それは、雄英高校の最初の戦闘訓練が終わり、泥と傷にまみれた1年A組の生徒たちが保健室へ運び込まれてきたときのことだった。
「失礼します! 緑谷くんがまた酷い無茶をして――」
飯田天哉に支えられ、右腕をボロボロに腫らして意識を失いかけている緑谷出久。
そして、その背後からは、己のプライドを完膚なきまでに叩き潰されたような、酷く不機嫌で凶暴な顔をした爆豪勝己が、相澤消太に促されて保健室へと入ってきた。
ピリついた空気のなか、白いベッドの傍らに佇んでいた救護補佐員――神代祈が、静かに振り返る。
黒い修道服に、顔を覆う白いレースのヴェール。その異質な姿を見た瞬間、意識を朦朧とさせていた緑谷の瞳と、鋭い爆豪の瞳が、同時に大きく見開かれた。
「あ……、え……?」
出久の口から、掠れた声が漏れ出る。
黒い修道服。不思議な温かい匂い。
そして、薄いレースの網目の向こうから覗く、あの神様すら嫉妬するほどの人間離れした圧倒的な美貌。
緑谷の脳裏に、まだ自分が無個性だと虐められ、ヒーローになれないと一人で泣いていた小学校低学年の頃の、あの夕暮れの地域の祭りの記憶が鮮明に蘇ってきた。
「……おい、嘘だろ。なんでテメェがここにいやがる、あの時の……」
爆豪はその場に縫い付けられたように足を止め、驚愕に目を見開いて祈を凝視した。
当時から個性が発現し、「俺が一番強くて一番偉いんだ!」と周囲を威嚇していたクソガキの自分を、怖がることもなく完璧な敬語と圧倒的な包容力で完全に手懐けてきた、人生で唯一『勝てない』と感じた不気味で綺麗な女。
二人が何より言葉を失ったのは、彼女のその『容姿』だった。
あれから六、七年の歳月が流れた。自分たちは子供から高校生へと姿を変えた。なのに、目の前に立つ彼女は――あの夏祭りの夜の姿のまま、一秒も老いず、シワ一つなく、二十代の美しい姿のまま1ミリも変わっていなかったのだ。
「……出久くん、それに勝己くん、ですね。お久しぶりです」
祈はいつものお行儀よくお人形のような姿勢のまま、非の打ち所がない丁寧な敬語で、静かに頭を下げた。
「っ、神代さん……! 覚えていてくれたんですか……!? それに、なんで、なんであの頃と、見た目がちっとも変わってないような気がするんですが……っ!?」
出久がボロボロの腕を忘れて叫ぶ。
対する爆豪も動揺を隠すように牙を剥き出しにして、彼女を睨みつけた。
「おい、ふざけんな。テメェ、なんで一向に老けてねえんだよ。どう見てもあの時から見た目が変わってねえだろ。
……おい、聞いてんだよ、クソババァ!!」
高校生になった爆豪の、容赦のない「ババァ」呼び。だが、祈は傷つく風でもなく、レースの向こうで、どこか懐かしむような穏やかな微笑みを浮かべた。
「ふふ、勝己くんは相変わらずお口が悪いですね。はい、うっすらとですが、お二人のことは覚えておりますよ。私のボランティアの時に、いつも元気に走り回っていた、小さなお二人ですもの。
……ずいぶんと、大きく、立派になられたのですね」
その言葉は、嘘偽りのない彼女の本心だった。
彼女の心にかけられた冷たい氷の鍵の隙間から、あの平和だった地域祭りの記憶だけは、うっすらと、けれど確かに消えずに残っていた。
「っリカバリーガール先生、まずは緑谷くんの怪我を!」
「はぁ、また酷い怪我だねえ、腕がパンパンに腫れ上がって……中はぐちゃぐちゃじゃあないかい。あんたって子は、少しは自分の体を労わるってことを学びんさい!治癒ってのは本人の体力を前借りするんだ、こんな無茶ばかり続けてたら命がいくつあっても足りやしないよ」
「す、すいません…」
「…そうだねえ、アンタ、ちょっとこの子の怪我を治してあげなさい」
そういうと、リカバリーガールは祈に向き直った。
祈に断る理由はない。
「出久くん、少し冷たくなりますよ」
祈の鈴の音のように凛とした声が保健室に響く。
リカバリーガールと飯田は緑谷を椅子に座らせ、その前に祈が跪き、怪我をした部位に目をやった。
「あと、目を瞑っていたほうがよいかもしれません」
彼女が黒い修道服の袖を捲り上げ、緑谷の紫色に腫れ上がり、骨にまで亀裂の入った悲惨な右腕に両手を翳した、その瞬間だった。
ビーーーーッ――。
彼女の首元に嵌められた公安の黒い電子首輪が、異能の活性化に反応して鼓膜を刺すような警告音を上げながら激しく赤く発光した。
バチバチと青白い火花が飛び散り、祈の白い首筋をじりじりと灼く。
「神代さん……!? 首のそれ、火花が……っ!」
「お気になさらず……これくらい、何でもありませんから」
緑谷が痛みを忘れて悲鳴を上げるが、祈は眉一つ動かさず、静かに微笑むだけだった。
六年間、あの真っ白な地下で自らを磨り潰すような血の滲む猛特訓を重ねてきた彼女は、抑制器の電流の激痛にすら顔を歪めることはない。
首輪の限界値の範囲内でギリギリの出力を綱渡りのように見定めながら、彼女の手のひらから、透き通るような白光が溢れ出た。
ミシミシ、ピキ、と出久の腕の内側から、生々しい肉と骨の蠢く音が鳴り響いた。
