神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第21話 白と黒の境界線

 

それは、緑谷がまだ小学校の低学年だった頃のある夏の日の記憶だ。

 

「無個性のくせに、ヒーローになんてなれるわけねえだろ!」

「デクのくせに調子に乗んな!」

 

幼馴染の爆豪たちから浴びせられる容赦のない罵声と、爆破の熱。

 

自分が『無個性』であるという残酷な現実を突きつけられ、将来の夢をすべて否定された緑谷は、地域の夏祭りで賑わう神社の境内の裏手、薄暗い木陰で一人、膝を抱えて声を殺して泣いていた。お祭りの楽しげな囃子の音が、遠くで皮肉なほどに響いている。

 

(どうして僕だけ……。どうして、僕はヒーローになれないの……?)

 

泥と涙にまみれ、世界のすべてから拒絶されたような絶望の中にいた、その時だった。

 

「――どうしましたか、小さな迷子のお嬢さん。……おや、可愛い男の子でしたね」

 

 

鈴の音のように凛とした、けれどどこかこの世のものとは思えないほど清らかな声が、頭上から降ってきた。

 

緑谷が涙に濡れた目を恐る恐る上げると、そこには夕暮れの赤紫色の光を背に受けて佇む、一人のシスターがいた。

 

黒い修道服に、顔を覆い隠す白いレースのヴェール。薄い網目の向こうから覗くそのお顔は、神様すら嫉妬するのではないかと思えるほどに人間離れした、圧倒的な美貌。

 

そして彼女が微かに屈んだ瞬間、ふわりと、この世界のどんなものとも違う、どこか不思議でひどく温かい匂いが緑谷の鼻腔をくすぐった。

 

「う……あ、う……」

「あらあら、お膝を擦りむいてしまっていますね。痛いの、痛いの、飛んでいけ――というのは少し不確実でしょうか。……少しだけ、冷たくなりますよ」

 

彼女は完璧な作法で地面に膝を突き、緑谷の泥だらけの小さな手を、白く細い両手でそっと包み込んだ。その瞬間、彼女の手のひらから、現世の理を優しく書き換えるような、透き通る白光が溢れ出る。

 

じわりと傷口の痛みが瞬く間に引き、凍りついていた緑谷の心までが、その圧倒的な包容力によって強引に融解していく感覚。

 

「あ……治ってる……。お姉さん、神様……?」

 

「ふふ、いいえ。私は神様なんかにはなれませんよ」

 

彼女は緑谷の頭を優しく撫で、どこか死んだように冷たくて綺麗な、けれど濁りのない博愛の笑みを浮かべた。

 

その時、遠くから「おい、デク! どこに行きやがった!」と爆豪たちの声が響く。彼女はそれを見つけると、「お友達が呼んでいますね。さあ、お帰りなさい…帰りたくなければ、私と一緒に来ることもできますが」と言いながらも、緑谷の背中を優しく押したのだ。

 

無個性だと蔑まれ、誰からも手を差し伸べられなかったあの頃。

 

自分をただの一人の子供として扱い、その傷を完全に癒やしてくれた、名前も知らないシスター。

 

あれから六、七年の歳月が流れ、緑谷は高校生になった。だが、あの不思議な温かい匂いと、圧倒的な聖性の記憶だけは、緑谷の胸の奥底に留まり、決して消えない執着の原点として残り続けていたのだ。

 

(あのおねえさんが……神代さんが、どうして雄英に……?)

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

そして、時間は現代――雄英高校への登校を控えた、前日の夜のこと。

公安から与えられた無機質な一軒家のクローゼットの前で、神代祈は珍しく、そわそわとした様子で立ち尽くしていた。

 

ベッドの上には、デザインの異なる二着の修道服が綺麗に並べられている。

 

一着はいつもの厳格な「黒」。

そしてもう一着は、救護員としての清潔感を意識して公安に特注で作らせた、雪のように「白い」修道服だった。

 

「ううん……白と黒、どちらが良いでしょうか」

 

誰もいない部屋で、祈は頬にそっと手を当てて小さく首を傾げた。

 

感情の大部分を『ハイド』によって押さえ込み、自らを完璧な道具と言い聞かせているはずなのに、明日「子供たち」に再会できると思うと、どうして胸の奥がこんなにも微かに弾むのか、彼女自身にも分かっていない。

 

「救護補佐員として安心感を与えるなら、やはり白でしょうか。でも、私の本来の役割を弁えるなら、目立たない黒にするべきですね……。あの子たちは、どちらの私なら喜んでくれるでしょうか……」

 

鏡の前で交互に服を身体に当て、真剣に悩み続ける。

傍から見れば、デートの前日に着ていく服を迷う少女そのものの、あまりにも可愛らしい光景。しかしその横には、公安からの監視ログが常に冷たく明滅している。

 

