第17話 白磁の檻と世界の秒針
世界は、私を置いて回り続けている。
あの日から、どれほどの月日が流れたのだろう。
窓の無い、陽の光すら届かない真っ白な地下の隔離研究室。
無機質な機械の電子音と、冷たいリノリウムの床だけが広がるこの白磁の檻の中で、私の時間だけが、あの凄惨な血の夜のまま完全に止まっていた。
個性の特性ゆえに、私の肉体は二十代の美しい姿のまま、髪の一本すら衰えることはない。
毎日、白衣の研究員たちに囲まれ、繋がれたチューブから個性のデータを搾取される日々。それは、エリアス神父様に出会う前の、あの施設での日常よりもずっと冷酷で、徹底された飼い殺しの日々だった。
(……ああ、今日も、世界は動いているのですね)
私は患者衣の裾を揺らしながら、ベッドの上でそっと胸元に触れた。
そこにはもう、銀色のロザリオは無い。
あの日、私の無茶な異能の暴走のせいで粉々に砕け散ったお守りは、二度と私の元へは戻ってこなかった。
代わりに私の首に嵌められているのは、個性を常に微弱な電流で抑制し続ける、公安の冷たい黒い電子首輪だった。
私はお人形に戻った。
感情を消し、心を殺し、彼らの言う通りに数字を差し出すだけの従順な最高機密。
あの日、私が命を懸けて救ったという『誰か』の記憶は――個性の限界使用による凄絶な反動と精神的ショックによって、私の頭から、綺麗さっぱりと抜け落ちてしまっていた。
それは、神様が私に与えた残酷で静かな慈悲のようでもあった。
(筑紫様。……あなたは今、どこでどんな風にお仕事をされているのでしょうか)
私の嘘の報告書を書き続け、最後に「必ず檻の鍵をぶち壊しに戻ってくる」と言い残して闇に消えた、私のお目付け役。
彼がクビになり、遠くへ飛ばされてからは私の元には一度だって彼の情報は届かない。
ただ、この真っ白な部屋に届く、数少ない外界のニュースだけが、私に時間の経過を教えてくれていた。
『――続いてのニュースです。本日、雄英高校にて伝統の入試が執り行われ……』
テレビの液晶画面の向こう、新しい世代の雛鳥たちが、ヒーローを目指して眩しい光を放ち始めている。
そして、もう一人。
『――今週のヒーロービルボードチャートが発表され、ウイングヒーロー・ホークスが、史上最速の若さで早くもNo.2の座へと君臨いたしました!』
画面に映し出されたのは、仕立てのいいコートを羽織り、大きな赤い羽を利発そうに広げて、カメラに向かって飄々と不敵な笑みを浮かべる一人の美しい青年の姿だった。
かつて私の修道服の裾を掴んで、「この人を失いたくない、大切にされたらどんなに幸せだろう」と泣きじゃくっていた、あの啓悟くんの面影は、もうどこにも無い。
彼は公安の『最高傑作』として完璧にその心を殺し、世界のトップへと成り上がっていた。
「……啓悟くん。ずいぶんと、大きくなりましたね」
私は軽くなった前髪をそっと指先で撫でながら、画面の向こうの最速の弟子へ、静かに微笑みかけた。
彼がどれほど高い空へ飛び立とうとも、その瞳の奥にある冷徹な『覚悟』が、六年前のあの夜に筑紫様と交わした「潜り込め」という誓いのままであることを、私はなんとなく察していた。
忘却の檻の底で、何も思い出せないまま、ただお人形のふりをして息を潜める私。
オールマイトの時代の終わり。
そして、新しい超常社会の混沌の始まりの予感に胸をざわつかせた。
◇
隔離研究室での毎日は、ただ静かに、そして確実に私の心を摩耗させていく。
ある程度データが取れた後は、個性の出力調整に入った。
白衣を着た研究員たちの機械的な声と、私の肉体を流れる電流の痛みに耐えながら、私はこの真っ白な檻の底で、ずっと自分自身の『呪い』と向き合い続けていた。
――私の個性の本当の名前は、『ジキルとハイド』という。
生と死、蘇生と崩壊の境界線を強引に書き換えてしまう、世界の理を冒涜するような悍ましい異能。
あまりの危険性ゆえに、公安の公式な書類にすらその真の名前は秘匿され、私はただの『高出力の治癒個性』として檻の中に囲われている。
けれど、どれほど名前を隠そうとも、私の血肉に刻まれた生と死の天秤の重さは、変わることはなかった。
