「――あれは『治癒』なんて生易しいものじゃないさね」
戦闘訓練の熱気が冷めやらぬ夕暮れ。
重々しい空気が満ちる校長室で、リカバリーガールは手元の電子カルテを厳しい目で見つめながら、そう断言した。
向かい合うのは、ソファーに深く腰掛ける根津校長。
そして、大柄な体躯を保ったまま、祈の治療データを痛ましそうに見つめる八木俊典――オールマイトである。
「緑谷少年の右腕、骨の亀裂から毛細血管の一本に至るまで、完全に元通りになっているね」
「ああ。だがね、オールマイト。問題はその『過程』さ。彼女の力は、細胞の活性化を促す私の個性とは根本的に違う。現世の理を強引に捻じ曲げ、肉体をその場に再構成する……神への冒涜に近い『蘇生』だ。錬金術と似ているかもしれないね。
彼女が異能を動かした瞬間、公安の抑制器がうるさかっただろう。事前資料によれば、あの装置は個性を抑制し、必要なら痛みで抑止する代物だっていうじゃないか…普通の人間なら、あの電流の激痛だけでショック死しているさね」
リカバリーガールの冷徹な医学的見地に、オールマイトは深く、重い息を吐き出した。
あの時、保健室の影で彼が感じた絶望。
少年たちに優しく微笑む彼女の姿と、その首に輝く冷たい黒い電子首輪の残像が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「公安は、彼女の出力を完全にログで監視しているんだね」
根津校長が、ティーカップを静かに置きながら口を開いた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みはなく、最高知能の獣にふさわしい冷徹な大局観が宿っている。
「彼女を『雄英の救護補佐』として送り込んできたのは、表向きはヒーロー科のサポート。だが本質は、我々雄英の監視と、彼女という『超高性能な道具』の有用性を測るための実験場にすぎない。
だがね……彼女がここにいるということは、我々にとっても公安の手綱を握るカードになる。彼女をこれ以上、あの地下室に閉じ込めさせておくわけにはいかないからね」
根津は時計に目をやると、小さく席を立った。
「さて、私は教育委員会との定例会がある。これ以上は現場の君たちに任せるよ」
「ああ、ありがとう、校長」
パタン、と重厚な扉が閉まり、校長室にはリカバリーガールとオールマイトの二人だけが取り残された。
張り詰めた沈黙のなか、リカバリーガールは深く椅子にもたれかかり、ぽつりと言葉を漏らした。
「……思い出すさね。六年前の、あの最悪の夜を」
その言葉に、オールマイトはビクリと肩を揺らした。
「あんたがオール・フォー・ワンとの死闘の末、胃袋も呼吸器官も壊されて、誰もがヒーローとしての『再起不能』を確信したあの悪夢。死を待つだけだったあんたの前に、公安の手を借りて現れた彼女が何をしたか、私は今でも忘れられない」
「……ああ。彼女は私を生かすために、自らの肉体を削り、公安の檻に自ら入る道を選んだ」
「それをあんたが無理矢理こじ開けたっていうのに、ねぇ」
「彼女が私のことを覚えていないのは、個性の暴走による反動なのか、それとも公安での実験による一時的なものなのか…すら」
「あの子が意図的に消したものなのかもわからないとなると、難しいねぇ」
「『初めまして』は心に刺さったな…」
オールマイトは大きな両手で顔を覆った。
あの大怪かから自分を生かすために、彼女が払った代償。それは、世界からの忘却などではなく、『オールマイト』という一人の男に関する記憶だけを、ピンポイントで綺麗に消し去ることだった。
しかしそれは果たして彼女の意思だったのだろうか?
「彼女の個性は、未だに謎が多すぎる。できることなら、もうこれ以上は使わせたくないが……いや、公安はまだ何か隠しているな」
「そうさね」
リカバリーガールは溜息をつく。
「何より不気味なのは、彼女の容姿さね。六年前のあの事件の時、すでに彼女は二十代の姿で、そこから一秒だって老いちゃいないと。あの『不老』の肉体そのものが、彼女の異能がもたらす悍ましき呪いのようなものさね」
かつてオールマイトにとって、彼女は精神的な支えであり、母親のようでもあり、あるいは最愛のようでもあった歪な関係性。いや、彼女からしたらいつの間にそんなデカ感情を持たれているのか甚だ疑問ではあるのだが、一方的に想いを寄せていたオールマイトには相手の感情まで慮る余裕はなかった。
そのすべてを忘れ、二十代の美しい姿のまま、ただの『便利な道具』として微笑む彼女。
「当時、彼女の周囲にいた公安の連中から見れば、あの状況は奇妙な歪さに満ちていたはずさね」
リカバリーガールが遠い目をする。
「彼女から見れば、周りの人間だけが歪に大人になり、あるいは老いていくというのに、あの子だけが、真っ白な檻の中で取り残されているんだ」
「…可哀想な子さね」
――その、大人たちの重い告白を。
扉の向こうの廊下で、完全に足止めを喰らった少年が、息を詰めて聞いていた。
(……え?)
