あの嵐のような朝礼が終わり、今日も一日無事に授業を終え―――放課後の夕日が斜めに差し込む雄英高校のある準備室で。
緑谷は、意を決した表情で目の前に立つ大柄な体躯を見つめていた。
「あの、オールマイト……。不躾なことをお聞きして、本当にすいません」
「ん? どうしたんだい緑谷少年。そんなに改まって」
いつものように穏やかに微笑むオールマイトに対し、緑谷は拳を強く握りしめ、まっすぐにその瞳を見据えて切り出した。
「すいません、この間、オールマイトとリカバリーガールの会話を聞いてしまいました」
「……!」
オールマイトの身体がピクッと強張る。
緑谷の脳裏には、昨日校長室の裏で偶然耳にしてしまった、あの不可解で悍ましい会話が呼び起こされていた。
リカバリーガールが告げた『不老』という言葉。そして、オールマイトが致命傷を負った六年前のあの最悪の夜、彼を救うために自らを削り、公安の檻に自ら入る道を選んだという、あの純白のシスター――神代祈。
「神代さんって……一体何者なんですか? 僕やかっちゃんが子供の頃の夏祭りから、あの人は一秒だって老けていない。それにあの個性、ただの治癒なんかじゃ……。オールマイト、あなたは知っているんですよね? 彼女は、あなたの命の恩人なんですか?」
核心に触れる弟子の必死な問い詰め。
公安の闇、不可解な存在である彼女、世界の裏側。平和の象徴として、この少年にどう向き合うべきか――。
しかし、緑谷のシリアスな覚悟とは裏腹に、オールマイトの精神は全く別のベクトルで限界を迎えていた。
「……気づいて、しまったかね、緑谷少年」
ガタガタと目に見えて震え出し、その大柄な身体のまま床に両膝を突くオールマイト。ボフッ、と激しく吐血する。
「オ、オールマイト!?」
「ああ……。君の言う通りだ。私は知っている。かつて私が大怪我を負ったあの悪夢のような日々、死の淵にいた私を救ってくれたのは、間違いなく彼女……神代さんだったんだ……」
そこまではまだ、重厚な過去の回想のトーンだった。だが、オールマイトは窪んだ眼窩からだばだばと滝のような涙を流し、その場に急に濃い劇画調の斜線を顔面いっぱいに描き込みながら、頭を抱えてのたうち回り始めた。
「なのに……なのに彼女はッ! 先日、雄英の保健室で数年ぶりに再会したというのに……!!」
「……というのに?」
「私のことを、ミリ単位も覚えていなかったんだよ少年―――――ッッッ!!!」
「えっ」
緑谷の思考が白く染まる。
「『初めまして、オールマイト様』と! あの世界で一番清らかな微笑みで、完全に初対面の人間に対する完璧な敬語で挨拶されてしまったんだ!!! 私のこの、純度100%の恋煩いは何だったんだ!? 毎日彼女の無事を祈り、遠くから見つめていた日々を思い出すだけで心臓がバックドラフトを起こしていたというのに! 彼女の記憶の中に、私という男は影も形も残っていなかったんだ……!!」
「あ、あの、オールマイト、僕が聞いてるのは公安とか個性の秘密のことであって、あなたの失恋の愚痴では」
「それなのに、今日ホームルームで紹介された時、彼女が昔の爆豪少年や君のことは『出久くん』『勝己くん』とかすかに覚えているのを察知した私の気持ちがわかるかい緑谷少年!? 完全にただの一方通行! 記憶の片隅にも引っかかっていないモブおじさん!! 命を救われたはずなのに! 彼女の世界のモブなんだ……!!」
「ああんもう完全に壊れてる……!!」
大真面目に世界の裏の陰謀や不老の謎を暴こうとしていた緑谷は、自分の問い詰めをきっかけに「一方通行の片想いという残酷な現実」を突きつけられて情緒が消滅し、壁に額をめり込ませて震えている師匠の姿に、激しい頭痛を覚えた。
(だ、駄目だこの人……! 神代さんのことになると、恋煩いが拗れすぎてる……!!)