(……どうして、もっと上手くコントロールできなかったのだろう)
冷たいベッドの上で、幾度となく、己の力量不足を嘆いては底暗い後悔の海に溺れていた。
もし、この『ジキルとハイド』の力を、私が完璧に御することができていたのなら。
あの冬の静かな夜、ベッドの上で小さく衰えていったエリアス神父様の命を、現世の理の側に強引に繋ぎ止めることができたかもしれない。
あの優しい父親を、老衰という死の恐怖から私のこの両手で救い出せたはずだったのだ。
それなのにあの時の私は自分の力が怖くて、神父様の遺言に縛られるままに、ただ手をこまねいて見送ることしかできなかった。
私の弱さが、私の未熟さが、あの唯一無二の救いだった人を死なせてしまったのだという自責が、今も胸を鋭い刃のように抉り続けている。
そして何より――。
(啓悟くん。……私は、あの日、あなたの手を離してしまった)
あの凄惨な血の海に染まった夜、辛うじて意識はあったのだ。
すべてを投げ打って暴れ狂っていた筑紫が床にねじ伏せられ、無数の黒スーツの大人たちが私に迫ってきた、あの混沌のなかで。
怖かっただろうに、木刀を握りしめ、ボロボロになった足元で誰のものかも分からない血だまりを見つめて泣き崩れていた、啓悟くん。
あの時、必死に伸ばされた彼の小さな――けれど、もう私よりずっと大きくなっていた震える手を、私は自分の反動の苦痛に負けて無残にも見離してしまったのだ。
「守る」と誓ってくれたあの子を、私は公安の冷たい暗闇のなかに、ただ一人で置き去りにしてしまった。
あの時、もし私がもっと強ければ。
この『ジキルとハイド』を完璧に制御して、反動の激痛なんかに屈しなければ、筑紫の制止をすり抜けて駆け出すこともなく、啓悟の手を引いて、あの教会から三人で逃げ出す未来だってあったかもしれないのに。
神父様への未練、啓悟への引き裂かれるような罪悪感、そして――。
あの日、自分が命を懸けて救ったはずなのに、その名前も、顔も、過ごしたはずの数年間の日常すらも綺麗に忘却してしまった『誰か』への、得体の知れない薄気味悪い空白。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った後悔と絶望の濁流が、胸の奥でドロドロと渦巻いていた。
愛がわからないはずのお人好しの自動人形は、もうどこにもいない。
今の彼女の心にあるのは、世界への静かな呪いと、大切な人たちを失った凄絶な悔恨だけだった。
「――出力をさらに上げろ。リバウンド限界値を測定する」
研究員たちの冷酷な命令が響く。
だが、今の祈は、ただ搾取されるだけの無力なサンプルではなかった。
彼女は真っ白な実験室のなかで、公安から課される過酷な個性実験を、自らの『血の滲むような特訓』へと強制的に変換させていた。
刃物で切り裂かれる痛みのなかで、ジキルとハイドのエネルギーの比率をミリ単位でコントロールする。
電流を流され、肉を焼かれ、組織が壊れようとも、肉体が崩壊しかける極限の淵で、意識を保ったまま細胞の再構築速度を限界まで高める。
それは、常人であれば一瞬で精神が狂い、肉体が消滅しかねないほどの自らを極限まで追い詰める凄絶で厳しい訓練だった。
(二度と、間違えない。二度と、大切な人の手を離さない)
もし、次にあの二人が――筑紫が、啓悟が、この檻の鍵を壊して私の元へ戻ってきたとき。
その時は、私が私の意志で、この『ジキルとハイド』のすべての暴力を解放して、二人を縛る公安の鎖を、この世界の理ごとすべてを蹂躙して、守り抜いてみせる。 首に嵌められた黒い電子首輪が、過剰な負荷によって火花を散らし、祈の白い肌をじりじりと灼く。
激痛に顔を歪めながらも、彼女の湖のような瞳には、六年前のあの日とは比較にならないほどの、本物の、底暗い『覚悟』の灯火がギラギラと宿り始めていた。
忘却の檻の底で、何も思い出せないまま、けれど最強の牙を研ぎ澄ませてその時を待つ、エルフもどきの聖女。
交わることのなかった平行線の秒針が、原作という運命の歯車を噛み合わせて、いよいよ再び動き出そうとしていた。