結局、夜が更けるまで悩み抜いた彼女が「あの子たちが安心できるように」と選んだのは――眩いほどに純白な「白」の修道服だった。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

翌日、ホームルームの時間。

 

 

「えー、授業の前に、今年度は公安からの要請で、臨時の救護補佐員が一名、我がクラスのサポートにも入ることになった」

 

A組担任、相澤消太の気だるげな声と共に、1年A組の教室の扉が静かに開いた。

 

入ってきた人物を見た瞬間、教室中の空気がピシリと凍りつく。

 

 昨夜あんなにも愛らしく悩んでいた彼女が身に纏うのは、汚れ一つない純白の修道服。そして、顔を覆い隠す白いレースのヴェール。頭の先から爪先に至るまで「白」に染まったその姿は、ヒーロー科の教室にはあまりにも異質で、まるで本物の天使か聖女が舞い降りたかのような、人間離れした圧倒的な美しさを放っていた。

 

祈は、いつものお行儀よい姿勢で教壇に立った。

 

「初めまして、1年A組の皆様。公安より参りました、救護補佐の神代祈と申します」

 

凛とした声が響き、非の打ち所がない完璧な敬語で、静かに頭を下げた。

 

「な、なぁ……めちゃくちゃ美人だけど、全身真っ白って凄いな……」

「シスターっていうか、本当に聖女様みたいだ……」

 

上鳴電気や切島鋭児郎がざわざわと気圧されるように囁き合う中、最前列の緑谷は、昨日盗み聞きしてしまった「不老」「オールマイトの命の恩人」という真実が頭を駆け巡り、心臓を激しく脈打たせて祈を凝視していた。

 

後方の爆豪も、不機嫌極まりない顔で机に頬杖をつきながら、鋭い眼光で彼女を睨みつけている。

 

そんな教室の動揺を気にする風でもなく、祈は完璧な博愛の笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

 

「私の個性は、皆様のお怪我や疲労を少しだけ和らげる、ありふれたものです。これからの学校行事、皆様が安心して全力で競い合えるよう、使い勝手の良い便利な道具として、身を粉にして皆様をお支えいたしますね。何でも遠慮なくお申し付けください」

 

自らを『便利な道具』と言い切り、曇りのない笑顔を見せる祈。その瞬間、轟焦凍や蛙吹梅雨といった洞察力の鋭い生徒たちの眉が、僅かにピクリと動いた。

その純白の美しさとは対極にある、死んだように冷たくて綺麗な、完璧すぎる「聖人」の佇まい。

 

「……道具、って……」

 

麗日お茶子が小さく呟いた違和感を代弁するように、相澤がけだるげに首を振る。

 

「……質問がある奴は手短にしろ。時間はねえぞ」

 

すかさず峰田実や芦戸三奈が手を挙げようとした、その時だった。

 

祈の首元に嵌められた、純白の襟元で逆に黒さが際立つ、公安の冷たい黒い電子首輪。

 

それが、彼女の感情の起伏――昨夜から続く、子供たちに会えたという無意識の「喜び」に反応したのか、ピピッ、と小さな警告音を鳴らして一瞬だけ赤く発光した。

 

「あ……首のそれ、何ですか?」

 

飯田がクソ真面目に尋ねる。

 

「これは、私を世界に繋ぎ止めるためのお守りのようなものです。お気になさらないでくださいね、飯田天哉くん」

「えっ、俺の名前……」

 

まだ名乗ってもいない自分の名前を正確に呼ばれ、飯田が目を丸くする。

 

「はいはーい!私の名前は?」

「ふふ、芦戸三奈さんですね、元気で素晴らしい」

「じゃあ俺の名前は!?」

「瀬呂範太くん、合っていますか?」

「すごーい!」

「じゃ、じゃあ私の名前も知ってくれとるん?!」

「麗日お茶子さん、可愛らしいお名前ですね」

「ひゃー!」

「わ、私は―――?」

 

祈はすでに、A組全員の顔と名前、そして個性のデータを完璧に頭に叩き込んでいたのだ。

 

「――よし、紹介はここまでだ。神代は期間限定になるが、基本は保健室か職員室にいる。無茶をして死にかけたらお世話になりに行け」

 

自己紹介がてらのはずが、全員の名前を読み上げた祈に呆れた相澤の言葉を合図に、祈はもう一度完璧な角度でお辞儀をした。

 

「それでは、皆様のご活躍を心より応援しております」

 

白い修道服の裾を揺らし、静かに教室を去っていく彼女の後ろ姿。

 

彼女が去った後も、A組の教室には、言葉にできない奇妙な空気と強烈な違和感が残り、そして――それ以上に彼女の「白」に目を奪われてしまった少年たちの、新たな執着の火種が静かに燻り始めた。

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

純白の修道服を纏った祈が教室を去り、相澤もそれを追った。

 