「……おい、何やってんだクソナード」
その時、ガラッと準備室のドアが開いた。
不機嫌極まりない顔で立っていたのは、爆豪勝己だった。爆豪もまた、あの老いないシスターへの違和感を問い詰めるためにやってきたはずだったが、床で「神代さん……神代さん……」とブツブツ呟きながら血の海で悶絶しているオールマイトの姿を見て、盛大に眉根を寄せる。
「……何だその、盛大にフラれて脳がバグった哀れなジジイみたいな生き物は。敵の新手の精神攻撃か?」
「かっちゃん!違うんだ! 違わないけど、オールマイトがちょっと今、自分の片想いの現実の厳しさに耐えきれなくて……!」
緊迫感溢れるはずだった雄英高校の放課後は、一人の男の重すぎる一方通行の恋心によって、きわめてカオスな方向へと脱線していくのだった。
放課後の騒がしい準備室から離れ、夕闇が本格的に校舎を包み込み始めた頃。
神代祈は、静まり返った校長室のソファーで、背筋を完璧に伸ばしたお人形のような姿勢のまま座っていた。
机を挟んだ向かい側では、根津校長が温かい紅茶を静かに啜り、その最高知能の瞳で修道服を纏った彼女を見つめている。
「さて、神代さん。明日のUSJでの救助訓練だけど、公安からの強い要請もあってね。君にも現地へ同行してもらおうと思っているのさ」
「はい、根津校長。皆様のお役に立てるのなら、これ以上の喜びはありません。私はただの、使い勝手の良い便利な救護の道具ですから」
いつもの完璧な、死んだように冷たくて綺麗な博愛の微笑み。
だが、祈はそっと自らの黒い首輪に触れ、鈴の音のように凛とした声で淡々と付け加えた。
「ただ、何かあった際にこの装置が警告音を鳴らすのは少々煩わしいので、今回に限りリミッターの上限を引き上げてもらいました」
「ほう……?」
根津校長が僅かに目を細める。
「ご安心ください。その代わりに戦闘や異能行使の際の詳細なログデータを、あちらへ引き渡すという話でまとまりましたので。暴走しない範囲の出力であれば、私がこちらで戦っても、法的な問題は一切ありません」
「なるほどね。公安の筑紫聡が行方知れずになり、現在の管理ログがホークスに引き継がれている状況を、逆に利用したわけだ。君のデータを欲しがる彼らの飢えを餌にして、合法的かつ一時的に檻の鎖を緩めさせたんだね」
根津校長はフッと笑みを深め、ティーカップを置いた。
「面白い。君をこれ以上あの地下室に閉じ込めさせないためのカードとして、そのデータ、大いに活用させてもらうよ。明日は現場のサポート、期待しているからね」
「はい。皆様のお力になれるよう努めますわ」
◇
そして翌日、事件は起きた。
USJの広大な敷地に、突如として現れた不気味な黒い霧――ヴィラン連合の襲撃。
相澤消太が単身で広場の敵へと飛び込んでいく中、入り口にいた生徒たちは、黒霧のワープ個性によって一瞬にして各ゾーンへとバラバラに強制転送されてしまう。
祈が目を開けた時、そこは激しい濁流が渦巻く「水難ゾーン」の人工船の上だった。
周囲に飛ばされていたのは、緑谷、蛙吹、峰田の三人。船を囲むように、水中から凶悪な異形型の敵たちがギチギチと牙を鳴らして這い上がってくる。
「ひ、ひええええ! 死ぬ! 死んじまうッ! なんで神代先生まで一緒に飛ばされてんだよぉ!!」
「峰田ちゃん、落ち着いて……神代先生、ここは危ないわ、私たちの後ろへ」
蛙吹が舌を構え、緑谷がボロボロになりそうな拳を握りしめて祈を庇おうと前に出たその時、敵の一人が、鋭い爪を立てて最前列の緑谷へと飛びかかった。
「ガキどもが、まとめて細切れにしてやるよ――ッ!」
「危ない……!」
緑谷が身構えた瞬間、彼らの視界を遮る人物がいた。
カツン、と硬質な音が響く。
祈がこの日に備えて用意した、金属製の杖。緑谷たちは見るのは初めてだった、それは彼女の手によく馴染んでいるようだった。
その杖が、常人離れした正確無誤な軌道で空中から襲いかかった敵の顎を容赦なく真下から打ち抜く。
「がはっ……!?」
脳震盪を起こした敵が、そのまま水面へと真っ逆さまに落ちていく。
ばしゃん、と水音ののち、沈黙。
「え……?」
緑谷が呆然と目を見開く。
修道服の裾を美しく翻し、銀色に輝く杖を優雅に回してしゃなりと構え直した祈は、レースのヴェールの向こうで、現世の理から切り離された圧倒的な聖性と、冷徹なまでの戦闘センスを滲ませて微笑んでいた。
「あら? いつから私が戦えないと錯覚していたのです?」
ピッ、と彼女の首元の黒い電子首輪が、異能の活性化に反応して赤く発光する。だが、上限を引き上げさせたおかげで、不快な警告音は鳴らない。
祈は完璧にコントロールされた数値の範囲内で、杖を鋭く一閃した。
彼女の戦闘スタイルは、圧倒的な異質さに満ちていた。
その杖はただの打撃武器ではない。祈が杖の先で敵を小突いた瞬間、あるいは地面を叩いた瞬間、その金属を伝って彼女の個性の「効果範囲」が固定され、標的が完全に補足される。
超常の力を急激に行使し、肉体が軋みを上げて酷使されるその刹那――彼女の内で『ジキル』による超高速の自己回復ループが常に、狂ったように回り続けていた。
肉体が破壊される端から、現世の理を書き換えて再生していく絶え間ない自己完結。
首輪の数値を一切乱すことのない安定した出力を保つため、彼女にとってこの武器は、個性を精密に制御するための「触媒」にすぎない。
「…敵の数が少し多いですね」
祈は冷徹に呟くと、這い上がろうとしていた別の敵の胸元に、杖の先端を容赦なく突き立てた。
ガチ、と火花が散るような衝撃と共に、杖の芯から現世の理を捻じ曲げるような悍ましき白光が敵の肉体へとブチ込まれる。
「あ、が……ッ!? あああああああ!!!」
過剰な痛みを神経へと直接叩き込まれた敵は、外傷一つないまま、白目を剥いてその場に崩れ落ち、そのまま水へと沈んでいった。
「この子たちは傷つけさせません」
その静かな声には、ハイドに「愛」を殺されているはずの彼女の奥底から漏れ出た、狂気的なまでの絶対的な博愛が宿っていた。
「私と遊びましょう」
首輪のリミッター上限の範囲内で、己の肉体を破壊と再生を循環させながら、杖一本で戦場を完全に掌握していく聖女。
敵が弱いわけではない。
むしろ数では圧倒的に敵の方が有利であり、異形の者は人間離れした勢いと速さで迫ってきているというのに、それを覆す力を行使している祈がおかしいのだ。
神聖にして悍ましき戦闘の光景を前に、緑谷、蛙吹、峰田の三人は、ただただ息を呑んで立ち尽くすことしかできなかった。
戦うシスターさん