緑谷出久は、手渡された追加の救護書類を胸に抱えたまま、全身の血の気が引いていくのを感じていた。
訓練のお礼を言いに、校長室へ向かう途中で聞こえてきた、あってはならない会話。
(六年前……? オールマイトが再起不能になりかけたのを、神代さんが救った……?)
それだけではない。
今、リカバリーガールは何と言ったか。
(不老……!? えっ、不老……って、神代さんが……!?って、この会話聞いちゃダメなやつじゃない!?)
緑谷の脳裏に、あの夕暮れのお祭りで自分を優しく抱きしめてくれた、不思議な温かい匂いのするお姉さんの姿が蘇る。
あの時から、一ミリも変わっていなかった彼女の美貌。
それはただの「若々しさ」などではなく、現世の理から切り離された『不老』という名の、異常な異能の証明だったのだ。
「オールマイトにとって、命の恩人……。なのに、どうして……」
繋がっていく点と点。
だが、肝心な部分が決定的に歪んでいる。
なぜオールマイトは、あんなにも悲痛な声で彼女を語るのか。
なぜ彼女は、自分たちのことは「出久くん」「勝己くん」と覚えているのに、命を救ったはずのオールマイトには「初めまして」と言ったのか。
そして、彼女の首を無慈悲に灼く、あの黒い首輪。
「神代さん……、貴女は一体、何を奪われてそこにいるんだ……?」
扉の向こうで、緑谷は震える拳を強く握りしめた。
彼女の優しさの裏にある底知れない闇と、世界最強のヒーローすら絶望させる『不老のおねえさん』の真実。
知ってはならない雄英の、そして公安の禁忌に触れてしまった少年の瞳に、おののきと、それを凌駕するほどの激しい執着の光が灯り始めていた。
◇
その晩、雄英高校から少し離れた、公安によって手配された無機質な一軒家。
誰もいないリビングの鏡の前で、神代祈は静かに黒い修道服の襟を緩めていた。
そこにあるのは、未だに微かな熱を持って赤く明滅している冷たく黒い電子首輪。そしてその下にある、先ほどの電流によって赤く灼け爛れた痛々しい白い首筋。緑谷が見た一瞬は自動で回しているジキルによって再生されていたのだが、装置そのものが熱を持ったために、再び火傷として症状が現れた。
彼女は痛みに眉一つ動かすことなく、ただ網目の細かなレースのヴェールをそっと指先で持ち上げ、鏡に映る自分の瞳を見つめた。
「……やはり、ジキルとハイドの気配は、少しだけ悟られてしまいますね」
鈴の音のような凛とした声が、静まり返った部屋にぽつりと落ちる。
緑谷の腕を強引に組み替えた際、ほんの一瞬だけ漏れ出てしまった、死すら手繰り寄せる悍ましい異能の残滓。
爆豪が一歩後退り、本能的な悪寒に背筋を凍らせていたあの表情を、彼女は冷徹に記憶していた。
「もっと、もっと完璧に調整しないと……。公安の地下室では、常に数値を見ながらの調整でしたから。外の環境では、まだ私自身の感覚が追いついていない……」
祈はそっと自らの両手を翳し、その白く、一秒も老いることのない手のひらをじっと見つめた。
そこに宿るのは、かつて『誰か』の命を繋ぎ止め、そしてその男に関するすべての記憶を綺麗に消し去った、謎に満ちた圧倒的な力。
「微調整、微調整……。これではまだ、使い勝手の良い便利な道具として、皆様の役に立つには程遠い。……本当に、私はまだまだ未熟ですね」
感情の消え失せた、完璧なお人形のような博愛の笑みを鏡の中の自分に浮かべながら、祈は深く、誰に届くでもない溜息を吐き出す。
大切な人の手を二度と離さないための、暗い覚悟。
彼女を縛るハイドの冷たい呪縛は、公安の檻を出た今もなお、彼女の『愛』を殺したまま、その心を狂気的な完璧主義へと駆り立てていた。