「……これで、このエリアの排除は完了ですね」
水難ゾーンの人工船の上。数十人いたはずのヴィラン連合の構成員たちは、外傷一つないまま白目を剥いて水面にぷかぷかと浮いているか、床に転がって痙攣している。
その中心に佇む祈は、激しい濁流の飛沫を浴びたはずであるのに、その修道服にはシミ一つ、シワ一つついていなかった。
「神代先生……あなた、本当に救護補佐、なんですか……?」
緑谷が、未だに恐怖と驚愕で小刻みに震える声を絞り出す。
彼女はヒーローではない。
脳裏に焼き付いて離れないのは、彼女の肉体が異能の反動で軋み、破壊されるその刹那、内側から狂ったように回り続けていた超高速の自己回復の気配。そして杖を触媒にして敵の神経へ直接ブチ込まれた、あの悍ましき白光だ。
「はい、私は皆様の役に立つための、ただの便利な道具ですよ、出久くん」
金属製の杖をコツンと床に突き立て、レースのヴェールの向こうで美しい仮面の微笑みを浮かべた。
「さて、他のエリアでも皆様が分断されているはずです。相澤先生が一人で広場の敵を引き受けてくださっていますが……このままでは子供たちの安全が確保できません。すぐに他の方々と合流しましょう」
「あ、ああ……! 梅雨ちゃん、峰田くん、行こう!」
「ケロ、分かったわ。神代先生、私たちの背中に乗って……と言いたいけれど、必要なさそうね」
蛙吹が呆気にとられたように呟く。祈は濁流の渦巻く水面を、まるでただの平地を歩くかのような軽い身のこなしで跳び越え、水難ゾーンの出口へと先行していった。
◇
同じ頃、崩壊ゾーンのビル群。
「死ねやあああッ!!」
爆破の轟音と共に、襲いかかってきた敵を容赦なく叩き伏せていたのは爆豪だった。その隣では、切島が個性を硬化させ、背後から迫る敵を殴り飛ばしている。
「チッ、どいつもこいつも雑魚ばかりだ! クソナードどもはどこにいやがる!」
「落ち着け爆豪! 黒い奴にバラバラにされたんだ、まずは合流が先決だろ!」
切島が周囲を警戒した、その瞬間だった。ビルの角から、複数の敵の気配と共に、バタバタと駆けてくる足音が響く。
「かっちゃん! 切島くん!」
「あぁ!? クソナード、てめぇ無事だったの――」
緑谷の姿を認め、爆豪が獰猛に口角を上げた、その視線が、緑谷のすぐ後ろから現れた影を捉えた瞬間、ピキリと凍りついた。
汚れ一つない修道服。顔を覆う白いレースのヴェール。
カツン、カツン、と静かに金属の杖を響かせながら、硝煙と泥に塗れた崩壊ゾーンの戦場に足を踏み入れた祈の姿は、あまりにも神聖で、そしてあまりにも異質だった。
「勝己くん、切島くん。お怪我はありませんか?」
「……神代、先生?なんでアンタがここに……」
切島がその圧倒的な美貌と神々しさに気圧され、思わず一歩後退る。
爆豪は、彼女の首元で静かに黒く明滅している公安の電子首輪を凝視し、それから彼女の右手に握られた、ほんのりと熱を帯びて白く光る金属の杖へと視線を落とした。
「……おい、クソババァ。てめぇ、その杖で何してきた」
「ただの救護の事前準備ですよ、勝己くん」
爆豪の鋭い威嚇に対しても、祈は微笑みを崩さない。
だが、その背後にいる緑谷、蛙吹、峰田の三人の、何とも言えない怯えと強烈な畏怖の混ざった複雑な表情を見て、爆豪の勘が即座に答えを弾き出していた。
(この女、ただ守られてるだけの人形じゃねえ……!)
