六年という歳月は、世界最強のヒーローの執念を、より狂気的で強固なものへと変えるのに十分な時間だった。
あの日、オール・フォー・ワンとの死闘により瀕死の重傷を負った八木俊典――オールマイトは、本来なら呼吸器官を半壊され、胃袋を全て失うはずだった。
だが、祈が命を懸けて発動した『ジキルとハイド』の真の異能は、世界の理を書き換え、彼の内臓を細胞のレベルから完璧に再構築してみせた。
残った傷痕は、抉り取られて止血が精一杯だった左腹部だけ。
これに対し、公安委員会は当初、完全にタカをくくっていた。
『いくら内臓を再生させたところで、あの左腹部の凄惨な重傷だ。
もう大して戦えはしまい。これまで通り、平和の象徴の看板だけを利用して、こちらの権力で容易くコントロールできる』と、冷酷に計算していたのだ。だからこそ、筑紫をクビにして祈を地下深くの檻へと完全隔離した。
だが、彼らは『平和の象徴』の執念の凄まじさを完全に見くびっていた。
八木俊典は地獄のような血の滲む猛リハビリを、それこそ狂気的なまでの意志でやり遂げたのだ。
結果として、活動時間こそ多少の制限はつき、10割のフルパワーを出せば古傷が激しく疼くものの――彼は全盛期の「8割」という、未だ誰も手が届かない圧倒的な力を維持したまま奇跡の復活を遂げた。
「彼女に会わせろ。居場所を教えろ。……公安が拒むというなら、私は今この瞬間から、平和の象徴としての全職務を放棄し、この『8割の力』をもって抗議する」
これには公安上層部も本気でビビり、焦った。
『マズい、あいつまだ普通に世界最強のままだ……!』
もしここで世界No.1ヒーローを敵に回し、その圧倒的な武力と影響力で暴れられては、組織の、引いては国家の体制が根底からひっくり返る。
公安は最強の男の威圧感に完全に日和り、やむを得ず妥協案を提示した。
彼が雄英高校へ赴任するこの時を狙い、「彼女を雄英の医療特別補佐として、お前の活動期間中のみ派遣する。ただし、彼女はお前のことを覚えていない。余計な刺激は与えるな」と、震える手で地下の檻の鍵を開けたのだった。
◇
桜の花びらが舞い散る春、雄英高校の保健室。
無機質な医療機器が並ぶその部屋の片隅に、六年前と何一つ変わらない姿の祈は佇んでいた。
仕立て直された新しい漆黒の修道服を纏い、頭からは目元を隠す白いレースのヴェールを被っている。
首元には、制服の襟に隠れて、個性を常に抑制し続ける公安の冷たい黒い電子首輪が鈍く光っていた。
出迎えたリカバリーガールは、彼女を一目見た瞬間、その端正な佇まいの裏にある、通常の『治癒個性』の枠を遥かに超えた底知れない異能の残滓に、プロとして本能的な寒気を覚えて絶句していた。
ガチャリ、と静かに保健室の扉が開いた。
入ってきたのは、スーツの上からでも分かるほどの圧倒的な厚みを持った、黄金の髪を逆立てた巨躯の男――オールマイトだった。
マッスルフォームを完璧に維持した、誰もが憧れる無敵の平和の象徴。
だが、扉を閉め室内にいる祈の存在を確かめた瞬間、彼のその大きな肩が、激しく、痛痛しいほどに小刻みに震え始めた。
「………祈、さん……」
六年間、ずっと胸に抱き続けていた「生きていてよかった」という彼女の遺言。今や五十代のベテランになりながらも、全盛期と変わらぬ強さで世界を救い続けてきた男の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、床を濡らしていく。あの凄惨な血の海の夜のまま、1ミリも老いず、変わらない美しさで自分の前に佇む祈を見て、彼は声を上げて泣くことすらできず、ただ胸を掻きむしった。
「やっと……やっと、会えた……っ」
愛おしそうに、震える手を差し伸べるオールマイト。
だが、その張り裂けそうな光の前に、祈は首をかしげた。
そしてゆっくりと、お行儀よく背筋を伸ばし、完璧なお辞儀をして頭を下げた。
「初めまして、オールマイト様。お噂は、公安の極秘資料にてかねがね拝見しておりました。本日から雄英高校の救護補佐を仰せつかりました、神代祈と申します」
「え……?」
その言葉に、ぴし、と固まるオールマイト。
非の打ち所がない、凛とした丁寧な敬語。
だが、白いレースのヴェールの向こう側から向けられた彼女のその湖のような瞳には、彼と過ごした数年間の平行線の記憶も、病院の中庭で彼を待ったもどかしい日々の愛おしさも、何一つ残っていなかった。
完璧に「初対面の世界最強のヒーロー様」を見るための冷徹で無機質な他人のそれだった。
「……どうかされましたか? オールマイト様。そのようなお姿で、ひどくお辛そうですが。
……もしや、お体のどこかが痛むのですか?」
自分の命を救うために彼女が払った代償が、「自分に関する全ての記憶の完全な忘却」だったという残酷な真実を最も冷たい形で突きつけられて、オールマイトは言葉を失って立ち尽くした。
祈の正体はどれだけ歳を重ねても見た目が変わらない『うちのエルフもどき』である。
推定年齢はとっくに七十歳手前。さらに細かく言えば、実は年齢不詳である。
