「瀕死のオールマイトに対し、特A級サンプルに上手いこと個性を使わせ、平和の象徴を繋ぎ止めたのはよくやった、筑紫」
公安本部の最上階。
巨大なデスクの奥に座る『偉い人』は、手元の書類から目を離すことすらなく、冷酷なまでに平然とした声でそう告げた。
部屋の空気は、あの血まみれの夜から何も変わっていないかのように、吐き気がするほど白くて冷たい。
「国の上層部もヒーロー界も、今オールマイトに死なれるのは都合が悪いのだよ。社会の平穏という名の『忖度』、政治の維持、ヴィランどもへの抑止力……平和の象徴には、泥水をすすってでも神輿のトップに居座り続けてもらわねばならん。その意味では、サンプルの最大出力を引き出したお前の機転は評価に値する」
「……は。ありがたいお言葉ですねぇ」
筑紫はソファに深く腰掛け、ポケットの中で拳を血がにじむほどに強く握りしめていた。
筑紫の共感層が、目の前の男の脳内から溢れ出るドロドロとした打算を強制受信し続けている。
男の頭の中にあるのは、一人の少女の命が擦り切れたことへの心配などではない。
ただ『便利な最高級のスペア』を使って、『都合の良い最高級の神輿』を延命できたという、極限まで腹黒い計算だけだった。
そのどす黒い打算に、筑紫は内臓を直接焼かれるような激しい怒りと腹立たしさを覚えていた。
だが、公安という巨大な国家の闇を前に、今の自分には言われた通りにするしかないという冷酷な無力さが、彼の喉元を締め付ける。
「……だが、筑紫。それまでに何年にも渡って二人の接触を隠蔽し、公安に対して虚偽の報告を流し続けた罪は見過ごせん」
「接触はさせてませんよ」
「まだ言うか…お前は前々から『地方の田舎の暇職にでもなりたい』と溢していたな?」
偉い人はようやく顔を上げ、冷徹な目で筑紫を見据えた。
「――望み通りにしてやる。明日から地方へ飛べ。特A級サンプルの護衛は本日をもって解任とする。明日からは研究室の地下の檻で、完璧な管理下に置くことに決定した」
「……了解ですよ。お仕事ですからね」
筑紫は立ち上がり、完全に感情の消え失せた死んだ目で書類にサインをすると、私服の入った重い鞄を片手に、応接室を後にした。
公安の冷たい廊下。
エレベーターの前で、じっと立ち尽くしている啓悟の姿があった。
大好きなおねえさんを地下深くへ奪われ、唯一の兄貴分であり師匠だった筑紫まで失う。
啓悟の背中の赤い羽は、激しい怒りと絶望でバタバタと狂ったように逆立ち、小刻みに震えていた。
「筑紫さん……俺、おねえさんを……」
「泣くなガキ。心がうるさい」
筑紫はいつも通り気だるげに頭を掻き、啓悟を見下ろした。
だが、その時の筑紫の顔には、これまでのやる気のない余裕は一滴も残っていなかった。
その瞳の奥には、公安への底暗い憎悪と、何年かかろうとも必ず全てを奪還するという、本物の、猛烈な『覚悟』の炎がギラギラと宿っていた。
「……っ」
その筑紫の顔を見た瞬間、啓悟の息が止まった。
師匠のその瞳の奥にある覚悟を、啓悟の鋭い直感が完璧に理解したのだ。
ここで泣いて暴れても、おねえさんは救えない。
公安の犬どもを敵に回したら、二度と会えなくなる。
だったら――。
啓悟の顔つきが、纏う雰囲気が変わった。
子供らしい甘えや悔し涙が一瞬にして消え失せ、筑紫と同じ、泥水をすすってでも潜り込むという冷徹な大人の男の顔へと、その眼差しが鋭く変貌した。
筑紫はフッと自嘲気味に口角を上げる。
「いいか、強くなれ。公安の操り人形として、あいつらの言う通り『最速のヒーロー』に成り上がれ……俺があの子の檻の鍵を、泥水すすってでも必ず作り直すまで、お前は上層部の懐に深く深く、誰よりも潜り込んどけ。
……お前へのレッスンは、これで本当に終了だ」
「…」
「じゃあな、最速の弟子」
「……分かった。俺、あいつらの最高傑作になってみせるよ」
それが、師弟の交わした最後の対話だった。
◇
これ以降、啓悟は驚くほどに大人しくなった。
公安の言いなりになり、感情を完璧に殺し、ただ最速のヒーロー『ホークス』として成り上がるための冷徹なマシーンへと、彼は自らを磨き始めることになる。
翌日からのテレビのニュースは、世界最強のヒーロー・オールマイトがヴィランの首魁を倒し、大怪我を負って✕✕病院へ入院したという特大の報道で持ち切りだった。
世界中が「平和の象徴」の無事を祈り、公安の目論見通り、社会の平穏は忖度によって守られた。
だが、そんな華やかな大ニュースの裏側。
地方の新聞の片隅にだけ、誰も気に留めないような、ささやかな怪奇記事がひっそりと掲載されていた。
『✕✕病院の救急ロビーにて、一時心音停止に陥った重傷者が、謎の発光現象と共に奇跡的な蘇生を遂げる。居合わせた医療従事者らは、神の領域の異能を目撃したと怯えた様子で語り――』
それが、神代祈という一人の『エルフもどき』が世界に残した、唯一の奇跡の残滓だった。
◇
それから数日後。