「神代先生…!」
別の通路から、周囲の地面を完全に凍結させながら現れたのは轟だった。轟もまた、その氷の世界に現れた祈の姿に、僅かにオッドアイの瞳を大きく見開く。
「轟くんもご無事でしたか…よかった」
祈は穏やかに微笑むが、どこか現世の人間に対するものではない、底冷えするような冷たさを孕んでいる。緑谷は、彼女の首輪が一瞬だけ赤く発光し、警告音を出さないまま数値を変動させているのを見逃さなかった。
(校長室でリカバリーガールが言っていた『不老』の肉体………。この人は、一体どれだけの秘密を抱えているんだ)
「では、行きましょう。相澤先生のいる中央広場から、酷く不穏な、死の気配が流れ込んできています。 ……子供たちを、これ以上危険に晒すわけにはいきません 」
祈が杖を握り直した瞬間、その鈴の音のような凛とした声に宿った、狂気的なまでの絶対的な博愛の重圧。
1年A組の少年たちは、彼女の纏う気の残像に完全に目を奪われながらも、傷一つないその姿に、その強さと秘密を暴きたいという火種を激しく燃え上がらせていく。
「オラァあああッ!!」
爆豪の爆風を合図に、崩壊ゾーンのビル群を抜けた緑谷、爆豪、轟、切島、そして祈の一行は、凄まじい質量の戦闘音が響き渡るUSJの中央広場へと躍り出た。
しかし、彼らの目に飛び込んできたのは、到底信じがたい、目を背けたくなるような地獄絵図だった。
「が、はっ……!」
数多の敵を一人で薙ぎ倒してきたはずの相澤が、血の海に伏している。
その頭部を容赦なく地面に叩きつけ骨の軋む音を響かせているのは、筋骨隆々の漆黒の巨躯――剥き出しの脳髄に、猛禽類のようなくちばしを持つ、異形の中の異形。ヴィラン連合が連れてきた対オールマイト用改造型人間『脳無』だった。
「相澤先生……!」
「おいおい、また元気なガキどもが湧いて出てきたねぇ」
首に死手を纏った男――死柄木弔が、不気味に濁った瞳を緑谷たちへと向ける。
緑谷が恐怖に息を詰め、爆豪が即座に両手に爆炎を宿らせた、その刹那だった。
「――っ、」
少年たちのすぐ後ろで、カツン、と金属製の杖が床を叩く音が、奇妙に歪んで途切れた。
いつもなら、非の打ち所がないお人形の微笑みを浮かべ、淡々と「使い勝手の良い便利な道具」として振る舞うはずの祈が、その場に縫い付けられたように一瞬だけ、完全に硬直していた。
白いレースのヴェールの向こう側。
祈の瞳は、相澤を蹂躏している漆黒の巨躯――脳無の姿を、ただ一点に見据えて激しく見開いている。
(……何ですか、あれは)
彼女の持つ『ジキルとハイド』の異能が、脳無の肉体を視界に入れた途端、脳を直接灼かれるような凄まじい警報を鳴らしていた。
それは通常の『治癒』の個性では決して感じ取ることのできない、肉体の『理の崩壊』。
生者ではない。あれは、ただの動く死体だ。
それも、ただの死体ではない。本来ならば拒絶反応を起こして崩壊するはずの他者の遺伝子、他者の『個性因子』が、強引に、歪に、何重にも肉体の中に継ぎ接ぎされ、押し込められている。
現世の理をあまりにも汚らしく冒涜し、無理やり「再生」と「固定」を繰り返された、悍ましき肉塊の監獄。
「、う……く……ッ」
ドクン、と祈の心臓が、恐怖とは異なる生理的な拒絶によって激しく脈打った。
六年間、公安の真っ白な地下室で、自らの肉体を磨り潰すような激痛の実験にすら眉一つ動かさなかった聖女が、その白い喉を震わせ、口元を強く押さえて激しく込み上げる吐き気に襲われていた。
失っているとはいえ、カルト宗教という団体の中で、実の親に切り刻まれ、個性を搾取され続けた幼い頃の記憶は嫌というほど体に染み付いている。
そして、目の前にある、誰かの手によって個性を詰め込まれ人間としての尊厳のすべてを破壊された人形。
(ああ―――吐き気がする。汚らわしい。あれは、あってはならない器だ)
「神代先生……!? 顔色が真っ白だ、大丈夫ですか!?」
隣で彼女の異変に気づいた緑谷が、狼狽した声を上げる。
修道服の襟元で、公安の黒い電子首輪が彼女の急激な精神の乱れを感知し、ピピッ、ピピッ、と鈍い警告音を鳴らし始めていた。
しかし、祈は緑谷の静止を振り切るように、震える手で金属製の杖を強く握り直した。
「……皆様」
ヴェールの向こうから漏れ出た声は、いつもの臨時の鈴の音ではなく、どこか底暗い怒りと、凍りつくような冷徹さを孕んでいた。
「あれは、子供たちが戦って良い相手ではありません。……私が、あの歪な器を、現世の理へ戻します」
「おい、待てクソババァ! てめぇのその顔、完全に限界迎えてんだろがよ!」
爆豪が鋭い牙を剥いて叫ぶが、祈はすでに一歩、中央広場へと踏み出していた。
場違いなほど整った姿の祈が躍り出ると、戦闘に参加していなかった異形の敵の目が一斉にこちらへ向いた。
「あぁ?」
「女だ」
「まぁたガキか?」
「わざわざ嬲り殺されにきたのかぁ?」
ざわざわと不躾な視線が送られる中、祈は杖の先端を、足元の瓦礫にガンッと強くぶつける。
その瞬間、激しい火花が爆ぜた。
「あ、ぐあああああああ!!!」
「がは……っ」
「ぎゃあああああああああ!!!!」
「いてぇぇぇええええええ!!!」
神経に直接痛みをぶち込まれた彼らは、発狂し、意識を失った。
(煩わしい…!)