扉が静かに閉まった瞬間、それまで張り詰めていた1年A組の空気が一気に爆発した。

 

 

「おいおいおいおい! 何だ今の、とんでもねえ美女(?)が来ちまったぞおおお!!」

 

 

静寂を最初にぶち破ったのは、机にへばりつきながら鼻血を拭うのも忘れて興奮している峰田だった。

 

その目は完全に血走り、頭のブドウを今にも毟り取りそうなほどに震えている。

 

「あの白! 圧倒的清楚! それでいて修道服の奥に隠されたあの神聖なボディライン! ヴェールの向こうから覗く、あの世のすべてのエロを浄化しそうな神々しいお顔立ち! シスター……ッ、俺を、俺の穢れた煩悩を今すぐその手で懺悔させてくれぇぇぇ!!

道具!? 便利な道具って何だ!? 俺の道具にもなってくれ……ぶふぉっ!」

「峰田ちゃん、神聖な人をそんな目で見るものじゃないわ」

 

おねだりするように天を仰いだ峰田の頭を、蛙吹が容赦なく舌で叩き伏せる。

 

しかし、峰田を咎めた蛙吹の表情にも、どこか腑に落ちないような陰りがあった。

 

「でも、梅雨ちゃんの言う通り、ただの綺麗な人って感じじゃなかったね……」

「ええ…あの、自らを道具って言い切ってしまう雰囲気、少し鳥肌が立ってしまいましたわ」

 

麗日、八百万百が自分の腕をさすりながら、クラスメイトたちに同意を求めるように呟く。

 

「ああ。公安の要請というのも引っかかるが、何よりあの首輪だ」

「ありゃあ何だ?」

「飯田が問い詰めた時のあの発光……」

「ただの装飾品の類いではない、何か嫌な感じがした…個性の出力を外部から制御する、電流抑制器の波形に酷似していたが」

 

 

飯田、切島、轟、常闇踏陰らが言う。

 

轟はオッドアイの瞳を鋭く細め、常闇が祈の去った扉を見つめたまま冷静に分析する。

 

その言葉に、上鳴も「え、マジかよ……」と一気に表情をこわばらせた。

 

「あの完璧な立ち振る舞い……名乗る前に俺たちの名前を把握していた情報収集力といい、やはりタダ者ではないな。救護体制としては心強いが、あの歪さは一体……」

 

飯田が眼鏡の位置を直しながら真面目な顔で考え込む。

 

教室中が神代祈という「白の聖女」が残していった強烈な違和感と、峰田のような邪な興奮、そして隠しきれない興味で混沌とするなか、緑谷だけは完全に自分の世界に浸り、ブツブツと思考の渦に没頭していた。

 

(神代さん、白の修道服を着ていた……。お祭りの時は黒だったのに、どうして今回は白を選んだんだろう。リカバリーガール先生の話だと、オールマイトの命の恩人で……不老…。それなのに、あんなに綺麗で、自分を道具だなんて……ううん、分からない。オールマイトに直接聞けば教えてくれるかな?本人に聞いてもはぐらかされそうだし、どうしよう、でもなぁ、ううん)

 

緑谷のノートに走るペンの速度が、焦燥感と共に上がっていく。

 

その後方では、爆豪が机をガタッと大きな音を立てて蹴り上げ、周囲のざわめきを完全に威嚇するように鋭い舌打ちを響かせていた。

 

「チッ……どいつもこいつも、クソくだらねえことで騒いでんじゃねえよ……!」

 

爆豪の脳裏に焼き付いているのは、あの首輪の不気味な赤い光と、一瞬だけ肌を刺した「死の気配」。

 

そして、高校生になった自分をなおも子供扱いするように「勝己くん」と呼んだ、あの底冷えするような笑顔の仮面。

 

(テメェが何者だろうが関係ねえ。俺の前に立ち塞がるなら、公安ごと爆破してやる……!)

 

少年たちの胸の内に宿った、言葉にできない歪な執着と、彼女を縛る黒い鎖への不穏な疑念。

 

祈が教室に残していったのは、純白の残像と、決して消えることのない底暗い火種だった。

 

 

 

 

 

 

 

「あのさ、神代さん」

「はい、なんでしょう?相澤様」

「はぁ…学校では先生たちのことは『様』じゃなくて『先生』な。同僚なんだからさ、一応」

「!かしこまりました、相澤先生」

「うん、俺も神代先生って呼ぶし」

 

 

 

「あと…」

「はい?」

「あんまり白い服は着ない方がいい」

「えっ?」

「んーと…」

「保健の先生、のイメージで白を選んだのですが…いけなかったでしょうか」

「あー…うん、とりあえず、一部のアホ共がうるさいから、今度から黒の修道服で頼むよ」

「?はい…」

 

 

 

という会話があったとか。

 

 

 

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