✕✕病院の最厳重警戒病棟。無数の白管と機械に繋がれたベッドの上で、八木俊典は、ようやくその重い瞼を開いた。
「……先生、彼女は……。私を救ってくれた、あの、白いレースの……」
息絶え絶えの、血を吐くような声を絞り出した俊典に、主治医はただ痛ましそうに、そしてあの夜の恐怖を思い出すように目を伏せた。
「申し訳ありません、オールマイト。彼女はヒーロー公安委員会の最高機密に属する保護監視対象です。我々医師の権限では、現在の居場所も含め、何一つお話しすることはできません。……それよりも、ご自身の身体の現実を受け止めてください」
医師は冷酷なカルテの数値を、残酷な真実として俊典に突きつけた。
「貴方の呼吸器官は半壊し、全身の臓器も一度は完全に崩壊していました。それが……信じられないことに、細胞のレベルで強引に再構築され、奇跡的に胃袋までもが完璧に再生を遂げています。
……ですが、あまりにも個性の負荷が強すぎた。抉り取られた左腹部の大きな穴だけは、止血と傷口を塞ぐのが限界だったようです。今後の容態次第では…ヒーロー活動も、厳しいかと」
「っ……、あ……」
俊典の大きな身体が、絶望にガタガタと震えた。
世界を一人で救う力を手にしながら、自分を救ってくれた一人の女性の行方すら掴めない。
それどころか、彼女の命を削って繋ぎ止めたこの肉体は、もう長くは戦えないかもしれないという残酷な現実。
そして医師たちが去り、静まり返った夜の病室。
コツ、と窓枠から不躾な靴音が響いた。
「よぉ、世界の救世主様。……ずいぶん酷い面してんね」
そこに立っていたのは、仕立ての良い黒スーツではない酷くヨレた私服姿の筑紫だった。
その顔には隠しきれない疲弊と、そして――世界への激しい憎悪と、すごく、もの凄く悔しそうな、血を吐くような無念の光が宿っていた。
「筑紫、さん……! 彼女は、彼女は無事なのですか……っ!?」
俊典がベッドから身を起こす。
筑紫はその姿を、激しい嫉妬と悔しさの混ざった乾いた目で見つめ、ポケットに手を突っ込んだ。
筑紫の『共感層』が、俊典の心から溢れ出る、祈への狂おしいほどの心配と恋煩いを嫌というほど受信する。
……それが、筑紫にとっては腹立たしくて、悔しくて仕方がなかった。
「無事かって聞かれたら、まぁ、生きてるよ。内臓はボロボロ、個性の反動で今もまともに歩けやしない。明日からは真っ白な研究室の地下の檻で、完全隔離されて薬に実験漬けの日々だよ。
……誰のせいだかね。あんたが勝手にボロボロになって運ばれてきて、あの子に個性を使わせたせいだ。おかげで俺も護衛をクビになって、明日から田舎へ左遷だよ……クソが、本当に悔しいねぇ」
筑紫は舌打ちをし、窓の外の暗闇を睨みつけた。
数年間、自分が誰よりも近くにいて、彼女の凍りついた心の隣にいたのに。
一度も言葉を交わしていないこの男の光に、彼女の心は無意識に持っていかれてしまった。その男としての敗北感と悔しさが、筑紫の胸を狂おしいほどに締め付けている。
「でもさ、あの子……意識を失う寸前、俺の個性を分かってて、あんたへの『伝言』を俺の頭に強く押し付けてきたんだよ。おめでたいよね、自分の体が壊れかけてんのにさ。
――もし、八木さんに伝えられるなら、ってさ」
筑紫は教会の冷たい空気の中で、彼女が大切に握りしめていたあの砕け散ったロザリオの輝きを思い出すように、ぽつり、ぽつりと彼女の遺した言葉を紡いだ。
『生きていてよかった、と』
『今度はちゃんとお話したいです』
『また、お会いできるといいですね』
俊典の目から、大粒の涙が溢れ落ち、白いベッドシーツを濡らしていく。
彼女が命を懸けて自分を救ってくれたこと。
それなのに、その心には「愛」という概念が閉ざされているがゆえに、この伝言の本当の重さを彼女自身すら理解していないこと。
そして、「また会いたい」という願いが、公安の地下の檻に囚われた彼女にとって、どれほど絶望的な約束であるかを知っているからこそ、世界最強の男は声を上げて泣いた。
筑紫はそんなオールマイトの涙を、激しい悔しさと冷徹な瞳で見下ろしながら、窓枠に足をかける。
「……ま、あの子の伝言は確かに渡したから。お仕事、これにて完全終了。
八木さん。あんたがどれだけ強くなろうが、あの子の凍りついた心には届かない。あの子の『特別』になれる奴なんて、この世界には最初から誰もいないんだ。
だから、あんたは勝手に世界を救えばいいさ。俺は……」
筑紫は夜風に髪を揺らしながら、最後に一度だけ、狂気的な執着に塗れた笑みを浮かべた。
「お仕事じゃなくなっても、割り切れない未練ってやつが残っちゃってさ。……泥水すすってでも、必ずあの子の檻の鍵をぶち壊しに戻ってくるから」
それだけを残し、全てを失った男は、夜の闇へと静かに消えていった。
病院の窓辺には、届かない光と、届かない愛の残滓だけが、交わることのない平行線のまま、暗い夜の中に残されているのだった。
第一章 終わり
不憫な男も大好きです。