八木俊典の凄惨な肉体を完全に包み込んだ。
世界の理を、生と死の境界線を、彼女の秘めた真の異能が強引に、暴力的なまでの熱量でひっくり返し始める。
ベチャ、ドロリと、信じられない音が肉塊から鳴り響いた。
八木俊典のズタズタに崩壊していた呼吸器官が、生き物のように蠢きながら自らを再構築していく。
ぶちゅぶちゅと不快な音を立てて千切れた気管が繋がり、押し潰されていた内臓の諸々が、急速に肉の壁を盛り上げながら元の形へと融解し、組み上がっていく。
それは、通常の『治癒』などという生温かい概念ではなかった。
死にゆく肉体を強引に現世へ引き戻し、消失した細胞を無理やり造り直す、神の領域への冒涜――魂の蘇生そのものだった。
「ひ、ぐ……っ、ぁ、あああああああッ!!」
肉体と魂が強引に繋ぎ合わされる激痛に、八木俊典の巨躯がストレッチャーの上で狂ったように激しくのけ反った。
形を取り戻した肺が、一気に酸素を求めてヒューヒューと悲鳴のような呼吸を吸い込み始める。
だが、世界の均衡は残酷だった。
死をエネルギーとして生へと変換するその悍ましい異能は、同時に、発動者である祈の肉体を、内側から容赦なく噛み砕き始めた。
「――が、ふっ……ひ、あ……ッ」
祈の白いレースのヴェールの下から、どろりと、夥しい量の鮮血がぶち撒けられた。
八木俊典の肉体が再生していくのと完全に同期して、祈の体内の臓器が、内側から爆発するようにして次々と引き裂かれ、損傷していく。
激しい貧血により、目の前がパチパチと弾け、内臓が破裂していく凄絶な激痛が彼女を襲う。
それでも、祈は止まらない。
いや、ロザリオという首輪を失った力は、彼女の命の器をすべて吸い尽くすまで、止まることを許さなかった。
バキバキと肉が爆ぜる音が響く。
八木俊典の壊滅していた内臓の大部分が形を取り戻していく。
だが、あまりにも重すぎる傷、そして祈自身の体力と命の限界が、ついにその限界線を告げた。
世界の理を強引にひっくり返す白光のなかで、肉と骨が蠢く悍ましい音が救急ロビーに響き渡る。
八木俊典の潰れていた呼吸器官が急速に形を取り戻し、本来なら全摘出されるはずだった胃袋までもが、彼女の異能によって奇跡的にその内側で再生を遂げていく――。
だが、それが彼女の肉体の全エネルギーを絞り出す限界だった。 抉り取られていた彼の左腹部。
骨まで露出していたその巨大な穴は、肉が急速に盛り上がり、出血を止めて傷口を塞ぐところまでは到達したものの、消失した肉の大部分を埋める完全な再生には至らず、深く歪な傷痕を残したままで強引に『融解』がストップした。
ガチリ、と世界の秒針が元の冷たさに戻る。
「か、はっ……、ごほっ、が……っ!!」
八木俊典の呼吸が劇的な安定を見せたその瞬間、祈の小さな身体が、糸の切れた人形のように激しく折れ曲がった。
彼女の口から、夥しい量の鮮血が床へとぶち撒けられる。
漆黒の修道服の腹部からもじわりと不気味な赤黒いシミが広がり、損傷した内臓から溢れ出た血が、スカートの裾を伝って床へとボタボタと流れ落ちた。
顔の血気が一瞬で引き、白紙のようになった祈は、そのままストレッチャーの脇へ崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。
その場にいた医師や看護師たちは、あまりにも怪奇的で、悍ましい『異能の暴走』に対する本能的な恐怖と嫌悪に言葉を失い、ただただ愕然とした。
一方で、それを取り囲む公安の黒スーツの人間たちは、冷酷なまでに落ち着いていた。
「最高機密(サンプル)の最大出力、観測完了。オールマイトの心音復活。止血、臓器の再構築を確認」
「すぐに特A級サンプルを拘束しろ。地下の檻へ移送する」
彼らにとって、祈の流した夥しい血も、引き裂かれた激痛も、ただの「素晴らしい実験データ」に過ぎなかった。
倒れた祈の元へ、冷酷な革靴の音が幾重にも近づき、冷たい手錠がその細い手首にかけられようとする。
「――っ、触るんじゃねえ、クソ野郎どもがっ!!」
筑紫がポケットから手を引き抜き、獣のような俊敏さで公安の黒スーツたちに掴みかかった。
普段の気だるげな態度は完全に消え失せ、感情を剥き出しにして、迫り来る職員たちを次々と殴り飛ばし、力任せに引き剥がしていく。
完璧に割り切っていたはずのお仕事の境界線を、彼女を誰のモノにもしたくないというどす黒い執着のために全て踏み越えて、筑紫はただ狂ったように暴れ狂った。
だが、その圧倒的な先読みの強さをもってしても、国家の闇の包囲網はあまりにも厚く、容赦がなかった。
幾十人もの黒スーツが津波のように押し寄せ、筑紫の身体を床へと力任せに組み伏せていく。
手錠の冷たい音が、幾重にも重なってロビーに響き渡る。
「……あ……、おねえ、さん……」
そんな地獄のような混沌のなかで、後に残されたのは、ただ涙を流して立ち尽くす啓悟だった。
大好きな人が血まみれで拘束され、自分に戦い方を教えてくれた師匠の筑紫が床にねじ伏せられ、公安の闇に引き裂かれていく。
プロデビューを控えた『最速の最高傑作』のはずの自分は、木刀を握りしめたまま、その圧倒的な公安の鎖の前に、ただの一歩も踏み出すことができなかった。
頭が真っ白になり、音の消え去った世界で。
啓悟は、ボロボロになった自分の足元を見つめていた。
そこには、床のリノリウムを真っ黒に染めるほどの、悍ましい巨大な血だまりが広がっていた。
世界の救世主であるオールマイトが流したものなのか。
それとも、自分を優しく一人の人間として抱きしめてくれた、あの大好きな祈おねえさんが吐き散らしたものなのか。
もう、誰のものかも分からない。
二人の命の残滓がドロドロに混ざり合ったその血だまりを、啓悟は、ただ声を上げて泣きながら、狂ったようにじっと見つめ続けることしかできなかった。
神様にはなれない彼らの、歪で温かかった教会の日常は、この凄惨な血の海をもって、完全に、そして最悪な形で幕を閉じるのだった。