それから、私の新しい日常が始まった。
私が運び込まれたのは、外の世界から完全に隔離された、窓の少ない真っ白な施設だった。
身寄りのない私に公安委員会の人たちはとても親切にしてくれた。
「ここでは何も心配しなくていいのよ」
言葉の喋り方、文字の読み書き、歴史や数学、社会の仕組み。
記憶を失って空っぽだった私の頭に、彼らは「生活に必要な教育」という名の知識を、とても丁寧に、効率よく注ぎ込んでくれた。
「おはよう」
「良く眠れた?」
「おやすみなさい」
「良い夢を」
お腹が空けば温かい食事が用意され、夜になれば清潔なベッドで眠ることができる。
なんて幸せなんだろう。
過去を思い出せない私にとって、ここでの生活は十分に満ち足りたものに見えた。
けれど、頭の記憶が消え去っていても、私の肉体と、そしてほんのわずかに残された『心の肌』のようなものは、あまりにも鋭敏に世界の空気を察知してしまっていた。
変化のない白い壁。
冷たいリノリウムの床。
そして――私に「親切」にしてくれる大人たちの、声の調子。
「――○○さん、今日の『健康診断』の時間だよ。検査室へ行こうか」
私のことをなんて呼んだのだろうか、今はすっかり忘れてしまった。
白衣を着た研究員が、いつものように私の部屋のドアを叩く。
私は読んでいた本を閉じ、静かに椅子から立ち上がった。
「はい。よろしくお願いいたします」
綺麗な敬語でそう返事をして、私は慣れ親しんだ廊下を歩く。
慣れたものだ。
健康診断、と彼らは呼ぶ。
「良い結果だといいわね」
笑顔で、まるで私を労わるような、優しい声音で。
「すごいわ」
けれど私は気づいていた。
彼らが私の腕に鋭利な刃物を突き立てるとき、その瞳の奥にあるのは心配ではなく、ストップウォッチの針を見つめる冷酷な数字への執着だということ。
「こんなの見たことない」
私の血を何度も、何度も、注射器のシリンダーが真っ赤に染まるまで抜き取るとき、彼らの指先が「貴重なサンプル」を前にして、品定めをするように小さく歓喜に震えていること。
「もっと」
意識が遠のくほどの強い電流を流され、私の肉体が死の淵でどのように『個性の反動』を起こすのかを観察しているガラスの向こう側から、「これならまだ使える」「壊すなよ」という、まるで機械の耐久テストでもしているかのような、ぼやけた雑音が聞こえてくること。
(……ああ、また言っている)
彼らの言葉はいつも、私を気遣う「偽り」で塗れている。
彼らの視線はいつも、私を人間ではなく「便利な道具」として値踏みしている。
そんなこと、本当は、とうの昔に気づいていた。
彼らの打算も、醜悪な本音も、漏れ聞こえる囁き声も、私の心にはすべて痛いほどに届いていた。
けれど、私はそれを、わざと無視した。
(飽きないものだわ)
聞こえないフリをして、何も気づいていない無垢な子供のフリをして、彼らの望む「おめでたいお人形」を演じ続けた。
そうしなければ、この真っ白な平穏さえも失ってしまうと、私の本能が知っていたからだ。
もし私がここで「あなたたちの嘘を知っている」と拒絶してしまったら、この優しい嘘(檻)は消え去り、あの頭の奥底に眠る、血と鉄の匂いがする本当の地獄へと引き戻されてしまうかもしれない。
それがたまらなく怖かった。
だから私は、痛みに耐えながら、彼らの嘘に自ら進んで騙されにいく道を選んだ。
痛い、とは思う。
けれど苦しいと思ってはいけない。
彼らを恨んではいけない。
傷が治れば「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれる。
血を抜いた後は、私の大好きな甘いお菓子をご褒美にくれる。
何も辛いことではない。
それでいい。
それだけでいいのだと、自分に言い聞かせ、心を麻痺させていく。
気が付けばこの痛みもいずれ忘れるのだから、とぼんやりした頭で考える。
(知らないふりをしてしまえば)
自分の肉体が、個性の特性を解明するための『実験動物』として擦り切れるまで搾取されているなんて――知らない。
私は、何も知らない。
何も思い出せない、哀れで無力な、ただの良い子。
「今日も素晴らしい数値だ」
「君の治癒能力は、本当に奇跡のようだね」
「ありがとう」
「これからも頑張ろうね」
ガラス越しに満足げに頷く研究員たちに、私は傷一つ残っていない綺麗な腕を隠すように擦りながら、いつものように穏やかに、そして人形のように綺麗な微笑みを返す。
真っ白な部屋。
冷たい実験器具。
そして、優しい言葉の裏に隠された、底知れない利用価値の視線。
彼らの手にする分厚いノートには、私の詳細がぎっちりと書き込まれていることだろう。
すべてを知りながら、すべてを心の奥底に閉じ込めて。
私は今日も、冷たい機械にその身を委ね、ロボットのように同じ毎日を繰り返していた。
静かに過ぎていく日々に、代わり映えしない日々に。
けれど確かに私を削り取っていく、偽りの平穏。
そんな日々に、本当の救いと、静かな終わりを告げる男――
私に名前をくれるエリアス・神代神父と出会うのは、この白い部屋での生活が始まってから、もう少し先の出来事だった。