ドクドクと、祈の体内で『ジキル』による超高速の自己回復ループが回り始める。二十代の最も頑強で美しい状態を基準値として肉体を強制固定している、彼女の『不老』の呪い。脳無を見た生理的な吐き気と、肉体負荷を相殺していく絶え間ない自己完結。
「あぁ? なんだあいつ、シスター? ヒーローじゃねえな、死にに来たのかよ」
死柄木がガリガリと不気味に首を掻きむしる中、漆黒の巨躯――脳無が、凄まじい風圧と共に祈へと突進した。オールマイトの100%の力に匹敵する、理不尽な暴虐の拳が彼女へと振り下ろされる。
「神代先生ッ!!!」
緑谷が悲鳴のような叫びを上げた。
速い。公安の首輪の出力を根津校長の手引きで上げたとはいえ、所詮は『暴走しない数値の範囲内』でのリミッター緩和だ。肉体そのもののスペックを引き上げる個性ではないため、脳無の次元の違うスピードに、祈の身体能力では完全に押し負ける。
ゴオッ! と視界がブレるほどの拳撃を、祈は金属製の杖を盾にするようにして辛うじて受け流す。しかし、受け流した風圧だけで修道服が割かれ、彼女の細い身体を容赦なく後方へと弾き飛ばした。
「くっ……、」
「神代先生!!!!」
地面を滑りながら、祈はすぐさま体勢を立て直す。
脳無は追撃の手を緩めず、瞬きする間に再び彼女の眼前に肉薄し、その巨大な質量を叩きつけようと腕を振りかざした。
まともに喰らえば死ぬ。いや、祈は個性によって生存は可能かもしれないが、肉体は消し飛ぶだろう。そうなれば、いくら蘇生できるとはいえ、どんな反動がくるかわかったものではない。
だが、祈はレースのヴェールの向こうで、冷徹にその軌道を見定めていた。
ドガッ!!!
脳無の拳が祈の肩口を掠める。肉が、骨が軋み、かすっただけだというのに、衝撃によって潰される。しかしその瞬間に、祈は自らの肉体が破壊される端から『ジキル』のループで強引に再生させつつ、右手の金属製の杖の先端を、カウンターで脳無の極太の腕へと「カツン」と正確に接触させた。
接触時間はわずか一瞬。だが、その杖の芯から、現世の理を捻じ曲げるような悍ましき白光が脳無の肉体へと直接ブチ込まれる。
バチチチッ!!!!
「ガ、ア……、ア……ッ!?」
次の瞬間、あれほど圧倒的だった脳無の巨躯が、外傷一つないまま激しく痙攣し、その場にズシンと片膝を突いた。
流し込んだのは、超常の『再生』。脳無の腕の神経細胞を強引に蘇生させ、「痛覚を1000倍にして脳へ直接叩き込む」痛撃だ。痛みを感知しないはずの改造人形でさえ、脳が「四肢を消滅させられた」と錯覚するほどの凄まじいショックに、その驚異的な突進がピタリと停止する。
しかし、脳無の動きを止めたものの、祈の息も僅かに上がっていた。首元の黒い首輪は、警告音こそ鳴らさないものの、限界値ギリギリの出力を示すように静かに、けれど妖しく真っ赤に発光している。
「‥ああ、そうですか…この出力でこの程度ですか……難儀ですね」
祈は破れた修道服の襟元をそっと押さえ、ヴェールの向こうで、完璧なお人形で、死んだように冷たい博愛の微笑みを浮かべたまま淡々と呟いた。
潰された肩口をすぐに再生させたはいいものの、衝撃の強さにどうやら鎖骨も折れたようだ。こちらにも気を配らなければならない、億劫だ。
当たれば確実に敵の動きを止められる。けれど、首輪の制限がある以上、この速度の怪物相手に立ち回るにはあまりにも出力が足りず、文字通り綱渡りの戦闘を強いられていた。
背後で見つめていた緑谷、爆豪、轟の三人は、その一撃の異質さに背筋を凍らせつつも、首輪の枷に縛られながら防戦一方で行使される彼女の強さに、強烈な危うさを覚えた。
「やはり、生きている肉体ではないから…難しい……個性の因子そのものを一部切り取るしかありませんか……」
ぼそぼそと呟き、祈が再び杖を構え直した、そのときだった。
ドゴォォォォオオン!!!!!
USJの重厚な入り口の扉が、凄まじい衝撃波と共に木端微塵に吹き飛んだ。
「もう大丈夫だ! 私が、来た!!!」
立ち込める爆煙の向こうから現れたのは、誰もが待ち望んだ平和の象徴。
しかし、その場に現れたオールマイトの瞳が、中央広場で脳無の速度に押され、破れた修道服を纏い、首輪を赤く光らせながら痛々しく戦っている祈の姿を捉えた瞬間――彼の顔面には、激しい怒りと、それ以上に張り裂けそうなほどの劇画タッチの絶望の斜線が、これでもかと描き込まれるのだった。