自分の母親世代の女性を血眼になって探し続け、国家を脅迫してまでやっと連れ出した末に待っていたのが、「初めまして」と一蹴される地獄の平行線。
「あ……ああ……」
最強の力を残されながら、彼女の心には1ミリも届かない無力感に、世界最強の男はただ絶望に顔を歪め膝から崩れ落ちた。
床にすがりついて大泣きするオールマイトと、それを困った様子でなんとかしようとおろおろする祈。
リカバリーガールはそんな二人を見て、この先どうやることやら…と重いため息を吐いた。
◇
同じ頃、No.2ヒーローとして史上最速で成り上がった22歳のホークス――啓悟は、公安の最高機密端末から、祈が雄英高校へ移動したというログを静かに見つめていた。
大きな赤い羽を不敵に揺らしながら、彼の瞳の奥の冷徹な牙がギラリと光る。
「……やっと動いた。待っててね、おねえさん。筑紫さんも……俺たちが潜り込んだ檻の鍵を、そろそろ壊しに行くからさ」
忘却の檻を抜け出し、ついに雄英高校という原作の舞台へ初登場した祈のことを考え、啓悟は祈るように目を閉じた。
◇
オールマイトが絶望に胸を掻きむしり、よろめきながら保健室を去った後。
祈はリカバリーガールに連れられ、雄英高校の職員室へと向かっていた。
重厚な扉が開くと、そこには試験直後のピリついた空気を纏う、プロヒーローである教師陣が顔を揃えていた。
「やあ諸君! 今日から我が雄英に加わってくれる、新しい救護補佐員を紹介するよ。公安委員会からの直々の派遣でね、神代祈さんさ」
根津校長の高い、どこか楽しげな声による紹介に、職員室にいた教師たちの視線が一斉に祈へと集まる。
黒い修道服に、顔を覆い隠す白いレースのヴェール。
その異質な出で立ちだけでも十分に異様だったが、彼らプロヒーローの鋭い戦闘本能は、彼女の首元で制服の襟に隠れて鈍く光る黒い電子首輪と、彼女の奥底から漏れ出る『治癒』の枠を超えた悍ましい生と死の個性の残滓を、敏感に察知していた。
「初めまして、皆様。本日から皆様と生徒の皆様の健やかな日々をお守りするべく、救護補佐を仰せつかりました。神代 祈と申します。至らぬ点も多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
非の打ち所がない、凛とした丁寧な敬語。
お行儀よく背筋を伸ばし、完璧なお辞儀をする祈。だが、その美しい声と完璧な礼儀作法は、感情から溢れ出たものではない。
公安の地下で、二度と大切な人の手を離さないために、心を殺して磨き上げられた完璧なお人形の仮面だった。
「……よろしく。1年A組担任の、相澤消太だ」
真っ先に声をかけたのは、首に捕縛布を巻き、いつも通り眠たげな目を細めた相澤だった。だが、彼の瞳の奥には鋭い合理主義者としての強烈な警戒心が宿っていた。
「神代さん、だったか。……随分と物々しいお守りを首につけてるな。公安直々の派遣ってのも含めて、ただの『看護師の増員』にしちゃあ、妙な気配がするんだが?」
相澤の容赦のない、本質を突くような問いかけに、職員室の空気が一気に緊張感で張り詰める。
プレゼント・マイクやセメントスたちも、言葉には出さないものの、祈の纏う「化け物」一歩手前の底暗い個性の気配に、じっと息を潜めて動向を見守っていた。
「ふふ、相澤様。筑紫様という昔の私のお目付け役の方も、よくそのように私のことを『考えすぎだ』と仰っておりました」
祈は薄いレースの網目の向こうで、完璧な、けれど死んだように冷たいお人形の微笑みを浮かべた。
「この首輪は、私の未熟な力が皆様にご迷惑をかけないための、公安からの優しいお守りなのです。私は何も思い出せない、空っぽで哀れな被保護者に過ぎません。どうぞ、ただの使い勝手の良い便利な道具として、馬車馬のようにこき使ってくださいませ」
「……っ」
自らを『道具』と言い切り、完璧な博愛の笑顔を浮かべる祈。
やや言葉の使い方から語弊を招きそうなワードがちょくちょく見られるが、そのあまりの精神の歪さと、人間離れした徹底的な「お人形のフリ」に、相澤は言葉を失った。
彼の放つ抹消の個性すら拒絶するかのような、彼女の内側に秘められた狂気的なまでの善意と底暗さ。
相澤はそれ以上問い詰めるのをやめ、ひどく不機嫌そうに目元をこすった。
「……まぁ、生徒の怪我を治してくれるってんなら、文句はねえよ。合理的に仕事をしてくれりゃあ、それでいい」
「はい、相澤様。皆様のお役に立てるのなら、これ以上の喜びはありません」
祈はそう言って、再び人形のように綺麗な微笑みを教師陣へと返した。
その完璧な聖人っぷりに、他の先生方も「あ、ああ、よろしく頼むZE……!」「うふふ、美人な看護師さんで心強いわぁ……!」と、圧倒されながらも引きつった笑顔で応じるしかなかった。
世界を救う聖女か、あるいは世界を滅ぼすバケモノか。
六年間の猛特訓を経て、最強の牙を内に秘めたエルフもどきの聖女は、こうして雄英高校の大人たちの毒気を初日から完璧に抜き去り、表舞台へとその一歩を踏み出すのだった。