通常の個性の『治癒』とは明らかに異なる異質さ。
破裂しかけていた毛細血管が強引に繋ぎ合わされ、歪に軋んでいた骨が、現世の理を書き換えるような圧倒的な力で急速に元の形へと融解し、組み上がっていく。
「あ……」
緑谷は、自分の右腕から急速に痛みが引き、瑞々しい活力が戻っていく感覚に目を見開いた。
痛みでかいていた冷や汗が一気に引き、体が温かくなる。
だが、その治癒のあまりの早さと、彼女の身体から一瞬だけ漏れ出た「死すら手繰り寄せる悍ましい異能」の気配に、そばで見つめていた爆豪は、本能的な悪寒に背筋を凍らせて一歩後退りした。
「テメェ……、なんだよその力。ただの治癒じゃねえだろ。……おい、クソババァ」
「はい。ただの、ありふれた力ですよ、勝己くん」
爆豪の鋭い威嚇に対しても、祈はレースの網目の向こうで、完璧な、死んだように冷たいお人形の微笑みを浮かべたままだった。
白光が収まると、緑谷の右腕には傷一つ残っていなかった。
六年前、オールマイトの全摘出された胃袋や呼吸器官を強引に再生させたあの時とは違い、首輪の限界の範囲内で、自分の肉体を1ミリも傷つけることなく緑谷の重傷を「完治」させてみせたのだ。
それは、彼女の過酷な特訓の成果であり、二度と大切な人の手を離さないという、仄暗いい覚悟でもあった。
「すごい……。本当に、綺麗に治ってる……。ありがとうございます、神代さん!」
緑谷が涙を浮かべて自分の右腕を握りしめ、深く感謝する。
だが、祈はその真っ直ぐな光に対しても、一歩引いた姿勢のまま、お人形のように綺麗な微笑みを返すだけだった。
「いいえ、出久くん。お役に立てるのなら、これ以上の喜びはありません。私はただの、使い勝手の良い便利な道具なのですから」
「道具、って……」
緑谷が、祈の修道服の襟の隙間に覗く、公安の冷たい黒い電子首輪に気づいて息を呑む。
(あれ、さっき神代さんの首を焼いてた)
ビリビリと祈の肌を傷付けた、謎の首輪。
微かに焦げた匂いが緑谷の鼻をかすめるが、祈の首は傷一つなく、綺麗なままだ。
「これは、私を世界に繋ぎ止めるためのお守りです。
……さあ、次は勝己くんの番ですよ」
自らを道具と言い切り、濁りのない博愛の笑みを浮かべる祈の姿。
彼女が二人のことを覚えていた喜びと、それ以上に彼女を縛る公安の不気味な鎖への不穏な疑念。
緑谷と爆豪の胸の内に、言葉にできない強烈な歪さと薄気味悪さ、そして新たな執着の火種が灯り、澱のように溜まっていくのだった。
◇
一方、中庭の廊下の影。
祈を心配して、扉の隙間からそっと中の様子を盗み見ていた八木俊典――オールマイトは、その二人の会話を聞いた瞬間、世界の終わりを迎えたかのような凄まじい劇画タッチの絶望に叩き落とされていた。
(緑谷少年と、爆豪少年のことは……『くん』付けで覚えているのか……!?)
ガビーン、という昭和の擬音が背後に幻聴として鳴り響きそうなほどの衝撃。
オールマイトの視界は一瞬にしてモノクロームへと変わり、彼の顔面には、普段の「平和の象徴」としての笑みを完全に消し去るほどの、不自然に濃くて太い劇画調の斜線がこれでもかと描き込まれていた。
六年間、血の滲むような猛リハビリをこなし、国家を脅迫してまでやっとの思いで檻から連れ出した、最愛の女性。
それなのに、自分に対しては「初めまして、オールマイト様」と非の打ち所がない他人のフリ(他人行儀の最上級)で一蹴した彼女が、あの少年たちのことは「出久くん」「勝己くん」と、かつての温もりを宿した甘やかな響きで呼んでいる。
自分を救うために彼女が払った代償。
それは世界への忘却ではなく、『八木俊典という男に関する記憶の、完全なピンポイントの忘却』。
「お、大人の男として……いや、男以前に、人間として認知すらされていない……ッ」
自分の存在そのものが、彼女の記憶から、彼女の人生から綺麗に消し去られているという残酷な現実。
オールマイトは声を上げて泣くことすらできず、あまりのショックに保健室の壁に額をめり込ませ、ガタガタとマシンのように震えながら、ただ胸を掻きむしって絶望の闇に沈んでいく。
世界最強の男は、残酷で、端から見ればちょっと絵面が不穏すぎる「片想いの地獄」に突き落とされていた。
あまりの怪挙動に、通りすがりのヒーロー科の生徒が「え、オールマイト……?」と遠巻きにドン引きしていることすら、今の彼には気づく由もなかった。
◇
同じ頃、公安の中枢。彼女の個性の出力ログを監視していたホークス――啓悟は、画面を愛おしそうに指先でなぞりながら、不敵に笑った。
「……完璧にコントロールできてるじゃないですか、おねえさん」
あの血濡れた夜に本部で覚えた無力さは、もう彼には無い。
地方の泥水の中で三十路を迎え、虎視眈々と牙を研ぎ澄ませている元師匠・筑紫聡の気配を裏社会に感じながら、最速の男は静かに立ち上がる。
見た目の変わらないお姉さんへの、少年たちの歪な執着と、最強のヒーローの終わりなき忘却の地獄。
原作という運命の歯車を完璧に噛み合わせて、いよいよ最悪で最高の第二章の混沌へと、狂い回り始めるのだった。